活動報告にアンケートがありますので、興味がある方はご確認ください。
昨年末、有馬記念を制したグレートエスケープ(牡6歳)を管理する黒井昭寿調教師(栗東)は今年の最大目標をイギリス、アスコットで行われるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(以下キングジョージ)とすることを発表した。
グレートエスケープは4月より出国し、イギリスで調教を積み、キングジョージを前に2~3戦挟む長期的な海外遠征になることを強調。
黒井調教師は「グレートエスケープはパワーとスタミナに溢れた欧州向きのタイプ。それでも今は日本で走るための体になっている。勝つためには海外のレースに合わせた体に作り直さないといけない。そのための長期遠征です」と語る。
グレートエスケープはニューマーケットの国際厩舎、アビントンプレイスであるジョージ・エヴァンズ厩舎に入厩し、ここを拠点に滞在予定。
騎手については「正式なオファーはまだだが梶田騎手に乗ってもらおうと思っています。欧州の騎手へのオファーも考えましたが、一番グレートエスケープを知っているのは彼なので。梶田騎手はアスコットでの騎乗経験があるし、今年からはお願いして定期的にイギリスでの一般競走にも騎乗してもらっています」と、梶田健二騎手(栗東・フリー)と一丸となって戦う姿勢だ。
キングジョージの結果によってはその後凱旋門賞、BCターフへの参戦を考慮に入れるとのことだった。
――3月、阪神競馬場。第7R「3歳未勝利戦」
『第4コーナーを回って馬群が一気に詰まってまいりました。4番スターライトが先頭、外から9番オコリンボウが迫ってきます、1番のユーアークールも内から抜けてこようという構え――』
梶田健二はこのレース、3番人気の2番「エクスチェンジ」に騎乗していた。
エクスチェンジの調子は良く、時計も出せている。
スタートこそ後手を踏んだが折り合いは問題なく、直線を追い出そうというところ。
(外に出したらロスが大きいが内はまだ空かない……まずったかも)
今年の競馬開催から調子が良く、また去年にGI2勝したこともあってか良い騎乗馬を回してもらえている。
その結果、全国リーディングトップ争いを繰り広げている状態だ。
上位に入ることはあっても滝カナタ騎手、岡谷幸男騎手、館山典佑騎手といった騎手たちが常にトップを争っており、そこに割って入ることはなかなかできなかった。
元々乗せてもらった馬はすべて勝ちたいと思っているが、リーディングというものに強いこだわりがあったわけではなかった。
しかし、グレートエスケープとの出会いでその想いも少しずつ変わっていった。
『リーディングトップの騎手を乗せていれば』
『外国人ジョッキーでもよかった』
『騎手のせいで負けた』
グレートエスケープに乗っていたことで、外野のそんな声が聞こえてくるようになってきた。
騎手生活を続けていて、GⅠを幾つも勝てる馬の主戦でいられるのは何回くらいあるだろうか、健二は時々考える。
岡谷騎手にはシンボリルドルフがいる。西井騎手にはナリタブライアンやタマモクロスがいて、滝騎手にはオグリキャップやエアグルーヴ、スーパークリークといった様々な名馬がいる。
GⅠを複数勝つ騎手はトップに近付けば近づくほど、いる。
だがGⅠを複数勝つ競走馬と出会い、主戦騎手としていられる者はとても少ない。
自分はそんな幸福を噛みしめながらも、今よりももっと上手く乗れるようにならないといけない――健二はそんなふうに考えるようになっていた。
そしてそのわかりやすい指標にGⅠの勝ち鞍と、リーディングジョッキーの称号がある。
これから行くのは世界最高峰の舞台――「日本のダービージョッキーにしてリーディングジョッキー」として紹介されるくらいでないと、グレートエスケープには相応しくない――健二は今年になって、本気でリーディングを狙っていた。
(インが……少し空いている……)
健二は安全志向な騎手だ。
競馬にはフェアプレー賞というものがある。制裁点数が10点以下の騎手に贈られる賞で、梶田健二は既に8年間の現役生活で6回受賞していた。
勝ちたいと思えば、強引な騎乗になることもある。
そのときに進路を塞いでしまったり、接触してしまったり、それによって制裁点数が加えられ、過怠金あるいは騎乗停止処分となってしまうことがある。
梶田健二にそれはほとんどなかった。
あくまでルールの中で勝ちに行く、それでいてリーディング上位を争っているのだから、関係者間での騎乗技術の評判は高かった。
(幾らなんでも強引すぎるな。無理に突っ込んだら落馬モノだろ……少し遅れるが外に出すしかない)
普段の健二であれば、この場面、迷うことすらなく、外へ持ち出していただろう。
しかし、数週間前にイギリスで騎乗した際の経験を唐突に思い出した。
欧州では多少狭かろうがロスの少ない内側を突き抜けていくことが多い。
多少強引でもしっかり勝ち切る――そんな競馬のやり方だ。
今後グレートエスケープに騎乗してイギリスで戦っていくなら、時にはそんな乗り方も必要になってくるかもしれない――健二はイギリスで騎乗したとき、そう思った。
(もし、これが凱旋門賞の最後の直線だとして、俺は外へ持ち出すのか? 最初で最後のチャンスを捨てるのか? 騎乗停止や落馬は論外だが……それをして、俺は後悔しないのか?)
