ここで競馬こそこそ話。ラジオたんぱ2歳ステークスは現在のホープフルステークス(GI)なんですよ。
※誤字報告感謝しています。5年ぶりくらいに投稿したらあれこれ使いやすくなってビックリマンです
重賞レースというものは基本的にその日開催される競馬のメインレースに位置づけられている。
今日、俺が参加するレースも阪神競馬場第11レース、つまりメインレースとされている。
ラジオたんぱ杯2歳ステークス。先生はここが本番だといい、ケンちゃんもここで勝つかどうかで来年のクラシックへの道が変わると言った。
重賞ではあるがGIほどではない、そこまで気合いを入れるのは何故かと思えば有力馬が多く集まっているらしかった。
日本の競馬界ではとある波が押し寄せている。外国産種牡馬の波? 否。それ以上の波が押し寄せている。
その正体は――サンデーサイレンスという種牡馬の台頭だ。
去年に初年度産駒がクラシックシーズンを迎え……なんと皐月賞、オークス、日本ダービーというクラシックの大半を制覇してしまった。(ダンスパートナー先輩もサンデーサイレンスの子供)
これから競馬界ではサンデーサイレンス旋風が吹き荒れるだろう……と、新聞に書いてあった。
「それで今回出てくる有力馬がロイヤルタッチ、イシノサンデー、ダンスインザダークか……」
いずれもサンデーサイレンスの産駒にして、ラジオたんぱ杯2歳ステークスの有力馬として扱われている。
俺の立ち位置は新聞を見るに、外国産種牡馬の旋風に立ち向かう立場であるらしい。
「グレ坊、お前本当に読んでるみたいに新聞を眺めるのな……」
厩舎のスタッフが呆れたように言う。読んでるみたい、じゃなくて読んでるんだよ。そう抗議しようにも伝わらず。邪魔しなければなんでもいいが。
ふいにダンスインザダークの項目に気になる文字列を見つけた。
「全姉ダンスパートナー……ダンスパートナーさんの弟!?」
あとで気になったので聞いてみたら、会ったことはないけど同じ母から生まれた子供、間違いなく弟らしい。
会ってみたくて楽しみにしている、とダンスパートナーさんは言う。クラシックを終えて、古馬との戦いでは一緒に走ってみたい……と。
俺はそれを聞いて、なんだかもやもやとした。
寝る時間になったころにようやく、その感情の正体が嫉妬だと気づいて、恥ずかしくなった。
厩舎スタッフの管理もあって怪我や病気などのトラブルなくラジオたんぱ杯2歳ステークス当日を迎えた。
その日のパドックでのこと――
「――我が名は†闇に舞い踊る閃光†」
1頭の競走馬に声をかけられた。鹿毛の馬体はなんとも雄大で、シンプルなほどに強さを誇示していた。
その馬は俺に語りかける。
「我が血に契約されし眷属と神託を受けし者……この身に刻まれた叡智は汝の真名を捉えているが、故に汝の言霊を欲す」
わからん。なんだこいつは。
俺はその馬にかけられたゼッケンの名前を見た。
「ダンスインザダーク……か」
「肯定。我が問いに答えず、しかし偉大なる神の軛から逃れし者よ。弁えておろう……時代のうねりから逃れられる者は何人足りともおらぬことを」
ダンスインザダークの言動こそふざけたものだが、その眼は決してからかいなどではなく、真摯さを感じさせる炎を宿していた。
「何を言ってるかはわからねーが……何を言いたいのかはわかる」
これは宣戦布告だ。お前に勝つという意思を突きつけられている……はず。ちょっと自信なくなってきたな。
それにしてもこいつがダンスパートナーさんの弟……ニワカには信じ難い。顔立ちや体格は何となく似てなくもないような気がするが、如何せん言動のインパクトがありすぎる。
「……お姉さんのダンスパートナーさんって知ってる?」
「無論。我が血族にして試練に挑戦せし者……我が偉業の到達点のひとつにして栄光の一部である」
ダンスパートナーさんの弟ということは確からしい。後半は何言ってるかわからないが。
そんな俺たちに対してまた別の馬が話しかけてきた。今度は2頭、俺と同じ黒鹿毛の馬と栗毛の馬だ。
