名バ列伝『グレートエスケープ』【完結】   作:伊良部ビガロ

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※誤字報告は……バラバラにしても石の下のミミズのように這い出てくる……!どういうことだ……?
※文字数減らそうとしているのに増えてしまう。どういうことだ……?
※変な馬が逸話残す話を書きたいのに気づいたらどシリアスに……どういうことだ……?
※感想のおかげで執筆を頑張れます。日々の励みになっていて本当に助かります。今後も遠慮なく感想をください


第9話 ダービーへようこそ

 馬房に訪れた橘ちゃんの姿を見て、俺は逃げ出したい気持ちすら沸き起こった。

 若く、美しく、それでいてオシャレで可愛らしい彼女はキャリーバッグのように酸素ボンベを引いている。そこから伸びるチューブは鼻先にかかるように繋がっていた。馬の聴覚が、シューと酸素を吐き出す音を聞き取っている。

 グレっちと同じだね、と笑っていた長い黒髪は短く切られ、隠すように麦わら帽子に収まり、俺からはよく見えない。

 そしてなにより、元々華奢だった手足は病的に細くなり、今にも枯れてしまいそうな花を連想させた。

 

「グレっち、久しぶり」

 

 彼女の声はとても小さかった。他の馬たちを驚かせないようにするための気遣いと思うには、あまりに小さくて、次いで聞こえてくる息遣いが息切れのようにも聞こえた。

 

「橘オーナー、あの……」

「ああー、大丈夫よ。ウチとグレっちの仲だし、カンケー梨の果汁100%ってカンジ! ……少しだけ、一人にしてもらってもいいですか」

「……しかし」

 

 素人を、管理する馬たちの傍に置くのは厩舎関係者として難しいお願いだ。俺はよくても、他の馬にとっては異物であるわけで、俺以外にもレースを控えている馬たちがいる。

 下手なことがあってはタダじゃ済まない。プロならば許しはしないことだろう。

 俺はそっと馬房の鍵を外した。

 

「……ん!? 今どうやって外した!? というかダメ! 脱走ダメ! なんで鍵外せたんだこいつ!」

 

 スタッフが慌てて駆け寄ってくるが、どうしても二人きりになりたかった。

 俺は尻尾で繰り返しスタッフの顔を叩いた。怪我しないように、軽く。

 

「わぷっ、ちょ、グレ坊、お前、うわっぷ」

 

 当たり前だがそれだけでスタッフがはいどうぞと出してやるわけがない。流石に本気で追い払おうとしていないのもあり、また馬房に戻されそうなとき、黒井先生がやってきた。

 

「出してやり。グレ坊は今更どうこう暴れる馬じゃないやろ。責任は俺が持つから……」

「先生……いや、でも」

「……いいから。わかったら一人きり……いや。二人きりにしてやるんや」

「先生、ありがとうございます……!」

「橘オーナー。なにかあったら呼んでください。あと、ここに座っててや。しんどいやろ、立ち続けるのも」

「すみません、わがまま言って」

「わがまま言ってもええやろ……橘オーナー」

 

 黒井先生はパイプ椅子を馬房の傍に置くと、スタッフを連れて事務所の方へ戻っていった。ありがたい、ありがたいが……その対応があまりにも優しすぎて、脚が震えた。

 馬第一に考える黒井先生が馬主の無茶なワガママに簡単に応えるわけがない。美人だからなんてくだらない理由も有り得ないことは、これまでの生活で理解していた。

 だからこそ――橘ちゃんの病状が、想像を上回って良くないのではないかと怖くなった。

 橘ちゃんはゆっくりと椅子に座ると、「ふぅー……」と長く息を吐いた。

 

「頑張って元気なフリをしてみたけど、難しいよね」

 

 俺が近寄ると、いつもと変わらない手つきで俺の額を撫でてくれた。

 

「グレっちってば梶田ジョッキーの言うこと聞かなかったんだって? こいつめ、ワガママ発揮しちゃったかぁ? うりうりー」

 

