院生としての生活は、さしてやりがいを感じてはいなかったと自覚している。日がな一日研究室に居ることもさして苦痛ではなかったし、あの教授の扱いにも難儀することはなかった。ただ、やるべきことをしていた。それだけだ。
とりわけ優秀だったかというと、そうでもない。だが、ここの大学の出資元から色好い返事が来ているとの話から察するに、食うに困る事は無さそうかなと。そう楽観視することだけは出来ていた。
ある日から。
私は一人、研究室に閉じこもる日が続くようになった。その日は寝落ちしていたのがいけなかったのだろう。いや。正確にはよかったのかもしれない。防犯のために研究室に鍵をかけておいたのも幸いした。
気付けば、私は怪物たちの巣に一人で取り残されていたのだ。
窓の外では他の学生たちの悲鳴、怒号、断末魔などなど。さすがの私も、これは終わりかなと思った。数少ない知り合いの稜河原は無事だろうか。
あの本好きにはサバイバルの経験は無さそうだし、無理かも。そう考えてから、笑ってしまった。
自分のような人間は人の事を心配するなど無いと思っていたのに……存外、人らしいところもあったようだ。なんにせよ、今の私にはどうすることも出来ない。研究室の扉を叩く音は、今日もやまない。
水や電気は生きているけど、食料はほぼ無いに等しい。私自身、食は細いほうだが、全く取らないと言うわけにはいくまい。幸い、ウチの教授は間食をやたらするので備蓄のお菓子が多少あった。私の好みとは程遠いチョコレート菓子だが贅沢は言えないし、カロリーとしては申し分ない。それにおそらく、彼にはもう必要はあるまい。
二日目に下腹部の鈍痛を感じた。
いよいよ私も感染したかと思ったが、どうやらそれは杞憂だった。だからといって安堵できるわけでもなかった。私のジーンズは血に染まり、持ち合わせも持たない女子力の無さをひとり痛感する羽目になった。
「あいつらになったら、気にしなくてもいいのにな」
『かれら』を羨ましがるとは、かなり参っているのだと自覚する。
仕方なく水と手洗い用の石鹸で汚れ物を洗うことにした。やっていて、生まれてはじめて手で洗濯したと気付く。洗濯機のない時代はこうして洗っていたというのに、私はそのやり方も覚束ない。つくづく、勉学というものはこういうときには役に立たないと嘆息した。
「こんなものか」
せっかくなので、全部洗うことにした。見られても別に恥ずかしくもないし、そも、見るべき異性の目が現状存在しないのだ。この研究室は理学棟の三階で、他の学部の建物からは見えない位置にある。おまけに部屋の外には『かれら』だらけだ。
「私の肢体を見たければ、ここまでくるといい」
自嘲気味に呟いてみると、存外心地よかった。私はどうもそういう性癖があるのかもしれない。今更知ってもとは思うが、知らないことを知るというのは我々にとっては福音だ。知らなくていいことなど、有るわけがない。
猿人でもあるまいし、何も着けずにいるのも心許ない。なので、白衣をガウン代わりに羽織ってみた。それでも薄ら寒く感じたので、部屋の温度を上げてみた。教授が暑がりだったけど、今はもういない。ならば好きなようにしよう。
象牙の塔の住人としては、無為な時間というのはあまり享受したくないものだ。なので私は情報を仕入れてみようと試みた。幸いなことにこの研究室には学内サーバーへ繋げられる端末がある。FMラジオも繋げられるので聞いてみたが、ほとんどの局は放送をしていなかった。もっと早くに気付いていれば有用な情報が得られたかもしれないと思うと、我ながら静かにパニクっていたと漸くに自覚させられた。
「……外部に繋がらない、か」
学内サーバーは閲覧できるのに、インターネットには繋がらない。たぶんハードウェア的な要因だな。窓の外から見える街の風景も、広範な地域の停電が見られる。いくつかの自家発電設備のあるビルには灯りがついている……ランダルの日本支社ビルにも明かりがあるな。あそこも無事なのか。
「ランダル……そうだ」
たしか教授から貸与されたアプリがあった。AIでのコンシェルジュ機能などは当たり前なのだが、OSベースではないので媒体を選ばないとの売りだったはず。試用にアカウントは使ってみたもののあまり使わずにしまい込んでいた。
音声は妙にかわいいボイスだし、ソースにはバグとは言えないまでも無駄なコードが多用されていて、端的に換言すれば私の趣味じゃない。
しかしランダルコーポレーション製なのだからどこかにバックドアがあるやも知れぬ。私は端末をレストアモードに切り替え、研究室のPCへと繋いだ。なに、一度ソースコードを見ているのだ。環境は問題ない。あの時よりももう少し深く調べてみればいいだけだ。
調べてみるとこの“ボーモン”。実のところとんでもない代物だと分かった。ただのコンシェルジュではなく、通信の制御までこなす高機能なAIシステムだったのだ。
キモは、アナログ波によるデジタル波の送信というわけのわからない仕様だ。
ただの無意味なノイズとして送信、受信側はそれを解析しデータ化する。暗号化されたモールス信号のようなもので、同期させるには同一のアプリが必要になる。
そんなわけでこのボーモンとやらで飛び交うアナログ波を受信してみると。
『|Fucking! The altitude cannot be maintained. It will crash!(クソッタレ、高度を維持できねぇ、落ちるぞ!)』
『Stabilize, Black Hawk. Be cool(安定させろ、ブラックホーク。落ち着け)』
『impossible!, stupid guy!!(無理っつってンダロォ! バカ野郎ッ!)』