「おうおうおう! 随分いなかくさいのがいるじゃねえか! OP勝ったからいい気になったカスが人気になっちまって……ウゼーなぁ」
「……誰だよ」
「あ? カスが誰に口利いてんだ。このロイヤルタッチ様に口を利くなんざ10年はええよ」
「ロイヤルタッチ……」
「てめぇ……なんで俺様の名を知ってやがる」
おバカさんなのか? その言葉を飲み込んだ俺の代わりに栗毛の馬が呆れた。
「キミが自分で言ったんだろう。相変わらず、その粗暴な態度は美しくないが……それ以上にキミもまた、美しくないね。血統も時代にそぐわない、それで持て囃されるとは。世間も見る目がない」
「そういうお前は誰なんだ?」
「ものを知らない馬だね。頭の出来まで美しくない……まぁいい。教えてあげよう。ボクの名前はイシノサンデー。美しく、そして誰よりも速い馬の名さ」
そうか。こいつら3頭が新聞で言われていた、来年のサンデーサイレンス産駒の期待馬たちか。
パドックの電光掲示板を見上げると、3頭が1から3番人気を占めている。その下の4番人気が俺となっていた。
「よってたかって何の用だ。パドックで仲良く話すつもりがないのはわかったが、宣戦布告でも?」
「ハッ! 宣戦布告ってもんは対等の相手か格下が格上にやるもんだ! このロイヤルタッチ様がカスにそんなことするとでも?」
「我が孕みし闇が言の葉を紡ぐ。栄光を争うのは我と偉大なる脱走者と」
「そういうことだ。キミに格の違いってものを予め教えてあげようと思ってね」
3頭は突然ポーズを取り始めた。
「最強にして最恐! どんな敵も後ろからぶっちぎる俺様の名前はロイヤルタッチ!」
「最強にして最速、美しさすらも纏ったレースで観るものを虜にするボクの名はイシノサンデー!」
「最強にして最優。闇を駆ける閃光、迷いし旅人が縋り付く最後の希望にして最期の光景。我が真名はダンスインザダーク」
『我ら4人揃って、サンデーサイレンス四天王!』
俺に腕があるなら、頭を抱えていただろう。
「おかしい。おかしい……なんで四天王なのに3人なんだ。おかしいだろ」
「おかしいのはキミの美的センスだよ」
「やかましいわ!」
関西弁が出ちまうわ。
目の前の3頭が決めたポーズは、まぁわかる。なんで四天王なのに3人なんだ。
「俺様の四天王が3人しかいないのは当然だろうがよ」
「君抜いたら2人や」
「冗談は置いといて……あと一人は今回のレースには出走していなくてね。バブルガムフェロー、といえば頭の中まで芋でいっぱいなキミにはわかるんじゃないかい?」
バブルガムフェロー。先週新聞で読んだ。2歳牡馬のチャンピオン決定戦たる朝日杯フューチュリティステークスで勝利したサンデーサイレンス産駒。
来年のクラシック戦線大本命とされている馬だ。
俺は戦慄した。
「汝の恐怖の匂いを、風の精霊が運ぶ。しかし恥じることはなく、これは必然である」
ダンスインザダークが何言ってるのかはわからないから黙っててくれ。
「嘘だろ……お前らの他にバブルガムフェロー……だと」
「はっ、このカス、随分ビビってるじゃねえか! まぁ当然だがな。俺たちという偉大な馬たちの前座でしかなかったってことを突きつけられたんだ。カスらしい末路だぜ」
お、お前らの他にバブルガムフェローがいるなんて、そんな、そんな……!
――こいつらと同じくらい頭おかしいヤツがまだいるなんて信じられるかッ!
「ふ……ここで再度突きつけておこうか」
『我ら4人揃って、サンデーサイレンス四天王!』
「わかった、わかったから! もういいって! 4人揃ってからでいいよ!」
どうしよう。初めての重賞レースだっていうのに変なものを見ちゃった。緊張が消えた代わりに調子が崩されてしまった。
こういうときは近しい仲間を探すんだ。頭のおかしい奴らじゃなくてまともな、そう、内国産種牡馬を父に持つ馬ならこいつらより話が通じるやつが……
他の馬たちに視線を向けたら全員に目をそらされた。
おい。嘘だろ……俺のこと、こいつらの仲間と思ってるのか!?