 わしゃわしゃと撫でてくる手つきには迷いがなくて、そこには築き上げてきた信頼が生まれていた。けれど、撫でる手は幾分か細くなってしまっている。

 ハッキリ言って、病的な痩せ方だ。人間だったころに、老衰で死ぬ直前のおじいちゃんを思い出す痩せ方と考えてしまった自分を蹴り飛ばした。

 

「グレっちは賢い馬だよね。本当、出会った時からずっと。特に私といるときは優しいみたいだし」

 

 俺は黙って撫でられるがままでいた。

 彼女にとっては独白ともいえるのだろう。誰にも言えない言葉がたくさんあるのだろう。

 馬であるならば、馬であるからこそ、話を聴き続けた。

 

「……実は、黒井先生にも伝えてたんだけど。グレっちには言いたくなかったんだけど、なんだかグレっちは察しちゃいそうだから。言うね」

 

 撫でる手が止まった。

 

「――末期癌だってさ、私。どこからかはわからないけど、色んなところに転移してて、肺まで癌でやられてるんだ。今年の2月に体調が悪くて病院に行ったら見つかって、もう手遅れだってさ。余命は半年持てば良い方って言われちゃった」

 

 2月といえば、俺が弥生賞に向けて走っているころ。橘ちゃんは病魔と向き合っていたのだ。そして、橘ちゃんは今年の秋を迎えることは、ない。

 俺は天へ叫びたかった。

 

 こんな残酷なことがあるか! まだ30歳にもなっていない子が、自分の会社を経営し、必死に生きている彼女が、何故死ななくてはいけないんだ!

 

 人であれば周囲のものを殴り飛ばしていただろう。あるいは、言葉を失いながらもひたすら慰めようとしていただろう。

 でも今の俺は馬で、彼女には何もしてあげられない。

 

「あーあ、本当。なんでこうなるかなーって。グレっちが三冠獲る姿を見るつもりでいたんだよ? まぁ、皐月賞は負けちゃったけどさ……」

 

 俺は、恐らく30歳で死んだ。死因はわからないが、わからないなりに死んで、馬になった。畜生道に落ちたともいえるかもしれないが、今の俺は正直、幸せだ。

 生産牧場である懇備弐牧場のみんな、競走馬としての学校でもあった育成牧場のみんな、そして俺のために夜中だろうと働いている黒井厩舎のみんなと、黒井先生。そして、俺を勝たせるために必死にやってくれているケンちゃん。

 馬に対するものだけれど、多くの人たちが俺に愛情を注いでくれている。

 ハッキリ言って、ズルいことだと思う。

 死んだはずなのにこうやって二度目の生を手に入れて、幸福に生きていることなんて、有り得ないことなのだから。

 一度きりだから誰しも一生懸命で、一度きりだから前を向いてそれでも生きていくのに。

 

「でも黒井先生言ってたよ。俺に初めてダービーを獲らせてくれるのはあの馬だって。賢いだけじゃなくて脚や心肺機能も期待できるって。皐月賞さえ獲れば絶対三冠獲れたってさっきも悔しがってた。テレビでも三冠の話が出てたからね……それだけで私、ハナが高いよ」

 

 もしも神がいるなら、俺は跪いてでも懇願するつもりだ。

 俺の恵まれた馬生を今すぐに捨ててもいいから――橘ちゃんに全て渡してくれ、と。

 馬として生きられるのは長くても20年から30年。その分だけでもいいから、彼女に上げてくれ。

 願いが叶うなら、俺は今それを願うだろう。

 だが、現実は奇妙でいて、残酷だ。

 

「今ね、グレっちって人気がすごいんだよ! 雑誌やニュースで紹介されてさ、頭が良くて人懐っこいイケメンホースだって! これ、去年のパドックの写真が雑誌に載ってたんだけど……美人馬主とイケメンホースって。美人なんて照れちゃうなぁ……」

 

 決してそれは叶わない。

 医学が発展した現代においても、不可能な段階に彼女は立っている。

もしもどうか奇跡を、と願ったとしたら――全身に癌が転移していても、こうして彼女が歩いて、残りの時間を自分のために使える事実こそが、奇跡なのだと、理解させられる。

 これ以上は、ない。

 

