名バ列伝『グレートエスケープ』【完結】   作:伊良部ビガロ

34 / 46
※感想、評価、誤字報告、いつも感謝しております。
いっきにキングジョージまでいったので少し長めです。レース描写って難しい(今更


第33話 翼を広げて

 アタシは男の人が苦手だ。レースの時も、見られていると思うと緊張して力を発揮できない時がある。

 トレセン学園はウマ娘ばかりだから、あまり不便に感じることは無いのだけど……男の人と同じくらい、苦手なウマ娘がいる。

 名前はグレートエスケープ。尊敬している、グルーヴ先輩のライバルと名高いウマ娘だ。

 あまり関わりはなかったのだけれど、よくグルーヴ先輩に怒られている姿を見かけていたから、いわゆる素行の悪いウマ娘なのかと思っていた。

 そして鋭い視線や雰囲気から、男性的な怖さを覚えてもいた。

 そんな苦手な先輩なのだけど――なぜか、グレ先輩が運転するバイクの後部シートに、アタシは跨っていた。

 

「ドーベルちゃん。大丈夫か?」

「え、ええ、大丈夫です……」

 

 どるるん、という重低音。

 バイクなんて乗ったことがなかったから、怖くてグレ先輩の胴体に腕を回して力を込めてしまう。

 事の発端は、突然だった。

 スポーツ用品の他に日用品とか、必要なものがたくさんあったから買い物に出かけようとトレセン学園の校門を出た時のこと。

 トレセン学園の塀の一画がぱかりと開くと、中から唸り声のようなエンジン音を響かせながら、バイクを押す人影がのそのそと現れたのだ。

 明らかに不審者で、恐怖を覚えた私は、グルーヴ先輩が珍しく呟いた愚痴を思い出した。

 

『エスケープのヤツめ……トレセン学園に何個違法ガレージを作っているんだ。しかも中々見つからない……!』

 

 その言葉があったから、不審者の正体がグレートエスケープ先輩であって欲しいと願いながら、声をかけた。

 

「ぐ、グレートエスケープ先輩……ですよね?」

 

 ヘルメットにライダージャケット。

 スラリと伸びた手足は鋭いナイフのような雰囲気を漂わせていて、はっきり言って怖かった。

 その影は、ヘルメットを脱いだ。

 見たことがある顔――グレートエスケープ先輩。

 不審者じゃなかったことに安堵していたら、グレートエスケープがこちらに近づいてきた。

 

「見たな?」

「えっ?」

「私がバイクで出てくるところを、見たな?」

「えっ、あっ、はい……」

「……被りなさい」

「え? な、なんで」

 

 アタシがまごつくと、ヘルメットを強制的に被らされ、いきなり担ぎあげられた。

 

「ちょ、なんですか!? や、やめ、た、たすけてライアン! グルーヴ先輩! たすけてー!」

 

 ……というわけで、拉致同然にバイクに乗せられて、今に至る。

 

「ドーベルちゃん拗ねてるのか? 悪かったと思っているよ。だがあのまま見逃せば、君はエアグルーヴに告げ口していただろう?」

「当たり前です! まさか本当にバイクのガレージを作っているなんて……」

「街まで送るから黙っていてくれ。これで実質共犯だからな」

「そ、そんなぁ!? 感謝しますけど、それとこれとは別じゃないですか!」

「悪かった。パフェも付けるぞ」

「マックイーンじゃないんだから釣られませんよ、そんなもので」

 

 ぶぉんぶぉんとバイクのエンジンが鳴り響く。

 バスを待って行くよりは快適なのは、事実だった。

 しかし、アタシにとってグレートエスケープ先輩は怖い先輩というのは何も変わらなかった。

 初めて見たあの日から――ずっと。

 例え、気を使って色々と話してくれていたとしても。

 グレ先輩から振られる話題に相槌を打っていると、バスのように停留所で止まることも無く、あっというまに駅前までたどり着いた。

 

「とにかく……送って貰えたことは感謝してますけど……エアグルーヴ先輩に聞かれたら秘密にはしませんよ」

「自分から言わないでいてくれるだけでも助かる。いやぁ、最近生徒会室に仕掛けていた盗聴器がバレて大目玉を食らったばかりなんだ。流石に連続はまずい」

 

 なにをしてるんだろう、この人は。

 ルールは守るものであると教えられてきたアタシにとって、横紙破りを平然と行うこの先輩は苦手意識が拭えなかった。

 悪い人ではない? とは、思うのだけど……。

 

「付き合ってもらって悪かったな。では……この借りはいつか返すとしよう」

「はぁ……わかり、ました……」

 

 グレ先輩のバイクから降り、ショッピングモールに向かおうとしたときだった。

 パシャ、という音と眩しいフラッシュ。

 

「おぉ、あれメジロドーベルじゃね!?」

「すげえ本物だ! 写真撮っとこう!」

 

 連続して焚かれるフラッシュ。

 若い男の2人組はスマホをこちらに向けて連続してシャッターを切った。

 

「ちょ、ちょっと……撮影は……!」

「いいじゃんちょっとくらい。有名人なんだからさ」

「そーそー。ファンの要望に応えるのもスターウマ娘の義務ってやつだろ!」

「や、やめ……て……」

 

 いきなり撮影された嫌悪感と、無遠慮な態度による恐怖に対して、断りたいが上手く声に出せない。

 どうすればわからなくて、涙が滲んできたそのとき。

 アタシの顔にサングラスがかけられた。

 そして、前に背中が現れる。

 

「やめたまえ。彼女は今、プライベートの時間だ。断りもなく写真を撮るのは、常識外れではないかな」

「ぐ、グレ先輩……!?」

 

 アタシを庇うように立つのは、グレートエスケープ先輩だった。

 サングラスで少し見づらかったが、一度振り向くと、優しく微笑んだように見えた。

 

「断りもないわけじゃないでしょ! 一言言ったし。てか、別に写真くらい、いいだろ。減るもんじゃないし」

「そーだそーだ! というか、あんたグレートエスケープじゃん!」

「ああ、海外遠征して負けて帰ってきたとかいう……有名人だけど、期待を裏切っちゃったのによくでかい態度をとれるな」

 

 グレートエスケープ先輩は有名人だ。

 ついこの間、海外のレースに出走したときは多くの人々から応援されていたし、テレビ中継もされていた。

 しかし、結果は残せず7着。

 期待外れとか、メディアでも色々と言われていたという。

 そのことについてグルーヴ先輩が怒っていたのを覚えている。

 

『勝利に対する執念が欠けているだと? アイツほど勝利に飢え、努力を怠らないウマ娘など、そうはいない。それでも負けることもあるのがレースというものだ。勝手なことを言いおって!』

 

