道を30分ほど進んだジュリアは、ふと、背後に何者かの気配を感じたような気がして立ち止まった。振り返る。しかし、そこには誰も、何も、なかった。ただ、彼女が歩いてきた道があるだけ。気のせいかな? そう思い、再び歩きだした。しかし、30分ほど歩くと、またその気配を感じた。しかも、ひとつではなかった。少なくとも3つ、おそらくはそれ以上の、「何か」につけられている。たまらず振り返った。しかし、やはり誰もいない。いや 見えないだけだ。気配はまだ感じる。どこかに隠れているに違いない。
「誰?」
背中の剣に手を延ばしながら叫んだ。何が飛び出してくるか判らない。用心深く辺りを見回す。しかし、隠れている何かは、彼女の声に反応しなかった。
「いるのは判っているわ。隠れてないで、姿を見せなさい!」
もう一度、今度は先程よりも少し大きな声で叫んだ。静かな山に響く声。その残響聞こえなくなった時だった。
「ヘッヘ……」
背後で男の低い笑い声が聞こえた。ジュリアが予想していた場所とは、正反対の方向だった。慌てて振り返る。樹の陰から男が現れた。背の高い、屈強な体格の男だった。全身が、分厚く引き締まった筋肉で覆われている。腰にはごつい剣が提げられていた。鎧は身に着けていないが、一目で並々ならぬ戦士であることが判る。残念ながら、下卑た笑みを浮かべたその顔は、決して善人のものではなかった。
その男に続くように、樹の陰や茂みの中から、次々と男達が姿を現す。10人ほどいるだろうか。男達は皆、最初の男ほどではないものの、それなりに立派な体格をしていた。手には、使い込まれた剣や斧などの武器を持っている。恐らく――いや間違いなく、この山に巣食う山賊だろう。ジュリアは己の不用心さを呪った。ここまで囲まれていることに何故きがつかなかったのか!
「なかなかいい女ですぜ、ゴメスの兄貴」男の一人が言った。寒気がするような台詞だ。
ゴメスと呼ばれた男 一番最初に現れた背の高い男だ は、満足そうにうなずいた。「こんな山の中を一人で旅行か、ねえちゃん?」ジュリアに近づきながら言った。顔には相変わらず、下卑た笑みを浮かべている。
「それ以上近づかないで!」ジュリアは剣を抜き、叫んだ。切っ先を男に向け、鋭い眼で威圧する。近づいたら問答無用で斬る! そういう眼で睨んでいた。そのつもりだった。しかし男達は、そんなジュリアを見ても、顔色ひとつ変えなかった。
「ねえちゃん、そんな危ないもん振り回すんじゃねぇ、怪我するぜ」馬鹿にするように笑う。
「黙れ!」ジュリアはさらに大きな声で言った。自分では凄みを効かせたつもりだったが、逆に男達の笑い声が増長する。
「そう怒るなよ、ねえちゃん。おとなしくしていれば、いい思いさせてやるからよ」
「ふざけるな!」声を荒らげる。同時に剣を振り上げた。そして、目の前の男、ゴメスに向かって斬りかかる。
「おっと」ゴメスは軽く後方に跳躍した。空を斬るジュリアの剣。再び構え直し、男を睨み付けた。
「おとなしく道を開けなさい。そうすれば、今日のところは見逃してあげるわ」
そうジュリアが言うと、ゴメスの顔からあの不快な笑みが消えた。
「あんまり調子にのるんじゃねぇぞ、ねえちゃん」低く、抑揚のなくなった声。ゴメスのその言葉と同時に、男達が一斉に武器を構えた。一気に空気が張り詰める。
まずいな、と、ジュリアは思った。剣の腕にはかなりの自信があったが、さすがに1人で10人を相手にするのは無理だろう。なんとかしなければ。
「女1人相手に、大の男が10人掛かりで戦うつもり?」ジュリアが言った。
「なにぃ?」
「正々堂々と、1対1で戦いなさいよ」挑発するような口調。「それとも、そんな勇気はないかしら?」
「おもしれえ、やってやろうじゃねぇか」ゴメスが言った。
うまくいった、とジュリアは思った。この山賊どものリーダーであろうこの男さえ倒せば、後の奴は逃げ出すに違いない。リーダーだけあってそれなりに腕も立つだろうが、たかが山賊ごときに、自分の剣が遅れを取るとは思えなかった。
「かかってきな、ねえちゃん」
ゴメスは剣を抜いた。大きな剣だった。ジュリアの身長くらいはあるかもしれない。しかし、当たらなければどうということはない。あれほどの大きさならば、当然動きが鈍くなるはずである。
剣を構え、慎重に間合いを詰めるジュリア。対する山賊は無防備だった。抜いた剣を構えることもなく、杖のようにして地面につき立てている。隙だらけのように見えた。完全にジュリアを侮っているのであろう。顔には余裕の笑みが浮かぶ。
――その不愉快な笑いを、今すぐ消してあげるわ!
