そして迎えた凱旋門賞。グレートエスケープの運命は如何に。
「オードヴルのアボカドとエビのカクテルソースでございます」
「merci(ありがとう)」
運ばれてきたオードヴルは、食欲をそそらせる、見事な色合いで飾られていた。
食前酒――は、学生たる私には飲めないので、ノンアルコールのキャロットカクテルが振る舞われた。
気分はフランス貴族だ。
「美味しい……やはりフランスに来たら食べねばなるまい……フレンチのフルコースは」
対面の相棒は観光じゃないけど、と小言を言ってくる。
流石にフランスのGIに出走するだけあって、ちょっと緊張しているらしい。
「緊張しても仕方ないだろう。走るのは私なのだから」
「エッちゃんは緩みすぎだと思うけど」
隣からも声をかけられた。
ルームメイトのダンスパートナーさんだ。当初は相棒と私でフランスに遠征するはずだったが、ナーさんが心配していたため、ついてきてもらったのだ。
理事長も「友情ッ! 慣れない国ならば、気心の知れた友といることはレースにもいい効果があるだろう!」と許可をあっさりくれたので。
ちなみにナーさんの滞在費は理事長のポケットマネーである。
「それにしてもいいんですか、トレーナーさん。私まで食事にお邪魔してしまって。レースの話とかもする予定だったのでは?」
「今更どうこういう事もあるまい。そうだろ、相棒。私が逃げて、先頭でゴールする。それだけのことだ」
相棒はそれはそうだけど、と難しい顔をしながらも、結局は頷いた。
オードヴルをあっさり食べ終えると、次いでポタージュが運ばれてくる。
「ナーさんは久々かな、フランスは」
「そうだね……遠征した時以来かな。このレストランは日本にも出店しているから、姉妹やお父さん、お母さんと行ったことはあるけど」
「よく考えたら、ナーさんはお嬢様だったな……」
「よく考えたら、ってなに? あむ……おいしい……」
私はタブレットを取り出すと、テーブルの端に置いた。
少しお行儀が悪いが、凱旋門賞のためだ。
大目に見てもらおう。
「やることは変わらないとはいえ、ライバルは知っておくべきだ。そうだな、相棒」
「今見るの……? ポワソンきちゃうけど」
「食べながらになるな」
凱旋門賞の出走予定表が液晶に映し出される。
「あ、エルちゃん」
「エルコンドルパサーが日本からは出走予定だな。元気の良い後輩、フランスのGIも既に勝利している」
「ジャパンカップも勝ってたもんね」
「私がいない、ジャパンカップをな」
「嫉妬してる……」
ただ、いい走りをすることは間違いない。
末脚はもちろんのこと、抜群の先行力で好位につけて、直線で抜け出す姿は隙がない王道の競馬だ。
展開を選ばない走りはマグレが少なく、その上でこれまでのレース、トゥインクルシリーズでは負けはスズカに1回だけ、フランスでは1回敗戦しているが、共に2着。それ以外は全て勝利という素晴らしい戦績を保持している。
同じ日本のウマ娘ではあるが、最有力のライバルである。
「こっちは……ブロワイエか。ジョッケクルブ賞、アイリッシュダービー、ニエユ賞と3連勝と勢いに乗っている。そして、デイラミもいる」
「エッちゃんがこの前勝った相手だね。あのあと、アイルランドチャンピオンステークスを……えっ、9馬身差で勝利!?」
リベンジに向けて準備万端といったところか。
エルコンドルパサー、ブロワイエ、デイラミに加えて、私が本命レベルと見られているらしかった。
ワイングラスに注がれた、キャロットカクテルを揺らす。トレセン学園は今頃、夜中の2時くらいだろうか。
みんなベッドで丸くなっているだろう。
エアグルーヴは、サイレンススズカは、スペシャルウィークは、アイネスフウジンは――生徒たちのことを思い出して、私は小さく笑った。
「どうしたの、エッちゃん」
「ようやく、ここまで来たか――少し感極まりそうでな」
キングジョージを制したことは、日本でも大々的に報道され、続く凱旋門賞への期待も高まっていく。