それは、悪魔のささやきだったのかもしれない。
(――後悔しないわけがねえ。大丈夫だ、少し強引ではあるが、問題はない!)
そして、健二は手綱を操り、1頭分の隙間があるかないかの馬群にエクスチェンジを突っ込ませた。
「梶田さん、珍しい乗り方しましたね」
「あん? ちょっと強引だったな……戒告貰っちゃうかも」
梶田健二は検量室へ向かう前、エクスチェンジの担当厩務員と話していた。
内側に突っ込んだのは結果として大正解、内側の狭い進路を割って入るとエクスチェンジは闘志を発揮して抜け出し、終わってみれば1馬身差で見事勝ち上がりを決めた。
「いつもクリーンな騎乗をしている梶田さんがあんな風に乗るなんて。何かありましたか?」
「ないよ別に。行けると思ったから行っただけだよ」
「それでも、よかったです。こいつ、いいところまで行くと思っているんですけど走りが安定しない奴でして。勝ち上がったからこれである程度は目処が立ちました」
「よかった。またこいつ乗せてよ。もっと勝ち上がらせたいね」
「ええ、是非お願いします」
検量室では裁定委員会に小言を言われつつも、健二の心に曇りはなかった。
今までよりも勝ちにいく戦法をとって、いい結果に繋がったことが気持ちよかった。もちろん過怠金を支払うことになったり、制裁点数を貰うような真似は避けたうえで、ギリギリを攻める。
それを実践して、欧州でも戦える騎手になりたい。
グレートエスケープは最強の馬だ。
だからこそ、自分も最高の騎手にならないといけない――その気持ちで梶田健二は口取り式と記者の取材に向かうのだった。
〇〇〇
「グレ様。お加減はいかがですか」
「様付けはやめてください。貴方歳上じゃないですか……」
俺、グレートエスケープはイギリスのニューマーケットに到着していた。
出発するまでにスペシャルウィークが
「やだやだやだやだ! やです! エスケープ先輩行っちゃやだ! じゃなきゃ僕もエスケープ先輩と海外行く!」
「それは無理だ……お前も1月から復帰して走るんだから、頑張ってくれよ」
「いーやーでーす! 僕はエスケープ先輩と走りたい! エスケープ先輩も言ってくれたじゃないですか! なのにどうして!」
「秋には帰ってくるよ……それまでにすごい戦績を引っ提げて待っていてくれよ」
「ううぅ……」
「スペシャル~、曳き運動の時間だぞ~」
「ハイッ! エスケープ先輩、海外で頑張ってください! 僕、笑顔で送り出しますから!」
(相変わらず人の前では大人しいというか真面目というか、猫被りというか……)
と駄々をこねたことで色々あったが、とりあえず無事に出発。飛行機に揺られて約12時間でイギリスに到着した。
ニューマーケットはニューマーケット競馬場という世界最高と呼ばれる競馬場がある街で、その周囲には調教コースが豊富にある。
ニューマーケット調教場の傍には約2500頭の競走馬が入厩しているという。栗東トレセンよりも多い。
しかもニューマーケットは街の傍に競馬場と調教コースがある、というよりは調教コースや競馬場の中に街があるといっても過言ではないらしい。関係者も1万人くらい住んでおり、まさに競馬の街だ。
ぜひとも観光してみたいが、流石に海外の地で脱走はまずい。機会があることを祈るばかりだ。
「必要があればなんなりとお申し付けください。微力ながら尽くさせていただきます」
「ありがとう、ハードバトラーさん……いや、まぁ、今のところやってもらうことはないと思うんだけど……そんな世話焼かなくても大丈夫ですよ」
「とんでもない。御身は黒井厩舎の看板馬、それだけでなく日本競馬界の至宝なのです。怪我でもしたら先生やオーナーが悲しむでしょう……世話役として、くれぐれも世話させていただきます」
(きまずい……)
海外遠征するときには帯同馬といって僚馬がつくのが一般的だが、今年で10歳になるハードバトラーさん(牡・1600万クラス)が今回その役目となった。