剣を振りかざし、突進する。狙うのは相手の左腕。山賊の持つ大きな剣では、到底反応できないほどの、鋭い一撃だった。そのはずだった。しかし 。
ジュリアの手に鈍い衝撃が伝わる。何か、とてつもなく硬いものを叩いた時の手応えだ。見ると、山賊の剣が、ジュリアの一撃を軽々と受け止めていた。
――やるわね。
そう思った。次の攻撃に移る。今度は右肩に向けて切っ先を突き出した。最初の一撃をも上回る、早い突きだった。しかし、山賊の剣はそれを上回る早さで、この一撃をも受けとめる。手のひらを走る衝撃。はずみでジュリアは剣を落としてしまった。慌てて拾う。
「ねえちゃん、剣はしっかり握っておかないとなぁ」馬鹿にしたような口調。子分達も笑う。悔しさが込み上げてくる。それを振り払うかのように、ジュリアは再び剣を振るった。狙うのは右腕。しかし、簡単にかわされてしまった。返す刃で、今度は胸を狙う。だが男の剣は、信じられない早さで、その一撃をも防ぐ。
一旦間合いを離すジュリア。
――おかしい。
ジュリアは、この戦いに何か違和感のようなものを感じていた。
何がおかしいのかは判らない。判らないが、これまでの戦いとは、根本的に何かが違う。
「怖じけ付いたか?ねえちゃん」攻撃の手が止まったのを見て、山賊が笑った。
「うるさい!」叫び、再び踏み込んだ。狙うのは足元。
だがその剣も空を斬る。
今度は右脇腹を狙った。
次は頭。
左肩。
右足。
肘。
咽。
すべてが完璧な攻撃だった。しかし、山賊はどの攻撃も簡単に受け止め、あるいはかわす。かすることすらなかった。ジュリアの持つ剣は、刀身の細い比較的軽めの剣だ。山賊の剣の5分の1の重量もないであろう。にもかかわらず、山賊の剣の早さは、ジュリアのそれを圧倒的に上回っていた。それはつまり、ジュリアと山賊との実力の違いを意味している。信じられなかった。幼いころから父に教わった剣が、こんな山賊相手に通用しないなんて――。いや、そんな馬鹿なことあるはずがない。否定するかのごとく、ジュリアは剣を振るい続ける。やがて手が痺れてくる。息が上がる。だが、攻撃を止めたりはしない。止めることは、敗北を意味するからだ。こんな山賊に、あたしが敗けるなんてありえないのだから!
しかし、思いとは裏腹に、ジュリアの剣が男を捕らえることはない。
「もう諦めたらどうだ?ねえちゃん」男が笑った。
「うるさい!」
「そんなナマクラな腕じゃ、人は斬れないぜ」
「黙れ!」
「と言うよりも……ねえちゃん人を斬ったことがないだろ?」
「な――」
ジュリアの攻撃の手が突然止まる。
――人を斬ったことがない。
山賊の言葉が、頭の中を駆け巡る。
返す言葉がなかった。その通りだったから。
そしてジュリアは、ようやく、この戦いで感じていた違和感の正体に気がついた。
これは、「実戦」なのである 。
傭兵になってまだ日が浅いジュリアは、人を斬ったことがないばかりか、今だ実戦の経験がなかったのだ。
これまでにも護衛などの仕事は何度か請け負ったが、幸か不幸か、戦いに巻き込まれることはなかった。剣の腕には確かに自信があった。街の剣術の大会では、何度も優勝している。しかしその大会では、頭、首、胴、腕などの部分に防具が着けられてあり、それ以外への部位への攻撃は禁止されていた。そうでなくても、その大会で使われる剣は、刃のついていない模擬刀だった。
しかし、この戦いは違う。今、彼女の持っている剣は、決して人を斬ることのできない剣術大会の剣ではない。皮膚を切り、肉を裂き、骨すらも断つ、本物の剣だ。そして、相手の持つ剣も同じ。そのふたつの剣が交わるということは、お互いの命を賭けている、ということになる。この剣が、相手の命を奪うかもしれない。相手の剣が、自分の命を奪うかもしれない。
それはつまり――死への恐怖。
人を斬るかもしれない。
自分が斬られるかもしれない。
そのふたつの恐怖が、気づかないうちに、ジュリアの剣を鈍らせていた。もしこれが街の中での剣術大会ならば、ジュリアは負けなかったかもしれない。だが、実戦は競技とは違う。人を斬ることなど当たり前になっている山賊に、ジュリアが勝てるはずもなかった。
それを、この山賊は見抜いていたのである。
「人を斬る覚悟が無いなら、そんな危ないものは持ち歩かないことだな」そう言って笑った。
「う……うるさい!」叫んだ。再び剣を振り上げる。人を斬ることに恐怖を抱いている自分の不甲斐なさと、それを見抜かれた悔しさを打ち消すための一撃だった。
しかし――。
ジュリアの渾身の一撃は、山賊の剣に簡単に弾き飛ばされた。大きく弧を描き、地面に突き刺さる剣。慌てて拾おうとしたが、できなかった。山賊の剣が、喉元に突き付けられたからだ。
「俺の勝ちだ、ねえちゃん」
山賊が笑った。
「――――」
言葉が出なかった。思わず、目を逸らす。
自分の攻撃は全く通用しなかった。それどころか、自分の未熟さを相手に見透かされていた。敗北を認めないわけにはいかない。しかし、何という屈辱であろう。たかが山賊ごときに勝てないとは。しかも、相手は自分の挑発に応じ、正々堂々1対1で戦ったのだ。情けない。剣の腕には自信がある 今までそう思っていたが、そんなものは何の根拠もない驕りだったのだ。
「さて、覚悟はできてるだろうな、ねえちゃん?」
山賊の言葉で、ジュリアは我に返った。
――覚悟はできてるだろうな?
