名バ列伝『グレートエスケープ』【完結】   作:伊良部ビガロ

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せっかくアンケートしたので料理回。
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第32話 Never Looking Back

 丈の長い芝を踏みしめてニューマーケットの緩やかで長い坂路を駆ける。

 ハミを取って鞍上の青山さんの指示に鋭く反応すれば、遠くでニューマーケットのホースマンの感嘆の声が聞こえてきた。

 

「状態が少しは上がってきましたかね」

「やっぱりダービー馬はダービー馬か……慣れてくると走りの良さも出ている」

 

 手綱が緩み、ゴーサインが出る。

 手前を変えて飛び出し、最高速度を出してそのままコースの最後まで走り抜けた。

 調教を終えて厩舎に戻る中で青山さんが俺を撫でた。

 

「慣れてきたな、欧州の芝にも。いやぁすごいな、すごい走りだ」

 

 賞賛は俺の心を震えさせず、怒りにも似た虚しさが胸いっぱいに広がるばかりだった。

 厩舎に戻り、馬体のチェックが終わればシャワーを浴びる。

 ニューマーケットはこの時期、朝は肌寒さがあるだろうが、馬の体ではあまり感じなかった。

 

「グレ様。本日の朝食は燕麦、トウモロコシ、小麦粉、大豆をベースにビタミン、ミネラル、食塩で味付けされたものです。黒井厩舎で食していたものを取り寄せ、ニューマーケットで出回っているものをテイストとして加えました。既にシェフに用意させています」

 

 シェフってか現地の厩舎スタッフな。

 

「ありがとう、バトラー」

「いえ……役目なれば……体調は、如何でしょうか」

「……まだ少し疲れやすいようだ。食べたら休むよ」

「承知致しました。御用の際は何なりと……」

 

 ハードバトラーさんが紹介してくれた飼料を食べる。普段の味付けに混じるイギリスの味。うーん、そうやって書くと不味そうに聞こえる。

 だが黙々と食べ終え、馬房の中に引っ込んだ。

 それからはやることがなくて馬房で寝藁をひっくり返したり、壁にもたれかかったり、ひたすら時間を潰すだけだった。

 普段だったら脱走してアビントンプレイス、ひいてはニューマーケット観光でもしてやろうと嘯いたのだろうが、今はなにもしたくなかった。

 先日日本から届いた凶報――俺の主戦騎手たる梶田健二の落馬事故が原因なのは、いうまでもない。

 ニュースを聞くと、競走で大外に持ち出したところでほかの馬が転倒。それに巻き込まれて落馬してしまったらしい。

 ケンちゃんは複数の骨折や裂傷を負った重傷で、すぐに病院に搬送された。

 命に別状はなかったが騎手生命が断たれるかもしれない――帯同したスタッフがそう言った。

 当然、今回の海外遠征の騎手は乗り替わりということになり、誰に頼むか黒井先生や白村が話し合っている。

 

「はぁぁ〜……神様の馬鹿野郎……運命のアホ助……なんでケンちゃんなんだよ……なんで、俺じゃねえんだ……」

 

 ケンちゃんが落馬することは珍しいが、俺が現役中になかったわけではない。

 それでも、大抵はスタート直後や返し馬のときくらいで、危険ではあるが大怪我はしてなかった。

 今回は最後の直線で、トップスピードに乗った状態での落馬。

 今までよりもずっと大きな怪我だ。日常生活を元のように送れるまで3ヶ月、馬に乗れるまで半年、ジョッキーとして復帰できるかどうかは……。

 

「なんで……俺じゃないんだ……怪我すべきは俺だろうが……」

 

 梶田健二というジョッキーのことを考えると、吐き気すら覚えた。

 まだ若いが、それを感じさせない落ち着いた騎乗スタイル。それでいて勝負どころを逃さず、若いながらもGI勝利を俺と積み重ね、リーディングでも上位が当たり前の騎手。

 今、競馬界でトップをひた走るのは滝カナタ騎手や、岡谷幸男騎手だが、この先、そこに梶田健二の名前が加わるであろうことは誰もが期待していただろう。

 そんな彼の、騎手生命が断たれる――

 

(なんでケンちゃんが……おかしいだろう……本当だったら、俺の骨がぶち折れるほうが妥当だったろうが……)