 あまり、気にしてはいなかったけど、アタシだって負けたくて負けることはないし、どんなレースも勝つつもりで走っている。

 自分やグルーヴ先輩が、そんなふうに言われたら耐えられないだろう。

 思わずアタシが言い返しそうになったところで、グレ先輩は肩を竦めた。

 

「まったく耳が痛い。私も、それを言われたらなにも反論できないな。勝たなければ意味がないのは、事実だ」

「自分で言うなら世話ないな!」

「反省しろ、反省」

「その点ドーベルちゃんはこの前のエリザベス女王杯では勝利してみせた。後輩ながら、私もウカウカしていられない。そこは君たちもわかっているだろう?」

「え、まぁ、そりゃ……」

「すごいウマ娘だろ、当然」

 

 グレ先輩は指を鳴らした。

 

「ならばこそ、彼女の写真を勝手に撮るのは許されないことではないかな? 雑誌の記者は皆、トレセン学園を通して取材し、その上で撮影している。だというのに、プライベートで便乗するというのは、いやはや――マナーがなってないどころか、価値を貶めているとすら言える」

「うぐ……」

「ぐっ……」

「君たちはあくまでファンなのだろう? ドーベルちゃんを貶めたいわけではない。ならば、撮影する前に許可を確認する姿が、ファンというものではないかな」

「す……すみません……」

「ごめんなさい……」

「謝る相手は私ではないだろう?」

 

 すると、二人組の若い男はアタシに向かって、深々と頭を下げた。

 

「わ、わ、そんな、えと……もう、やらなければ別にいいしっ……」

「メジロドーベルさん! 応援してるんで! 頑張ってください! すみませんでした!」

「自分も! またGⅠ勝つところ見たいと思ってるんで……失礼しました!」

 

 二人組の男は頭を下げるなり、逃げるように走っていってしまった。

 スピード感にポカンとしていたが、グレ先輩が機転を利かせてくれたおかげで、助かったことを思い出して、慌てて頭を下げた。

 

「あのっ、ありがとうございました!」

「構わないさ。時々マナーの悪いファンもいるが……まぁ、全部が全部そうではないから。大目に見てやってくれ」

「でも……アタシを庇ったせいで、グレ先輩が悪く言われて……本当に、ごめんなさい……」

 

 あの場で私がはっきりと断れていれば、グレ先輩が庇う必要はなく、そして悪しざまに罵られることもなかったはずだ。

 自分が不甲斐ないせいで、先輩が傷つけられてしまった。

 グレ先輩がかけてくれたサングラスの中で、涙が滲み、視界がぼやける。

 

「気にすることはない。負けた者には、相応の結果が降りかかるものだ」

「そんなことは! グレ先輩だって負けたくて負けたわけではないのに! 傷つかないはずなんか……傷ついていいわけないじゃないですか……!」

 

 悔しくて、声が涙に詰まる。

 そんなアタシに対して、グレ先輩は困ったように笑った。

 

「じゃあ――ちょっとデートに付き合ってくれないか?」

「え……?」

「なに、一人では行きづらい場所についてきてくれればいいだけさ」

 

 気づけば、グレ先輩と一緒に並んでショッピングモールを歩いている。

 なぜかアタシはサングラスをかけたまま。

 

「あの、かえって目立ってないですか、アタシ……」

「気にすることはない。みんな、私を見ているんだろう。これでも有名人だからな」

 

 肩に手をまわされ、抱き寄せられる。

 グレ先輩は背が高くて、身体が密着すると鍛え抜かれた筋肉に包まれるようで、安心感と気恥ずかしさが湧いてきた。

 

「先にドーベルちゃんの用事を済ませるといい。私がついていくと困るなら、店の外で待たせてもらうよ」

「い、いえ、困るなんて全然……」

 

 そして買い物が終わると、グレ先輩に耳元で囁かれた。

 

「今度は私に付き合ってもらうとしよう」

「は、はいっ……アタシにできることなら、なんでもします……!」

「そんな肩に力入れなくても構わんよ。少し『休憩』がしたいだけさ。二人で、ね」

 

 アタシは生唾を飲み込んだ。

 笑みを浮かべるグレ先輩は、何かを楽しみにしているかのようで、まるで取って食われるような恐怖感を何故か覚えた。

 そして連れてこられたのは――

 

「美味しい……たまにはスナック菓子と炭酸飲料ではなく、コーヒーとスイーツというのも悪くない」

 

 ショッピングモールの一画にある、スイーツカフェ。

 グレ先輩は美味しそうにキャロットパフェを頬張り、表情を緩ませている。

 

「な、なんだか意外です……あまり甘いものを食べてるイメージがなかったので……」

「そうかな? まぁ、私もこう見えて欲望に弱いタチでね。競技に参加するウマ娘でなかったら、だらしのない体型をしたウマ娘になっていたかもしれない」

「えぇ……そんなこと……」

「私にどんなイメージがあったのか、気になるところだな……」

 

 紅茶に口をつけると同時に、グレ先輩もコーヒーをちびちびと飲んでいた。

 同時にカップを置いた。

 

「初めて見たとき、グレ先輩は怖いウマ娘だと……思ってました」

 

 初めて見たのは、入学してから学園に慣れ始めたころ。

 クラスで模擬レースを行ったあと、上級生が走るということでクラスメートと見学することになった。

 そのレースで走っていたグルーヴ先輩に憧れを覚え、そして――グレ先輩の姿に恐怖を覚えた。

 模擬レースで敗戦したグレ先輩は、勝ったウマ娘を恐ろしい形相で睨んでいた。

 負けた自分が許せないのか、周囲の芝生が燃え上がりそうなほどのオーラで、そのとき私は春の陽気の中、鳥肌が立ったのを覚えている。

 模擬レースで敗北したことで、あそこまで恐ろしい雰囲気を滲みだすのか。

 そして、それと同じくらい思ったことが――負けたときに、あそこまで悔しがれるものなのか、と。

 それ以来、グレ先輩のことはずっとストイックかつ、勝利至上主義なウマ娘だと思って近寄りがたいと感じていた。

 

「でも――今日は、怖いとは思いませんでした。優しくて、お茶目で、頼れる……素敵な先輩なんだと、わかりましたから」

「ほ、褒め殺しかね。流石に照れるな……」

 

 はにかみながら前髪を弄る姿は、大人びた普段の姿からは想像つかないあどけなさを醸していて、歳の近いウマ娘であることに変わりはないんだと安心した。

 このあと、グレ先輩とたくさんの話をして、トレセン学園に帰るのにまた送ってもらってしまった。

 グレ先輩のことをたくさん知れた一日だった。

 ガレージにバイクを置きに行ったグレ先輩と別れて、寮へ戻る途中で、グルーヴ先輩と偶然ばったり、会った。

 

