名バ列伝『グレートエスケープ』【完結】   作:伊良部ビガロ

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※誤字が多くてすまない……すまない



第8話 焦燥と憧憬

 私は手足を縛ったウマ娘たち数人に向けて声を上げた。覆面にジャージ姿、格好は完全に不審者だ。ほかのウマ娘たちも怖がっている。

 

「動くな。動いたらペイント弾で芦毛だろうと青鹿毛だろうとカラフルにしてしまうぞ」

 

 モデルガンを向けると人質のウマ娘たちは悲鳴を上げた。教室の一室に集められたウマ娘たちは隅っこに身を寄せあっている。

 

「うーむ、一人だと自由が利かないしな……だが問題は無い。そこの君、来てもらおうか」

「ぴえ、ご、強盗ウマ娘の言いなりになんかならないぞ! この無敵のテイオー様は悪には屈しない! シンボリルドルフ会長だってきっとそう言うもん!」

「ルドルフ会長に憧れてるのか。ブロマイドいる?」

「わぁい! いる!」

「暴れたらブロマイド上げないからな。人質としてきちんと働いてくれ」

「はーい! ところでなんでウマ娘さんは強盗なんてしてるの?」

「……いや、生徒会なら……んん? キミは……生徒会所属のウマ娘じゃないな?」

「そうだよ? ボクの名前はトウカイテイオー! いずれ無敗の三冠を手に入れるウマ娘だ!」

 

 しまった。

 本来いるはずのないウマ娘が紛れ込んでしまっているようだ。エアグルーヴに引き渡すか……いや。

 

「トウカイテイオーくん。君には少し協力してもらおうか」

「協力……?」

「宝探しのようなものだよ。生徒会室にあるんだが……手伝ってくれないかい?」

「えー、面白そう! ってダメダメ! 強盗ウマ娘さん、悪いことしてるんだから」

 

 意外とちょろくないというべきか。トウカイテイオーと名乗るウマ娘と目線の高さを合わせた。

 

「本来これは防犯訓練でね……私は犯人役をやっているだけのウマ娘なのだよ。トウカイテイオーくん、訓練を上手くいかせるためにも、協力してくれないかな」

「訓練……? あっ、そういえば会長がそれで一緒に併走できないって言ってたヤツだ! じゃあちゃんと終わらせれば会長もお仕事すぐ終わるかな?」

「無論だ。お互いに利害が一致したわけだな……よろしく頼む」

「うん! このテイオー様にまかせたまえ!」

 

 調略完了。

 ふふふ、私の計画は依然問題なく経過している……防犯訓練に協力するのだ。これくらいの旨みがなくては……私はマニュアルに定められた道を進んで行った。

 

 

 

「防犯講習?」

「そうだ。トレセン学園には警備員がいるが、それでも侵入しようとする不審者は時々いる。無論、対策を立てているがイタチごっこになっているのが現状だ」

 

 授業の合間の昼休みに、クラスメートのエアグルーヴに声をかけられた。

 話を聞くと協力して欲しいという依頼であり、その内容が防犯講習ということだった。

 授業中に教科書で隠しながら読んでいた名作ウマ娘スポ根漫画「月光のマキバオー」を片付けた。

 

「だが不審者には様々な種類がいる。行き過ぎたファンにスクープを狙う悪質な記者、さらにはトロフィーやウマ娘の私物を狙う窃盗犯……過去には様々な侵入者が現れている。そんな犯人とウマ娘が不意に遭遇した際は危険だ」

「犯人が?」

「それもあるが……その娘の心に癒えない傷を刻みかねん」

「同意はする。私もほかのウマ娘が無闇に辛い目に遭って欲しい訳では無い。だが、毎年生徒会で講習や防犯週間のようなものをやっていないか? 私が関わる余地はないと思うが」

 

 トレセン学園の生徒会の仕事は多岐に渡る。何でそんないっぱいやることが多いのか疑問に思うこともあるが、とにかく色々やっている。

 その中にもこうした防犯週間とか、災害時の避難訓練、防災活動、健康増進週間とか、ウマ娘の安全と健康を守る活動も行っているから頭が下がる。

 しかし基本は生徒会活動主導のものだ。部外者の私が関わることはなかったはず。

 

「ああ、だが毎回同じことをやっているせいか、ウマ娘も危機感を覚えなくなりつつあり……無論それはいいことなのだが、いざというとき身を守るのはやはり自己の冷静な判断だ。私としては防犯に関わる委員会の常設を提案したのだが……」

「難しいのかね?」

「会長の受け入れがあまりよくなくてな……『それでいいんかい?』と度々確認してくるほどで……エスケープ、どうした。腹でも痛いのか」

「ッ……いや……! そ、そういうわけじゃ、ふ、ふふっ……! い、いいんかい、よ、よくはないな、うん……ふふっ……!」

「……やはりレースで疲れているのだろう。この話はほかのウマ娘に」

「ごほんっ。疲れている訳では無いが……そこで何故私に話が来るんだ?」

「生徒会に所属する娘からの提案でな。抜き打ちテストをすればいいのではないか、という案が出たのだ。警察関係者の講習はもちろんだが、その前に実際にそういった場面に遭遇することで、身を守るときはどうするか、何をすべきなのか、より明確になると」

「読めてきたな。そこで被害者役として私を選んだわけか」

「いや、満場一致で犯人役に選ばれた」

 

