目が覚めると、知らんおじさんが馬房を開けていた。
「クロスケ、おはよう。いい天気だぞ。少し暑いけどな」
誰この人。怖い。
クロスケなんて呼ぶのは、生産牧場の人くらいのはずだが、こんなおっさんがウチの牧場にいた覚えはない。
新人にしては随分仕事も手馴れている。
「脚とか痛くないか? よしよし、相変わらずいい体してる」
ブラッシングしてこようとするので、避けようかと思ったが、脚がなんだかふらふらする。
痛くはないが、力が入りづらい。
これじゃあレースを走れない。やばいぞ、黒井先生に怒られる。西京さんならこんなことになる前に気づいただろうに。
せめて白村は、白村はどこにいる。
しかも滅茶苦茶眠いぞ。
「もうお前も今年で25歳か……おじいちゃんだな、すっかり」
えぇ? どういうことだ?
俺は桶に入った水に映る自分の顔を見て、仰天した。
「と、歳をとってる……」
「まだまだ元気だけどな、毛並みも筋肉もしっかりしてるし」
段々と思い出してきた。
確か、数年前に種牡馬を引退して、生まれ故郷の懇備弐牧場に帰ってきたんだ。
生まれた時より少しだけ広く、綺麗になったこの牧場で、余生を過ごしている。
「ほら、放牧だ。お前もすっかり大人しくなって……助かるが、ちょっと寂しいな」
おじさんの匂いをくんくんと嗅ぐと、懐かしい匂いがした。紛れもない、牧場のあんちゃんの匂いだ。
随分歳をとって、それも覚えてないくらいになってしまったのか。
思い返すと色々あった。
レースを引退して、種付けして、種付けをし、種付けをやってから、種付けしたり……種付けばかりだな。
それだけ子供たちが頑張ってくれたからこそなのだが、今は牧場に来るファンを相手にサービスするばかりだ。
こんなおじいちゃんをよく見に来るもんだと、感心すら覚える。
放牧地は相変わらず綺麗だが、随分広くなったように感じた。
「……いってこい。思えば、幼駒のときにひどい肺炎を起こしたあとから、お前は元気になったな」
そういえば、そうだ。
あの肺炎の日から、俺はグレートエスケープに憑依――いや、グレートエスケープに『成った』んだ。
「あんな病弱なやつが、競走馬としても、種牡馬としても、大活躍するなんてな。思ってもみなかった」
俺もだ。
そもそも馬になるなんて思わなかった。
「元気に走ってこい。気ままに走るくらいで、お前はそれでいいんだから」
俺はあんちゃん、いやおっさんの言葉に従い、放牧地で走り出した。
端っこまで走ってみると、中々遠い。
きっと、すごく遅くなったのだろう。
「はは、もうレースはできないなァ……」
レコードタイムを何本か出したことが懐かしい。
今の俺を見ても、誰も信じないだろうが。
「そういえば……あの抜け道はまだ残ってるのかな」
俺は牧場のある柵の場所に行くと、頭を差し込んで柵を持ち上げた。すると、あっさり開いた。
直さなくていいのかと思ったが、俺は気にしなかった。
「――グレっち」
懐かしい呼び声がする。
そういえば、この道を通って、橘ちゃんと草原に行ったんだっけ。
「ちょっとくらい、いいか」
林を歩く度に枝や草が音を鳴らす。
俺の蹄の音の他にも、嘶きや、他の馬蹄の音がちらほらと聞こえてきた。
少し前を、ほかの馬が歩いていた。
「……ダンスパートナーさん?」
「ああ、エッちゃん……エッちゃんも来たんだ。遅かったね……」
「なんでこんなところに。社来の牧場にいるんじゃないんですか?」
ダンスパートナーさんは答えなかった。代わりに、別の場所を指し示した。
「エアグルーヴ……?」
「なんだ、貴様か。逃げ馬だから、ずっと先に行っているかと思っていたぞ」
「なんのことやら……」
「あっ、エスケープ先輩! 追いつきましたよ!」
「スペシャル……なんだか同窓会みたいだなぁ」
林を抜けると、草原が広がっている。
あのときと、同じように。
いや、あのときよりも、ずっと綺麗に見えた。
橘ちゃんにも、こんな風に見えていたのだろうか。
「エスケープ、あいつがいるぞ。さっさと逃げた大馬鹿者が」
「あ……スズカ……」
