二人で一人のウマ娘 作:なまたま
窓際から大男は歩き始め、彼我の距離は十メートルほど。
しかし、だんだんと距離が近づくにつれ、違和感を覚え始めた。
「お前がまた、トレーナーをするなんて、絶対に許さない」
…いや、そもそも。
本当に僕を待っていたなら、
男性トレーナーは階が同じで、確か青年の部屋は僕よりも左階段側だったはず。
ならば、何故反対の右窓際に居るのか。
→(君は
「黙れ、人殺し」
それだけ言うと大男は足の踏み込みで床を軋ませ、巨体の重心を前に傾けて。
跳ねると同時に、凄まじい速度でバールを振るった。
悪寒を覚え咄嗟にその場から飛び退くと、大男のバールは一秒前まで僕の頭があった場所を正確に擦る。
→(…『誰だ?』(END)
(…大振りすぎる
軌道は円を描き、執拗に僕の脳天を付け狙って。
大男は無言のまま、バールを地に着けるような真似もしない。
「よくも、よくも俺の…」
雨の降る曇天の中に走り出した僕の背を、やや遅れながら追いかけてくる『黒い刺客』。
外通路に設置された街頭が照らすその胸元には、ある筈の物が無かった。
→(やっぱり、違う
トレーナーバッチは、着用が義務付けられている。
付け忘れるなんてありえない。
あれは、あの大男は、ライスシャワーのトレーナーじゃない。
体格も、今は光に照らされてハッキリ別物だと理解できる。
「俺の娘を、殺してくれたな」
それは、何処かで聞いたことのある懐かしい音。
此処で聞こえてはいけない、呪いの籠った声だった。
―――
―――
→(お前は…
目の前で、膝を震わせながら声を掛けてくる気色悪い男。
女のようにひょろりとしていて、癇に障るソプラノのトーンで声を出す。
そうだ、俺はこいつに騙された。
「そうか、やはり覚えていなかったのか」
十年前、頭を下げて来た。
その姿があまりに惨めで、憐憫を覚え。
娘の懇願に耳を貸してやったのが、全ての過ちの原因に他ならない。
→(ッ!
バールを振るう。
忌々しい程異常な速度で、死神は躱した。
→(何の、話だ
それは、娘が中央に受かったという電話を入れてきて一週間後の事。
契約書の返送が遅いと言って、こいつが俺の家を訪ねて来た。
碌に洗っていないのかボサボサの髪、色濃く付いた目の下の隈、病的に真っ白な肌。
どれをとっても到底正常な人間に見える容姿じゃない。
一目見て、こいつはただの精神異常者か、死人にしか見えなかった。
「娘が大丈夫だというから、契約書のサインをしてやった」
バールを振るう。
一撃に殺意を込めて、逃がさないように追いすがり。走りながら、バールを振るう。
「なのに、お前は」
そんな男を、娘がトレーナーだと言ったときは、自然に目つきが鋭くなった。
当然だ、こいつに自分の娘を任せられる気なんて、これっぽちもしない。
俺に睨まれてこいつは、安心したみたいに笑った。
頬をゆっくりと歪めて、目をさぞ嬉しそうに細めて作った笑顔は、インターホン越しに見えた作り物とは違ってとても美しいものに見える。
だが、それと同時に空恐ろしさを感じた。
眼が合わない。焦点が常に俺を見透かして後ろの壁を向いている。
頼む側の立場でふざけているのかと思えば、娘にすらその悍ましい視線向けている。
俺は心底こいつが人間染みていないと感じた。
死神、なんてあだ名を聞いた時は、妙な納得を覚えた程に。
→(…!その声、まさか
死神が、人間らしく驚いている。
コイツが人らしくなったのは、俺の娘がずっとつきっきりで面倒を見てやっていたからだと聞く。それが、憎らしくて仕方がない。
俺の娘を死なせておいて、自分だけはのうのうと生きて、あまつさえ人の真似事をするな、と。
→(タキオンの
その愛称で呼ぶな、お前に娘の名前を呼ぶ権利は無い。
「黙れッ!」
それでも、静かに暮らしている分には見逃してやるつもりだった。
ビッグウルフを死なせたと聞いた時は、気味が良かったし、人前に名前が出なくなった一年間は、恨みも収まりかけていた。
「お前は、許さない」
なのに、こいつはまた担当を取り。
模擬レースで担当ウマ娘を応援する、その幸せそうな顔を見た途端、俺の中で何かが弾けた。
「絶対にだ」
走る、奴の脚には敵わないが、あいつは人間だ。
スタミナでは俺が勝っている、そうそう見失いはしない。
妻は、娘を産んですぐ他の男を作って逃げた。
男手一つで、血潮を込めて育てて来たんだ、俺はアグネスタキオンを。
→(当てられるわけが…!?