「平坦な道ではなかった。自分の力だけでたどり着くこともなかった。支えてくれる人がいて、道を示す友達がいて、競い合うライバルがいたから、ここまでたどり着いた」
私/俺はキャロットカクテルの入ったグラスを掲げてみせた。
ナーさんに、相棒に、これまでに関わってきたすべての人と、ウマ娘に捧げるように。
「ありがとう……みんな。そして、誓う。次の凱旋門賞で、グレートエスケープの伝説を捧げてみせると」
そして、一息に飲み干す。
爽やかでいて甘い芳香が鼻と喉の奥を通り抜けて、ロンシャンの香りが全身に染み渡った。
相棒は真面目な顔でうなずき、ナーさんは微笑んでいた。
「ここまで来たら、やることはない。すべてを出し尽くすだけだ。そして、力を付けるためにも――」
運ばれてきたのはメインディッシュ。
鹿肉のメダイヨンで、芳醇なワインから作られたソースの香りは食欲をかきたてる。
ナイフとフォークを使い、肉を切った。
「――今は食するのみ、だな」
世界レベルで知れ渡るレストランのコース料理だけあって、絶品だったが、この味を勝利の美酒でかき消してみせると、心の中で決意したのだった。
×××
――凱旋門賞。
日本のホースマンにとって、それはたどり着かなくてはいけない、頂点にそびえる玉座といえる。
日本競馬で燦然と名を残す五冠馬シンザン――シンザンを超えろ、を合言葉に、ホースマンはそれを超えるサラブレッドの生産に注力した。
そして、ミスターシービーと、シンボリルドルフがそれぞれ三冠を達成した。この2頭が激突し、勝者となったシンボリルドルフは新設されたジャパンカップを制し、ついにホースマンは海外へ目を向けるようになった。
欧州で最も歴史があり、格式があるレース、凱旋門賞の制覇――日本のホースマンの夢は、今そこに注がれている。
『凱旋門賞のスタートが間もなく近づいて参りました。日本からは多くの競走馬が、凱旋門賞を目指してやってきました。しかし、今年は毛色が違います。フランスの古馬路線を走り続けてきたエルコンドルパサー、そして日本最強馬であり、英国のチャンピオンレースたるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを制したグレートエスケープがそれぞれ、有力馬として凱旋門賞に臨みます。我々は、歴史的瞬間を見ることができるのか。すべての競馬ファンが、この凱旋門賞に注目しているでしょう』
――そんな、盛り上がり始めるロンシャン競馬場のスタンドをしり目に、俺は何度も蹄を芝生に押し付けた。
そして、芝生を踏むたびに、顔をしかめた。
(めちゃくちゃ不良馬場……踏み込めないし、すべるし、あと泥も跳ねる。ちっくしょー……)
雨こそ上がっているものの、パリは当日まで雨が続いており、馬場は驚くほどに柔らかい。
「やぁ、グレートエスケープ。久しぶり」
「デイラミ……出ないんじゃなかったのか?」
「直前まで渋っていたけど、出ることにしたさ。正直、私の脚には似合わないが……私にもプライドがある。それに、逆境を跳ね返すからこそ、名馬だろう?」
「そりゃ、そーだな」
今日の朝、黒井先生は珍しくため息ばかりだった。
白村はそんな日もあるさと言いつつ、やたら身体をあちこちにぶつけていたし、西京さんは俺を撫でる回数がいつも以上に多かった。
有り体に言ってしまえば、凱旋門賞を勝つのは無理だ――黒井厩舎のスタッフほとんどが、口にこそしないが、そう思っている。
それが弱気だとか、逃げの姿勢だとは思わない。
約5年間、俺をずっと見てきたのだから、それだけ不良馬場が苦手だということがわかっているだけということ。
「……俺も不良馬場は苦手だ。だが、勝つ。勝ちたいとか、勝てたらいいな、じゃなく。俺は最強のサラブレッドということを、証明してみせる」
「――それはありがてぇ限りで。あっしァ、あんたと走ることだけを願ってきたもんで……尋常に、勝負してもらいてぇところだ」
嗅ぎ慣れた日本のサラブレッドの匂い――振り返ると、鷹の目のように鋭い眦を持った馬が近づいてきた。