「グレートエスケープさん……あの……いいですか?」
「ああ。なんだ?」
「僕がいない天皇賞・秋を勝って最強馬名乗ってたって本当ですか? 恥ずかしくないんですか?」
「なんだとこのやろう」
「文句あるなら、また走りましょうよ」
「は? 俺はもうジジイで……」
気づいたら、いつかのレースの時のように、体に力が漲っていた。
そうか、そういうことか。
そういうことなら……それでいい。
満足だ。長い夢を見続けたものだ――夢には終わりがある。これは現実とはいえ、本当に夢のような、幸せな馬生だった。
「スズカ。エアグルーヴ。スペシャルウィーク。ダンスパートナーさん。先に言っておくけど……俺、最強のサラブレッドなんだぜ」
「嘘はいけませんよ」
「勝手に言っていろ」
「僕が勝ったじゃないですか、最後に」
「エッちゃんは強かったけど……まだ私と、本気で走ってないよね?」
誰も俺を認める気がなかった。
それもそうだ。GI勝利という栄光を獲得した馬が、はいそうですなんて言って譲るわけが無い。
俺は脚に力を込めて走り出した。
ふわりと、体が浮かんだような気がした。
「俺を捕まえることができたら、撤回してやるよ!」
駆け出すと同時に、後ろから4頭が追ってきた。
4頭だけじゃない、色んな馬たちが、俺に待てだの止まれだの追い抜いてやるだの叫びながら、追ってきている。
どの顔も、見覚えがあるやつばかり。
そんなヤツらを相手にしても蹄は軽く、空を駆けて大空の果てまで、どこまでも行ける。
このまま逃げ切ったら、どうしようか……ああ、そうだ。
――橘ちゃんを探しに行くか。ライバルたちから逃げ切った、大空の向こう側で。
XX18年8月26日「グレートエスケープ号」死去。25歳、奇しくも、亡きオーナーが没した日と同日だった。
×××
「――ん、夢か……」
体を起こすと、思い切り伸びをする。
トレセン学園の芝コースの脇で寝転がりながら、レースについて考えたまま眠ってしまったらしい。
「どんな夢を見ていたの?」
すぐ後ろから、ナーさんが覗きこんできていた。
その隣には、エアグルーヴが立っている。
「どうしたのかね、二人とも」
「エッちゃんが昼寝してるのを見つけたから。エアグルーヴちゃんも、風邪ひかないか心配だから、起こそうって」
「な、ちが、別に心配などしていません! こいつに風邪を引かれてレースを回避されては困るだけです!」
「だから心配しているんでしょ?」
「ちがいます!」
ムキになるエアグルーヴをからかいながら、ナーさんが笑う。
それを見て、ぼーっとしていると、二人は心配そうな表情を浮かべていた。
「……エッちゃん、大丈夫? 本当に体調悪いの?」
「歩けるか? 厳しいなら保健室まで連れて行くが……」
「いや、違うんだ。ただ、なんだか寂しくて」
首を傾げる二人。
私はついさっきまで見ていた夢の内容をかいつまんで話した。
「みんなが走らなくなる夢だった。怪我や病気、衰え、色んな理由があった。決して悲しい雰囲気じゃなかったけど、やっぱり寂しかった。それを思い出したら、いつか私達も、走らなくなる日が来るのではないか――とな」
ターフを見つめると、風が吹いて芝が小さく揺れていた。
風が止むと同時に、二人の笑い声が響き渡った。
大爆笑だった。
「なぜ笑う、笑いすぎだぞ」
「いやいやいや! だってエッちゃんがそんな心配するなんて……ふふふっ」
「何を言うかと思えば、まさかお前が私を笑わせるとは。会長のダジャレより笑ったぞ」
それはすごいな。会長のダジャレを笑わずにいるなんて、私には無理だ。
エアグルーヴが目元の涙を拭う。
「貴様は、どんなときも、勝ちにこだわって、走り続けていただろう。今更なにを恐れる」
「まぁ、そうだけど」
「確かにいつかは引退して、走らなくなる時は来るだろうが……少なくとも、今ではない。怪我や病気ということもあるが、我々は、ウマ娘は、それを恐れて走ることをやめるような存在ではない」
「そうだよ、エッちゃん。走れるならいつまでも走るし、走れなくなった時のことを今から考えても仕方ないじゃん」