 なんだと。

 私のような成績優秀、文武両道なウマ娘に対して何故そんな意見が上がるかわからない。

 嘘だろう? とエアグルーヴの目を見つめると彼女はぎらりと眼光を輝かせた。

 

「脱走回数計測不能、立ち入り禁止時間に校舎へ進入、持ち込み禁止物品の持ち込み、及びそれらの無許可での販売……着いたあだ名は『栗東の脱獄王』『ねずみ小僧』『血染めの侵入者』等々。貴様が犯した罪は枚挙に暇がない」

「ふむ……そんなにやったかな?」

「罪に対する詰問は置いておこう。今回はな。様々な侵入、脱走を実施している貴様なら不審者役に相応しいだろうという意見が多く出たのだ」

「そこで模擬的に侵入と、防犯をするわけか。イベント性もあって、ウマ娘たちも注目をしそうだな。大切なのはまず興味を持つこと、それがなくては始まらない。いい案だと思うが……」

「私としては反対だ。貴様に頼るのもそうだが、もしも本物と勘違いしたウマ娘と事故があった場合、レースに差し支える」

 

 エアグルーヴがそんな殊勝なことをいうとは。

 女帝様はそういうところで妙に可愛いことを言うから困る。

 思わずニヤニヤしているとエアグルーヴが訝しんだ。

 

「心配してもらえて嬉しく思ってね」

「なっ……だ、誰が貴様などの心配をするか! 怪我をさせたウマ娘を心配しているだけだッ」

「エアグルーヴは可愛いな……いっそのこと部屋に侵入してみようか」

「ッ〜! ふざけるな! 結局協力するのか、しないのかを答えろ!」

 

 からかいすぎたらしい。

 椅子に座り直してから佇まいを正した。

 

「ちなみに、対価は?」

「貴様のことだ。そういうだろうとは思っていたが……生徒会に参加している娘たちは皆信念を持った上で業務に当たっている。そのような不純な動機で臨むのであれば不要だ」

「対価を支払うのが不純だというのは、らしくないなエアグルーヴ。……まぁ、私としては委員会という手段もいいと思うがな。ルドルフ会長も本当に拒否するつもりはないのだろう」

「なぜわかる。会長はわざわざ私の意見を断っておきながら受け入れるなど……『いいんかい?』『委員会』……ハッ!? まさか! くっ……なんということだ……会長の真意に気づかなかったとは……不覚!」

 

 まずい。思い出したら笑いが。

 エアグルーヴは少し肩を落としつつ言葉を続けた。

 今の時点では既に模擬的な防犯行動を行うことで話がついてしまっているため、この方式で行くしかないとのこと。

 他にも候補はいるから断ってもいいとのことだったが……。閃いた。

 

「協力しよう」

「対価の話はどうなった?」

「それは貸しということにしておこう。エアグルーヴたちも忙しそうだからな、仕事を増やしたいわけではない」

「……助かる」

「構わんさ」

 

 そうして防犯訓練当日を迎え、今に至る。

 心中に計画を秘めながら……。

 

 

 

 防犯訓練イベントの全容は以下の通りだ。

 今回は生徒会所属メンバーが被害ウマ娘役、そして犯人役が私で進む。犯人役の私はトレセン学園に侵入、会議室にいた生徒会所属のウマ娘を人質に、強盗を企てる。

 狙う物は生徒会室に飾られているトロフィー(ダミー)で、そこに至るまでのセキュリティー及び警備員の対応、そこに居合わせる予定の生徒会所属ウマ娘が対応するという段取りになっている。

 一応プロレスのようなもので、私が捕まるところまでは決まっているのだが、セキュリティーの穴を見つけるためにも本気でダミートロフィーを盗み出すつもりでやるように、ということになった。

 

「でも生徒会室なんて誰でも入れるでしょ? さっさと行ってさっさと獲っちゃえばいいじゃん」

「普段はそうだろうな。だが、今は訓練中。学園のセキュリティシステムが作動中なんだ。無暗に触れると警報が鳴るからあまり触らないようにな。わかったかね」

「了解であります、タイチョー!」

 

 トウカイテイオーは楽しんでいるらしく、敬礼で返事をした。

 まずは最初の難関、階段に下ろされたシャッターだ。

 

「ウマ娘の力ならこのシャッター、持ちあがりそうだよ。ボクやってあげようか!」

「それもいいが大きな音が出てしまう。ここはスマートにいこう……というわけで! これの出番だ」

「スマホ?」

「今はなんでも電子制御の時代、デジタルにはデジタルで対応するもんだ」

「スマホとコードでつないで……あっ、ハッキングでしょ! スパイ映画みたいでかっこいい!」

「正しくはクラッキングだがね。エアシャカールから借りたツールを使って……」

 

 職員のパスワードはPCにシールで貼られていたりして、盗み出すのはとても簡単だ。

 これもデジタルセキュリティの問題点になるだろう。

 スマホから管理者権限を持つPCへアクセス、情報を確認しシャッターを開かせた。音を立ててがらがらと上がっていくシャッター。無理矢理持ち上げるよりは小さな音で済んだ。

 

「おぉぉ……タイチョーかっこいい!」

「ふふふ。少女よ。時には力や速さだけではなく頭脳も必要になるのだよ。さぁ、進むとしよう」

 

 ――一方そのころ。

 生徒会、臨時防犯対策室。エアグルーヴは訝しんでいた。

 