 

 ずっと考えてきた、自分が競走馬として生まれた意味。

 もしかしたら、なにか使命があったのかもしれないと自惚れることもあった。

 だが、現実はこれだ。

 俺がこの世にサラブレッドとして、グレートエスケープとして、産まれたから――ケンちゃんは落馬事故に巻き込まれたのかもしれない、そんな考えが浮かんでくる。

 もしも俺がなにも知らない、人の心なんて持たないサラブレッドだったら、こうならなかったかもしれない。

 

「わかってるんだ……ケンちゃんに限らず、どんな騎手でも落馬で騎手生命や、生命そのものすら断たれる可能性があることは。たまたま、運が悪かっただけだって。でも……だからといって……受け入れられるわけないだろ……!」

 

 溢れ出した嗚咽を押し殺して、俺は壁に頭を押し付けた。

 どれほど経ったろうか。

 次第に涙が枯れて、胸に広がった悲しみが少しずつ渇いていく。

 

「でも――でも、やるべきことは変わらないんだ。どんなに苦しんでも、悲しくても、辛くても。俺は……俺は、グレートエスケープなんだから。ケンちゃんのことは辛い。辛い、が……飲み込まなくてはいけない。消耗するわけには、いかないッ……!」

 

 俺はそれからも、調子を落とさないように、飼料は残さず食べ、調教では張り切って走った。

 そうして迎えた、プリンスオブウェールズステークスの最終追い切りの日はどんよりとしていて、雨が降り出しそうだった。

 本当だったらケンちゃんが最終追い切りに乗って、プリンスオブウェールズステークスに臨む予定だったが、当然それは叶わない。

 じゃあ誰が乗るのだろうか、調教場へ出るまでの時間を待っていると、聞いたことのある声が耳に届いた。

 

「どや、グレ坊は」

「先生……カイ食いはまぁまぁですが……少し無理しているようです。やっぱり水が合わないというか、環境に慣れないんでしょうか」

「ふぅん……グレ坊。どや、調子は」

 

 馬房の扉が開くと、現れたのは黒井先生だった。

 最近、食が進んでいないから少し怒られるだろうか。お前ほどの馬がなにをしとるんやと言われるだろうか。

 しかし。

 

「……馬体に異常はない。体重も減り気味やけど問題にするほどやない。今日はジョッキーに乗ってもらって追い切りをするからな」

 

 黒井先生は俺のことを特に気にした様子はなく、厩舎スタッフと話し始めてしまった。

 下手に慰められたりしても、真夏の雪のように似合わないとはいえ、やっぱりそれを期待している自分がいて、笑ってしまいそうになる。

 

「元気があまりないですね。もっと迫力があったと思うんですけど」

 

 そんな俺を見て言ったのは、ヘルメットと鞭を持ったジョッキー――滝カナタさんだった。

 どうやら、この海外遠征で乗るのは、滝さんに決まったらしい。日本が誇るトップジョッキーならば誰も文句を言わないだろう。

 

「調教に行くで。不甲斐ない走りしたら飯抜きや。白村の」

「ええっ、なんで俺なんですか!」

「当たり前やろボケ! 調教助手っちゅーことは此処にいる間調教の中心はお前なんやから!」

 

 滝騎手が西京さんの肩を借りて俺にまたがる。

 俺はこの日の調教をそこそこのタイムで終えて、厩舎に戻った。

 

「カナタ、スペシャルではどうもな。上手く乗って貰えたわ」

「いえいえ。盾男と呼んでもらってますからね、スペシャルで勝てないと信用失っちゃいますよ」

 

 厩舎の近くでカナタさんと黒井先生が話している。

 話の内容はレースや今後のプランについてで、その流れで天皇賞・春のことについて話していた。

 なんでも、スペシャルウィークで見事に勝利したらしい。

 後輩の活躍に頬が綻ぶが、同時にまた天狗になってやしないかと心配もしていた。

 

「……スペシャルはこのまま宝塚記念に行く。そこで勝てば凱旋門賞へ行かせようと思ってる。皮算用ってやつやが、カナタ、凱旋門賞だったらどっちに乗る?」

「いやぁ迷いますね……でもやっぱり、スペシャルですよ。ダービーを初めて勝たせてくれた馬ですから」

「ま、せやろな。もしも被った場合はグレは欧州の騎手を乗せる」

「まだ全然わからないですけどね」

 