彼が選ばれた理由には西京さんの担当馬であることのほかに、恵那ちゃんが他の馬を持っていないことによる。
帯同馬は一般的に同厩舎、同馬主の馬が多いのだが、その条件の馬がいなかったため、同厩舎かつ同じ厩務員、そして歳をとっていて落ち着いた気性の彼が選ばれたのだ。
馬主は社来グループの代表の方で『今後のことを考えたら是非』とハードバトラーさんの遠征費や滞在費を負担してくれるとのことだった。
オトナノジジョウが垣間見える。
ハードバトラーさんは厩舎では大人しく、それでいて世話焼きなところがあるジイさんともいえる馬だ。クラシックの世代でいえばミホノブルボンやライスシャワーと同い年。今年で6歳の俺もオッサンの類だが、流石に及ばない。
以前もダンスパートナーさんのフランス遠征や香港遠征に帯同していたとか。
「初めての海外遠征でお疲れではありませんか」
「少し……」
「そんなときは馬房の中で少し歩くと良いかと。ずっと同じ姿勢でいたために血液の循環が悪くなって疲労を感じやすくなっていますから……歩いて循環を促すと変わりますよ」
「そうなのか……」
言われるがまま馬房をくるくると回る。あまりやりすぎると蹄鉄がすり減って怒られるから、少しだけにしておくが。
……一応元人間の俺はともかく、なぜハードバトラーさんが血液循環とか知ってるんだろう。経験則ってやつなのか、それとも人間の話すことを覚えたのか。
サラブレッドの神秘ってやつだろうか。
「調教はいつ頃からの開始になるのですか」
「一週間休んで体調に問題なければ始めていくらしいです」
「かしこまりました。それまでにこちらで下見することがあれば、僭越ながら説明させていただきます」
「あ、ありがとう……ございます」
今回は最大目標をキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスとし、そこから逆算されてローテーションが組まれている。
イギリス初戦はキングジョージと同じアスコット競馬場で開催される、プリンスオブウェールズステークス(GⅡ)に出走予定だ。
約2000mで争われる伝統ある中距離戦。ここである程度の内容と結果を見据えなければ、早いうちに帰国する可能性すらあった。
「レースまで約2ヶ月。それまでしっかり調教を積まないと」
「欧州の馬場は日本とまるで違います。ダンスパートナー様も苦労されておりました」
「札幌競馬場みたいにちょっと深いらしいね。馬場に慣れてトレーニングを積みたいな。厩務員は西京さんで調教助手に白村、調教のときに長期滞在して乗ってくれる人として騎手の青山祐一って人も来ているし、万全だ」
黒井先生には他にも管理馬がいるため、常にニューマーケットにはいられない。
そのため調教助手である白村が調教の指示を行ったりする。攻め役には青山ジョッキー、普段の世話係は西京さんを筆頭に、その他の黒井厩舎のスタッフが担当してくれる。
「まずは疲れをしっかりとらないとな」
そして今日から、ニューマーケットでの本格的な追い切りが始まる。
軽い運動では特に不調も感じなかったし、ニューマーケットの気候や水が合わなくて苦労するということもなかった。
「タフだな、相変わらず」
言葉が少ないながらも西京さんはホッとしていた。
アビントンプレイスから青山騎手を背に乗せて、ニューマーケットの調教場へ向かう。
草原の中にコースがある様はまさに自然の中で駆けているという感じで、ちょっと気持ちが良い。
「今日は15-15で調子を見ていきましょう」
白村の指示に従い、青山騎手が俺を促す。
今日のコースは芝の坂路。栗東トレセンとは違い、とても距離が長く、調教場の規模の違いにただ圧倒されるばかりだった。
「じゃあ、グレートエスケープ。よろしく」
「青山さん、もしかして黒井先生からグレ坊の話聞いていました?」