「こんばんは、グルーヴ先輩。遅くまで残っていたんですね」

「お、おお、ドーベルか……生徒会の仕事で、少し、な。ところで……それはなんだ?」

「それ……あっ、預かったままだった……!」

 

 アタシは目の前にかかったままの、グレ先輩にかけてもらったパイロットサングラスを外した。

 手に取ってみると、ピカピカで大切にしていることがよくわかった。

 明日、返しに行かなくては。

 

「ドーベル……まさかエスケープのものか、それは」

「え、ええ、そうです。お借りしたままで……」

「何もされなかったか? 変なことを言われたりは?」

「えっ!? いえ、むしろ助けてもらって……」

「そ、そうか。……ドーベル、ルールはルールだからな。規律は守るものだぞ」

「え……? もちろんですけど……」

 

 グルーヴ先輩の言葉に首を傾げつつ、美浦寮に戻る。

 サングラスを保管するケースを持っていないから、部屋に戻るまで額にサングラスをかけていたら、それを見たライアンとアルダンに「ドーベルがグレちゃった!」と騒がれたりもしたけど――最終的には、いい一日だと思えたのだった。

 

 

 

 ×××

 

 

 

「カナタには言うまでもないが、グレ坊。エクリプスステークスはGⅠ、当然ラビットが出てくる」

 

 兎か? 兎さんが出てくるの? なにそれカワイイ……というのは冗談だ。日本競馬は勝つ意志がないのに出走することはできないため、どこまでいっても個人戦だが、欧州はいわゆるチーム戦の傾向がある。

 その一つにラビットというものがある。

 早い話がペースメーカーであり、スローペースになりやすい欧州競馬で前残りを避けるため、レースを引っ張ったり、進路の確保や折り合いに専念するための壁になる役目の馬のことをいう。

 もちろん、露骨に進路妨害なんてすれば失格モノだが、他の有力馬を楽に走らせないようにするのも仕事だ。

 黒井先生はそれを警戒している。

 

「グレ坊、お前は賢い馬やが、だからこそ危険や。慣れない戦法、攪乱、展開……お前はそれになまじ対応しようとするから、ごちゃついて力を発揮できないことがある。今回、それは起こさないようにするんやで。ラビットに注意や」

 

 了解です先生! 俺は絶対にペースメーカーの馬のせいで自分の走りを見失う真似はしないと誓います!

 

「よっしゃ行ってこい! 欧州にグレートエスケープの名前を知らしめてくるんや!」

 

 

 

 ――とかレース前に話していたなァ。

 ニューマーケットに帰ってくるなり、馬体の検査を終えてから黒井先生、西京さん、白村、そしてカナタさんが顔を突き合わせていた。

 

「カナタ、今回の敗因はなんや」

「少し控えさせたのが裏目に出ましたね。先行してもいける馬なので、2番手で窺おうとしましたが、途中からしばらく力んでいました。最後は頑張ってくれましたけど、脚が残っていませんでした」

 

 俺に言い訳をさせてもらえるなら、未経験が故の敗戦と言いたかった。

 今回は出たなりにポジションをつけてレースを進めるというもので、カナタさんに一任されていた。

 そして絶好のスタートを決めた俺はハナを立とうとスピードを出したのだが――

 

「いくぜェーッ、ぐえっ!?」

 

 ――カナタさんに手綱を引かれて制される。

 控えて2、3番手というところでレースを進めることになったが、先頭の馬がいわゆる他の陣営のペースメーカーだった。

 俺としてはさっさとハナを奪ってしまえばよかったんじゃないのかと思ったが、カナタさんの勝負勘がそうではないと考えたのだろう。

 それに従い、2番手をとるが、レースは想定よりスローペースで流れて行った。

 だがこれはこれで都合がいい。

 ある程度リードをとった状態で、直線で末脚を発揮させる。

 逃げ馬の勝ち方の定番であり、俺にとっても文句なしの勝ち方のそれ。

 ポジションを押し上げるために俺は脚に力を込めた。

 

「よっしゃいグエーッ!?」

 

 だがしかし、再度止められてしまう。

 このままじゃただのスローペースではあるが、後ろの馬と並んだ状態で直線を迎えてしまう。

 スタミナとパワーがモノをいう欧州競馬といえど、末脚勝負となるとやはり分が悪い。

 カナタさんも、それはよくわかっているはずだ。

 天皇賞・春はスローペースで俺が逃げ切って勝ったのだから。

 しかし先頭に立とうとしても、抑え込まれたまま。俺はペースを乱してしまい、直線では体力を切らして大敗してしまった。

 

「ラビットにかかってしまったか……? これも競馬やから、こういうことはあると思うが」

「グレ坊は頭が良すぎて、他の馬を気にしすぎてしまうんですよ。そういう意味でも、逃がしたほうがやはりいいのでは?」

「いえ――今日の敗戦は織り込み済みです」

 

 考え込む黒井先生と、白村にそう言ったのは、カナタさん。

 

「キングジョージは恐らく少頭数でのレースになります。そうなると逃げて勝つのは難しくなります」

「確かに……標的にされやすくなるし、後ろから突かれるやろな。つまり、今日はわざと控えさせたのか?」

「少なくとも、逃げるつもりはなかったですね。控えてどこまでいけるか、その判断をするために走りました」

 

 なんだ、この違和感は。

 

「……うん? まぁ、それはわかるんですけど……滝騎手、それだと――」

「流石、滝カナタや。先を見据えてよくやってくれている。今のうちにもっと話したいわ!」

「え? 先生、あの、滝騎手のことなんですけど」

「白村ァ! お前はトップジョッキーにアヤつけるんか!? お前にはお前の仕事があるやろ、向こうに行っとき!」

「ちょ! なんでですか! まって、西京さん引っ張らな……力強ッ!?」

 

 白村の言葉が封殺される。彼も違和感を覚えているらしいが、黒井先生の鶴の一声で反論の余地はなくなった。

 それどころか、西京さんが白村の首根っこを掴んで引っ張っていった。

 あいつ本当不憫だな。

 

「……カナタ、ここにいるのはグレ坊と、俺だけや。ここからは腹を割って話そうや」

「……本当、敵わないですね。ちなみに、控える競馬を覚えさせようとしたのは、全部が嘘じゃないですからね」

「当たり前や。逃げ一辺倒の馬に育てた覚えはないが、欧州でも控えた競馬ができるようにすべきやと思っていたからな。馬やない、お前の話や」

 

 ――滝騎手の話?