 どうやらいずれはスペシャルもこちらに来る可能性があるらしい。

 世界最高峰の舞台へ先輩後輩で挑むというのは、心躍るものがある。

 だが――そこで乗って欲しい人がいないことが、ただ寂しい。

 

「しかし、グレを選ぶとも思ったが」

「……すごい馬ですけどね。今の僕が逃げ馬に乗ったら、上手く乗れないかもしれないので」

「サイレンススズカか……」

「あ、すみません。余計なことを言いました」

「いや、実際それだけの馬やと思うで。聞いたで、あの日は初めて酔いつぶれるまで飲んだそうやないか」

「……ええ、まぁ。今でも夢に見ますよ。もう少し抑えてたらどうなったか……とか」

「許してやってもええやないか、自分を。お前はよくやっとる……自分のことだけじゃない。競馬界のために、多くのホースマンのために、ずっと考えているやないか。お前がボロボロになったら……悲しむ人間は、もっと多いで」

「……わかっては、いるんですけどね」

 

 黒井先生はカナタさんにそう言うと、踵を返した。

 カナタさんも辛いものをたくさん抱えている――それでも前を見て、進んでいる。

 例え翼が折られてしまったとしても、俺も、脚で前に進まなくてはいけないのだろうか。

 

 〇〇〇

 

 GⅡながら、アスコット競馬場に集まった競馬ファンは中々多かった。

 この時期はロイヤルアスコットミーティングといわれ、イギリス王室が主催している。

 プリンスオブウェールズステークスを含めて、数日間にわたって様々な重賞レースが開催されるため、観客も自然とアスコットに集まってくるというわけだ。

 服装も煌びやかなドレスやスーツを纏う人も多く、イギリスやフランスではギャンブルではなく紳士淑女の社交場といわれるだけある。

 パドックの周回も日本と違い、短いらしく、さらに観客と馬や騎手の距離もだいぶ近い。

 カナタさんは手を伸ばすファンと握手したり、サインを書いたりしていた。

 

「カナタ、グレートエスケープの状態は悪くはないが、絶好調というほどでもない。だが相手も強いわけやない。頼むで」

「ええ。あの馬に勝った名馬ですから、簡単に負けさせるわけにはいきませんよ」

 

 俺を含めてアスコットに9頭が集まった。

 人気は日本からの遠征ながら1番人気が俺になっている。

 他のメンバーにGⅠ勝利馬はいるが、今のところ実績は最上位と見られているようだ。

 パドックで待っていると、一頭の女の子――牝馬に声をかけられた。

 

「な、なぁなぁ! あんた日本の馬なんだってな!」

「え……ああ、そうだけど、誰だ」

「おっと失礼、私の名前はシヴァ! 日本出身なんだ」

 

 日本の牧場で生まれたということか。

 話を聞くと今年の5月にGⅠを勝利し、日本生産馬初の海外国際GⅠ勝利を達成したのだという。

 

「いやぁすごいなぁ、なんだか嬉しいなぁ!」

「同郷ってやつは嬉しいよな。少し気持ちはわかる」

「あんた歳上か? すごく落ち着いて見える」

「もうオッサンかもな」

「ま、ここじゃ私が先輩だからな。ムネを借りるつもりでかかってこいよ!」

 

 どうやらお姉さんぶりたいらしい。

 元気いっぱいで怖いもの知らず、そして俺のことは知らないらしい。

 さすがに欧州に名前は響いていないようで、仕方のないことだ。

 事実、欧州のレースで俺はまだ素人同然なのだから。

 

「よろしくな、シヴァ」

「おうよ! ってあんた、名前は?」

「俺は――って、時間か」

「仕方ねー。このあとで聞いてやるからな。レースを勝った、私が!」

 

 シヴァはそう言って離れていった。

 カナタさんが俺に乗る、その直前で止まった。

 

「その前に挨拶してもらわないとな」

 

 カナタさんと黒井先生が道を開けるように後退る。

 一体何をするのだろうと、不思議がるのも束の間、そこには車椅子に乗ったケンちゃんがいた。後ろでは恵那ちゃんが車いすを押している。

 

「グレ坊……お前元気ないって本当か?」

 

