二人で一人のウマ娘 作:なまたま
―――
―――
翌日。
僕はエレジーの姉が一体どれほどの選手だったのかを見極める為に、陸上競技場で走った際の映像記録を見ていた。
二年前、二人が小学五年生の頃のもの。
女子1500m全国大会決勝、姉にとっては本領を発揮できない距離。
しかし、小学陸上で最長の種目。
以前は記憶媒体に充てる費用の無駄だとしか思えなかったが、今は解像度と画質の高さが有難い。
→(...ああ
ペース配分など必要ない。何故なら、この画面の中で駆ける少女は最初から最後まで全力疾走して尚、笑っていたのだから。
誰よりも近い場所で自分より遥か先を行くその在り様は、絶望にすら成りうるだろう。
→(ずっとコレを見続けて
400mトラックを三週と100m。たったそれだけの距離だというのにも関わらず開いた差は300m。バ身に直せば125。
二位以下の選手とは、才能も技術も比べ物にならない程隔絶している。
これをある程度模倣できている『ハリボテエレジーの姉』ですら『本物の姉』には程遠く。
→(自信を、失ってしまったんだな
その時、ドアがガチャリと開かれた。
不思議だ。
いつも鍵はちゃんと閉めているのに、どうして僕の部屋はフリーパスなんだろう。
「...誰が、自信を失ったんですか?」
→(おはよう、エレジー
「おはようございます。もう、トレーナーさんは舌の根も乾かない内に、酷いです」
→(いや、本物の実力を一回見ておきたくてさ
そう言いながらテレビの電源を切ろうとしたら、腕が彼女に掴まれる。
→(...あれ、トレーニングの時間だから来たんじゃないのか?
「そうですけど、私もお姉ちゃんの走りを見直したいので。せっかくだからご一緒させてください」
→(まぁ、それでいいなら
練習時間を、半分だけビデオ研究に割いた。
―――
―――
いつもより短い練習が終わり、エレジーを寮まで送り届けて来た後。僕がトレーナー用の風呂から上がり、自室に戻る道中の事。
→(あれ、部屋の電気が点いてる?
確かに閉めて来た筈の鍵が開き、暗い筈の室内がLED電球の真っ白な光で照らされているのに気づく。
また秋川理事長かと思えど、影も形も見当たらない。
→(?
誰か他のトレーナーが部屋を間違え、事務室の鍵を借りて開錠し、内装で自分の部屋で無い事に気付いて開けっ放しにしていったというのも考えられなくはないが...
それならせめて電気ぐらいは消していくだろう。
→(ま、いいか
幾分不気味なものを感じつつも、室内から鍵を掛けなおし、いつも通りにバスローブを脱ぎ去って寝間着姿に着替えた。
深く考えるのが無駄な事だってこの世にはある。特にここ、トレセン学園では。
以前も僕の部屋は何度か『正体不明の何か』に侵入された事があるし、今回もその類かもしれない。
→(寝よう
そう思い、布団の中を覗き込むと。
茜色の双眸と目が合った。
厳密にいえば何だか長い茶髪を生やして、こぢんまり纏まった身体ときれいな小顔が付属している...
→(...何でいるのさ
「えへへ、すこしだけ寂しくて」
二十分前に送り届けた筈のエレジーが、僕のベッドの中でにっこりと笑顔を浮かべていた。
→(そうは言っても...こんな時間に出歩いてちゃ...
そして気付く、寮の門限の存在に。
練習は確か門限十分前まで行っていたから、僕が風呂から上がって来る時間と言うのはつまり。
「門限、もう過ぎちゃってるんです。泊めてくれませんか?」
時計を見て固まった僕の寝間着の裾を、エレジーがベッドの中からつまみ。
くいくいと引っ張った。
→(...僕はソファーで寝るからね
今から返しても、寮長さんに良くない顔をされるだけだろうし、何よりエレジーが叱られてしまうかもしれない。それならいっそ彼女の提案をおとなしく呑んでしまう方が良いと思う。
「...え?」
→(だって、付き合ってもいない男と添い寝するなんて、エレジーも嫌だろ?
しかし、一緒に寝るというのは躊躇われた。
もう中等部一年生。僕ぐらいの年齢の男と一緒に寝るような年齢じゃないだろうし、何より彼女自身以前言っていたじゃないか。
親にやるよう言われていた、と。
なら、これは断るべきだろう。
「...どうして、ですか?トレーナー、さん」
→(どうしてって、それは...
だからこれが正しい選択、の筈なのに。
裾を払われたエレジーは、何故か今にも泣き出しそうに目を潤ませていた。
「わたし、本当に寂しいんですよ?一人ぼっちで、二人用の部屋にいると、金属が擦れるみたいに、耳鳴りがするんです」
→(いや、でも...エレジーは僕の事、イヤなんじゃ?