 とはいえ、レースと、その後のカナタさんの振る舞いには違和感が多くあった。

 まずレース中――もちろん、控えた競馬をするのはわかる。超ハイペースなのに逃げて逆噴射するなんてアホなことこの上ない。

 実際、先行して勝ったレースもたくさんある。

 だが、今日のレースは早い段階でポジションをとりに行くべきだったが、カナタさんは中々ペースを上げなかった。

 そしてさっきの会話。

 カナタさんは俺が逃げる、或いは早めに先頭に立つレースが合っていることをよく理解している。

 だというのに、逃げるつもりがなく、それでいて早めに先頭に立つことはしなかった。

 直線でスパートをかけるようなレースは合わないというのに。

 

「カナタ。単刀直入に聞く。……お前、逃げ馬に今乗れないとちゃうんか? いや、厳密にはレースで逃げられないんじゃないのか?」

 

 ――!?

 どういうことだ。

 俺は驚きのあまり、馬房から身を乗り出しそうになった。

 淡々と語り出すカナタさんからは、感情を押し殺した匂いがした。

 

「――ええ。俺は今、レースで逃げられません。厳密に言うと、レースを引っ張る馬がいなくて、自然と前に押し出されれるような展開は問題ありません。ただ、意識してハナをとり、先頭でレースを進めることができなくなっています」

 

 嘘だろ、と叫び出しそうになるが、今日のレースを考えると、一番納得いく答えだった。

 その原因は、時を経ずにすぐ思い至った。

 

「サイレンススズカか」

「……はい」

「いつからや」

「自覚したのは――今日が初めてです。自分で気づいてから、あのときからずっと、逃げていないことに思い至りました。僕は良い馬を回してもらえるので、勝利するのはもちろん、競馬を覚えさせるということも多くやります。GⅠでもない平場では、安易に逃がさず、控えて競馬を覚えさせるということがありますから、今までずっと気が付きませんでした。思えばずっと、無意識に避けていたんですね」

 

 カナタさんは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 ここで悲しみではなく、悔しさを浮かべる姿はまさしく勝負師が故なのだろう。

 日本競馬における一番の勝負師が、苦しんでいた。

 

「前走では逃げていたやないか。あれはちゃうのか」

「あのときは相手関係も苦しくなかったですし、逃げ馬もいなかったので自然と前に出れましたからね。今思うと、仕掛けにかなり余裕を持っていました」

「そうか。参ったな……ホンマに、参った」

「……すみま――」

「謝るんやない。騎手の乗り替わりは常なのはお前もよくわかっとるはずや。そこで謝ったら、いつまでもこのことを引きずることになる」

 

 ……え。

 ちょっと待って、また乗り替わり!?

 それは嫌だ! 困る! 欧州の慣れない環境で走る以上、少しでも息の合った騎手に乗ってもらいたいし、連携を密にとった上で俺は走りたい。

 だというのに欧州のジョッキーとかに乗り替わったら、これまでの通りのパフォーマンスを発揮できるかわからない。

 綻びは、ロンシャンやアスコットの直線残り50mのような土壇場になって現れる。

 ケンちゃんが乗れない今、カナタさんから別の騎手に乗り替わって勝てるような世界ではないはずだ。

 俺は抗議も兼ねて、カナタさんの袖を噛んで捕まえようとして、届かず未遂に終わった。

 そんな俺を黒井先生は見ていた。

 

「カナタ、グレ坊に乗りたいか?」

「……もちろん、乗りたいです。ジョッキーの夢である、キングジョージと凱旋門賞に手が届く馬ですから」

「じゃあ決まりや。カナタでいく」

「えっ!? いえ、ありがたいことですが……いいんですか?」

「いいわけあるか! いいわけあらへんわ……カナタを下ろした方が勝率が下がる……それだけのことや」

 

 黒井先生……!

 俺は礼をするつもりで頭を下げた。

 

「ただし! あくまでグレ坊優先や。乗り変わる方が勝率がいいと思ったら変えるで。せやから……キングジョージまでになんとかするんや!」

「はいッ!」

 

 そして迎えた調教の日。

 土日は日本で競馬に乗り、平日はニューマーケットに来て調教に乗るというハードスケジュールでカナタさんは調教に乗りに来ていた。

 エクリプスステークスからキングジョージまで3週間、つまり中2週で挑むことになる。

 追い切りは1本も無駄にできない――しかし最初の追い切りでは、あっさりといいタイムで終えてしまった。

 何も問題はなく、スムーズに併せ馬を行い、スパートをかけた。カナタさんの乗り方に不満もない。

 ……よく考えたらレースでできないことを、調教で解決できるわけなかったわ!

 

「滝騎手、どうでしたか?」

「白村さん……いい走りだったねぇ。よくスピードがない、とか言われるけど、偏見だね。スタートからちゃんとダッシュできるし、ハナをとる先行力もある。スピードなかったらGI勝てないしね。強いて言うなら、加速力が他より鈍いけど、相対的なものだから」

「そうなんですよ。トップスピードに乗るまで時間はかかりますけど、トップスピードになってからの維持はすごいんです」

「なんだかマックイーンを思い出します。毛並みや体格は違いますけど、心肺機能が優れていますし。やっぱりステイヤー気質ですよね。あと、顔がいい。強い馬はみんな良い顔してますよ。人間だったらモテたでしょうね」

「ははは、ハンサムなのは入厩したときから言われてましたから。我々も最初は菊花賞はとれるんじゃないか、と思ってたんですけど……2歳の年末に2000mで勝ったでしょう? 三冠を意識しましたよね……」

「僕が乗ってたら三冠とれたかもしれませんよ?」

 

 のんびり話してる場合かぁーッ! 嬉しいけど!

 俺がぶるりと身を震わすと二人は少し慌てた。

 

「あ、梶田騎手のことが好きだから怒ったのかも」

「賢い馬ですよね、本当に」

「ええ、まったく」

 

 ちがーう!

 そんな和気藹々と話していてどうするっていうんですかぁーッ!

 俺はなぜかのんびりしている二人に怒りたくなった。というか、怒った。そうしたら、白村があちゃーとでも言いたげな表情を浮かべた。

 

「うーん、やっぱり我々の気配に感付いているのかもしれませんね……焦りが伝わっているのかも」

「やっぱり馬は敏感ですからね……ごめんなグレートエスケープ……ストレスだよな」

 

 うん? うん……?