叫び出しそうな切ない気持ちになったが、ちょうど騎手たちがパドックへ入ってくる。
もうすぐレースだ。それと同時に調教師の黒井先生もやってきた。そして……橘ちゃんも。
初めての重賞レースで来てくれるなんてどんなに心強いか。
年末で仕事も忙しいだろうに。
「グレっちお久ぁ〜! 厩舎に全然会いに行けなくてごめんねぇ……仕事の疲れマジ取れるわぁ……ほんとグレっちすごいよ重賞走るなんて」
なでなでしてくる橘ちゃん。レース前の競走馬にここまで接触する馬主なんてそうそういないだろう。ちょっと珍しい馬主として有名になるだろうか。
美人だし、既に競馬サークルでも馬主や調教師、生産者と知り合って仲良くしていても不思議じゃないが。
「橘ちゃん元気してたぁ? くんかくんか」
声は聞こえないので好き放題言いながら甘えまくる。レース前にはこれがないとやる気が出せない気がしてきた。
「うーん、こいつの馬主好きには驚かされるわ。女が好きってわけじゃなさそうやしな」
黒井先生のぼやきに当然だと心の中で呟く。
今思えば一目惚れだったのかもしれない。なにもどうこうなりたいわけじゃないが、この橘ちゃんという女性が俺は好きになっていた。
一度、調教に若い女の調教助手が乗りに来たことがあった。
可愛い子だったが、ここでやたら走ったら「人間の女だと誰彼構わず喜ぶ変態馬」と思われそうだったのでテコでも調教馬場から動かなかった。
黒井先生にキレられて仕方なく走ったが……腕前も若いだけあって、まだまだという感じだったために調教タイムもなんとも平凡な数字だった。
若くともリーディングジョッキー争いに挑んでるようなケンちゃんが上手すぎるだけかもしれないが。
「橘ちゃん、ご飯食べてる? ちゃんと食べなきゃダメだよ? また痩せた? 好きな男とかいてダイエット? ふふふ、その男教えてよちょっと俺の糞叩きつけてやるから」
「うん……グレっちは元気そうだね! アガりにアガってパリピってるねぇ! よしよし!」
当然橘ちゃんに言葉は通じないがこれだけで充分だ。
見ててくれよ橘ちゃん。初めての所有馬が重賞ウィナーになってラッキーレディにしてみせるから!
「なんか……グレートエスケープ、状態よさそうッスね。最終追い切りもよかったッスけど……それ以上に感じちゃうッス」
「いっそのこと橘オーナーに乗ってもらった方がええんちゃうか?」
黒井先生とケンちゃんの呆れた声は無視だ無視。俺はレース前に充電をしてるんだ。
そこでほかの馬たちがこっちを見てるのに気がついた。
「なに見てんだよッ!」
ほかの馬は全員目を逸らした。
ゲートに入るころには、一周まわって気楽になってきた。もうなんか、あいつらのことは忘れよう。自分の走りをして勝つ。そして橘ちゃんのために、黒井先生とその厩舎のみんなのために勝つ。
一緒に勝つのは、ケンちゃんだ。一番頼れる相棒に全てを託して走る。
俺がやるのはそれだけだ。雑念は排除、雑念は排除……そういえばスタンド前からの発走、しかも重賞で観客が多いというのにやたらリラックスしていた。
頭がおかしいあいつらの相手をすることを考えたら、緊張してもいられないからか。
俺はゲートが開くと同時に飛び出した。
「……!」
どの馬か、どの騎手かわからないが息を呑む音が聞こえた。それだけスタートは得意だ。
当然、今回もハナをとる。
真ん中くらいの枠だがすんなりハナについて、第1コーナーに入る。少し縦長の隊列になったが有力馬たちはどこにいるか、把握はできない。しかし俺が気にする必要はない。すべてケンちゃんに任せて、俺は指示に従って走るだけだ。
後ろから競りかけてくる馬はいない。
ケンちゃんの息遣い、乗り方もリラックスしていて、俺を抑えたり前に行かせようとする素振りは見せない。
「いいとことってやがるな……ロイヤルタッチとイシノサンデーは」
鞍上から声。レースはゆったりと流れていく。体内時計ではスローかつマイペースだ。このままでは直線で瞬発力勝負になるだろうが、俺たちはわざわざそんな戦いをする気はない。
残り1400mからペースを上げる。後ろも徐々についてくるあたり、まだ余裕を持ったスピードで。
そして残り5ハロンから脚に力を込める。
「行くぜグレ坊!」
「応ッ!」
言葉は通じなくても目的は同じ。ケンちゃんの声と鞭に従って普段より早めのタイミングでスパートをかけた。
俺の強みは長くスパートをかけられる持続力、そしてスタミナだ。
その他にも騎手の指示に即座に反応するといったこともあるが、基本的な実力ではそこを武器にしている。
(三馬鹿は、ほかの馬たちはどうだ?)