昨日の僕の言動は、正直に言ってかなり横暴なものだ。
価値観の押し付けと、自己正当化をするべく徹底的に『姉に執着するエレジー』を否定した。
確かに彼女の事を考えていなかったと言えば嘘になるが、全部彼女の為の発言だったと言う訳でもない。
結果として上手くいっただけで、嫌われていてもおかしくないし、むしろお姉さんの記録映像鑑賞に付き合ったのも当てつけか何かと思っていたんだけど。
「...昨日言った事、嘘だったんですか?」
万力のような力と、猫のような俊敏さ。
上位種に腕を掴まれ、拘束されたという本能の激しい警告に思考をかき乱される。
→(っ...!
虚無とは程遠い、けれど性質は限りなく似通っていると断言できるような色。
果ての見えない漆黒の双眸が、布団の影に光を奪われて、僕を睨んでいる。
「トレーナーさんは、私を裏切らないんですよね?絶対に居なくならないんですよね?いつも一緒に居てくれるって言ってたんじゃないんですか?」
→(......
「答えてくださいよ、トレーナーさん」
何かを間違えたと、激しい悪寒が絶えず背筋を走る。
それに、目の前の存在に生殺与奪の権が握られているという恐怖が思考を鈍らせる。
→(嘘なんかじゃない
「...なら、一緒に寝たいです」
でも、トレーナーとしての意志が崩される事はなかった。
→(今は駄目だよ
「どうしてですか?」
→(どうもこうも無い。確かに僕は君の味方をするって言ったけど、それはイコールどんな我儘にも付き合うって意味じゃないんだ
これは多分、ただの『したい』でしかないと分かっていたから。
→(それに、一緒に寝たかったらちゃんとマナーを守らなくちゃ
布団を引っぺがし、汗で濡れてしまったシーツを指さす。
皺ついて、ところどころ茶色く染まってしまった哀れなシーツを。
→(お風呂にも入らないで、着替えもしてない。ここなんて少し土がついてる
「...あ」
→(歯磨き粉の臭いがするから、歯は磨いて来たみたいだけど、それじゃ足りない
指摘されると彼女は手を離し、ベッドから降りてソファーに寝ころび、恥ずかしそうに顔を両手で覆っていた。
「恥ずかしいです...ううう...」
何て言うか、やっぱりエレジーは幼い。
少しだけわがままな所もあって、それを通すために駄々や屁理屈をこねたり、約束を持ち出したりもする。
不安定で、程々にしてもらわないと危ないけれど、話が通じないわけでもない。
→(...どうしても、一緒に居たかったんだよね
背中を向けたまま、しくしく泣いている彼女を揺さぶると、首が一回縦に振られた。
シーツの替えはあるし、お風呂も僕はいつも最後に入っているので、今なら誰も居ない。
→(ならこっそり、トレーナー用のお風呂に入ってくる?
「そしたら、ベッドで一緒に寝てくれるんですか?」
→(まぁ、エレジーが嫌じゃないなら
「...行ってきます」
そう言うとエレジーは、赤くなった目元と鼻を擦りつつ僕の部屋から足早に出て行った。
―――
―――
十五分後。
湯気立たせながら戻って来たエレジーを、新しいシーツに変えたベッドに寝かせて、僕もその隣に寝転んで布団を被った。
「あの、ごめんなさい、トレーナーさん。シーツ汚しちゃって」
すると、僕の腕にエレジーが組み付いて来る。
何だか懐かしい。
...そういえば、僕も幼稚園くらいの頃、母さんの腕にしがみついて寝た事が何度かあったな。
抱き枕替わりに丁度良い感じで、あったかくて、適度に柔らかい。良く眠れた覚えがある。
流石に小学生になってからはやった事なかったけど、この年になってやられる側に回るのは...不思議な気分だ。
凄く信頼されているというか、甘えられているような感じがして、胸の辺りがぽかぽかしてくる。
→(気にしなくていいよ、平気だし
「…どうしてトレーナーさんは、私にそこまでしてくれるんですか?」
エレジーが顔を腕に埋めたまま質問を投げかけてきた。
何故そこまでするのか、理由を知りたいと。
→(それが、僕の仕事だから
「...じゃあ、仕事じゃなかったらトレーナーさんは私の味方じゃないんですか」
→(それとこれとはまた別、約束だよ
「なら、約束がなかったら?」
→(どういう事?
意図の良く分からない質問で、中々話が見えてこない。
それがどういう意味なのか聞こうと思い、彼女の顔を覗き込むと。
「...私、トレーナーさんとは、仕事でも約束でもない関係になりたいです」
そこにあったのは、今まで見た事の無いエレジーの姿。
バスローブから微かに覗く素肌と、見ているだけで手を伸ばしたくなるような、寂しい笑顔だった。