 あっ、そういうことか。

 俺は二人の態度を理解すると共に、申し訳ない思いでいっぱいになった。

 二人は俺を気負わせないために、あくまで自然体で振舞っていたに過ぎなかったのだ。

 すみませんでした生意気言って……。

 

「あ、大人しくなった」

「甘えん坊なんですね」

 

 とはいえ、逃げができないとなると苦しくなるのは事実。

 まずなぜ逃げられないのか、そこから考えよう。

 来週は最終追い切り。そこを終えたらカナタさんが俺に乗る機会はレース当日まではない。

 しかし、どうしたものか。

 調教を終えるなり、バトラーが出迎えてくれた。

 

「グレ様。このあとはシャワーの時間でございます。その後にブラッシング、削蹄、蹄鉄の打ち替えがあります。朝食はその後となっております。午後に身体検査、マッサージを予定しています」

「ありがとうバトラーさん……ふぅ」

「お疲れのようですね」

「調教後だから……それと、悩みがあって……バトラーさん、質問というか、愚痴でもあるんだけど、いいかな」

「しがない老馬でよろしければ」

 

 俺はかいつまんでバトラーに話した。

 騎手のカナタさんが上手く乗れないこと、どうしたら克服できるのかを考えていること――口にすることで情報が整理されるというが、解決策は思いつかなかった。

 バトラーは「ふぅむ」と唸った。

 

「老いた競走馬の戯言と思ってくだされば……かのサイレンススズカ様と、グレ様は別の馬でございます。それを理解してもらうしかないのではありませんか?」

「その通りなんだけど、頭で理解していても、心というものは上手く操れないものだからなァ……」

「いやはや、爺には難しい話題でしたな。そもそも、この老骨は逃げようにもレースについていくのが精一杯でして。前を走れませんから、羨ましい限りでございます。懐かしいですなぁ……逃げて強い馬が同期にいまして。そんな馬がGⅠを勝つのだろうと思っていましたが、その馬は後に皐月賞、日本ダービー両方を制しました。グレ様やスズカ様のような、快速ぶりは爺の眼には眩しく映りますね」

「へー、そうだったんですか……ん? スピード……スピード、かぁ」

「グレ様? なにか名案でも思いつきましたか?」

「ああ。バトラーさん、助かったよ……次の追い切りでは少し危険な賭けをするけども……」

「賭け、ですか?」

 

 不思議そうに首をかしげるバトラーさんに、俺は笑みを浮かべるだけだった。

 そして、迎えた最終追い切りの日。

 この追い切りを終えれば、いよいよキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを迎える。

 天才ジョッキー、滝カナタはいつも通りの優しそうな表情で、俺の前にやってきた。

 

「しっかり走ろうか、グレートエスケープ」

 

 いつもだったら顔を押し付けて、甘えたりするが――今日の俺はハードにいく。

 優しくて言うこと聞くグレートエスケープじゃないぞ。

 

「……?」

 

 眼光を飛ばしてカナタさんを睨みつける。

 彼はまだ、スズカのことを引きずっているからこそ、競馬で逃げることが出来ない。

 だが俺は違う。

 俺はサイレンススズカじゃない。

 俺はグレートエスケープだ。

 似ても似つかないことをよく理解してもらわないと困る。

 ついでに、俺の方がイケメンだ。

 

「なんだかグレートエスケープはいつもと違いますね」

「……レースが近づいてピリピリしとるんやな」

 

 黒井先生は俺をチラ、と見ると、ため息をついた。

 

「体の出来は先週でほぼ万全や。今回は……疲れすぎないことと、怪我をしないことさえ守りさえすれば、それでええわ」

 

 そう言う表情は半ば呆れているようだった。

 なんだか先生だけは、俺がやろうとしていることに気がついているらしかったが、止めはしなかった。

 カナタさんが俺に跨る。

 

「……馬なりや。今日は馬なりにロングヒル(7ハロン)を走ってこい。カナタ、馬に任せるんやで」

「え、ええ。わかりました……行こか、グレートエスケープ」

 

 コースへ向けて歩きながら、カナタさんは苦笑いを浮かべていた。

 

「調教もあんなに念入りに言われるなんて、信用されなくなっちゃったかな……」

「そういう訳では無いと思いますけど……」

 

 白村が俺を引きながら答えた。

 調教コースに着くと、そのまま走り出した。

 ――カナタさん。貴方がサイレンススズカとの記憶が原因で、前に踏み出せないというのなら。

 俺が無理やりにでも前に引っ張ってやる。

 貴方には、ケンちゃんの代わりに初めてキングジョージと凱旋門賞を制した騎手になってもらわないといけないんだから。

 

「ん……ッ!? ま、待って!」

 

 流石にトップジョッキー、こちらに気づくのが早い。手綱を思い切り引いて、俺が走り出そうとするのを止めた。

 だが、無駄だ。

 今日の俺は、ちょっと引っ張られて苦しいくらいじゃ、止まらない。

 俺はニューマーケット調教場の長いコースを全速力で走り出した。

 緩やかで長い坂路だからスピードの持続には限界があるが、5ハロンだけを全力で走ることは可能だ。

 

「と、止まれッ、止まれって!」

 

 手綱を引かれ、左右に首を向かされ、上に釣り上げられようと、構わず真っ直ぐに走る。

 流石にジョッキーだけあって落馬するようなことはなさそうだ。

 俺は一度ジャンプすると、手綱が緩んだすきに咥えて奪い取った。

 

「あッ!」

 

 カナタさんが叫ぶが早いか、俺は坂路を、調教ではありえないスピードで駆け上がった。

 

「や、やめろっ」

 

 聞こえねぇ。

 

「こんなスピードで走り続けていたら、故障してしまう!」

 

 聞こえねぇ!

 

「やめてくれッ!」

 

 聞こえねえっての!

 1ハロンを超えた頃にはまるで、あのときのアイツが前を走っている――そんな、影が見えた。

 

「スズカッ……」

 

 カナタさんがその名前を呼ぶと、俺はありったけの力を込めて、前に脚を踏み出した。

 

「俺を見ろッ!!」

「――!?」

 

 俺の背中に、まるで初めて馬に乗った少年のようにしがみつくトップジョッキーが、顔を上げたような気がした。

 

「俺はグレートエスケープだ! サイレンススズカじゃねえッ! 俺をぶっ壊すかもしれない? 舐めんな! 俺はサイレンススズカよりも強いんだ、スズカが怪我しても、俺は怪我しないんだよ!」

 

 所詮は馬の戯言、否、嘶きに過ぎない。

 ましてや走りながらでヴヒヴヒ息を切らしているから、言葉にすらなっていないだろう。

 それでも俺は叫んだ。

 

「本当にサイレンススズカより強いか、試せるのはアンタくらいじゃないのか? 悔しくはないのか! もしも怪我しなかったら、グレートエスケープにサイレンススズカは勝っていたと、言いたくないのか!」

「ッ……!」

「俺を全力で走らせねえと、それすらも言えねえだろ! 走らせてみろ、滝カナタッ!」

 

 調教コースの半ばまで走ってなお、滝カナタは俺にしがみついていた。

 決して離さないとしがみつき、まるで何かに祈っているかのようだった。

 

「……いいのかな」

 

 風を切る中で、声がした。

 涙で滲んだ、聞き取りづらい声だったが、確かに聞こえた。

 

「俺……いいのかな……グレートエスケープ……君を全力で走らせても……いいのかな……!」

 

 今にもへばって立ち止まりそうになりながら、場違いなほど、軽やかな笑いが零れた。

 