「名前は?」
「あいや失礼。あっしの名はエルコンドルパサー……生国はアメリカのしがないサラブレッドでさぁ」
へんてこな喋り方とは裏腹に、脚や筋肉を見るだけで、相当な強者だとわかる。
エルコンドルパサー……去年はスペシャルに完勝し、そして今年はフランスの中距離路線で名を馳せた日本調教馬。
フランスで走り続けているために、既に凱旋門賞の有力馬として現地メディアも取り上げている。
「あんたも知ってるでしょうが……恥ずかしながら、サイレンススズカに完敗しましてね。借りを返す機会を待っていたんですがねェ……世は無常なモンだァ。あの世に駆けて行っちまいましたから、再戦の機会もねェ。あっしはしがないサラブレッド……ですがね、メンツってもんがあっしにもあるんでさぁ」
「言いたいことはわかる。サイレンススズカより強い――それを証明したいってわけだろう」
「流石でございあす、グレの旦那。話が早ぇ……あっしは、あんたに勝たないと幻影に負けたままでして……」
「――ははは! 誰も僕の話をしないじゃないか! はっはっはっ、すごく辛いぞ!」
振り向くと威勢よく弱気な発言をする馬がいた。
名前はモンジューというらしい。
確か、アイルランドのダービーとフランスのダービーであるジョッケクルブ賞を勝った若きスターホースである。
「僕の名前はモンジュー、フランスとアイルランドのダービーを制し、凱旋門賞も制することを誰もが望むスターホースだ! 胃が痛い! 腹が痛い! 期待が痛い! とてもしんどいんだ!」
そのはずだが、声音とは裏腹に発言内容は弱気も弱気。
馬体を見るに相当な才能の持ち主ということはわかるのだが、覇気がありそうでない。
雰囲気だけはずば抜けているが。
「日本の馬たちなんて大したことないと思っていたが、去年はタイキシャトル、シーキングザパールが勝った。今年はエルコンドルパサーにグレートエスケープ。もう吐きそうだ!」
「満面の笑みで言うことじゃないだろう……」
「おい若ぇの……ガキのように喚く奴がありますかい……」
「はははは! 期待が重いし、かといって期待されないと存在価値を見失うが! それでも僕は勝ちたいからな! 脚ガックガクするけど!」
俺はモンジューをじっと睨みつけた。
「……眼は本気だな。これまで戦ってきた強い馬たちの眼と同じだ。勝利を望む、気高い意志がお前にはある」
「めっちゃマークされたな! さすがは僕だ! 胃袋がまた悲鳴をあげそうだよ!」
「賢人こそ愚者を装おうってことですかい……若ぇのに、妙な真似をするもんだねェ。とにかく、あっしはこの戦いを最後に、引退することになっている……グレの旦那、よろしく頼んます」
エルコンドルパサーの眼がぎらりと光を放つ。
切れ味抜群の日本刀のように磨き上げられた鋭い肉体が翻った。
「ではまた……レース後に、お会いしやしょう……」
「僕もそろそろ失礼するとしよう! 今にも倒れそうだが、まともに走れるかもわからないが、勝ちたいという想いは変わらないからな!」
2頭が離れてゲートへ向かった。
凱旋門賞に、俺は譲れない思いを抱いている。
しかし、エルコンドルパサーも、デイラミも、ほかの馬やジョッキー、みんな同じ思いを抱いてこのレースに挑んできた。
想いに差なんてない。
勝者と敗者を分かつものがあるのだとしたら、それは実力と運という、残酷にして絶対的なものだ。
それを最も兼ね備えているのは誰か――今ここに、証明してみせる。
伝説を、届けよう。
『グレートエスケープがゲートに入ります。日本馬の悲願か、イギリスの王者か、フランスの若き俊英か、それとも伏兵か。意地と執念渦巻く栄光のビクトリーロード、勝ち取るのはただ1頭! 凱旋門賞が今、スタートしました――ああっと!! グレートエスケープが出遅れたァッ!?』
〇〇〇
私の生まれた家庭は裕福だった。
父は小さいながらも安定している企業の社長で、母は厳しくも優しく、それでいて自由に過ごさせてくれた。