 呆れたように言うケンちゃん。

 俺は、恐る恐る、一歩ずつ近付いてから、目の前で立ち止まった。

 

「ケンちゃん……なんでここに……ちょっと痩せたな……減量し過ぎだぞ……」

「大事な大事なお手馬の海外遠征初戦を見に来ないわけないだろ。で、調子は少し悪そうだけど……まさかこんなところで負けてられないよな」

「……うん」

 

 ケンちゃんが車いすを漕いで俺の前に来て、額を撫でた。

 

「お前のことだから、俺が落ちたの聞いて凹んでるじゃないかと思ってたわ」

「ふん、へっぽこ騎手が落ちてもグレ坊は気にせんやろ」

「先生、それはあんまりですよォ」

 

 黒井先生がからかい、ケンちゃんが笑う。

 まるでこれまでと変わらない、レースが始まるときのようなひと時に、心が穏やかになる。

 

「グレ坊。俺は今後、騎手として復帰できないかもしれないといわれている。それでも俺は、お前に乗るつもりでリハビリを続けている。キングジョージは無理だ。凱旋門賞も厳しいかもしれない。ジャパンカップや有馬記念だったら……もしかしたら、乗れるかもしれない。グレ坊。俺は諦めないぞ」

「うん……!」

「お前は俺の誇りだ。騎手生活を長年送っていても巡り会えるかわからないほどの名馬だ。そんなお前に乗れて嬉しかった。だから……もっと自慢できるように、世界でも勝ってこい……グレ坊」

「うん……うん……!」

 

 決して健康な姿ではなかったけれど、元気そうなケンちゃんを見て、ささくれだった心が丸くなっていくのがわかる。

 ずっとわかっていた。

 ケンちゃんがどんなふうになろうと、俺は走って、勝たなくちゃいけないということは。

 それでも、こうしてケンちゃんの姿が見られてよかった。

 

「グレくん」

 

 恵那ちゃんが今度は俺を優しく撫でる。

 海外遠征という、金銭的にも、精神的にも負担がかかるものを、彼女は叶えてくれた。

 きっと、望んでいるのは俺が無事に走り抜き、そして勝つ姿。

 

「グレくん、少し元気出たかな……きっと会いたいと思って、梶田騎手と一緒に来れないか呼んだんだけど……」

 

 ああ――もう大丈夫だ。

 俺は多くの人たちに支えてもらって、こうして生きている。

 馬として生まれた意味は、よくわからない。

 けれど、愛情と期待を惜しみなく注いでくれる彼らに応えること――それが、今の俺の使命なんだ。

 

「また迷って、まごついていて、情けない……かっこ悪いよな。でも、それでも、俺はまた走り出すから……見ててくれ、みんな」

 

 初めてのイギリスにおけるレース、プリンスオブウェールズステークス。

 滝カナタ騎手を背に乗せて、俺はレース場へ蹄を進めた。

 俺の名前を世界に知らしめてみせる――そして、関係者すべてに言わせてやるんだ。

 

『あのグレートエスケープの世話をしていた、調教をしていた、騎手をしていた――』と。

 

 

 

『GII、プリンスオブウェールズステークスの発走時刻が近づいてまいりました。日本を旅立った日本代表グレートエスケープは1番枠に収まる予定です。先日はエルコンドルパサーがイスパーン賞では堂々たる2着で欧州遠征に弾みをつけました。日本で生まれ、日本で育ったグレートエスケープは、競馬の本場たる欧州の馬たちにどう立ち向かうのか。ブックメーカーでは1番人気で迎えられています。出走馬には日本で生まれたシヴァもいます。3歳馬ファンタスティックライト、他にはリアスピアなど計9頭で争われます。GIIながらロイヤルアスコット開催であり、歴史ある重賞レースです。多くの観客が発走を待ち望んでいます。全頭ゲートに収まり――今スタートしました!』

 

『グレートエスケープ好スタートを切りました、やはりハナに立ちます。鞍上は滝カナタ。日本生産馬にしてここまで無敗のシヴァは4番手あたりといったところ、外にザールとファンタスティックライト、後方にリアスピアがいます』

 