「会長、もう訓練を開始して10分になります。だというのに未だに警報が鳴らないのは異常があったと考えられます。確認してきましょうか」

「訓練は続行すべきだろう。警報が鳴らない理由によるが、それもまた問題点として上がる。最後にすべて確認するとしよう」

「はい……ですが、犯人役はグレートエスケープです。何をしでかすか……」

「彼女はああいう振る舞いこそするが、根は他のウマ娘のことをよく考えている。この前も食事の席を共にしたが有意義な話ができたよ」

「あいつが……いえ、まだ待機することにします」

「そうだ。泰然自若、今は雌伏の時だ」

 

「――なんて、呑気しているのだろうが、こちらは本気でいく。対価も無しに本気で協力するわけがないだろう」

「何の話?」

「なんでもない」

 

 エアグルーヴあたりは怪しんではいたようだが、私の立てる計画の内容そのものを察知することはできていなかった。廊下を進んでいると生徒会室へ至る曲がり角に人影が見えた。

 

「む、見回り役の生徒会所属のウマ娘だ」

「見つかっちゃうとどうなるの?」

「知らないのか? 通報されてしまう」

「めちゃくちゃヤバイじゃん! でもこのままじゃ生徒会室まで行けないし……」

 

 トウカイテイオーが頭を抱えてうなっている。すっかりこっち側の立場になっているようだ。

 だが、こちらには『これ』がある。

 懐から黒光りする物品を持ち出した。テイオーはぎょっとした。

 

「ちょ、拳銃っていくらなんでも」

「心配しなくていい。中身はペイント弾、毛色がカラフルになるだけだ」

 

 拳銃を持ち出して生徒会所属の茶髪のウマ娘に近付いていく。のっそり近付く姿に相手が気づくも、こちらの手に持つ拳銃に気が付くと尻尾を総毛立たせた。

 

「あっ、あの、これって訓練ですよね……?」

「訓練だが……こうして凶器を突き付けられても通報なんてできるかね」

「あの、えっと、あのあのあの……」

「確保ォーッ!」

「きゃあああああっ」

 

 生徒会所属のウマ娘を抱きしめるようにして捕まえると、持っていた紐で簀巻きにしていく。肌を傷つけないように縛り上げるとそっと頭と頬を撫でた。

 

「すまないね、お嬢さん。こういう目に遭わないよう、気を付けるんだよ?」

「ひゃ……ひゃい……」

 

 茶髪のウマ娘はうっとりとしながらその場に崩れ落ちるように座り込んだ。

 少し怖がらせ過ぎてしまっただろうか。

 本番があったらもっと怖いだろう。ただ、本番がこないようにするための訓練でもある。

 

「さぁテイオーくん、行くぞ!」

「イエッサー!」

 

 テイオーと生徒会室へ向かう瞬間、背後に気配を察知する。

 

「あっ。ふ、不審なウマ娘発見! け、警備室! 不審者を発見しました!」

 

 他の見回りウマ娘に発見されてしまった。

 ここからは時間との勝負だ。

 

「テイオー、君は脚に自信はあるか?」

「何言ってんのタイチョー。僕は無敗の三冠ウマ娘になるんだよ? タイチョーも置いて行っちゃうから!」

「良い返事だ」

 

 見回りのウマ娘が縛った茶髪のウマ娘に駆け寄っている。

 犯人確保より仲間の安否確認を優先する素晴らしいウマ娘だ。あとでルドルフ会長に報告しておこう。

 

「大丈夫!? 犯人に何かされた!?」

「ぬ、盗まれちゃったぁ……」

「何を!?」

「わ、私の……心です……!」

「ずっ、ずるい!」

 

 あの二人はこっちを追うのは難しそうだ。トレセン学園の廊下を滑らないよう気を付けながら走り抜ける。

 トウカイテイオーも私にぴったりとついてきていた。走りから感じる柔らかなフォームは瞬発力とスピードを武器に活躍する姿を予感させる。

 意外な強敵と出会ったかもしれない。

 なにはともあれ、トウカイテイオーのことを気にせず走ったおかげで想定より早く生徒会室まで来ることができた。

 

「ここが生徒会室だが……」

「うーん、鍵がかかってる……タイチョー、どうするの?」

「時間がない。かといって蹴り壊せば本当に怒られるからな。ここは……こいつの出番だ」

 

 取り出したのはピッキングツール。鍵をかちゃかちゃっと……ちょっと複雑だが私にかかれば3分とかからない。

 生徒会室の重い鍵はかちゃん、と音を鳴らした。

 

「よし! 突入するぞテイオーくん」

「イエッサー!」

 

 扉を開けると無人の生徒会室が広がっている。テイオーはルドルフ会長が座る椅子に腰かけた。

 

「おおー、ふかふか……いつもカイチョーが座ってるし、初めて座ったかも」

 

 テイオーは生徒会室をあちこち物色している。

 盗むべきトロフィーは決められた場所に飾られているが……『Eclipse first, the rest nowhere.』の標語が飾られた額縁に最初に手を伸ばした。

 

「これでよし、と」

「タイチョーなにしてるの?」

「ちょっと今後の投資を、な」

 

 突然、生徒会室の扉が開かれる。扉に待ち構えるのはエアグルーヴ率いる警備員の部隊だ。人間の警備員だけではない、ウマ娘の警備員も多数いる。

 

「犯人に告ぐ。貴様は完全に包囲されている。大人しく投降しろ」

「トレセン学園には登校しているぞ? ふふ……」

「やかましい! 予め決めていた段取りではここまでなのだから早く捕まれ!」

 

 エアグルーヴに従って両手を上げる。トウカイテイオーが悲しそうに声をあげた。

 

「た、タイチョー! 一緒に逃げようって約束したじゃん!」

「すまないテイオー……君は幸せになるんだ。彼女は人質にしていただけだ。犯人は私一人、逮捕するなら私だけを逮捕するんだ……」

「た、た……タイチョー!」

 

 トウカイテイオー……お前はきっとなれる。私の背中を見て戦ってきた時間は短くとも、必ず私を越えられるはずだ。

 きっと君は――素晴らしい怪盗になれる!