頭が良くて、誰からも好かれる姉は私にも優しくて、いつも褒めてくれていた。
大変なことや、悩んだことはたくさんあったけれど、人生は順風満帆といっても差し支えはなかった。
しかし、姉に末期癌が見つかってからは、私の人生は大きくかたちを変えた。
姉との別れ、そして、グレートエスケープとの出会い。
忘れ形見というにはあまりに大きすぎる存在に、当初は戸惑うばかりだったが、次第に絆され、彼のことが好きになっていた。
「橘さん、いよいよですね」
「ええ……凱旋門賞まで、来ちゃいましたね……」
黒井先生の言葉に相槌を打った。
そんなグレートエスケープが、世界最高の舞台で勝利を望まれている。
もしも姉が生きていたら、どうなったんだろうか。
グレートエスケープが勝った時に、すごい興奮していたから、凱旋門賞が始まると同時に卒倒していたのかもしれない。
「姉もきっと喜ぶでしょうか」
「そりゃあ、そうですよ。不安も、感じていたでしょうが……あの人なら、子供のように目を輝かせていたでしょう」
遺影を持ってくるのは流石に場の雰囲気を考えて控えたが、姉と私のツーショットの写真を持ってきていた。
パドックでは、グレートエスケープはまじまじと写真を見つめてから、私に額を押し付けた。
彼は姉のことを愛していたのだろうと、彼の温もりからそれが伝わってきた。
こんな素敵な馬に最初に出会えた姉が、少しだけ、羨ましかった。
「……橘さん、泣くのは早いですよ」
「いいえ、今、泣くんです。グレくんを笑顔で出迎えるために……きっと、グレくんは帰ってきてくれます。素敵な結果を伴って。だって――グレートエスケープなんですから」
「橘さん……ええ、そうですな。見届けましょう、我が子の晴れ舞台を」
〇〇〇
ゲートを出て、全頭が、そして跨るすべてのジョッキーが、一瞬動揺した。
『グレートエスケープが出遅れたァッ!? そのまま中団やや前目、外につけました。逃げると思われたグレートエスケープが逃げませんでした! 出遅れたグレートエスケープはそのまま中団でレースを進めます』
まず最初にプランが崩れたのは、モンジューのラビットである、ジンギスカン。
あらかじめ決めていた作戦ではグレートエスケープをつつき、スローペースにさせず、モンジューの末脚を活かすはずだった。
「えっ、えっ、グレートエスケープがいない!? あっ、後ろか!?」
ジンギスカンがつられてしまい、後ろに下げてしまう。
ペースメーカーになるわけでなければ、かといって進路確保や折り合いに専念させるための壁にもなれない、中途半端な位置取りをとった。
それによってモンジューは、単独でレースを進めることになる。
「わははは! やっぱり思い通りになるわけがないんだ! もういい! 僕もうラビットに頼るのやめる! このまま中団で進めて末脚勝負に賭ける」
武器をひとつ失ったモンジューだったが、実は開き直ると強いタイプだった。
次に異変に気が付いたのは、デイラミ。
「……な、なぜ、グレートエスケープが……私のすぐ傍にいる……!?」
外から蓋をするように位置取るグレートエスケープを見て、デイラミは背筋が寒くなった。
かねてより予想していたレースプランは、グレートエスケープをマークし、直線で躱すという1点集中の戦いになるはずだった。
狂いが生じたどころではなく、まんまと裏をかかれたのだ。
「ど、どうする……くっ……不良馬場で脚がとられる……!」
焦りを抱えたまま、デイラミはレースを進める。
不利な状況に加えて、心理的にも負担を抱えたデイラミの走りは、本来のものとは程遠いものになった。
「こりゃ……いけねぇ……! グレの旦那がこんな後ろからだとは。計算違いでしたが……このまま逃げて勝つしかありゃあせんね」
そして、エルコンドルパサー。
彼もまた、グレートエスケープの後方につけて2番手、3番手からレースを進める予定だった。
しかし、スタートが良すぎたことと、グレートエスケープが前に行かなかったことで、エルコンドルパサーは単独で逃げる形になってしまった。