『アスコット競馬場2000mで行われる伝統の一戦、グレートエスケープはゆったりと走っています。黒井調教師や白村調教助手からは、来た当初は馬場に慣れていなかったが最近ようやく調子が上がってきた、とコメントがありました。日本で積み重ねたGI勝利は6勝、ここでも積み重ねてきて欲しいものです。第4コーナーに入りグレートエスケープは依然先頭』

 

『直線に向いてグレートエスケープが追い出しにかかる! シヴァは後退していく、内からリアスピアとファンタスティックライトが上がってくるがグレートエスケープ、差をぐんぐん広げる! 2馬身、3馬身、4馬身! グレートエスケープ強い強い、鞍上の滝騎手は追うのをやめています! グレートエスケープ圧勝でゴールイン! 5馬身ほど離れてリアスピア、ファンタスティックライトが入線しています。グレートエスケープ、海外でも見事な脱走劇でした』

 

 

 

 状態は決して良くはなかったが、ベストは尽くせた。

 終わってみれば5馬身差の勝利であり、見事にイギリスの重賞を制する結果となった。

 

「いやぁ流石グレートエスケープ。よく頑張ったね。イギリスでの重賞勝利は日本の馬では初めてじゃなかったかな」

 

 カナタさんの賞賛の声。

 散々喚いて、泣き言言ってたくせにと言われてしまいそうだが、こうして勝てたんだからよかった。

 

「な、なぁ、あんた! 日本の!」

 

 本馬場から去る前に、シヴァが声をかけてきた。

 

「すごい走りだった……私だってGI勝ってるのに、手も足も出なかった……な、名前を……教えてくれないか?」

 

 素直に名前を教えようかと思ったが――はっきり言って、今日の俺の走りは本調子ではなく、そしてついさっきまでウジウジしていた自分がかっこ悪かった。

 それ故に、年下の牝馬相手にそういうところを覚えてもらいたくなくて背を向けながら彼女に答えた。

 

「グレートエスケープ……しがない競走馬だよ」

「グレート……エスケープ……さん……あ、あのっ! またいつか……会えますか!?」

 

 敬語なんて使ってしまって、随分しおらしいじゃないかと、小さく笑った。

 そして、歩きながら答えた。

 

「走り続けていれば、また会えるだろう」

 

 歓声を背に受けながらアスコット競馬場を後にする。キングジョージは同じくここで行われる予定だ。

 今日走ったことで、キングジョージのときもきっと走りやすくなっただろう。

 ニューマーケットの厩舎に戻ると、黒井先生とカナタさんが改めて次走について話した。

 

「今日の勝利は文句なしやった。このままキングジョージへ向かう前に、1戦GIを挟むで」

「キングジョージの前に1戦、この時期ですと……」

「ああ、エクリプスSや。ここからやと車で2時間かからないサンダウン競馬場で行われる、上半期中距離最強馬決定戦。キングジョージへの箔付けにはぴったりや。距離は2000m、グレ坊の力を見せてやらんとな」

「2000mでも充分戦える馬ですからね。楽しみです」

 

 次走はエクリプスSか。

 Eclipse first, the rest nowhere.(唯一抜きん出て並ぶもの無し)――英語の諺の語源にもなった伝説の馬の名を冠するレース。

 ここを勝って、キングジョージへ向けた踏切にしてみせる!

 

「グレ坊。おめでとう」

 

 黒井先生とカナタさんが話し終えると、関係者席から恵那ちゃんがケンちゃんが乗る車いすを押して現れた。

 

「ケンちゃん……とりあえず、勝てたよ」

「見てた。やっぱりすげえ馬だよ、お前は……良い走りだったが、まだまだこんなもんじゃないよな」

「もちろん。少し不甲斐なかったけど……次は完全な姿を見せるから」

「ああ、楽しみだ。グレ坊――お前は、俺の誇りだ」

「……そうか。なら、もっと誇りたくなるような、馬にならないとな」

 

 ケンちゃんは俺を撫でて、寂しそうに笑っていた。

 撫でながら「いいなぁ、乗りたかったな」という詰まった声は、俺の耳にだけ届いて、消えていった。

 俺も悲しい。だが、それでも前に進むと決めたのだ。

 次のエクリプスステークスでも、勝利を掴んでみせる――どんなことが、あろうと。

 

 

 

『グレートエスケープは7着、惨敗です! これは残念な結果になりましたグレートエスケープ……英国初GIはお預けです』

「ちくしょーーーーッ! なぜじゃーーーーッ!」

 

 しかし、世界の壁は高かったのだ!