反応を見る。ほかの馬たちは予期せぬタイミングのスパートに少し反応が遅れている。4角先頭のままゴールへ駆け抜けてやる、とギアをさらに上げようとした瞬間だった。
「狂宴への誘い……!」
「スパートのつもりかよ、カス」
「やはり猿の浅知恵、美しさの欠片もない」
(やはり)とも、(まさか)とも思った。
サンデーサイレンス3頭が一瞬で加速し、俺を狙って追いかけてきた。
読めていた訳では無いはず。俺がスピードを上げたことで騎手が反応し、その指示に対して末脚を発揮させているという競馬としては至って普通の走りだ。
だが――トップスピードに上がる速さが明らかにこれまで戦った相手とは違う。
これが重賞に、これがクラシックに挑むということ!
(だけど、負けてたまるかよ!)
凄まじい切れ味を発揮する馬が勝つんじゃない。勝つ馬はゴール板を1着で駆け抜けた馬だ。
こんなことで心が折れるには早すぎる。
厩舎のみんな、先生、ケンちゃん、ダンスパートナーさんに、先輩たち。そして橘ちゃん。みんなの想いを背負って走る俺に、レース中の弱音は許されない。
『第4コーナーを回って直線だ! 先頭は7番のグレートエスケープ、このまま逃げ切るか。後ろから9番ロイヤルタッチ、10番イシノサンデーが追いかけてくる! さらには2番ダンスインザダークが馬群の間をこじ開けて突っ込んできた!』
阪神競馬場の最後の直線には上り坂がある。
坂の上りで止まってしまえば、脚を残している3頭が俺を差し切るだろう。
でも、止まってたまるか! 止まってたまるか!
すぐ後ろに突っ込んできている馬がいるのはわかっているが、だからこそ最後の踏ん張りを発揮できている。
心技体の3つがあるが、苦しい時に最後にモノを言うのは積み重ねた技術と体力、そしてそれを積み重ねてきた自信からくる精神力だ。
(結局全部必要なんだよォォォォ!)
坂を越えてその先のゴールへ。鞍上からの鞭が俺のトモを叩く。走りやすいように渾身の力で追ってくれている。
ケンちゃんも必死だ。
厩舎のみんなも俺に勝って欲しいからコンディションを整えてくれていた。
だからこそ、みんなのためにも俺は勝たなくちゃならない。
「このカス……!」
「止まらない、だなんて……!」
「我が眼に陰りは無し、故に屈辱……!」
「うおおおおおお!」
『7番グレートエスケープが粘っている! グレートエスケープが逃げる! グレートエスケープが逃げている! 追跡者を振り切ってグレートエスケープが逃げ切りましたゴールイン!』
ゴール板を最初に駆け抜けたのは俺だった。
アタマ差でロイヤルタッチを2着に置き去りにして逃げ切り勝ちを収めた。
あと数メートルゴール板が遠ければ負けていたかもしれない、そんな脚色だったがゴール板はそれより近くにあった。
なんて言おうと、勝者は俺だ。
「……よし」
ゴール後のターフで一人息を着く。
勝利の喜び以上に感じたのは安堵だった。勝つことが出来てよかった、というホッとした気持ち。
力が抜けてふらふらと歩いてしまいそうだが、そんなことしたら厩舎のみんながすっ飛んでくる。俺はシャキッと歩いてコースを歩いていく。
ケンちゃんにとっては何個目かの重賞勝利、俺にとっては初めての重賞勝利。
でもここがゴールじゃない。まだまだ、目指す場所は先だ。陣営での目標は日本ダービーで、俺のゴールも日本ダービーだけだ。
ターフを歩いている時に、4着だったダンスインザダークに声をかけられた。
「偉大なる脱走者よ。我が腕より逃れし翼には賛美歌が相応しい。しかし……刮目せよ。其は、闇の神話の序章にしか過ぎない」
「…………わからんが、えっと。次も負けない……?」
俺の返答に対してダンスインザダークは何も答えず、表情も変えなかった。やっぱりわからん。
「……来年だ」
「あん?」
「来年、クラシックではてめェをぶっ潰す……完膚無きまでな。芋洗って待ってろ、グレートエスケープ」