 

「……茶番は終わりか? 次は問題点の確認と対策のための会議だ。後がつかえている。早くしろ」

「あッ、ちょ、なんで縛って引っ張るのかねエアグルーヴ! 離したまえ!」

「貴様を自由にしておくと何をしでかすかわからないからだ!」

「くっ……今回は協力していただろうが!」

 

 警備員や生徒会所属のウマ娘たちに連行されていく姿は完全に逮捕された容疑者そのもの。この場合は現行犯逮捕か。

 ひとまず計画が上手くいったことに安堵しつつ、この後の会議では警備に対する問題点を挙げていくのだった。

 

 一方そのころ、トウカイテイオーは――

 

「あ、タイチョーの名前聞いてなかった……ま、すぐ会えるよね!」

 

 

 

 会議も終わった夜。ここからが本番だ。

 会議では侵入しやすいルートや警備システムの穴を指摘したが本当に全部修正させたら私が侵入したり、好き勝手やりづらくなってしまう。

 

「当然、私のためのルートは残しているとも」

 

 向かうは資料室。そこには過去のレース映像が豊富に保管されているため、研究にはピッタリの場所だ。

 しかし映像は貴重なものも多いため、持ち出し厳禁。基本的に資料室での閲覧に限られるのだが予約制であり、思った時に見られないのが困りもの。

 そこで忍び込み、夜中にレース映像を見て研究しようというわけだ。

 今回の寮脱出ルートは廊下の通風口からダクトを通り、屋外へ出る。服が汚れるがそこはレースのためなら仕方のないこと。

 寮から外に出たらあとは予め決めておいたルートから学園の資料室へ向かうだけだ。学校の通風口にも通れる場所はある。

 ダクトから資料室へ降り立つ。

 

「ふ、侵入成功だ」

 

 そうつぶやいたのがいけなかったか。視界が光で埋め尽くされる。周囲からスポットライトで照らされていた。

 

「そうだろうな、貴様ならそうすると思っていたよ。エスケープ。覚悟はできているだろうな」

「しまった……!」

 

 生徒会所属のウマ娘たちが瞬く間に詰め寄り、確保されてしまう。

 その中には昼間の茶髪のウマ娘もいた。

 

「責任とってくださいね!」

「なんの!?」

 

 結局、確保された私は翌日は反省文を書かされてしまうのであった……。

 

 後日――

 

『やはり定期的に見回りを行うべきで、トレセン学園周囲のこのルートを……』

「なに聞いてんだ? 音楽とか聞いてるトコ、見たことねえけどよ」

「これか? ……ゴシップ、かな」

「はぁ?」

 

 今回の防犯訓練の本当の目的は――生徒会室に盗聴器を設置することだ。

 こうして生徒会の重要な情報はいくらでも仕入れることができ、結果として自由に動きやすくなるというわけだ。わざわざジャージをススまみれにして反省文書いた甲斐があったというもの。

 カフェテリアでのんびりコーヒーを飲みつつ、値千金の情報を手に入れるシステムは便利なことこの上ない。

 対面に座るウマ娘、エアシャカールにカップを小さく掲げて見せた。

 

「ところでエアシャカール。先日は助かった……データ測定は今日で大丈夫かね」

「ああ、構わねえぜ。蹄鉄の重量とコーナーにおけるタイムを確認してえがオレだけだと偏りがあるからなァ……」

「私にとっても君のデータに対する着目点は興味深い……」

 

 今日も勝利を目指して、エアシャカールと併走やレースに対する議論を行うのであった。

 

 

 ×××

 

 

 

「黒井先生……大丈夫ですかね、グレートエスケープ号は」

「時計に問題はないし、怪我や体調不良も認めない。客観的にはむしろ好調といっていいんやけど……なぁ……」

 

 グレートエスケープ担当厩務員の西京が唸りつつ、ちょうど今削蹄されているグレ坊に視線を向けた。

 あの馬は調教師を長年やってきた自分にとって特別な管理馬になるだろうと信じていた。人間並みに賢いのではないかという予想があながち間違いでもなさそうで、それでいて競走能力も高い、三冠だって狙える馬。

 その特別なサラブレッドは黙って蹄を削られ、蹄鉄の調整に対しても大人しいどころか微動だにせず作業を受けている。

 決してうるさい馬ではないが、脱走癖ともいえる逃亡根性があるあの馬にとって削蹄や装蹄の時間は脱獄しやすい時間ではある。

 当たり前だが脱走は様々な理由から危険であり、一度脱走できないよう厳重に警備したらみるみる体重が減りだしたのでリフレッシュも兼ねて放すこともしている。時々自力で逃げ出してもいるが……。