 

 

 

 ×××

 

 

 

 学園のカフェテリアの一画で私は優雅にのどを潤す。

 昼休みに悠々と一服する喜びは何物にも代えがたく、ついつい相好を崩してしまうものだ。

 

「あ、あれグレ先輩だ……やっぱりかっこいい……」

「何飲んでるんだろう、紅茶かな、コーヒーかな」

「テーブルに置いてあるのは……え……コーラ?」

「ああっ、よく見たらカロリーのお化けみたいなホットドッグ食べてる!」

 

 ウマい。やはりコ〇・コーラに限る。ペ〇シ・コーラより、〇カ・コーラが優れていると私は思う。

 今日のティータイムはコーラとフィラデルフィア・チーズステーキだ。

 ロールパンに薄切り肉をこれでもか! と詰め込んだら、大量のチーズを溶かして挟んだホットドッグである。

 お手軽にして至高、カロリーの高い料理を考えさせたらアメリカを上回る国はないと思う。

 

(いつかアメリカ遠征に行くか……ついでにBCターフなんかを走ってみてもいいかもしれない。うん)

「あの、失礼するね」

 

 そんな私とテーブルを挟んで座ったのはスマートファルコン。

 いつぞやのアイドル騒ぎでも相談に来たのは、こんなお昼の時間だったなぁ、と思い出した。

 

「ファル子先輩、食事中で申し訳ない」

「ううん、いいの。むしろタイミングが悪くてごめんなさい」

 

 私は残ったチーズステーキを平らげると手を紙ナプキンで拭った。

 最後に口の中に残った脂身をコーラで洗い流し、一息つくと彼女に話を窺った。

 世間話をしに来たというには、少し緊張している様子が垣間見える。

 

「エッちゃん……お料理ってできる?」

「うん? まぁ……人並みには」

 

 父や母からは料理のひとつやふたつできないと話にならない、なんて言われてトレセン学園に来る前は度々一緒に料理をしていた。

 決してキメ細やかに作るタイプではないが、基本くらいは修めているので凝ったものでもなければ作れる。

 

「エッちゃんお願い! ファル子のウマチューブチャンネルに出演してほしいの!」

「なぜだ……というか、料理と何の関係が?」

「実はね、ファンを増やすためにフクキタルちゃんに相談に乗ってもらったんだけど……」

「まずフクキタルに相談をするな」

「そしたら……」

 

『料理動画……料理動画を投稿してファンを増やすのが大吉です!』

 

「……それなら逃げ切りシスターズのメンバーに頼めばいいのではないか?」

「それなんだけど……スズカちゃんは料理に興味ないどころか食事に対する興味もちょっと怪しいくらいだし……」

「走ることが最優先なやつだからな」

「ブルボンちゃんはこの前オーブンとガスコンロと電子レンジと冷蔵庫を故障させちゃって……」

「バットでも振り回したのか? マルゼン先輩は?」

「マルゼン先輩はレースがあって都合がつかないの」

「アイネス姉さんは料理上手だぞ? 何度かご馳走してもらっていたが」

「アルバイトでアイネスちゃんも都合が合わなくて……」

「エイシンフラッシュも料理がうまかったと思うが」

「フラッシュちゃんは前に出てもらって好評だったんだけど……どちらかというとレシピとかそっちのほうがウケちゃって」

 

 g単位で細かく量を測定するエイシンフラッシュともなれば、なるほど確かにと思う。

 色々と人選を重ねた結果、私にたどり着いたらしい。

 

「まぁ……別に暇してるから、構わない。ただ、あまり凝ったものは作れないし、ファンが増やせるかは……」

「ううん、協力してもらえるだけでも嬉しいから! それに、ファンを増やすのはファル子の魅力で頑張るから!」

「じゃあ助手も欲しいな……助手というか、賑やかしともいえるが」

「それなら当てがあるよ! とりあえずキッチンを借りる許可は貰ったから……エッちゃんと助手さんが料理をして、私が料理中にお話を振ったり、食レポしたりするから!」

「……料理しないのか?」

「う、その……気の利いた話題を振りながら料理をする自信はあまりないかな……」

 

 

 