「それを言うなら首だろう。だがね、グレートエスケープくん。君の名前は覚えたよ。美しさの欠片もない勝ち方だったが、それに負けた自分はさらに美しさが足らない」
ロイヤルタッチとイシノサンデーが踵、いや蹄を返す。
負け惜しみというやつなのかもしれないが、今日の勝ちで格付けがついたとはとてもじゃないが思えない。
たまたま作戦が上手くいっただけの勝利で、決して力の差で勝ったわけではない。
いわゆる「展開が向いた」ってやつだ。
ここからは皐月賞を目指すのだろうが、その前にレースを挟むはず。そこでまた戦う機会はあるだろう。
油断はしてられない。
あいつらの頭はおかしいが、実力は本物なのだ。
まだまだ、あの3頭、そしてまだ見ぬバブルガムフェローは超えるべき壁としてそびえ立っている。
振り返ると、ダンスインザダークだけは俺を見ていた。無表情だが、その瞳から放たれる視線は末脚のように鋭かった。
このあと、黒井先生には「いくでダービー!」と撫でられた。ケンちゃんには「必ず勝たせてやるからな」と励まされた。橘ちゃんとは口取り式のあとに「ここまできたら日本ダービーで勝って欲しい」と素直なお願いをされてしまった。
今日のレースで日本ダービーの険しさを改めて知ることになった。だが、心は折れるどころか燃え盛っている。
どんな強敵も必ず乗り越えて、勝ってみせる――決意を新たに、今日のところは厩舎で仲間たちの祝福を受けるのだった。
×××
目覚まし時計を止めると寝間着からジャージへ着替える。
黒鹿毛の髪の毛と尻尾の毛並みはいつも通りに鮮やか。癖がついていたらコトだ。
朝5時の栗東寮は静かで、朝や夜は混雑する共用の洗面台もとても静かだ。
「眠い……」
顔をしっかりと洗う。春といえど日が昇りきっていない時間帯だと少し肌寒い。
この分ならきっちりとウォームアップをした方がいいだろう。
まだ食堂は閉まっているが朝練をするウマ娘用におにぎりがいくつか保管されている。
具材はランダムなのでちょっとした運試し気分だ。
おにぎりを3個、誰もいない食堂のテーブルで味わい、冷たい水で流し込む。
寮から出ると気持ちのいい空気が肌を撫でた。
「ふぅ〜……絶好の朝練日和だ」
ストレッチを交えつつトレセン学園のコースまで散歩する。コースについても脚や心臓はまだ起床しきっていない感覚がしたので、芝のコースを歩き出す。
怪我は怖いからな。じっくりウォームアップしよう。
(昨日は雨降ってたからちょっと湿ってるな……稍重、まではいかないか)
これならば負担なく走れるだろう。朝は街へランニングに繰り出すウマ娘もいるが、私はコースで走る方が好きだった。
街へ走るのもいいのだが、誘惑が多くて集中しきれない。
ジョグから開始し、芝のコースを一周する。ようやく足が暖まってきて、徐々にペースを上げていく。
春の陽気というよりは涼しく走りやすい気候だ。
「さて……走るとするか!」
ウマ娘、グレートエスケープの朝は気持ちのいいランニングから始まる。
しばらく走れば、いい汗もかいたとばかりに寮へ戻っていく。タイムも体力も脚の状態も問題はない。
ただ、少し腹が空いたことは想定よりズレが生じたことになる。それもまた良し。美味しく朝ごはんを食べることに決めた。
コースから帰る途中でサイレンススズカと出会った。彼女も汗をかいており、ランニングを終えたばかりのようだ。
「おはようスズカ。走るのには気持ちがいい朝だな」
「ええ、おはよう。エスケープも走ってきたのね」
「ああ。私はコースだが、誰もいなかったので満喫できたよ。スズカの好きな誰もいない景色ってやつさ」
「いいなぁ……」
走りにストイックなように見えて、実はただの走るのが大好きなだけのサイレンススズカ。
彼女の羨望の声はまるでおもちゃを自慢された子供のようだった。
「外のランニングも気持ちよかったんじゃないか? この時間なら人の通りもあまり多くはないだろう」
「確かに気持ちよかったけど……コースの雰囲気も味わいたい、走りたい……今から走ってこようかしら」