 常に監視をつけているがやはりグレ坊は賢い。調教師をやってきて随分経ったが、ここまで賢い馬は初めて見た。

 あくまで安全な場所にしか行かないし、知らない場所へも勝手に行かない。馬という動物の危機察知能力もあるが。

 そんなグレ坊が弥生賞後、急に普段の迫力が無くなってきた。

 弥生賞は余力を持って完勝、レース後のダメージも最小限で済んでいた。

 病気も怪我もしていない。

 調教も問題なく走れてるし、馬体が成長したのもあってタイムも速くなっている。

 

「……馬なりに、察知しているんですかね」

「かもな。あいつ、馬主に異常に懐いてるからな……」

 

 弥生賞から約1週間後。馬主の橘オーナーを訪ねる予定だったが、オーナーが倒れ、入院したことを教えられた。

 皐月賞は入院のためレースへ来られないことを謝られ、その上でグレ坊を頼むと手紙でお願いされてしまった。

 基本的に面と向かって会うようにしている橘オーナーが手紙を寄越すということは、いやでも不吉な事実を想像させた。

 賢いグレ坊のことだ。それを察して落ち込んでいるのかもしれない。

 

「……いや。俺らがナーバスになってるから馬に伝わっとるんや。皐月賞まで悩む暇はないんや。グレ坊が勝てるように全力を尽くすまでのこと」

「そうですね。あの馬はきっと凄い馬になりますから」

 

 装蹄されているグレートエスケープは相変わらず静かだった。馬体の成長、重賞の2連勝と風格を感じるが、やはり良かった時の雰囲気とは違和感がある。

 

「グレ坊……お前ほど賢くても何を思ってるかわからなくなるんやな……」

 

 調教師である自分の無力さを覚えながらも、オーナーと馬のためにもクラシックを勝ち取らせることを改めて決意した。

 

 

 

 皐月賞前の最終追い切りで、俺は少しイラついていた。

 乗るのは当然グレートエスケープ。皐月賞大本命に上げられる馬で、ここを勝てば俺はクラシック初勝利。

 現役で手に入らない騎手もいる中、23歳という若さでその称号を手に入れることに期待しないわけが無かった。

 ライバルとされていたバブルガムフェローは前哨戦のスプリングSを勝利後、骨折が判明。復帰は半年後とされダービーにも間に合わない。

 次いで対抗馬扱いされていたダンスインザダークも熱発で回避することが発表された。

 ロイヤルタッチとイシノサンデーも強い馬だが、ラジオたんぱ、弥生賞のレースができればこちらが勝つだろう。

 つまり、皐月賞は絶好のチャンスといえた。だが……

 

「グレ坊、なんだか走りに身が入ってないッスよ」

「そう感じるか。弥生賞の後からずっとこのまま……気持ちが切れたんやろうか」

 

 気持ちの問題か? 調教をちゃんとやっとらんのちゃいますか?

 苛立ちからその言葉を吐き出しそうになるもそれは堪えた。黒井先生だって「そこを走らせるのがジョッキーやろがい!」と怒りたくなっているかもしれないし、実際そこができないのなら一流ジョッキーとはいえない。

 しかし、あれほどの馬があんな凡庸な走りをするのが許せなかった。

 

「タイムは文句なし、だけどなぁ……」

「あいつから感じていた闘争心がないわけじゃないと思うんス。併せた馬に競りかけていくし、真面目に走っていますが」

「故障じゃない、気持ちと言うにはタイムが良すぎる……」

「俺たちの勘違いということも有り得ますけどね」

「まぁな。馬だって生き物やし、レースということはわかっていたり、わかっていなかったりするからな」

 

 今の走りでも皐月賞で勝利は充分に狙える。だが、グレートエスケープに対する危うさを心のどこかで覚えていた。

 とはいえ最終追い切りは終了しており、今からできるのは桜花賞のエアグルーヴや今回のバブルガムフェローのように熱発や怪我をさせないことだ。

 今のコンディションを保つしか手がない。

 

(それを勝たせてこそ……一流ジョッキーっしょ)

 

 皐月賞は俺のものだ。その先のダービー、菊花賞も掴んでみせる。

 騎手になった以上は誰もが求める栄光が掴めるところに転がっているのなら、飛びついてでも手に入れる。

 グレートエスケープとなら、必ず獲れると信じて、皐月賞の日を迎えるのだった。

 

 

 

 ぼけぇー……。

 橘ちゃんが倒れた。彼女は今年で29歳、まだまだ若く、病気をするような歳ではないし、持病も持っていないはずだ。

 

 きっと仕事で疲労がたまったとか、風邪をこじらせただけのはずだ。何も問題はない……ゆっくり休めばすぐに良くなる……そう思っていても不安がいつも押し寄せてくる。

 俺だって30歳で死んで? 競走馬になったのだ。人は死ぬときは死ぬ。だからこそ不安が針のようになって俺を突いてくる。

 

「おいグレートエスケープ。今日はテメーが1番人気だが、残念だったな。レース後にテメーが浴びるのは歓声じゃなく罵声だ!」

「応援ありがとうロイヤルタッチ」

「あ゛!? 馬鹿にしてんのか!?」

「やめなよロイヤルタッチくん。彼のような美しくない馬がGⅠ、それも皐月賞で1番人気なんだ。浮かれるのも仕方ないよ……」

「ああ、そうだな……」

「ふん。どうやら僕すらも舐め切ってるようだね……」

 