「うん。いっぱい語りかけてくれってね。乗ってて感じるけど、良い背中をしている。賢くて強い、理想的だね。調教とはいえ、跨れてうれしいよ」
(照れるなぁ)
15-15という軽い調教とはいえ、仮にも俺は日本代表とばかりに送り出されている。
見ているがいい、ニューマーケットの、そして世界のホースマンよ。これが日本のグレートエスケープの走りだ。
俺は芝生を勢いよく蹴り上げた。
――これが、日本最強馬か。
調教を見ていた厩舎スタッフ、あるいは調教師、またあるいは騎手の誰かが、呟いた。
芝生を駆けるグレートエスケープは500kgの馬体を揺らし、芝生を一完歩ずつ駆けていく。
誰かが呟いた。
「なんてことだ……」
「これはあまりにも」
「ああ、まさかここまでとは……」
その場にいたニューマーケットのホースマン全員が同じ言葉を口にした。
「なんてひどい走りだ……」
全然違うじゃん! 誰だよ札幌競馬場と芝が似ているって言った奴は!
こっちの芝の方が滅茶苦茶深くて走りづらいし、フォームも滅茶苦茶になっちまったわ。
「バテバテだな」
「バテバテですね」
「バテバテです」
西京さん、白村、青山騎手全員が馬房の前で言った。
「芝の高さでしょうか。坂道の傾斜は栗東の坂路ほどではありませんし」
白村が俺の馬体を色んな角度で見ながら言う。
「怪我はしていない。疲れているだけだ」
足元やトモに触れながら言うのは西京さん。
「走ってる時はフォームにも苦労しているようでした。スピードを出そうにも出せず、戸惑っていましたね」
青山騎手は俺から馬具を外しながら、意見を口にした。
調教を終えてすぐに俺の状態について意見を交換し、対策を立て始める海外遠征チームには頼もしさがあった。
俺はあれこれ悩むべきではない。
今はただ、芝に適応して走るだけのこと。
ケンちゃんが英国入りして、勝負にならないと思われたら恥ずかしくて倒れてしまいそうだ。
俺にとって最高の騎手は梶田健二であり、彼に乗ってもらう以上はその実力に相応しい最強の馬でないといけない。
彼とならどんな苦難が、どんな強敵が待ち構えていようと、どこまでも飛んでいってみせる。
「すみません、日本から連絡が……黒井先生からです」
「え? ええ……代わります。はい、白村です。先生、どうしましたか? ……え?」
だが――飛び立つための翼が折れた時、俺は。
どうやって飛べばいいんだろうか
「梶田騎手が落馬で大怪我――?」
×××
「はぁ〜……」
「どうしたスペ。随分元気がないな」
「エッチャンさん……なんだか最近、体のあちこちが痛くて……ご飯も全然食べられないんです」
スペはどんぶりを置いて、お腹を撫でた。
確かに今日はこれで3杯目、いつもよりペースも遅く、食べる量も少ない。
現在は秋のGⅠレース真っ只中、そのための調整やレースへの出走で疲労がたまっているのだろう。
斯く言う私も脚の筋肉が張っていたり、少し疲労がたまりつつある状態だ。
「またレースがあるのに……あ、でも、体重が減るからいいのかも……なんて」
「スペ。連絡だ……トレーナーに!」
「えっ!? あ、はい……」
スペがトレーナーに連絡を入れたのを見てから、彼女のスマートフォンを借りた。
「もしもし、どうしたんだスペ」
「あー、スペシャルウィークのトレーナーかな。私だ、グレートエスケープだ。随分とスペシャルウィークの疲労が溜まっているみたいでね。私も同じく疲労が蓄積しているんだ。ここは二人で疲労回復のために出かけたいと思うんだが、スペにオフを与えてくれないか」
「そうか……ちょうどリフレッシュしてもらおうか悩んでいたときだったんだ。わかった、休みにしよう」
「感謝する……というわけだ、スペ。出かけるぞ」
「え、えっ!? どこにですか!? あ、もしかしてバブリー……」
「いいや、今回行くのはビッグレッド・スパだ」
「ビッグレッド・スパ……?」
首をかしげるスペを連れて学園内に作った隠しガレージへ向かう。