「やっぱりグレっちってイケメンだよね。黒鹿毛で、体も大きいし。きっと、グレっちが種牡馬入りしたらいっぱいイケメンで、強い馬を出せると思うんだよね! そしたら私は、またその子供の馬主になって、グレっちに負けないくらいの馬になってもらうんだ。父馬のアイネスフウジンと合わせて親子三代ダービー制覇だよ! その馬主になれたらすっごい幸運なことじゃない? ……初めて持った馬が重賞勝てる時点ですごいことなんだけどね」

 

 橘ちゃんの声が震えている。今にも泣き出しそうな声に俺はどうすればわからず、ただじっとしていた。

 叶うならば、彼女の涙を拭いたい。けれど、仮に人間だったとしても、俺には何もできないだろう。

 

「……まだ、グレっちの現役生活も、子供たちも見たいのに。会社だって、まだまだ大きくなっていけるのに。まだまだ友達と遊んだりしたかったのに……なんで、だろう……なんで……!」

 

 俺はそっと彼女の傍に寄り添った。

 自分の無力さが嫌になる。どうしたら彼女の涙を止められるだろうか、どうしたら彼女は幸せを享受できるのだろうか。

 考えても、考えても、俺には思いつかない。

 

「グレっち……嫌だよ……私……死にたくないよぉ……!」

 

 ぼろぼろと涙をこぼす橘ちゃん。

 当たり前だ……30歳にもならずに死ぬ。人間としてそれはあまりにも短すぎる人生だ。

 それでも彼女は誰にも打ち明けず、ずっと抱え込んで、自分の人生と向き合っていた。

 俺は、彼女のことが好きだが――同じくらい、尊敬した。

 自分が30歳で死ぬ直前に同じように振る舞えただろうか。彼女の強さと気高さが俺には眩しくて。その輝きが失われるのは、残酷なことこの上ない。

 

「ううっ……ぐずっ……ああっ……ひっく……!」

 

 そんな中でも、橘ちゃんは他の馬を驚かせないように声を押し殺そうと必死に堪えている。

 言ってあげたい。泣くときくらい、大声でいいんだと。周りの馬たちは気にしていないからと、教えてあげたい。

 俺は身体を押し付けてあげた。

 

「泣いていいんだよ。……泣かないと、どうにもならない時もあるんだ」

 

 そう言ったつもりが、通じたのかはわからないが。橘ちゃんは俺の体に顔を押し付けて泣き続けた。

 幸い、黒井先生やスタッフのみんなは外で待ってくれている。今は泣いていても、誰も聞いたりはしないさ。

 

 ――しばらくして、橘ちゃんは照れたように笑っていた。

 

「……グレっち、ごめんね。大事な時期なのに……なんだか泣いてもいいって言われてるような気がして、我慢できなかったよ。グレっちくらい賢いなら、本当にそう言ってても驚かないな……」

 

 泣くだけ泣いて、ひとまずは気が晴れたのだろう。ずっと溜まっていたものを人間に吐き出せないなら、馬の俺に吐き出してくれてよかった。

 

「ねぇ、グレっち。私、貴方を選んでよかった。2年くらいだったけど、貴方と会うのは楽しかったし、レースで走ってくれているときはいつもワクワクさせてくれた。だから――ありがとう」

 

 ……ぶるり、と体が震えた。その直後に今度は大粒の涙が俺の瞳から溢れ出す。

 皐月賞で負けた悔しさに、もう泣かないと決めていたのに、1ヶ月も経たないうちにまた泣き出している。

 しょうもない泣き虫野郎だ、俺は。

 

「……グレっち、なんで泣くの? ふふふっ」

 

 橘ちゃんが俺の涙を拭う。彼女から見たら俺の涙は滑稽かもしれない、それでも泣かずにはいられなかった。

 

「……橘オーナー。そろそろ」

 

 黒井先生が馬房に戻ってきた。なんで橘ちゃんが泣いてる時は黙って見守ってたのに俺の時は気にしないんだ、恥ずかしいだろ。

 