「グレの旦那……ここで裏をかいてきやしたか。まずはお見事という他、ありゃあせんが……本来の走りとは違う走りをして、勝てるんですかい……?」
躊躇なくエルコンドルパサーは前を走る。
本来の脚質こそ先行だが、それはあくまで勝率が高い戦法を選択しているに過ぎない。
どこからでも競馬ができる脚質、芝ダート、マイル中距離を問わない自在性こそがエルコンドルパサーの真価である。
迷いはなかった。
凱旋門賞の勝利、それだけを目指している。
その他の馬も、殆どがグレートエスケープを警戒していた。
本来の逃げではなく、ほぼ中団といえる位置に陣取った本命馬を全頭が注目している。
不気味――全頭がグレートエスケープにその感情を抱いていた。
そして、当のグレートエスケープは――
〇〇〇
(フッフッフッフッ……出遅れちゃった……)
発走直後、ぬかるんだ芝生に足を取られて出遅れを喫していた。
観客や実況はそのことを理解していたが、大外枠から外に膨らむように逸れたことによって、ほかの出走馬は俺が出遅れたことを把握していなかったようだった。
『エルコンドルパサーがいいスタートを切りました、エルコンドルパサーが果敢にリードを1馬身ほどとります。出遅れたグレートエスケープは先頭からおよそ7、8番手といったところ。これは大丈夫なんでしょうか』
2番手にジンギスカンが遅れて上がってくる。
ペースをスローにはさせないと判断したのか、後からエルコンドルパサーに鈴をつけにいった。
それを見ながら、俺は焦りに焦っていた。
(やばい、やばいやばいやばいやばい。よりにもよって凱旋門賞でやらかすかフツー!)
思い返すと、初めてのGI皐月賞でもスタートで出遅れたし、日経賞では馬場に脚を取られていた。
ある意味必然だったのだろうか。
先頭へペースをあげようとした所で、滝カナタさんが手綱をしっかり握っていたことに気がつく。
(皐月賞の時、俺は早く逃げようとして折り合いを欠き、馬群に沈んだ)
あの時は若かったなぁ、と自分を笑った。
あれがもう3年前になる。
今年はテイエムオペラオーとかいう馬が豪脚を見せて皐月賞を勝利したという。
毎年、スターホースが現れては、上の世代を打倒するか、壁に跳ね返されている。
ただ、クラシックレースを走っている時は、とにかく負けてたまるかという気持ちが強くなっていた。
(ダービーは……橘ちゃんのために走っていたな。ハイペースに持ち込んでそのまま逃げ切った。馬に生まれ変わってダービーを勝つなんてな。ウマだけに……)
橘馬奈というオーナーに勝利を届けたい、その気持ちだけで走った。
その末に掴んだ栄光がダービーという唯一無二の称号だ。
恵まれている――気づけば、自分の境遇に感謝し続けていた。
(それでも菊花賞はダンスインザダークに逆転された。執念の脚だった。今も元気にしてるかな……あの訳の分からない喋り方は、牝馬にモテるのだろうか)
ライバルとの死闘、そして、俺はサラブレッドとして、勝利への執念を己の中に宿した。
ダービーでサラブレッドに成ったとしたら、菊花賞からは、競走馬として、頂点を目指し始めるようになった。
(ジャパンカップではエリシオに、シングスピールに、バブルガムフェローに、ラフィー……ファビラスラフイン。思えば、約束は遅くなったけど、果たしたことになったかな。悪いなぁ……一緒に走ってやれなくて。もっと一緒に走りたかった……)
頂点へ至るための道筋――その到達点のひとつが、凱旋門賞だと具体的に意識するようになった。
そして、サラブレッドとしての頂点を取るために戦い始めた。
総決算たる春の天皇賞では、マヤノトップガン、サクラローレル、マーベラスサンデーらの古馬の壁に跳ね返され、怪我までしてしまった。