彼女にヘルメットをかぶせると、トライアンフTR6のエンジンを吹かしてタンデムする。
「というわけでここがビッグレッド・スパだ。言ってしまえば健康ランドというやつだ。今日は平日だから空いてるな」
「わー、銭湯とかは聞いたことありますけど、おっきいですね……!」
「風呂の他に食事やマッサージ、リラックススペースもある。ここで湯治をして、これからのレースやトレーニングを乗り切るとしよう」
「わー……はいっ! よろしくお願いします!」
目を輝かせるスペシャルウィーク。
初々しい反応が楽しくて、ついつい世話を焼いてしまう。
そんな可愛い後輩を引き連れて、受付を済ませると風呂へ向かった。
「ここは源泉から運んでるんだ。効能は多種多様、関節痛や疲労、循環不全に腰痛などなど……ウマ娘にはうってつけだな」
「へー……すごいです……色々と……エッチャンさん、筋肉とかすごい……」
「スペもなかなかだと思うがあまり見るな……恥ずかしい」
「ご、ごめんなさい!」
まずは作法に則り掛け湯をしてから、体を洗う。
様々な種類の湯があり、何処から試そうか悩んだところでサウナの看板が目に入った。
「スペ、サウナはどうだ? 自律神経を調えるのにすごくいいと聞く。体に溜まった良くない汗を捨てるという意味でも、リフレッシュできそうだ」
「サウナですか……トレセン学園にもありますよね。時々減量する目的で使ってましたけど……あまり長いとクラクラしてきちゃって」
「あれは水分を排出して体重が減ってるだけで短期間で痩せるというわけではないが……今日は体の調子を良くするために入ることにしようか」
「調子を……ですか?」
首を傾げるスペを連れてサウナへ入る。
ちょうど誰も居らず、私とスペの貸切状態だ。
中に入るとむわぁっとサウナで熱せられた空気が肌を包み、息がしづらい感覚に陥る。
サウナの上段に座り、じっと待つ。
「大体10分くらい入るのがいいとされている。体から汗が出ていくのを感じるんだ」
「はい……!」
1分もしないうちに肌から汗が滲み、滴り落ちていく。
サウナの中にはテレビが設置されていて、ちょうどトゥインクルシリーズのニュースが放送されていた。
「期待の新星がついにデビュー戦……が、3着だったか」
「デビュー戦負けちゃったんだ……勝ちたかったんだろうな……」
「スペはデビュー戦のときどうだった? 勝ったのは知っているが」
「あのときは阪神レース場で走りましたけど、無我夢中になって気づいたら1着になってました。走るのに必死で……」
「あのときもすごいウマ娘が出たと噂になっていたな。後のダービーウマ娘なのだからある意味当然か」
「いえいえそんな……エッチャンさんはデビュー戦負けちゃったんですよね……辛くなかったんですか?」
「辛くはないが悔しかった。だが、未勝利戦がすぐ来るはずだったからね。とにかく勝たなくてはという思いでいっぱいだったよ。今その映像を見ると、酷い走り方だなぁと感じる」
「あ、なんだかわかる気がします。過去の自分を見ると、あそこがダメだなーとか気づくんですよね。それだけ成長してるってことなのかなぁ……」
「その通りだと思うよ。過去を振り返って反省できるのは、いい事のはずだ」
なんて先輩風を吹かしていると10分はあっという間だった。
二人して暑い暑いと言いながら水風呂へ入る
「つめたぁい! つめたいですよエッチャンさん!」
「だっ……だ、い、たい、1分から2分浸かれば……いい……つめたい……!」
水風呂に浸かると今度は露天風呂コーナーへ向かい、設置されていた背もたれのあるベンチに座り、外気浴にいそしむ。
熱された身体が冷やされ、血液が隅々まで行き渡る感覚。
全身が心地いい重さに包まれてウトウトすらしてくる。
「なんだか気持ちいいです……」
「だろう? しばらくこのままのんびりする……」
全身から力を抜いたまま、空を見上げる。
雲ひとつない快晴で、きっとこんな天気の下で走ったらさぞ気持ちがいいのだろう。