 パドックを回りながらとりあえず返事をする。

 現在の俺の単勝オッズは1.8倍、2番人気がロイヤルタッチで6.7倍、3番人気は重賞2連勝中のサクラスピードオー、4番人気に前走の若葉Sでロイヤルタッチを破ったミナモトマリノス。次いで5番人気はイシノサンデーとなっている。

 競馬新聞によると、そもそも今年のクラシック前評判はバブルガムフェローと俺、グレートエスケープが東西における本命対抗とされていた。そこにダンスインザダークが追従し、イシノサンデーとロイヤルタッチが三つ目のグループとして扱われている。

 しかし今回の皐月賞ではバブルガムフェローは骨折でダービーも絶望的。ダンスインザダークは熱発により回避ということで俺に人気が集中する形となった。

 そのためトライアルで敗戦したロイヤルタッチ、イシノサンデーは俺より格が落ちるとされ、未対戦のミナモトマリノスとサクラスピードオーが相手とされていた。

 

『では皐月賞のパドックを見てみましょう。前評判では東西2歳王者バブルガムフェローとグレートエスケープの一騎打ちと見られていましたがバブルガムフェローは残念ながら骨折となってしまいました』

『残念ですね。それにダンスインザダークも出走を回避、こうなるとグレートエスケープが頭一つ抜けています』

『ちょうどパドックでは1枠1番、グレートエスケープが映っています。どうですかこれは』

『良い仕上がりですね。陣営もトラブルなく来れたと言っています。今や外国産種牡馬全盛ですからね、グレートエスケープに期待しているお客さんも多いんじゃないですか。それがオッズに出ていると思います』

『ここまで5戦4勝、前走の弥生賞は余裕をもって先行策からの勝利でした。現在単勝オッズは1.8倍の1番人気です。続いては1枠2番の――』

 

 テレビカメラが俺から別の馬へ向く。

 皐月賞で1番人気になったというのに、緊張がまるでない。むしろ、どこか現実感がなくて、夢でも見ているかのようだ。

 調教師と騎手が出てくる方向へ目を向けても、関係者の橘ちゃんはいない。

 いないと寂しいが、駄々をこねる子供じゃないのだからレースは走る。むしろ、いないからこそ勝利して元気になってもらわないと困る。

 ――悲しいが、所詮俺は馬だ。

 どんなに頑張っても、入院している橘ちゃんに差し入れを持っていくことはできない。

 俺ができるのは、走ることだけ。絶対に勝たなくちゃいけないんだ。

 

「とまーれぇー」

 

 係員の声がすると俺を引く厩務員の西京さんが歩みを止める。

 黒井先生とケンちゃんが出てくるが、そこに橘ちゃんはいない。弥生賞の時は平気だったのに。せめてなんで入院したのかどうかだけでも、知りたい。

 だが俺にそれを求める術はない。ケンちゃんが俺に跨り、黒井先生は「自由に乗ってくれ」と指示を出す。

 黒井先生も油断はしていないが力関係では俺が上位だと考えているようだ。

 

「貴方がグレートエスケープさんですか!」

 

 近くにいた馬から声をかけられる。15番のゼッケンと名前を見れば今日の3番人気、サクラスピードオーという馬だった。

 

「今日は貴方と逃げの戦いになるでしょう。ならば、当然スピードが速い方が勝ちます! そして勝つのは私、サクラスピードオー! なぜならスピードの王ですから!」

 

 こちらに向かって啖呵を切ってくるスピードオー。

 皐月賞と同じ中山芝2000mが舞台の重賞、京成杯を勝利し、その勢いで共同通信杯も制覇したこのレース注目の馬だ。

 戦法は逃げ、黒井先生もこいつと潰し合いになるのを警戒して逃げの指示は出さなかった。

 

「……おや? 私の素晴らしいスピードに声も出ませんか。私が速すぎて反応が追い付いていませんね! 最も速い馬が勝つ皐月賞、やはりスピードの化身たる私のモノですね!」

 

 高笑いをしながらパドックから本馬場へ歩いていくサクラスピードオー。

 ライバルたちは多い。ロイヤルタッチやイシノサンデーも人気こそ落としているが実力まで落ちたわけではない。それどころか逆転を期して仕上げてきてすらいる。

 弱気になりそうな心に活を入れる。

 大丈夫だ、自分を信じろ――ここまで5戦4勝、誰よりも優れた結果を残してきたのだから。絶対に大丈夫……俺は自分に念じながら、返し馬に臨んだ。

 

 

 

 馬場では大歓声が俺に浴びせられた。これがGⅠか――しかし心は驚くほどに凪いでいた。

 口々に「サンデーに負けるな!」「日本の底力を見せてくれ!」「今月の給料全部賭けてるからなぁ!」と応援が聞こえてくる。

 これだけの人が俺が勝つことを期待していると思うと、不思議な気分だ。

 スタッフや先生のためだけじゃない、ファンのためにも勝たなければ。

 係員の誘導に従い、1番ゲートへ入る。

 1枠1番はロスなく先行できる絶好の枠だ。サクラスピードオーの出方を見て決められる。逆にスタートに遅れれば後方へ包まれてしまう。スタートだけは完璧に決めなければ……!

 大外枠の18番がゲートに入り、歓声が上がる。皐月賞が、今始まる!