(その後に爆発音)
臨場感ある実況が届いてきた。たぶん、ヘリが墜落した感じだろうか。高度がどうとか言ってたし。
他のチャンネルでは地上部隊が泣き言言いながら戦っているところとか、民間人が悲嘆に喘いでいるところとか。現実感が無さすぎてフィクションかと思ってしまった。
その後、別のチャンネルにて全体の概要が分かってきた。
どこかの政府の首脳と軍部のお偉いさんとの会話なんだが、どうも『かれら』騒動は世界的にも発生したらしい。規模は日本ほどに壊滅的ではなく、ごく初期の段階で鎮圧されていたのだけど……それでも都市一つ丸ごととか。
発生時期に関してはほぼ同一の時刻であり、世界同時多発テロではないかとの疑惑もあるそうだ。
WHO発表によれば現在までに本復に至った例はなく、発症すれば個体差はあれど必ず意識を失い、本能のままに周囲の人に攻撃性を表す。その攻撃を受けた者はやはりほぼ助からないらしい。
素早く傷を負った箇所を切除することで発症を防いだ例があったらしいが、それが果たして幸運だと言えるのかは疑問だ。
罹患したエリアは日本が一番大きく、次はアメリカ合衆国、中国、ロシアなどの大国が続いているそうだ。特に日本は政府の機能が一時期ほとんど停止していたせいもあり、首都圏のほぼ半分のエリアが絶望視されている……まあ、この辺りもそれに入っているに違いない。
現在急ピッチで研究を続けているらしいが、今のところその成果は上がっていない。これは感染症の原因を追究できないという側面も多いとの見解がある。
なんでも、アメリカではCDC(疾病予防管理センター)自体が発生源となってしまったらしく、専門家と言える者たちが誰より早く罹患してしまったそうなのだ。ちなみに諸外国でも同じ傾向にあったため、テロではないか、と目されているのだそうだ。
現在、民間の会社や大学などで決死の究明をしている。罹患者を増やさぬように隔離し、発症した者は速やかに処分を心掛けるようにと、締め括っていた。
今現在、日本の政府は暫定政権によって運営されていて、その首班は元総理大臣。与党ではあるものの長らく表舞台からは退いていた人だ。あまり期待は出来ないけど、無秩序になるよりはマシ、と思っておく。
「……テロで済むような話でもないんだよなぁ」
仮にテロだとして。主義主張を訴える相手は誰だろう? 特定の国家や宗教に対してというのなら些か広範過ぎる気がする。おそらくそう嘯く連中はいるだろうが、だとしたらこの災害を齎したものをどうやって作り出したのか、という疑問が残る。ウィルスか細菌兵器かは知らないが、これほど人類に対して有効なものは無い。諸外国の何処かが所有していたというのなら、対策くらいは用意しておくものだ。管理できない兵器なんて、災厄でしかない。尤も、この線はありかも知れないと私は考えた。兵器として転用しようとしていた輩の中での不協和音か偶発的か、そんなところではないかと推測する。
「……
自嘲気味に笑う。独り言は多くないと思っていたのに、気が付けば口から言葉が溢れてくる。無為な時間を過ごすというのはそれだけストレスになるということなのだろう。人との対話が無性に恋しく感じる。
とはいえ、私にはそんな友人は数えるほどしかいないし、その殆どはこの建物の中で『かれら』として彷徨っているに違いない。私は何の気なしに“ボーモン”アプリのタイムラインを開いた。
「!」
そこには、一人の名前があった。教授の紹介で一度だけ会った、偉丈夫と言って差し支えない体躯をもった男性。
『彼なら……生きているかな?』
あの邂逅は、近年稀に見る興味深いものだと記憶している。一学院生の自分に面会に来て、『パンデミックによる被害と対処における最適な行動とは』と聞いてきた。仮定も前提もあやふやで答えられないと言ったが、彼は仮に映画での設定を持ち出した。たしかこんな件だったと記憶している。
『──どうですか?』
『荒唐無稽だよ。フィクションと現実を混同しては困る』
『フィクションが現実にならない保証はありませんよ』
『……』
『高名で年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。』
『クラークの三原則その一か。つまり君は私を年寄りだと言いたいのかい?』
『! そ、そんなつもりは……すみませんでした』
別に怒ってやしないのに、恐縮しきりといった様子。身の丈は大きいのに内面は随分と小さいようだ。頬が緩んだ事を自覚し、不思議とこの申し出を受ける気になった。
『いいよ。研究の合間に思索する事くらいならば問題はない。小論文にして提出とか言われたら御免被るがね』
『ありがとうございます』
『しかし疑問だ。なぜ私なのだね? 教授に聞いてみてもよかっただろう?』
そう聞いてみたら、彼は頭をかきながら答えた。
『荒唐無稽だと言われました』
『さもあらん、か』
体よく押し付けられた、というところらしい。話によると取引相手の息子だそうで邪険に出来ないとのこと。ならばこれも助手としての仕事なのだろう。
ちなみにこの意図しない軟禁生活の間にレポートは完成している。頭を巡らすくらいしかやることが無いからだ。今日の事態を予測したような仮定を考察させた事も気掛かりだが、どのみちこのままでは文字通り死蔵することになる。私は彼に招待状を送ることにした。
彼がこのアプリを入手している可能性は薄いのだが、まあ、運試しのようなものだ。
『 やあ。
唐突な邂逅を祝して、
シイコ、アオソイ。
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