「先生……ごめんなさい、長い時間」

「ええんや。たくさんお話はできましたかね」

「うん……たくさん。先生、グレっちのこと、よろしくお願い致します」

 

 橘ちゃんは座ったまま頭を下げた。

 深々とした礼に、彼女の俺に対する色んな思いやりが詰まっていた。

 

「グレ坊。お前、ダービーではあんな走りするんじゃないで。ダービーを勝った馬の関係者は、競馬が続く限りずっと名前が残る。お前の名前も。だから……お前がみんなの思いを背負って走るんや。馬主、調教師、厩務員、生産者、ジョッキー……名前に乗らなくても、関わったお前がダービーを勝ったことを一生の自慢にできるんや。それだけ、ダービーを勝つことは重い」

 

 俺を撫でながら、黒井先生が諭す。

 噛み締めるように、言い聞かせるように。

 俺へのエールであると同時に、橘ちゃんに対するエールでもあるのだろう。

 

「……人も馬も、死ぬ時は死ぬ。俺が管理している馬が、現役中に死んでしまったこともある。名前を聞いても普通のファンじゃ思い出さないような馬やけどな……けどな、誰かに覚えていられる限り、本当に死にはしないと俺は思うんや。誰にも思い出されなくなった時、人も馬も、本当に死ぬ」

 

 そこには同意する。もちろん、死んだら本人にとってはそこまでだけど……他人の中で生き続けるというのは、そういうことなんじゃないかと思う。

 黒井先生は言葉を続けた。

 

「グレートエスケープ。日本ダービーを勝て。そうすれば、誰もが記憶し続ける馬になり、その関係者の名前を、どこまでも連れていってくれる」

 

 そうだ――その通りだ。

 俺はこれまでずっと、誰かの願いを背負ってきた。

 でもそれは、期待に応えるとか、そういう思いばかりで、深いところまで理解しきれてはいなかった。

 俺と関わる人々にも人生がある。生きるために働いてるのかもしれないし、馬が好きだから働いているのかもしれない。

 それでもみんなはダービーという頂点を巡る戦いを目指して、日々馬のことを見続けている。

 そんな人たちの、人生の大半をかけたものが俺の背中に乗っていたんだ。

 

「俺……日本ダービーを、勝ちます」

 

 言葉が通じるか否かは関係ない。

 この場にいる橘ちゃんと黒井先生に向かってはっきりと宣言する。例え脚が折れようと、絶対に勝ってみせる。

 だから――見ててくれよ。俺が勝つところを。

 

「ええ面構えになった。前よりもな……」

「グレっち。頑張ってね……応援してるから」

 

 二人には通じたのだろうか。はっきりと返事を貰うことが出来た。

 

 ――次の日本ダービー。俺は絶対に勝ってみせる。

 

 

 日本ダービーまで、あと僅か。

 

 

 

 ×××

 

 

 

 皐月賞の直前、グレートエスケープの選手控え室を訪れた。

 ノックしても返事はない。入るぞ、と声をかけてから扉を開けると鏡に向かってグレートエスケープは立っていた。

 

「大丈夫……私は強い……私は強い……必ず勝てる……」

 

 繰り返し呟く彼女は俺が部屋に入ってきたことに気がついていない。

 彼女の名前を呼ぶとびくり、と肩を跳ねさせた。

 

「なんだ、相棒か。集中していたから気づかなかったよ」

 

 そうやって語るグレートエスケープにいつものような覇気がなかった。自信がないのだろうか、彼女が弱気になるのは珍しい。

 

 体調でも悪いのか?