 

『第56回皐月賞、大外の18番オンワードアトゥが収まって体勢完了。スタートしました!』

 

 ゲートが開くと同時に脚へ全力でパワーをまわす。芝よ抉れろとばかりに力を込めて踏み出し――ガクン、と力が抜けた。

 

『ああっと1枠1番グレートエスケープ躓いた! 12万の大歓声が悲鳴へ変わったァーッ!』

 

 体勢を立て直したときには、既に第1コーナーで好位置をとるべく他の馬たちが殺到していた。とてもじゃないが逃げどころか先行することすらできない。

 

「まずい、まずいまずいまずいまずい、まずい!!」

 

 どうする? このままインコースを通って直線まで行くか? 無理だ。インを突いて前が開くわけがない。それに東京ならともかく、中山の短い直線で直線一気で勝てるような切れ味を俺は持っていない。

 だから先行しようとしてきたんだ。

 外を回して捲る? 余計なスタミナを消費してなお勝てるか?

 どちらも無謀だ。そもそも俺が勝つための前提がスタートを五分以上で決めて前につけることだ。それが崩れた時点で勝率ががくんと下がる。

 だったら――前につけて勝ちを狙うしかない!

 

『1番グレートエスケープは最後方を追走、向こう正面に入ります。先頭を逃げるのはやはりサクラスピードオー、快調に飛ばしています。2番手に2馬身、3馬身差をつけていきます。それを追うのが3番ダンディコマンド。そこから大きく7馬身ほど開いています!』

 

 だがいきなりは行かない。今はサクラスピードオーが単騎の逃げへ持ち込むべくペースを上げている段階だ。脚を使わず追走に専念する。

 

「これはきついっしょ……直線で前が空くのを祈るしかねえっしょ」

 

 ケンちゃんの諦めたような声。

 何言ってやがる!

 俺はハミを噛んで頭を振った。橘ちゃんのためにも勝たなくちゃいけないってのに、そんな消極的になっても意味がない。

 第一、今回の皐月賞は混戦状態だ。本命候補3頭のうち2頭が出走回避、そして大本命となった俺が出遅れて周りの馬たちは俄然やる気を出して勝利を狙うようになっている。

 その状態で俺がロスなく走った内を易々と開けるわけがない。

 やっぱり捲るしかない。俺はハロン棒とペースを確認しながら仕掛けるタイミングを待った。

 

『逃げた2頭を見る集団の先頭は9番インターアーチ、14番のトピカルコレクター、13番のキャッシュラボーラが続いています。16番ミナモトマリノス、さらに5番のイシノサンデー! 17番のタヤスダビンチは後ろにつけてさらに4番ナムライナズマ。さらにここにいました6番のロイヤルタッチ! 後ろから12番のチアズサイレンスも上がっていこうという構え』

 

 残り1000m、集団もある程度固まり、一瞬の落ち着きを見せた。

 逃げ馬がいるせいでペースは緩まないが、今ならいける。むしろ、チャンスはここしかない。

 

「行くぞケンちゃん!」

 

 外を突いて上がろうとしたがしかし、手綱をがっしりと握られているせいでスピードが出ない。

 何を考えているんだ、本当に内から行くつもりか?

 前が開かずに馬群に沈んで終わってしまう。行くって言ったら行くんだよ!

 

『最後方の1番グレートエスケープが上がっていく、ちょっと掛かり気味か!』

 

 今から行けば間に合うはず。だがケンちゃんは手綱を引っ張って行かせてくれない。

 何度か引っかかるころには第3コーナーへかかってしまっている。

 

「ケンちゃん! 頼むよ! これじゃ負けちまうだろ!」

 

 俺の悲鳴にも似た叫びが通じたのだろうか、それともケンちゃんも折れたのか。

 ようやくハミが緩んだ。

 コーナーから外を回って先団を目指して上がっていく。息も脚もまだ持っている。少しでもいいポジションで中山の直線を迎えたい。

 

『第3コーナーから第4コーナーにかけて最後尾につけていた1番グレートエスケープが動き出したぞ! 先頭は依然サクラスピードオー、しかし外からきたきた、サンデー旋風! イシノサンデー、ロイヤルタッチも来ている!』

 

 直線に入っても俺は中団のままだった。

 仕掛けるのが遅くなったのがモロに響いている。しかしまだなんとかなる。差し切るのは不可能な距離ではない。

 比較的速いペースで進んだ以上、前は潰れるはず。

 俺はもう一度足を踏み出した。

 だが、思いとは裏腹にいくら足を動かしても前との差は縮まらなかった。

 それどころか前の方にいるイシノサンデー、ロイヤルタッチが俺を突き放して坂を登っていく。

 

「ちくしょう……!」

『グレートエスケープは中団でもがいている! グレートエスケープは厳しい! 先頭はサクラスピードオーだがサンデーが来た! イシノサンデーだ! ロイヤルタッチも来ているがイシノサンデー!』

「ちっ……くしょおおおお!!」

 

 ――叫んでも、レースには勝てない。だが気づいたら叫びが俺の喉から引きずり出されていた。

 紛れもない、敗北を滲ませた叫びは、前を走る2頭には届かない。

 叶うなら時よ止まってくれ、時よ巻き戻ってくれ。

 けれど、そんなことは誰もが考える奇跡で、そんな奇跡はあってはいけない。

 敗者がいるということは、勝者がいるということ。そんな栄光を奪うことなど許されることではないが、それでも願わずにいられなかった。

 

『イシノサンデーだ! 2着はロイヤルタッチ、イシノサンデー! サンデーだ! サンデーだ! やっぱりサンデーサイレンス! バブルガムフェロー、ダンスインザダークが消えてもやっぱりサンデーサイレンス! またしてもサンデーサイレンスの産駒がワンツーフィニッシュを決めました! サンデーの時代到来です!』