「いい天気……走るにはいい日ですね」
「スペもそう思ったか」
「エッチャンさんも? 不思議ですね……いっぱい走ると休みたくなるのに、走ることから離れると走りたいと思っちゃうんです……ワガママですね」
「ヒトもウマ娘も、ままならないものだな……休むことでそんな走りたいという気持ちを溜め込むのも、いいことなんじゃないかな?」
外気浴で休息をとってから水分補給。
サウナは汗をかかないといけないので水分補給は大切だ。そして再びサウナへ。
「……あついです」
「あついな……」
この我慢しているのが気持ちいい。
温まったら次は水風呂。
「ああああっ……!」
「っ……っ……!」
一気に冷やしたらまた外気浴。
「ふぃー……」
「ふーっ……」
これを三度繰り返す頃には、すっかり体はリラックスしていて心地よくなっていた。
サウナによって俗に言う整った状態である。
体がだいぶほぐれたら次は当然、風呂に浸かる。
「ふぅ……トレセン学園も大浴場だが、如何せん大所帯だからな。平日の健康ランドと比べると都心の通勤電車とローカル路線の2両編成くらい違うな」
「そうですね~……こうしてみると、やっぱり周りを気にせず入れるのは気持ちがいいです……」
最後に様々な種類の薬湯で肉体の隅々まで有効であろう成分を行き渡らせたら、すっかり元気になっていた。
風呂上がりには当然、これ。
「「んく……んく……んく……ぷはー!」」
瓶に入った牛乳を飲み干す。
ペットボトルに入った清涼飲料でも、炭酸水でもなく、やはり瓶牛乳。
健康ランドで貸し出される館内着を身にまとい、腰に手を当て一気に飲み干すのがマナーとすらいえるような気がしてくる。
「お風呂上りの牛乳は美味しいですね! モー助の牛乳を思い出しちゃいます」
「モー助?」
すると、きゅるる、とスペから腹の虫の鳴き声が聞こえてきた。
「なんだかお腹が空いちゃいました……」
「では昼ごはんにしようか。ここの食事はとても美味しいぞ。御馳走しよう」
「いいんですか!? ありがとうございますっ」
テーブルにつくと、店員が水を二人分置いてくれた。
冷たくて火照った体に染み渡る。
腰から伸びる銀色の尻尾を見るに、ウマ娘の店員らしいが、なんだか見覚えがあるやつだ。
「メニューがお決まりでしたらベルでお呼びください」
「わかりました……って、ゴールドシップさん!?」
「ああ、やっぱりゴルシか。どうしたんだこんなところで」
「お、見覚えあると思ったらお前らか。ここでちょっくらゴルシちゃん焼きそばを委託販売するついでに色々商売ってやつを学ぼうと思ってな、バイトしてんだ!」
「ビッグレッド・スパでゴールドシップがアルバイトか……なんだかとても似合っているな」
「そうか? まぁ、ここの飯はうめえからよ。食べて行ってくれよな」
ゴールドシップはあわただしく厨房へ戻っていった。
あいつはどこにでも現れるな。
スペはメニューを見てうんうん唸っている。
アレも食べたいけどどれがいいか、とページをめくってはまた最初へ戻るを繰り返していた。
「私は決めた」
「早い!? え、えーと、どうしようどうしよう……」
「慌てるな。好きなものを頼めばいい。せっかくの休みなんだ。余裕をもって過ごすのが一番大切なんだ」
「そ、そうですよね。でもどれも美味しそうで迷っちゃいます……エッチャンさんは何を頼むんですか?」
「私は天ざるセットに決めた。重すぎず、食べ応えのあるメニューにしたかったからな」
「うーん……じゃあ、私は……鶏肉三昧丼と人参ステーキのセットで!」
「店員呼ぶか」
そして運ばれてくる料理の数々。
大きな海老やキス、ししとう、ナス、ニンジンといった海産物や野菜が煌びやかな衣を纏って皿の上でスタートを待ち構えている。
スペの方はからあげや鶏チャーシュー、焼き鳥などがこれでもかと丼に乗せられていて、食べ応えがありそうだ。
「いただきます」