 

「……どうだろうな。脚は問題ない。ただ、気分が悪い。観客の大歓声を聞くと脚が震えるのは何故だろうな……勝利を目指しているのに、関係ないことのはずなのに」

 

 思い詰めたように語るグレートエスケープ。

 今回はクラシック第一弾、皐月賞。GIレースの中でも一度しか挑めない、三冠という頂に登るための最初の門だ。

 

 緊張してるんじゃないか。

 

「緊張……か。そうだな、そうなのかもしれない。相棒、私は元より気が強い方ではなかった……この振る舞いも、本当の弱い自分を隠すためのものだ」

 

 普段は堂々としていながらも気負いすぎない雰囲気に、様々なウマ娘が憧れている。

 クールに走って、文句無しに勝利を収めるそんな姿に。

 だが、それだけ緊張し、怖いということは――

 

 ――それだけ、三冠の夢に本気で挑んでるからだ。

 

 グレートエスケープは目を見開いた。そして、少しだけ笑った。

 

「ああ、そうだな。本気の夢だからこそ、叶わないことに恐怖するものだな。……相棒。私は勝利だけを目指す。今日のレースも、そうやって勝ってくるから……!」

 

 力の籠った目で宣言したグレートエスケープ。彼女の勝利に対する執念が、皐月賞に届くよう、俺は祈った。

 

 

 

 レース後、地下バ道に戻ってきたグレートエスケープは俺を見るなり、悔しそうに顔を歪ませた。

 皐月賞で惜しくも最も速いウマ娘という称号を手に入れることはできなかった。彼女にかけるべき言葉は――

 

 ――ダービーでリベンジしかないな。

 

「っ……ああ、ああ! 今回負けたことは変わらないが……いつまでも横たわってはいられない。勝てなきゃ意味がない、だが負けたことにいつまでも拘っては居られない……!」

 

 グレートエスケープは自らを鼓舞するように頬をぺしぺしと叩いた。彼女は頭がよく、強いウマ娘だ。

 今日のような敗北も飲み込んで、次に活かせるはず。

 ライブを終えて、レース場を後にした。

 

 学園に戻ってからは、彼女のダービーまでのスケジュールと今後のトレーニングメニューを考案していた。

 体調の管理とレベルアップの両方を図らなくてはいけないが、グレートエスケープはダービーでの勝利を本気で目指している。

 彼女のトレーナーとして、その両方を叶えて、ダービーに送り出すことが仕事だと思った。

 

 今後のメニューを考えていたら、すっかり日が暮れて真っ暗になってしまっていた。

 トレセン学園に人気はなく、自分の足音がよく響いた。

 足音に混じって、誰かの声が聞こえる。

 

(これは……泣き声?)

 

 恐らくウマ娘が泣いているのだろう。心配になって声のする方へ走っていった先にいたのは、グレートエスケープだった。

 

「ぐす……ひぐ……んっ……うぅ……!」

 

 トレセン学園の名物でもある切り株に腰掛けて、涙を拭い続けている。

 

「くそぉ……ちくしょう……!」

 

 その姿を見て、ダービーまでのスケジュールとトレーニングメニューを考えるのが仕事、と考えていた自分を怒りたくなった。

 グレートエスケープは、皐月賞に敗北した悔しさで泣いている。

 あんなに負けず嫌いで勝利に拘る彼女が、敗北を受け入れて次へ備えると考えるのはいくらなんでも彼女のことを見ていない考えだった。

 勝手にそれが彼女の強さだと決めつけた結果が、悔しさを吐き出せず、こうして独りで泣いている姿だ。

 それを共有し、支えるのがトレーナーの仕事のはずなのに。

 

 グレートエスケープ!

 

「……あ、相棒……」

 

 グレートエスケープは駆け寄るこちらに気がつくと慌てて顔を拭った。そしていつもの凛々しい姿に戻ろうとして、上手くできないでいる。

 

「すまない……相棒……」

 

 いつもとは違うしおらしい口調。

 強くて美しいウマ娘ではなく、歳相応の振る舞いに思わず足が止まった。

 

「勝つことがすべてだと言っておきながら、この体たらく……おかしいよな。惨めだよな……私は、所詮強く見せようとすることでしか自分を保てないウマ娘なんだ」

 

 その独白は、ずっと抱えてきたものが滲み出てきたかのような、重く、絡みつくような代物だった。

 

「私に才能なんてものはない……あのように振る舞うのは、強さを見せつけないと不安だからだ。ストイックと言われるほどトレーニングを積むのは、自信がないから……でも、こうして本物の舞台へ上がると思い知らされる。自分はなんでもない凡才のウマ娘なのだと……」