 

 

 

 テレビには大歓声を浴びながらウイニングランを行うイシノサンデーとその騎手が映っている。

 あのキザったらしいあいつがゴール後、声を上げて喜んでいたのが意外なほどで、それだけ皐月賞、GIレースの重みを感じた。

 レースが確定し、確認すると俺は10着だった。

 初めてのGIレースは惨敗だ。今回は躓いて、出遅れて負けた。それだけレベルが高いレースでミスをしたんだ、仕方の無いことだ。仕方が……ない……。

 

(なんでこんなに泣きそうになるんだ……)

 

 しばらくして、ケンちゃんと黒井先生がやってきた。レース内容について話し始める。

 怒られるだろうか、いや怒られるに決まっている。

 少しゲンナリとすると、頭を撫でられた。撫でていたのは、黒井先生とケンちゃん、2人だった。

 

「ゲートで躓いたのは不運やったな。その後はどうや?」

「やっぱり賢いやつッスよ。内から行こうと思ったんですけど、前に行きたがったッスね。引っかかって第3コーナーでは前に行かせたらするする行ったので……やっぱり前につけた方が力を発揮するッスね。今回は俺の騎乗ミスです」

「いや、怪我させたり無茶もさせなかったからそれでええわ。俺も調教の段階から違和感を覚えていたのに解決できなかったし、お互い様や」

 

 黒井先生とケンちゃんは俺に対して何も言わなかった。

 ケンちゃんからしたら勝てる作戦を考えていたのに、馬に逆のことをされて、怒りたくもなるだろうに。

 予想とは真逆に、間違えましたと黒井先生にあっからかんに語っている。

 

「グレートエスケープはよく頑張っとったわ。後ろからは初めてやしな、そういう競馬は教えてきておらんし、冷静さを欠いたな。でも安心したわ、こいつにも馬らしいところがあるやないか」

 

 馬らしい、か。

 違う。俺は元は人間で、きちんと考えた上でレースにだって挑めたはずだ。それでも、勝手に焦って、自滅して……惨敗した。

 

「こいつはレースのことよくわかってます。賢すぎたのが敗因かもしれませんね」

 

 違うんだ……そんなことはない。

 負けたのは全部俺が勝手に行動したせいだ。騎手がいないとダメということをわかっておきながら、騎手のことを信じずに一人で、一頭で走っていた。

 できることなら叫びたかった。

 

「俺のせいで負けたんだ……!」

 

 喉から吐き出される声は、嘶きにしかならなかった。目頭が熱くなって、涙がボロボロと零れる。

 

「……ん? おぉ、グレ坊泣いとるやないか」

「本当ッスね。目にゴミとか入っちゃったんですかね……?」

「すぐに洗ってやるからな、待ってろよ」

 

 黒井先生、ケンちゃん、西京さんが俺に気がついて構ってくる。

 きっと俺の涙はみんなに届かないかもしれない。

 それでも溢れる涙を止められず、伝わらなくてもひたすら、「ごめん……ごめん……!」と謝り続けていた。

 

 一週間も経つと、スポーツ新聞はサンデーサイレンス時代到来と書き立てていた。2年連続で皐月賞のワンツーを達成し、ダービーではダンスインザダークも加わることからサンデーサイレンスの種牡馬価値はさらに上がったと褒めたたえている。

 転じて、俺に対しては不運な敗北という面が強調されていた。つまずきさえなければ、の声が多くあるが俺はそうは思わなかった。

 

「新聞記者の言うことだしな」

 

 会ったこともない中であれこれ書いてるんだから、そんな意見にもなる。

 中には「やはり大物というには物足りない」という意見もあるが、皐月賞であんなレースをすればそんな意見にもなるだろう。

 甘んじて受け入れるしかない。

 黒井先生は皐月賞が終わるまで少しの間は休養し、またダービーへ向けて調教していくつもりらしい。

 なので今日の俺はオフ。西京さんに身を任せて体を綺麗にしてもらったり、蹄の調整をしてもらったりする。

 

「オーナー、大丈夫ですか? 調子が悪ければ……」「あー平気平気。マジ卍で元気なんで、大丈夫ですよ! ベリグって感じです。それにグレっちから元気貰いたいし、というか元気も分けてあげちゃえ的な? ダービーも控えてるのに無理言ってごメンチ」

「……何かあれば言ってくださいね?」

 

 この声は……橘ちゃんだ。

 体調が良くなったんだ。皐月賞は入院していたらしいが、もう退院出来たなんてなんだかんだ問題なかったんだ。

 俺は馬房から顔を出し、橘ちゃんの元気な姿を待ち望んで――酸素ボンベを引きながら歩く彼女の姿を見て、声を失った。

 

 日本ダービーまで、残り1ヶ月の日のことだった。




〇ウマムスキーワールド
今週の被害馬
・特になし!皐月賞を勝利したイシノサンデーはこの勝利以降芝だけでなく、ダートでも走り、活躍した。

〇ウマ娘ワールド
・ダートC適性
 アイネスフウジンの代表産駒にダートで活躍したファストフレンド(勝ち鞍:帝王賞、東京大賞典)がおり、さらに元ネタの一部もダートをそれなりに走れたため、Cに。作中で出すタイミングないので小ネタ公表。グレートエスケープはとどかにゃい!

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