(マヤノトップガンの最後の末脚はすごかった。ダンスインザダークを思い出す、追い込み。そして、サクラローレルは凱旋門賞へ手を伸ばし、届かなかった。あれほどの馬でも、届かない世界に、俺は手がかかりそうになっている。マーベラスサンデーは変な奴だったけど、結局ほとんど先着できなかったし……平成3強は、まだ敵わないイメージが未だにある。すごい奴らだった)
怪我を負った俺は、しばらくスランプに陥った。
迎えた天皇賞・秋ではエアグルーヴが牝馬ながら、並みいる牡馬を粉砕した。
(初めて一緒に走ったのは秋の天皇賞か。そこから一年に渡る因縁……アイツは、今頃どうしてるんだろうな。凱旋門賞を見ていてくれていたら、嬉しいな)
そこで惨敗し、次のジャパンカップには暗雲が立ち込めていた。
館山騎手やダンスパートナーさんによって、立ち直ることができた。
ジャパンカップで復活を遂げた俺は有馬記念に臨んだ。
(そのレースを最後にダンスパートナーさんは引退。思えば、全力でレースをできたことはほとんどなかった……ダンスパートナーさんは……きっと、俺の勝利を願ってくれているんだろうな。簡単に想像できる……)
次の年の天皇賞・春は雪辱を果たすように、完勝した。
日本競馬界の現役最強馬として、いわれるようになったのがちょうどこのころ。
俺は宝塚記念を勝利して、凱旋門賞へ向かうべく臨んだのだが――上には上がいるもので、ライバルが現れるものだ。
(サイレンススズカ――あいつもまた、強い馬だった。あのときの俺が勝てなかったんだ、本当に最強クラスだったのかもしれない)
そして札幌記念では、エアグルーヴと死闘を繰り広げ、サイレンススズカと勝負をつけたいと願い、凱旋門賞ではなく秋の天皇賞へ出走した。
サイレンススズカと二頭で走っているかのような時間は、苦しく、それでいて楽しくて、永遠を願ってすらいた。
(それでも、現実は残酷だった。ありふれた悲劇ではあったが、悲劇に変わりない。サイレンススズカは俺を置いて、さっさと駆け抜けてしまった)
結果的に、最強馬の称号を手に入れた俺は、その称号に恥じない走りをすべく、有馬記念を勝利してみせた。
エアグルーヴがラストランを迎えても、年下の名馬たちが現れては、彼ら彼女らと鎬を削った。
そして、海外へ飛び立ち――今も変わらず、俺はレースを走っている。
(思えば、たくさんのライバルがいた。彼らとのレースを思い返すと、唯々眩しい)
焦る気持ちは、気づけばどこかに消えてしまっていた。
ロンシャンの長いカーブを、脚がとられないように曲がりながら、ぼんやりと考えた。
(そういえば、こんなゆったりと走ったことはなかったな)
いつも集団から追われる位置にいたか、または先頭集団の中でレースを進めていた。
中団かつ外目を追走したことは、レースでほとんどなかった。
(ほとんどの馬が俺を警戒している……凱旋門賞に来る一流の馬たちが、俺の一挙手一投足に合わせて行動を変えてると思うと、すごいことだな)
ロンシャンの緩やかで長い坂、背の高い芝を踏み越えながら俺は場違いなほど、呑気に考えていた。
気づけば、フォルスストレートに入ろうとしている。
レースは淡々と流れ、佳境を迎える。
(俺は――なぜサラブレッドになったのか。ずっとわからなかった)
鞍上が少しずつ前へ行くように、促していく。
後ろから進めたからか、いつも以上に体力がありあまっている。
ペースが上がるに併せて追走するが、急な加速が必要とする展開にはならない。
(だが、もしも役目があるのなら――俺は、色んなやつらの思いを乗せて、遠くに運んでいってやることだったんじゃないか)
『いよいよ直線です。エルコンドルパサー先頭、3馬身ほどあったリードが少しずつ詰まってきました! エルコンドルパサーはまだ楽な手応えだ! 2番手にクロコルージュ、ジンギスカン! デイラミは少し苦しいか、モンジューは鞭が入った! グレートエスケープは馬群の外、残り500と少し!』
慌てることなくレースを進めたおかげかはわからないが、レースはそれなりのハイペースで進んで、直線へと至った。
慌てて前へ行こうとしたら、もっと乱ペースになってしまうか、それを避けてスローペースの瞬発力勝負になってしまっただろう。