「いいんだよ――貴方が走らせなかったら、誰がいるんだ。もう、自分を許しても、いいじゃないか」

 

 その瞬間、咥えていた手綱をひったくられ、手綱が引かれた。

 急ブレーキではない。

 この手応えは、減速し、折り合うためのもの。

 ようやくか。

 俺は指示に従い、スピードを緩めて走った。

 そして、息を入れた。

 

「いこうか――グレ」

「――! もちろん……ケンちゃんを嫉妬させてやってくれよ」

 

 鞭は要らなかった。

 再加速すると、俺は矢のように残りのコースを駆け抜けた。

 鞍上で、カナタさんが呟く。

 

「ああ――彼とは、全然違う景色だ」

「――当たり前だろ」

 

 最終追い切りは、最もあっという間に、終わったような気がした。

 

 〇〇〇

 

 調教を終えて厩舎に戻ると、白村が飛んできた。

 

「グレ坊どうしちゃったんですか!? あんなにエキサイトしちゃって……!」

「いやぁ、喧嘩してました」

「喧嘩ァ!?」

 

 カナタさんがあっけらかんに言うと、白村は目を剥いた。

 男の会話、喧嘩だな。うん。

 遅れて、黒井先生が来た。

 

「カナタ、キングジョージはどうや。勝てそうか」

「競馬に絶対はありません。ですが……負けたら、僕は騎手をやめます」

「えッ!? い、いや、比喩ですよね!?」

 

 白村が慌てる。俺も少し慌てた。

 しかし、カナタさんと黒井先生だけは身動ぎひとつしなかった。

 

「……本気やな」

「本気です。健二からこれだけの馬を託されたんです。そして、この馬には、命懸けで助けられましたから……その覚悟で挑ませてもらいます」

「スペシャルに乗ってグラスワンダーに負けたときの、飄々さとは全然ちゃうな」

「あれ、かなり悔しかったんですよ?」

「当たり前や」

 

 本気なのか。

 何もそこまで焚きつけるつもりはなかったんですよ、ただ元のように走らせることができたなら、それでよかったんです。

 なんて言い訳しても、もう通じない。

 何がなんでもキングジョージを勝たなければ。

 俺に負けられない理由が、またひとつ増えたのだった。

 

 〇〇〇

 

 世界の競馬で、最高峰とされる格を持つレースはいくつもある。

 アメリカのブリーダーズカップ・クラシック。

 これはダート世界一を決める戦いだ。

 アラブのドバイワールドカップ。

 これは比較的歴史の浅いレースだが、優勝賞金約700万ドル(約8億3000万円)という破格の賞金があっという間に世界最高峰のダートレースに押し上げた。

 イギリスのダービー。

 エプソムダービーともいわれ、ダービーの中でも更に格があるとされる、欧州のホースマンの夢だ。

 そして――フランスの凱旋門賞と、イギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス。

 共に欧州で古馬と3歳馬が、クラシックディスタンスで激突するレースだ。

 そこに俺は挑むことになる。

 パドックには西洋系の顔立ちの人がたくさんいるが、その中にも日本人が多くいて、口々に俺への応援を発していた。

 

「日本のファンは随分と来てますね」

「調教師冥利に尽きるわ。こりゃ、負けられんわな」

 

 欧州の競馬はパドックが短いから好きだ。

 パドックが嫌いなわけじゃなくて、変な馬に絡まれることが多いからなんだけど。

 周囲を見回すと、俺を除いて8頭ではあったが、背中が冷たくなるようなオーラを放つ馬たちがいる。

 

「流石に強敵が多いな」

「ええ……強いのもたくさんいますね」

 

 まず黒井先生が指差してから、馬をそれぞれ説明していく。

 

「1番人気がオース……今年のイギリスダービー馬や」

「その後ろにいるのが、ダリアプールですね。イギリスダービー、アイルランドダービーをそれぞれ2着……斤量は5kg差ですからね、実績のある3歳馬は人気になっていますよね」

「2番人気はデイラミや。ここまでGⅠ4勝、前走のコロネーションで勝利して勢いに乗っている」

「あ、インディジェナスも出てるんですね」

「香港最強馬やな。相手に文句なしや」

「グレ坊は3番人気ですか……エクリプスステークスはちょっと負け過ぎましたね」

「人気なんてどうでもええわ。1着だけやぞ、カナタ」

「もちろん」

 

 俺は俺で、共に出走するメンバーを見ていた。

 その中に一頭だけ、圧倒的な貫禄を漂わせている馬に近付いて行った。

 

「……よろしくな、イギリスは慣れなくてさ」

「キミは確か……日本とかいう国の馬だったか?」

「グレートエスケープという。君は、デイラミだな」

「ああ、そうだ――日本でエリシオやピルサドスキーといった馬たちが負けた相手……それが君だったな」

「知ってたのか……?」

「少しだけさ。ただ、思い出はあった方がいいだろう?」

「思い出?」

「歴史的名馬に名を覚えてもらえている、という思い出だ。日本という狭い場所で王者を気取る狗が、獅子に挑もうとしているのだから、その程度の喜びを与えてやらねば、と思うわけだよ」

 

 思わず、俺は笑ってしまった。

 デイラミと名乗った葦毛の馬は、面白くなさそうにムッとしている。

 何がおかしい、と詰られるが、俺はなんだか爽快な気分だった。

 

「元々いた日本では、そんな風に正面から挑発してくるやつが少なくてな。どいつもこいつも、頭がおかしいんじゃないか、そう思う奴らばかりだった」

 

 いわずもがな、サンデーサイレンス産駒どもである。

 気づいたら日本からこんなに離れた土地で、あいつらを懐かしく思うことがあろうとは、予想だにしなかった。

 あいつらみんなどうしているだろうか。

 レースで鎬を削った奴らだが、今も走っている奴はだいぶ少なくなってしまった。

 頭がおかしいのと同じくらい、おかしい脚を持っていたり、心肺機能を持っていたやつがいた。

 外敵のいない島で、食物連鎖の頂点を気取る狗――そう言われて、黙ってはいられない。

 

「そういう、頭がおかしいやつとずっと戦ってきたんだ。

 ――あまり無礼るなよ、野良猫が」

「少しは、骨がありそうだ。痩せ細った狗が噛むような、寂しい骨だが」

 

 

 

『皆さんお待たせいたしました。XX99年は、日本の競走馬が欧州競馬に日本旋風を巻き起こそうとしています。去年はシーキングザパールが、タイキシャトルが、マイルや短距離で見事勝利を掴んで見せました。今年は、王道たる中距離路線に飛び込んだ馬が2頭います。フランスにエルコンドルパサー。イスパーン賞で2着のあと、サンクルー大賞で見事優勝し、次はフォワ賞から、最高峰のレース、凱旋門賞へ挑もうとしています。そのエルコンドルパサーに先んじて、アスコットで開催されるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスというイギリス最高峰のレースに、挑もうとする馬がいます』