それを奪っておいて、自分は新しいウマ娘を手に入れて幸せそうな顔をしている?
…そんな事は絶対に許せない、許容範囲を遥かに超えている。
ビッグウルフの時のように、完全に避けておくべきだったと今でも思うが、止められない。
見てしまった以上、知ってしまった以上、見過ごすことは出来ない。
「もう、振るのにも慣れたッ!」
バールが死神の肩に刺さり、冷えた鉄越しに鎖骨の砕ける音が感触となって響く。
→(う、ぐ…!!
激痛に顔を歪ませ、喉の奥からくぐもった悲鳴が聞こえて来た。
→(がッ!
バールで上半身を引き寄せ、後ろに転ばせる。
頭をしたたかに打ち付けたらしく、無傷の右腕で必死に抑え込んでいた。
楽に死なすつもりは毛頭ない、両膝をバールで砕き、腰と背骨を滅多打ちにして脊髄を潰す。
→(...ッ!…ッ”!
ブーツで喉を踏みつけ息をさせずにいると、真っ白だった肌が酸素を求めて青紫に変色し始める。
上半身が無様に痙攣し、下半身が何も言わずに小水を垂れ流したところで足を離す。
「…は、ぁ...心臓は、動いてるな」
苦しむ姿を見るうちに、此処で殺すのはもったいない思い始め、ひゅうひゅうと息をする腹に腰を下ろして、声を掛けた。
意識があるかも分からないが、最後に残るのは聴覚だとも聞く。
なら、この行為にも意味があるだろう。
「今からお前の頸動脈を五分間締め続け、脳への血流を完全に停止させる。脳障害は避けられないだろうな」
これから、自分がどうなるのかをかみ砕いて説明して、絶望と恐怖を大いに煽ってやる。どうせなら、こいつを喜ばせる原因になったウマ娘も苦しめてやりたい。
「三年後、殺してやるよ」
トゥインクルシリーズの終わりは三年と一週間後。
なら、その終わる寸前までは生かして、見届ける前に殺してやろう。
それまではせいぜい生きたまま苦しめばいい。その醜態を晒して自分のウマ娘を苦しめれば良い。
それで、ようやくコイツを赦してやる気も出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない。
「お前の人生は、此処で終わりだ」
いずれにせよ。
俺の復讐は、ようやく終わった。
後は帰るだけだ。来た時と同じように、何食わぬ顔をして。
―――
メイクデビューまであと一週
―――
今日は、トレーナーさんがお休みらしい。
昨日は夜まで仕事の話をしていたし、私の事で心労が溜まっているかもしれないから、寮の部屋にもいかないようにと言われた。
「…と、そういう訳なので、ご理解いただけましたか?」
「でも、トレーナーさんに会いたいです」
「ですが、本人たっての希望ですから…」
たづなさんの様子が、おかしかった。
それにトレーナーさんが私にも会いたくないなんて、言う筈がない。
一緒に居てくれるって、言ってくれたのに。
「…嘘です、電話で良いので話だけでも」
「申し訳ありませんが、ダメなものはダメなんです…教室に戻ってください」
「…分かりました」
トレーナーさんは、私に嘘をついていたのかな。
そんなわけが無いと分かっていても、疑念は生まれてきてしまって。
それは、放課後までの数時間ですっかり育ち、胸の中が不安で満たされた。
「大丈夫、きっと、大丈夫」
何度も大丈夫だと呟きながら寮に戻る。
マスクをトレーナーさんに預けてあるから、どうにも落ち着かない。
せめて気分転換しようと思い、自室の本棚を見ると二か所に隙間が空いていた。
上から順に埋めているので、一番下が開いているのは当たり前として、なら一番上の段が開いているのは一体全体どういうことか。
「あれ?」
昨日は本を読んでいなかったから、それ以前。
思い当たる節が無いのでタイトルを全部見ていくと、『名ウマ娘への道のり』が無くなっている。
…おねえちゃんの遺品、二人で見つけた二葉のクローバーのしおりも入っている。
おかしい、この本を最後に読んだのはたしか入学前。
それが独りでになくなる可能性は、ゼロだ。
「誰かに、盗られた…?」
クラスには、馴染めていない。
むしろ嫌われていると言っても良い。
だからと言って勝手に私物を捨てるなんて、もしばれたらただじゃ済まないのに。
「だとしたら、バレない確信があって…?」
頭を振るう。
犯人の予測よりも、まずは本を探す方が先決。
あれがもし破られでもしていたら、すぐに治してあげたいし、無傷なら汚れたり日焼けする前に回収したい。
そう思い、私は寮の玄関を出た。
何も知らずに、何が起こっていたのかも、知らずに。
バッドエンド