「そろそろ朝食を摂らないと始業時間ではないのかね?」
「……くっ。明日はコースで走ろう……!」
天性のスピードを持つ快速ウマ娘、サイレンススズカ。彼女もまた、デビューを迎えたら強敵になることは間違いないだろう。
小細工を弄する必要がない大逃げ戦法。
レースで勝つためにも、必ず攻略方法を身につけなければならない相手だ。
食堂は流石に朝ともなるとごったがえしていた。シャワーで汗を流してから訪れると、席もいっぱいで座れそうな場所は見当たらない。
「あっ、おーいエッちゃーん!」
テーブルの一角から声が上がる。私を呼んだのはマヤノトップガン、天真爛漫で大人の女に憧れるウマ娘だ。
小柄な彼女は手を挙げてこちらに振ってくる。
見れば隣の席が空いていた。
「座っていいかな、マヤ」
「いいよ! エッちゃん相変わらず野菜好きだね!」
「マヤの好き嫌いが多いだけじゃないか。大きくなれないぞ」
「もー、エッちゃんまで寮長さんみたいなこと言う! いいの、マヤはほかのご飯を食べて大人になるの」
マヤノトップガン――様々な脚質で走れる稀有なウマ娘。器用でいて、レースセンスもずば抜けているステイヤーにして中距離も走れるオールラウンダーでもある。
それは置いといても、こうして私を呼んでくれるあたり、友人と思っている。
「エッちゃんは朝練?」
「ああ。直にデビューする予定だからな、そろそろ負荷量を上げていかなければならない」
「やったぁ、もうデビューするんだ! じゃあトゥインクルシリーズでは一緒に走ろうね!」
「嫌でも走ることになるだろう。キミはGIクラスまで届くと思っているし、私もそこまでたどり着くつもりだからね。ところで私に勝つならどんな戦法で走るかな?」
マヤにそうやって尋ねると、パンを齧りながら考え始めた。そしてものの20秒ほど待つ。
「……わかっちゃった。エッちゃん、マヤが決めた戦法に対策を立てるつもりでしょ」
「さぁ、どうかな」
「えー、エッちゃんずるいもん。絶対考えたよ!」
「そろそろ食べ終わらないと遅刻するぞ、マヤ」
「あー逃げた! エッちゃんやっぱりずるい……あれ? この前ネイチャちゃんが『大人の女はずるい』って言ってたっけ……むむむ……エッちゃんもやっぱり大人なんだね……!」
マヤの対抗心が少し強くなったように感じた。
どんな理由だ……と思うが走る理由はウマ娘それぞれだ。朝食を終えて未来のライバルとのレースを思い描いた。
……まだまだ足りない。強くならねば。
授業を終えたら早速コースに出る。トレーナーに指示されたメニューに応じて坂路やダート、芝のコースと様々な走路を走りつづけた。
どれも対応すべき走法が違い、疲労する筋肉も変わってくる。だが、トレーニングをこなすうちにタイムも徐々に速くなり、そしてデビュー戦も近づいてきているのがはっきりとわかった。
4本目の坂路を終えたところでエアグルーヴがコースの傍にいるのを見つけた。
「やぁ、エアグルーヴ。敵情視察かね」
「サボってないか確認しただけだ。エスケープ」
じっ、とお互いの視線が交わる。生徒会副会長にして、女帝と呼ばれるウマ娘、エアグルーヴ。
後輩に対する指導も行い、信望も厚い注目株の強敵だ。
「調子は良さそうだな。デビューが近いという噂も本当と見える」
「そっちもな。気が立ってるとも言い換えられる雰囲気、明らかに気合いが入ってるように見える。狙うはオークスか?」
「貴様に言う必要はない。いずれはわかることだ。貴様のことだ、日本ダービーを目指しているのだろう」
「それこそ言わなきゃいけないことかい?」
言い合ってから、お互い自然と笑みを浮かべた。
きっかけは入学試験でのレースだった。試験のレースでまったくの同着で入線してから、何かとつるむことが多くなった。
いわゆる一番のライバルというやつだろう。
デビューをしてもこいつには絶対負けない――心中でそんな想いが燃えていた。
「入学直後は随分鋭かった貴様も、変わったな」