俺も成長しているんだ。
(思えば、随分サラブレッドとして、競走馬として、考えが染み付いたもんだな)
「グレ、行くぞ。泣いても、笑っても、これが最後だ」
「ああ、カナタさん。これが最後だ」
息を思い切り吐く。
長く、肺の中に溜まっていた空気をすべて出し尽くすまで、長く、長く。
歓声が、馬蹄の音が、ジョッキーの揮う鞭が空気を切り裂く音が、少しずつ小さくなっていった。
吐ききってから、思い切り吸い込んだ。
色あせた世界が色づき、意識がレースに戻っていく。
「これが、最期になってもいいから――勝ちたい。違う、勝つんだ」
――不良馬場は苦手だ。
芝生に足が取られるから、力が伝わりづらくなってしまう。
胴長な俺の体型では走法はストライドになるし、余計に消耗してしまう。この走法は体型によって決まるものだから、どうしようもない。
だからこそ、不良馬場やダートコースで力を発揮する馬がいたり、良馬場や芝コースで力を発揮する馬に別れている。
しかし俺は、その事を理解している。
そして、走法を少しの脚の使い方で変えられることも、知っている。
『エルコンドルパサー先頭、400メートル地点で先頭、エルコンドルパサー先頭! 夢まであと400! 後ろからモンジューが来た! モンジューが来た! モンジューが来た! そして……外からグレートエスケープも上がってきたッ!』
走法をストライドからピッチへ――競走馬では有り得ないはずの行為を行う。
長くスタミナを持たせることは出来ないが、残り400まで楽に走っていたから、たっぷり余力は残っている。
あのときは脚が折れてしまった。
結果的に綺麗な折れ方だったらしく、後遺症は残らなかった。
しかし、次折れた場合、どうなるだろうか。
良くて即引退、悪くて予後不良で安楽死。
ここで勝たなくても、俺の種牡馬入りは確実で、無理をする必要なんてどこにもない。
だが――
(それを……ダークや、スズカの前でも同じことが言えるのか? 文字通り命を削って戦った相手に……そんなことが言えるのかッ)
言えるわけが無い!
迷いはなかった。
折れるなら折れろ。砕けるなら砕けろ。俺が脚を折り、倒れ、鞍上のカナタさんもターフへ叩きつけられるかもしれない。
だがそれを恐れるジョッキーなどいない。
共に、既に、腹は括っている!
「うおおおおおおッ!」
叫び、脚へありったけの力を込める。
残り2ハロン、24秒に満たない最後だけでいい、この瞬間だけ、俺は誰よりも速く走りたい。
「な――」
「ばかな……!?」
「獲りに来たぜ……銀色の、凱旋門を……!」
前で争う2頭へついに追いつく。
エルコンドルパサー、モンジューが俺より少しだけ前を走っている。
まだ少しだけ2頭が速く、俺は加速してもなお追い抜くには足りなかった。
そりゃあそうだ。
俺に才能なんてものは、多くない。
あくまで騎手の指示に忠実に従い、それでいて競馬というものを理解しているからこそ、スタミナとスピードを余すことなく使い切って勝利してきたのだから。
しかしここは凱旋門賞。
超一流の世界で、才能と努力を兼ね備えているのは当たり前であり、運すらも持っているからこそ、ここまで走り抜いてきている。
『エルコンドルパサー先頭、モンジューがかわすか、モンジューがかわす! あと200だ、頑張れエルコンドルパサー! 追い抜けグレートエスケープ! 負けるな日本、頑張れ日本!』
あと一手。あと一手上回れば、モンジューとエルコンドルパサーを差し切ることができる。
その一手が、なにも思いつかない。
ピッチ走法で不良馬場は克服した、幸運もあったが結果的にはレース展開を大きくずらして末脚を発揮している。
あとひとつ、なにがある?
たった一手が果てしなく遠い。
『モンジューが先頭、半馬身ほど抜け出した! あと100m、頑張れ! もう一度頑張れ!』
諦める気なんてさらさらない。
どうすればいい、俺は、苦しい時、どんなふうに逆転してきた――?