 

 流石、競馬の本場であるイギリスで開催される最高峰のレースだけあって、観客がたくさんだ。

 熱気は日本には劣るが、注目度は段違いだ。

 

「グレ坊。世界を獲りに行くで」

 

 黒井先生は不敵な笑みで俺を送り出した。

 カナタさんはいつも通り、というには少し表情が硬い雰囲気をまとっていた。

 緊張しているのかもしれない。

 俺は少しだけ前脚を上げて、びっくりさせてみた。

 

「うわ!? ……いや、ごめん。緊張が伝わったかな。せっかくのキングジョージだもんな……楽しまないと」

 

 ちょっとだけ雰囲気が軽くなった。

 気合い入れるにはこれが一番なのは、ケンちゃんとの日本ダービーから走ってきて、よく理解していた。

 カナタさんが俺を撫でた。

 

「……ジョッキーはあくまで馬に乗ってくれと頼まれるしかない。だからトップジョッキーであれば、いい馬は集まってくる」

 

 ほかの馬がゲートに入る。

 俺も係員の誘導に従ってゲートへ収まった。

 

「俺は、サイレンススズカのような馬にまた出会ってみたい。そのためにトップで居続けなければならないんだ。だから、グレ。俺をトップジョッキーでいさせてくれ」

 

 これほどの騎手を、ここまで惚れこませるのか。

 俺は嫉妬を通り越して感嘆の念を、サイレンススズカに抱いた。

 しかし、サイレンススズカのような馬――か。

 このレースが終わったとき、カナタさんはこう思うだろう。

 

「グレートエスケープのような馬にまた出会ってみたい」と。

 

『最後に9番のデイラミがゲートに収まりました。3歳時はマイル路線を走り、去年からは古馬路線に参戦。今年は充実の一途を辿っています。キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、今スタートしました! 1番のグレートエスケープは好スタートを切りました!』

 

 ゲートが開くと同時に、ぽんと飛び出してハナを奪った。

 絶好のスタートだ。

 あとは鞍上に任せて、走るだけ。ブリンカーもつけているしな。

 

『日本のグレートエスケープがハナを切りました! やはりこの馬が逃げます。次にダリアプールとネダウィ、ネダウィはドバイシーマクラシックで2着でした。4番手にデイラミです。芦毛の馬体。その後ろにオース、フルーツオブラヴが続いて、香港最強馬インディジェナスがいて、その外にシルヴァーペイトリアーク、最後尾にサンシャインストリートとなっています』

 

 レースは淡々と流れていく。

 誰も俺を突く真似はせず、自らの仕掛けどころを待っている。

 

『コーナーを回ってグレートエスケープは折り合って先頭をキープしています。最終追い切りでは暴走したという噂も流れましたが、滝カナタ騎手と黒井調教師は、万全だと答えました。その答えが今日出るんでしょうか』

 

 流石欧州の芝生だけあって、踏み出す度に力がいる。でこぼこしているし、アップダウンも激しい。

 日本のコースに慣れていたら、足が絡め取られてスっ転びそうだ。

 良馬場だからいいものの、重馬場、不良馬場だったらどうなっていたことか。

 それ以上に、後方からのプレッシャーが桁違いだ。

 プリンスオブウェールズステークスは、そこまで感じなかった。

 エクリプスステークスはそれどころじゃなかった。

 流石はイギリス最高峰、いや、世界最高峰。

 ただ走るだけでも消耗していきそうだ。

 

『第4コーナーに入り、後続がペースを上げてきました。イギリスのダービー馬オースが上がっていきます。グレートエスケープは依然先頭で直線に入りました、グレートエスケープ先頭!』

 

 ここまでのレース運びは完璧だ。

 スタミナの消耗はあるが、それはほかの馬も同じで、あとは俺がどこまで溜めてきた脚をぶちかますことができるか、だ。

 

『滝カナタの手が動き出した、ゴーサインが出たか。グレートエスケープ先頭、後続に2馬身の差がついて、外からデイラミが上がってきた! デイラミが上がってくる! グレートエスケープが逃げる、グレートエスケープ頑張れ!』

「――やぁ、随分早い再会だったね!」

 

 来た。

 今日のメンバーで1番の化け物みたいなオーラを醸し出している奴が。

 

「うるせえっ、どっか行け!」

「行くとも……私が前に、ね!」

「間違えるなッ、俺が前、お前は後ろだ!」

 

『グレートエスケープとデイラミが並んでいる、並んだまま後続に5馬身の差をつけている! 完全に2頭のマッチレースになった! 欧州最強か、日本最強か、日本競馬は欧州に立ち向かえるのか! すぐに答えが出ます!』

 

 デイラミが並んでくる。

 凄まじい馬力とオーラはまさに欧州最強格といっても過言ではない。

 だからこそ、こいつに勝ちさえすれば、俺が最強だと名乗れるというものだ。

 

『ああっ、デイラミが並んだ! 並んで、デイラミが――いや、抜かせない! もう一度グレートエスケープ! もう一度グレートエスケープ!』

「……! 早く落ちろ、痩せ狗!」

「並ばれた俺は、負けねえんだぜ、野良猫!」

「田舎モノが私に勝とうなどと――!」

「田舎モノが勝つ物語は、全世界で大人気だろ!」

 

 ぴったりと並んだまま、残り200メートルを迎える。

 馬体がびっしりと重なり、馬を追う度に、鍔迫り合いのようにジョッキー同士の体と、馬体がぶつかりあった。

 

「これは進路妨害だろ野良猫!」

「君が斜行しているんだよ痩せ狗!」

 

 既にお互いの息は限界寸前で、あとは悪態をついて闘志を燃やしているような有様だった。

 

『デイラミが僅かに前に出たか、グレートエスケープも全く譲らない! グレートエスケープが先頭か、デイラミがまた伸びる! アスコットの死闘に大歓声が上がっています! いけ、グレートエスケープ! あと100だ!』

 

 残り100mへ到達した瞬間、熱気で蕩けそうだった脳みそが急激に冷え込んだ。

 戦場の数は24、そして総計55300mに及ぶ道のりを越えてきた経験が、冷酷にこの先の展望を照らし出した。

 

 勝てない――!

 

 弱気の虫でも、謙遜でもなく、これまでの経験が導き出した、絶対の答えだった。

 このまま100mをお互い全力で走り、ゴール板を迎えた瞬間に首の上げ下げの差で俺はデイラミに惜敗する残酷な未来が、投影されている。

 ここまで走ってきたのは2400mだというのに、1m足らずの差で負けが決まる。

 これまで積み重ねてきたレースだって、55300mにも及び、調教も含めたらさらに多くの距離を走っているのに、1mの差で負ける――。

 

(いいや、その答えは断じてノーだ! 俺が出すべき未来はこうだろ!)