「いただきます」
まずはニンジンの天ぷらから……サクッとした歯ごたえと、人参の熱く、それでいて優しい甘みが口の中いっぱいに広がる。
「美味い……」
「ふふっ」
「どうした、スペ」
「なんだか美味しそうに食べるなぁって」
「ああ、美味しい。だがスペには負けるさ」
「そ、そうですか?」
サウナや温泉でリラックスしたことにより、副交感神経の活動が活発になる。
すると、全身がリラックスモードになるために食事や睡眠がとても快適になるので、来る前は食があまり進んでいなかったスペも見ての通り。
「あ、おかわりいいですか……?」
恐る恐るおかわりを頼んでは平らげていく。
健啖ぶりに驚きつつも、いつものスペが戻ってきたと思うとなんとも頼もしい。
私もそばを啜りながら胃袋を満たしていくのだった。
食事を摂ってからもマッサージチェアで筋肉をほぐし、休憩スペースでは二人してテレビで流れるウマ娘に対するインタビューと漫画を同時並行で見ていたり、カラオケルームではライブの練習と称してたくさん歌った。
気づけば日も暮れるタイミングで、私たちは服を着替えてビッグレッド・スパを出た。
「はー、楽しかったです! もう身体も軽くて、走ってトレセン学園まで帰れちゃいそうです!」
「気持ちはわかるがな、汗かいてしまうぞ」
「エッチャンさん、今日はありがとうございました! 疲労も回復して、またレースでけっぱれそうです!」
「そうか。よかった……さ、帰ろうか」
「はい! ……あっ」
きゅるる……と鳴ったのはやっぱりというべきか、スペの腹の虫。
思わず笑ってしまったが、彼女にヘルメットを被せて後部座席に座らせると、提案した。
「寮の門限には間に合うし、夕食もどこかで食べようか。せっかくだから、私もこいつで走りたい」
「え……じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
「了解だ」
トライアンフのエンジンを響かせて、再び街へ繰り出す私とスペ。
結局、夕食も赴くままに平らげて、身も心も満腹になった休日を過ごしたのだった。
〇競走馬世界
・アビントンプレイス
ニューマーケットにある外国馬のための厩舎。らしいが調べても全貌はわかりきらず……整合性がとれていないかもしれませんが全部ウマムスキー粒子によるものなんだ!
・エクスチェンジ(牡3歳・未勝利クラス)
未勝利戦を勝ち上がったがこの後は勝てず、地方競馬へ移籍。それなりに走ったが覚えているファンはほとんどいない。
・ハードバトラー(牡10歳・1600万クラス・現3勝クラス)
ミホノブルボン、ライスシャワー、マチカネタンホイザ、サクラバクシンオーと同世代。超古株で黒井厩舎の長老的な存在。この世界でダンスパートナーの海外遠征に付き合ったりもした結果、海外に慣れたし世話好きにもなった。オーナーは社来グループの代表で個人名義で所有している。モデルはシーキングザパールやアグネスワールドの帯同馬として活躍したドージマムテキ。
・プリンスオブウェールズS
このころはGⅡ。現実世界だとGⅠになってからエイシンヒカリやディアドラなどが遠征している。
・青山祐一(騎手・栗東所属)
モデルは特にない騎手。現在40歳、通算211勝、重賞勝利1回。華々しい活躍はしておらず、乗鞍は少ない。調教など乗ることが多い。だが経験によって培われた騎乗技術は確かであり、調教もしっかりと乗っている。現在調教師になるため勉強も同時並行中。
〇ウマ娘世界
・「ビッグレッド スパ」
トレセン学園から車で10分ほどの場所にある巨大な健康ランド。温泉施設がたくさんあり、土日や行楽シーズンは家族連れなどでにぎわう。ゴールドシップがなぜか最近アルバイトに励むようになった。後輩に良い焼きそばを作る奴がいる、と。グラスワンダーやアグネスデジタルも時々使うといううわさが。
・サウナ
おすすめ。整うの気持ちが良いです。