「……確かに、その通りだな」
私は立ち上がると、芝コースに降り立った。
「私たちはウマ娘――未来のレース結果など、誰にも分からない。だから、ゴールを目指して走り続ける……愚問だったな」
こういうことを考えるのは、雑念がある証拠。
ならばこそ、走って頭をすっきりさせよう。
私がストレッチをしていると、ナーさんとエアグルーヴがやってきた。
「せっかくだから私も走るよ。エッちゃんの先輩として、しっかり勝たないと」
「そういうことなら。エスケープ、貴様を越えねば私は理想には辿り着けん。今日も貴様を打ち破ってみせよう」
「ほう。いいとも。全力で――」
「あっ、エッチャンさーん! 併走お願いします! 今日こそ勝ってみせますからね! スズカさんも早く早く!」
「ちょ、ちょっと、スペちゃん慌てないで! 私もちゃんと行くから……!」
スペシャルウィークとサイレンススズカがやってきた。二人も併走希望らしい。
ここまで増えると併走というより、模擬レースのようだ。
「あ、エッちゃん! なになに? みんなで走るの? 私も走っていい?」
「アイネス姉さん……もちろん。アイネス姉さんにも逃げ負けたりはしないさ」
「なんか集まってる……すげーメンツじゃねーっすか! グレ先輩主催の模擬レースっすか!?」
「ああ、そんなところだ。ウオッカ、お前も走るか?」
「もちろんっす! 先輩がトライアンフならオレはドゥカ……なんとかみてーな! ハーレー的な感じで、追い抜きますよ!」
「ちょっと待つデース! こんな面白そうなレースにこのアタシ、世界最強にして最優のウマ娘、エルコンドルパサー無しには有り得まセーン! とうっ!」
ラチの上に立ち、そのままジャンプして着地するエルコンドルパサー。
彼女もレースに参加希望らしい。
「だいぶ集まったな……ならば距離は芝2400m、左回りでいいな?」
全員が頷く。瞳にギラギラと炎を滾らせ、写しているのはゴールだけ。
どこまで走っても、退屈しなさそうな相手ばかりだ。
スペシャルウィークが手を上げる。
「あの……スタートはどうしましょうか。これだけ多いと、大変ですよね」
「エスケープが言えばいいんじゃないのかしら」
「スズカ、別に私は構わないが、いいのか? 私は逃げウマ娘。先に逃がしてしまうかもしれんぞ?」
「いいわ。それでも勝つのは、私だから」
スズカの言葉を皮切りに、みんなが勝つのは自分だと騒ぎ立てる。
ぱしん、と手を叩くと一斉に静かになった。
「わかった。私が合図を出そう」
全員が横一列に並ぶ。
――ウマ娘グレートエスケープが、どこまで走るかはわからない。
けれど、どこまでも走り抜いていきたい――そんなありふれた願いを抱えたまま、今日も私は勝利を目指して走り出す。
「いちについて――よーい、ドン!」
EDテーマ「うまぴょい伝説」
名バ列伝「グレートエスケープ」これにて完結です。
当初はエイプリルフールに架空ウマ娘を思いついて、設定を作ったら楽しくて、小説にしてしまいました。もっと早くに完結する予定でしたが、皆様の感想や応援によって、しっかり書こうと、プロットも練り直したりした結果、全36話と気づいたら増えていました。
正直、気が赴くまま、誤字や脱字を気にせず、推敲もあまりせず、好きなように書いていましたが、そんな拙作を多くの方に楽しんでいただけて、私も楽しかったです。
発表から5年、ウマ娘を追い続けて、アプリが面白かった結果、多くの方々がウマ娘を好きになってくれました。これもウマ娘制作陣営のおかげで、ファンの方々にも、ウマ娘プロジェクトの方々にも、感謝の念がつきません。
その中でこのような架空の競走馬という、趣味全開、妄想全開の作品を受け入れて貰えたことが嬉しいです。
ご愛読、ありがとうございました。
あとは番外編として、好きなように、私得なネタを気が向いた時に書いては投稿していきたいと思います。
重ね重ねになりますが、『名バ列伝「グレートエスケープ」』をお楽しみ頂き、ありがとうございました。