「――というわけで、今日のファル子のウマドルちゃんねる! のゲストはグレートエスケープちゃんとナイスネイチャちゃんです!」

「お、おいっす~……って、本当にアタシでいいの?」

「よろしく。ネイチャが適任だと思ったからいいんだ。というわけで今日はファル子先輩に料理を作っていく」

「ちなみにどんな?」

「うーん、じゃあ、食べ応えがあるご飯がいいな!」

 

 キッチンカウンターの前に座るファル子先輩がリクエストをあげた。

 食べ応えのあるものと考えると、やはり肉だろうか。

 ウマ娘はすべからくアスリートであり、筋肉を作るたんぱく質は欠かせない。

 そしてそのたんぱく質を得るにはやはり肉だ。

 

「ネイチャ。まずはグラスを三つと氷を用意してくれ」

「ほいほい」

 

 私は冷蔵庫の中からコーラを取り出した。

 

「まずコーラを人数分用意する。このとき氷は確実に入れたほうがいい。グラスが冷えていたらベストだ」

 

 グラスにコーラを注ぐとしゅわしゅわと音を立てて炭酸が弾けた。

 うーん、この音がたまらない。

 

「はい、乾杯」

「え? か、乾杯」

「かんぱーい」

 

 三人でごくごく喉を鳴らしてコーラを注ぎ込む。

 

「ぷはー、生き返るな……」

「なんでいきなりコーラを飲んでるんですかエスケープさんや」

「まずはコーラを入れてエンジンをかけなくてはな」

「エッちゃん撮影始まってるんですけど! そしてコーラのペースが早い!」

「企業名とか言うのはまずいかね?」

「えっ、あっ、うん」

「とりあえず飲みながら用意しようか」

 

 私は材料を冷蔵庫から出していく。

 鶏肉、キャベツ、トマト、ニンジン。にんにく。調味料としてオリーブオイル、ヨーグルト、唐辛子、ターメリックパウダー、シナモン、塩に小麦粉に牛乳。

 台所を占拠するこいつらを料理にしていく。

 

「まず野菜をカットする」

「ってちょいちょいちょーい! ストップ! エスケープさん随分とダイナミックな包丁の使い方をしますねえ!?」

「ダメか?」

「いやぁダメじゃないけど、危なくない?」

「切れればいいだろう」

「いやいや、そこはなんといいますか……料理はほら、愛情……とか、大切ですし? 丁寧にやらないとさ……」

「愛情か。なるほど、ではネイチャ、愛情いっぱいに野菜カットを任せよう」

「はいはい、まかされましたよっと」

 

 ネイチャは慣れた手つきで野菜を細かに刻んでいく。

 私よりも洗練されており、派手ではないが繰り返し料理を行ってきた者の包丁さばきってやつだった。

 

「料理は愛情、そしてこの包丁さばき。ネイチャが結婚したら良いお嫁さんになるな」

「そうだよね! ネイチャちゃんの女子力高くてすごいと思うよ!」

「あははー、アタシみたいな地味な女の子と結婚したがる物好きさんはいるんですかねー」

 

 絶対にいるだろうと、カメラに呟きつつ、コーラを三人のグラスに注いだ。

 流石にネイチャに任せきりも悪いから、調味料を混ぜ合わせていく。

 

「視聴者のみんな。にんにくは適当に潰そう。ウマ娘なら指先の握力ですり潰せるぞ」

「エッちゃんもう少し画面映えというか、女子力を……」

「料理は楽したもの勝ちだと思う。鶏肉もカットする。ネイチャのように細やかではないが焼けば形は変わる。気にしなくていい」

「あっれぇなんだか料理が女の子っぽくないよ!」

 

 カットした鶏肉を混ぜ合わせた調味料に混ぜ合わせ、しばらく漬ける。

 

「調味料の量は?」

「レシピにまとめたからこれを見てもらうといい」

「ふむふむ……全部適当じゃん! 大雑把すぎるよ!」

「味付けは濃くしておけば大体美味いから平気だ。コツは砂糖の量を恐れないこと。自分の思う2倍くらい入れよう」

「そんなわけないでしょ!」

 

 その間に牛乳と小麦粉を混ぜ合わせながら生地を作っていく。

 少し沈黙が流れてしまったのでカメラに一言。

 