 

 そう言ってから、グレートエスケープは再度謝罪言葉を口にした。

 

「すまないトレーナー。君がスカウトしたウマ娘は才能溢れるウマ娘ではなく、虚栄心で固めたハリボテのウマ娘だ……」

 

 彼女はずっと劣等感を抱えながらウマ娘としてトレーニングを積んできていた。だからこそ、強くなろうと必死に足掻き、最強と呼ばれる相手にも臆することなく立ち向かっていた。

 俺には彼女が身の程知らずのウマ娘とは思えないし、ハリボテのウマ娘だとは思わない。

 そんなウマ娘が、勝つために辛いトレーニングを積むことはできない。

 彼女は、勝利に執念を燃やす本物のウマ娘だ。

 グレートエスケープに尋ねる。

 

 ――グレートエスケープは、勝ちたくないのか?

 

「勝ちたいに決まっている!」

 

 間髪入れずに答えが返ってきた。

 何故かを尋ねると、彼女は血を吐くように叫んだ。

 

「やるからには1番を目指す……そうでなくては意味が無いからだ。勝ちたいと願ってしまったから……才能が及ばないからと諦められるほど、達観していられなかったからだ!」

 

「でも……でも! 届かなかった! 相棒には感謝している。相棒がいなければ、きっとデビューすらもできなかったが……それでも勝てなかった」

 

「私は……私は……見えもしない頂点を目指す愚か者なのか……」

 

 彼女の叫びを聞いて、安心した。

 グレートエスケープの闘争心は決して損なわれていない。今は少しだけ迷ってしまっているだけで――それを支えるのが、トレーナーの仕事なのだ。

 

 君は頂点を獲るウマ娘だと信じている。

 

「……! だが、私は勝てなかった」

 

 三冠は叶わなかったからと、最強になる道を諦めるのか?

 

「それは……」

 

 グレートエスケープは、諦められないだろ?

 

「……そうだ。諦められないから、こうやって苦しんでいる……だが……勝つことが何より楽しいことも、知っている」

 

 切り株に腰掛けていたグレートエスケープは立ち上がった。目元を拭って見せた表情は決意に濡れていた。

 

「相棒。すまなかった……私は、まだまだ走ってみせる。ただ1着を目指して、走り続ける」

 

 もしかしたら、グレートエスケープは想像しているよりずっと弱くて、儚いウマ娘なのかもしれない。

 それでも、彼女が見せる気高い執念こそが、何物にも代え難い強さなのだと思う。

 

「また……こうして迷ってしまうかもしれない。弱音を吐くかもしれない。そのときは……こうして、元気づけてくれないか?」

 

 黒い髪を弄りながら呟くグレートエスケープ。月明かりに照らされる彼女の頬は、少しだけ赤くなっているように見えた。

 

 ――もちろん。二人でダービーに挑もう。

 

 日本ダービーまで、あと僅か。

 




〇競走馬(ウマムスキー)ワールド
・評判
この時点では黒鹿毛のグッドルッキングホースとしての人気。内国産種牡馬期待の星であり、強敵に立ち向かうヒーロー的な立ち位置でマスコミも発信しているため判官贔屓で少し人気に。実力的には皐月賞は不運な敗戦と見られており、ダービーで巻き返しを有力視されている。

〇ウマ娘ワールド
・親愛度ランク2
得意なこと 根気のいること、ピッキング
苦手なこと お化け、白黒ハッキリしないこと

〇伏線開示
・元ネタの一部(感想で正解者が出たため。元ネタ馬は他にもいますが)
「ユーエスエスケープ」
ウイニングポストシリーズに登場するスターホース。父はアイネスフウジン、シリーズが進むにつれてミホノブルボンやローエングリンに移り変わりました。ステイヤー気質な能力を持っており、菊花賞や天皇賞・春をサードステージ相手に逃げ切る凄い馬。父と戦法、適性はこの馬をモデルに作成しました

※ダービーまで行けなかった……スマヌ

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