 

 首の上げ下げの差をひっくり返せば、俺が勝つ!

 

(考えるべきは、そっちのはずだろ……!)

 

 最後まで俺は足掻いてみせる。

 俺は最後に手前を変えて、力を振り絞ろうとした刹那、声が聞こえた。

 

「あと8完歩、我慢するんだ」

(え――?)

 

 疑問に思っても、体の反応は思考速度を凌駕し、変えそうだった手前をそのままに、走った。

 1完歩、2完歩、3、4、5、6、7――

 もう、ゴールは50m先に迫ったその時、鞭が肩に入った。

 これは手前を変えろという合図。

 俺は半ば無意識に、手前を変えた瞬間に、カナタさんの意図を理解した。

 

(リズムが変わった……そういう、ことか。そういうことが……できるのか……!)

 

 ジョッキーは誰しも、こんなことができるのだろうか。

 俺は驚きを通り越して、ため息が漏れた。

 

(ケンちゃん。この人を超えるのは――並大抵の努力じゃ、敵わなそうだぞ)

『グレートエスケープとデイラミが並んでいる! 首の上げ下げ、首の上げ下げ! 内グレートエスケープ、外デイラミ、頑張れ日本、頑張れグレートエスケープ! グレートエスケープ! グレートエスケープ! 抜け出した、抜け出した! アスコットの監獄から、大脱走を決めたのは、グレートエスケープッ! ついにやった、日本競馬が、グレートエスケープが、クビ差逃げ切りました! まさに大脱走! キングジョージを制したのは、グレートエスケープです! やった日本、やったグレートエスケープッ! 鞍上滝カナタは何度もガッツポーズ!』

 

 最後の最後、首の上げ下げの差で、俺はデイラミに先着した。

 首の上げ下げの差を理解し、手前を変えさせることでそのタイミングをずらすという絶技――この土壇場の場面で行って、成功させるとは。

 騎手が変われば、残り50mの土壇場でボロが出ると言っていたが、大当たりだ。

 騎手が変わらなかったことで、残り50mの土壇場で誰にも気づかれないが、誰にも真似できない絶技が披露されたのだ。

 

「勝った、勝った、勝った……! やった……!」

 

 鞍上で何度も拳を握る姿は、まるで子供のようだ。

 そんな姿を見て、なんだか微笑ましい気分になっていると、大歓声が俺に浴びせられる。

 すると、次第に沸々と喜びが湧きあがってきた。

 

「ふぅ……よっしゃーッ!」

 

 思い切り、嘶いて、アスコット競馬場に響き渡らせる。

 男として戦いの場に上がり、そしてたどり着いた世界最強の称号は、身と心を震わすほどに重く、熱いものだった。

 

「……ねえ。君の名前を、教えてくれないか」

 

 つい先ほどまで、デッドヒートを繰り広げていたデイラミが歩み寄ってくる。

 その目に灯る光に嘲りの色はなく、純粋な戦士の眼だった。

 

「グレートエスケープ。日本のダービー馬だ」

「グレートエスケープ、今日は私の負けだ。文句なしの、敗北だ……次は凱旋門賞だろう?」

「ああ。凱旋門賞だろうな」

「もし、お互いがレースに出られたら、そこでリベンジをする。必ず……!」

「望むところだ。次も負けないからな」

 

 

 

 本馬場を出ると、黒井先生たち、厩舎スタッフが俺たちを出迎えた。

 

「カナタよくやった! グレ坊もよくやった!」

 

 俺から降りたカナタさんは先生の熱い抱擁を受け、その直後に俺も彼の抱擁を受けた。

 黒井先生は俺とカナタさん以外にも、白村や、西京さん、同行していたスタッフみんなとハグしていた。

 ここまで大きく喜ぶ姿は見たことがなかったが、黒井先生にとっても海外GⅠ、それもキングジョージという欧州最高峰のレースのひとつを制することができたことが嬉しいのだろう。

 

「GⅠ7勝目、これであの皇帝、シンボリルドルフに並んだな!」

「そうですね。しかもキングジョージを勝って、並びましたから……名実ともに日本競馬最強馬じゃないですか?」

「こいつ負けも多すぎるがな! だがここまで無事に走って、栄光を掴んでくれたことが嬉しいわ」

 

 黒井先生が俺を撫でる。

 優しい手つきに、目を細めて受け入れながら首を上下に振った。

 ここまでこれたのは、厩舎のみんなと黒井先生の調教があったからこそだ。

 俺が今、幸せに過ごせているのは、みんなの力無しではありえなかったのだから、こうして結果を残せたのが嬉しい。

 

「次は凱旋門賞や。不安もあるけどな」

「ああ、凱旋門賞の時期は雨が多いですからね。重馬場、不良馬場が苦手なんですよね、グレートエスケープは」

「せやな。まぁ、多少の雨なら克服できるけどな」

 

 その通りだ。

 よっぽど柔らかい馬場になればともかく、多少湿ったくらいでは、今の俺はそう簡単に負けはしない。

 ここから凱旋門賞までおよそ3か月、じっくり身体を仕上げていこう。

 

「ゆうて、不良馬場になるほどの雨は降らんやろ。そこまで降られたら、運がなかったということや!」

 

 

 

『パリでは記録的な豪雨が続いています! 幸い凱旋門賞の日には止むそうですが、ロンシャン競馬場の馬場は相当柔らかいと発表がありました!』

「なんでじゃ……なんでじゃーーーー!!!!」

 

 ニューマーケットのアビントンプレイスで、俺の叫び声が響き渡った。




ケンちゃん「主戦騎手、俺だよね???」
主治医「主治医です」
ケンちゃん「アッハイ、リハビリ頑張ります……」


〇ウマ娘ワールド
・メジロドーベル
 サングラスは返すタイミングを失ったが、その後も人が多いところに外出するときは、持っていくようにしている。お守り代わりになった。

〇競走馬(ウマムスキー)ワールド
・今週の被害馬「デイラミ」
 3歳時はマイル路線で活躍し、古馬になってからは中距離路線で活躍。3歳クラシックを制覇したらすぐ種牡馬入りする馬が多い中で、5歳になってから本格化した1990年代最強クラスの古馬。史実では後続に5馬身の差をつけ、キングジョージを制した。

・最終追い切り
 日本にニュースで「グレートエスケープ、大暴走!」と報道された。ちなみにその後のインタビューで滝騎手、黒井調教師共に満足気だったので不安に思うファンが多かったが、勝利後はみんな納得した。

継続して活動報告でアンケート実施中です。ぜひお答えください。返信は遅れていますが、すべて読ませていただいております
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=266344&uid=37842
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。