「生地は厚いほどいい。応援グッズを買うときに使うお金と同じだ」

「やめなさい」

「エッちゃんそういうこというのにファン多いよね……ズバズバ言う系ウマドル……?」

「真似しちゃダメでしょこれは……というわけで切り終わったよ」

「流石ナイスネイチャ仕事が早い。お嫁さんに欲しいな」

「いやー、アタシはお金持ちでイケメンな彼氏募集してるんでー」

「だ、そうなのでファンのみんなは頑張ると良い」

「ちょっ、何言ってるんですかね!」

 

 鶏肉が浸かり終わるまでしばらくコーラを飲みつつ歓談タイム。

 トークということでファル子先輩が取り仕切った。

 

「ウマドルファル子からゲストさんへ質問コーナー! 二人はレース前の勝負メシってある?」

「あたしは……あたりめとかちょっと食べたり。おっさんくさいでしょ」

「ううん! お手軽に食べられて良いと思うな! エッちゃんは?」

「私か。勝負メシはそうだな……無難に消化のいいものを食べている」

「やっぱりアスリートだもんね! 合理的!」

「エスケープさんこんなこと言ってるけど、普段の食生活は結構ジャンク、ジャンク、ジャンクだよ」

「否定はしない。今日作るのもいわゆるファストフードだからな。ではそろそろ肉を出すか」

 

 鶏肉を取り出すとフライパンでグリルチキンにしていく。

 

「ここで追加のコーラを入れる」

「ちょちょちょ、エッちゃん! なんだかもう飲兵衛料理みたいになってる」

「ネイチャもなんだかんだ飲んでるしいいじゃないか」

「え!? あー、火のそばにいると暑くてねー」

「全然可愛さに溢れてないよぉ……」

「肉を焼いたらカットした野菜と一緒にさっき使った生地の上に乗せてオーブンで焼く。あとは……これ」

「またコーラ……じゃない! それは高級なキャロットジュース!」

「今日は行くところまで行きます」

「どこに?」

 

 女3人集まれば姦しいといったもので、お喋りしているうちにオーブンが音を鳴らして終了を知らせてくれた。

 お皿に乗せれば――

 

「完成! 『チキンシャワルマ』! ケバブともいうが地域によって呼び方は変わる。ビールに合うらしい。両親はそう言っていた」

「美味しそう!」

「結構大雑把なのに見た目は綺麗……」

「ファストフードだからな。材料さえ用意しておけばすぐ用意できるのがいいところだ」

 

 というわけで。

 

「「「いただきまーす!」」」

 

「美味しいっ! お肉の香ばしさと少しピリ辛風味で食欲が増してくるよ! 美味しい! エッちゃんすごいよ!」

「ありがとう。ネイチャは?」

「……食べて思ったよ。全国のケバブ屋、潰れるね」

 

 ネイチャのジョークにファル子先輩と私は大笑いした。

 コーラとシャワルマを味わいながら、三人で色んな話をしていたのだった。

 後日、うまチューブにアップしたところ、たちまち再生回数が増加。

 『ウマドル目指してるんだ、可愛い!』『ライブも綺麗だし走りもかっこいい!』『ナイスネイチャちゃんのお婿さんに立候補したい……』『グレートエスケープがやる料理屋の常連になりたい』というコメントが多く見られ、ウマドルたるスマートファルコン、さらに逃げ切りシスターズまで人気が激増した。

 ファル子先輩の役に立てて良かったと安堵し、また料理をしてみようかなんて考えるのだった。

 




シヴァ(グレートエスケープさん……また会いたい……いつか会えるかな……)


〇競走馬ワールド
・今週の被害馬「Lear Spear」
 史実では後の欧州最強馬、当時3歳のファンタスティックライトを破り勝利している。正直情報はあまり集められんかった……

・シヴァ(Shiva)
 日本生産馬初の欧州GⅠ勝利を達成。しかし同じころにエルコンドルパサーの活躍があった他、生まれが日本なだけで馬主や騎手が外国人陣営というのもあってあんまり報道されなかったという。

〇ウマ娘ワールド
・料理
 某お笑い芸人の番組をリスペクトしようと思ったが酒を飲ませられないので諦めました。



〇活動報告でアンケートを行っています。ぜひご覧ください。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=266344&uid=37842
 

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