「――グレっち」
聞こえるはずのない、声が聞こえた。
弱気の虫だ。
弱気になった自分が、自分を慰めるために声をかけているに過ぎない。
「グレっち」
振り払っても、もう一度聞こえた。
もしもこれが、幻聴ではなくて、本当にどこかから聞こえてくるものだとしたら。
俺は――俺は――!
「負ける、わけには……いかねぇだろォォォォッ!」
『グレートエスケープが伸びる、グレートエスケープがやってきている!
モンジューか、エルコンドルパサーか、グレートエスケープか!
残り50m、差がなくぴったり並んでいる!
あと少しだ、頑張れ日本、グレートエスケープ頑張れ! グレートエスケープきた! グレートエスケープ抜け出した!
グレートエスケープだ、グレートエスケープです!
世界よ、これが日本が生んだ偉大なる逃亡者だ!
世界に名だたる競走馬たちの追跡を振り切って、大脱出だ!
グレートエスケープ先頭でゴールインッ!
やった日本ッ! ホースマンの夢が、ついに、ついに、世界へ届きました!
グレートエスケープの活躍に、誰が文句を言うでしょうか!
やりました、グレートエスケープ!
滝カナタは大きくガッツポーズ!』
――……やった。
ゴールを駆け抜け、視界がぐにゃぐにゃと捻じ曲がる。
今にも倒れて、二度と起き上がれなくなりそうだ。
ここで倒れてしまったら洒落にならん。
脚に力を込めて、なんとか地面を四肢で踏みしめた。
(出し切った。もう鼻血も出ない……歩くのもしんどい。ああ――勝ったのか)
ロンシャンに集まった歓声が遠くに聞こえた。
鞍上が何度もぽんぽんと俺を叩く感触が、鈍く、何をされているのか、気づくのが遅れる。
「グレっち。かっこよかったよ」
背後から声をかけられた。
俺はそれに、振り返らずに答えた。
「――そうか。初めての馬に選んで、良かったか?」
声の主は、笑っていたと思う。
「何度も言ってるでしょ? グレっちは、最高の馬だって」
ロンシャンに輝く太陽が、ターフを照らす。
視界の陰で、人影が光の中に溶けていったように見えた。
これから、俺はどうするんだろうか。カナタさんや黒井先生はインタビュー責めに遭うだろうが、俺はやることがない。
「まぁ――今はとにかく、休みたいな……」
ロンシャンに響き渡る歓声を、噛みしめるように俺は目を閉じた。
そして、呟く。
「ありがとう、みんな」
――第78回凱旋門賞 優勝馬『グレートエスケープ』
日本競馬界に、新たな伝説が刻まれた。
グレートエスケープ「燃え尽きたぜ……真っ白にな」
死なないよ!!この作品はそんな曇らせるような真似はしません!!
〇ウマ娘世界
・ブロワイエ
アニメ基準なのかゲーム基準なのか考えてはいけない
・ダンスパートナーさん
良家の生まれ。お嬢様だけど気が強い。
〇競走馬(ウマムスキーワールド)
・今回の被害馬「モンジュー」
みんな大好きモンジュー。競走馬時代はもちろん、種牡馬としてもハリケーンラン等を送り出すなど、サドラーズウェルズの後継種牡馬として活躍した。
・エルコンドルパサー
任侠言葉を使っているのは厩務員が座頭市をしょっちゅう見ていて、エルコンドルパサーもそれを見て日本語を覚えたから。メタ的に言うと、グラスワンダーは侍言葉にしようとしていて、その対称として任侠言葉を使わせた。後悔はない。
・活動報告にアンケート回答ありがとうございます。すべて読ませていただいており、完結後に一部書かせていただこうと思います。引き続き、アンケートにお答えいただいて構いません
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=266344&uid=37842
次回予告
みなさん! いよいよお別れです!
東京競馬場を守る日本サラブレッド連合は大ピンチ!
しかも、日本総大将最終形態に姿を変えたスペシャルウィークが、グレートエスケープに全身全霊を寄越さないではありませんか!
果たして、日本競馬の運命は如何に!
名バ列伝「グレートエスケープ」最終回!
「グレートエスケープ大勝利! 希望の未来へレディー・ゴーッ!!」