「ウマ娘は成長する。それに、一番大切な部分は全く変わっていないさ」
「ふ……そうか。出遅れたりするなよ」
「女帝サマも、熱発でレースを回避したりしないようにな」
嫌いな訳では無いが、あまり和気藹々と話す気分にはなれない相手。しかし、話すことで多くの実りを感じられる相手でもある。
お互いに話は済んだとばかりに背を向けあった。
まだまだ走らなければ。超えるべき壁に跳ね返されぬよう、再び私はトレーニングのため走り出した。
トレーニングを終えれば日課のトンネル掘りだ。今回のトンネルの名前はディック。部屋から外へ繋がるトムとは別に、寮から学園内に抜け出すためだけのトンネルだ。
勝利には様々なものが必要だが、トレセン学園はウマ娘の生活を守るために寮生活があり、規則もある。
私は規則を守る優等生になりたいのではなく、レースで勝つウマ娘になりたいだけなのだ。その結果、いつでもトレーニングや買い物に行けるような手段を欲していただけのこと。
最初こそシンプルに時を見計らって脱走していたのだが、寮長や警備員との脱走劇によって次第にエスカレート、結果的にトンネルを掘ればいいのではないかという発想に至ったのである。
この前はアグネスデジタルが見つかってしまったものの、トンネルそのものは見つかっていない。
普通そんな発想には至らないが……
「今日はこんなところか。さて。土を捨ててくるか……」
ジャージを袋代わりにして外へ土を捨てていく。トレーニングしたあとだ、ジャージが土まみれでもさほど怪しまれない。
トンネル掘りや脱走は最初こそトレーニングのためだったが次第にストレス発散の手段に変わっているような気がする。
確かに規則から抜け出し、自由に街を歩く背徳感はストレス発散になるし、やる気も上がるというもの。
なんだかんだコンディション調整になっているような気もする。土を捨てて戻ったころには夕日は地平線に沈んでいた。
「エッちゃん!」
ふいに呼び止められて肩が跳ねる。別に後ろめたいことをしてるから肩が跳ねるのではない。呼び止めてきた相手が相手だから肩が跳ねた。
「アイネス姉さん……」
「トレーニング終わりなの? いつも頑張ってて偉いの!」
私の頭を撫でてくるアイネス姉さん。土で汚れるよと伝えても「いいの、いいの」と楽しげだ。彼女の方が小柄なのに、ついつい頭を下げて撫でられるがままになってしまう。
「アイネス姉さんはどうしたんだい? またアルバイト?」
「今日はちょっとお勉強。エッちゃんはちゃんと勉強してる?」
「しているよ。テストでは問題ない点を取れている」
「でも、時々おサボりさんなことも聞いているの」
「う……まぁ、それは、あるかもしれない、が……」
アイネス姉さんには前から頭が上がらない。こうして痛いところを突かれるとついつい耳が垂れてしまう。
「もー、授業もちゃんと受けないとダメなの。デビューが近いからトレーニングしたいのもわかるけど……エッちゃんは絶対にすごいウマ娘になるから、そんなに焦らなくてもいいの」
「そういうものかね」
「そういうものなの。デビュー戦決まったら教えてほしいの。絶対応援に行くの!」
その後しばらく、アイネス姉さんと話し込んだ。
もうすぐデビュー戦。今夜は布団にもぐりこんで、早くに眠ることにした。
トレセン学園の一日はウマ娘みたいにあっという間に駆け抜けていく。けれど、無駄にできる日は一日もない。
トレーニングの末に、レースに勝利する自分の姿を思い描きながら瞼を閉じるのだった……。
グレートエスケープのヒミツ その①
・ジャンクフードが実は大好き。
※この作品は優駿劇場、マキバオーをリスペクトしています
競走馬ワールド
今日の被害馬
「ロイヤルタッチ」
史実ではイシノサンデー、ダンスインザダークを抑えて重賞初勝利。1から3着を独占したことでサンデーサイレンス産駒強しの風潮を生み出したとされているが、ウマムスキーワールドではグレートエスケープに僅かに届かず敗北。このあときさらぎ賞勝てるはずだから、許してくれ!