この男は今、そう言った。覚悟? 何の覚悟だろう? 金目のものをすべて置いていく覚悟だろうか? いや、さんざん相手を挑発しておいて、今更それくらいで終わるとも思えない。殺されるのだろうか? 十分に考えられることだ。しかし、ただ殺されるわけはない。殺すだけなら、戦いの最中にできたはずだ。この男がそうしなかった理由は、容易に想像できた。想像して、ジュリアは眩暈を覚えた。女として生まれたことを後悔せずにはいられない。辺りを見回した。目に入るのは、吐き気がするような男共の下卑た顔。嫌だ。それだけは嫌だ。そんなことをされるくらいなら、殺された方がましだ。しかし、「殺せ」と言ったところで、素直に殺してくれるはずもない。それ以前に、殺されるのも嫌だった。
――逃げなきゃ!
そう思った。山賊は、ジュリアを捉えた後どうするか想像したのか、仲間たちと顔を合わせ、笑っている。剣が、ほんのわずかだけ、喉から離れた。チャンスは今しかない。ジュリアは盗賊の隙を突き、走った。
「――逃げたぞ!」
盗賊の一人が叫ぶ。同時に、目の前に斧を持った山賊が立ちはだかった。囲まれているのだから当然だ。
剣は――?
辺りを見回し、弾き飛ばされた剣を探す。少し離れた所に落ちていた。拾っている暇はない。そう判断し、ジュリアは腰に手をあてる。万が一のために、刃渡り5センチ程の短剣を忍ばせているのだ。それを引き抜き、振り回す。山賊が少しひるんだ。その隙をついて、脇を駆け抜けた。
「ま、待ちやがれ!」
ゴメスが叫ぶ。ジュリアは、無我夢中で走った。どこに向かっているかも判らぬままに。背後で山賊達が追いかけてくる声が聞こえるが、振り返るような余裕はなかった。走る。捕まったら終わりだ。もう逃げるチャンスは無いだろう。走る。すぐに息が乱れたが、立ち止まるわけにはいかない。ただひたすら、走った。
どれくらい走ったか、何処をどう走ったか、ジュリアは突然走るのをやめ、立ち尽くした。背後からは、依然山賊共の声が聞こえる。振り切ったわけではない。逃げなければ、と思うのだが、できなかった。何故なら、彼女の目の前には道が――いや、大地さえも無かったからだ。
そこは切り立った断崖絶壁だった。
今にも崩れ落ちそうな地面に慎重に足を踏み出し、崖を覗き込んでみる。むき出しの岩が、遥か下方まで続いており、その先に河の流れが見えた。眩暈がするほどの高さだ。気を抜くと、吸い込まれてしまいそうだ。
河の流れも激しかった。所々水面から顔を出した岩に水がぶつかり、はねていた。そこからふたつに分けられた流れは、別の流れとぶつかり、はね、また別の流れを生んでいる。そうしたことを何度も繰り返し、水面は、まるで生き物のようにうねっていた。落ちたら、まず助からないであろう。
「もう逃げられないぜ」
背後で、聞きたくない声がした。振り返りたくなかった。しかし、振り返らずにはいられない。
山賊達が、自分の周りを取り囲んでいた。中央にゴメスが立っている。
「へへ。諦めるんだな、ねえちゃん。まあ、悪いようにはしねぇからよ」1歩、近づいた。
ジュリアは辺りを見回す。対岸は遠い。とても人が飛べる距離ではなかった。当然橋など掛かってはいない。逃げ道はなかった。捕まるくらいなら、飛び降りたほうが……。そう思う。しかし、崖の下を覗くと、恐怖のあまりその気持ちは小さくなる。一歩踏み出せばすむことだが、恐怖が、その一歩をためらわせる。
ゴメスがまた近づいた。
思わず短剣を構えるジュリア。
それを見たゴメスは、隠し持っていた短剣を引き抜き、ジュリア向かって投げた。
「――――!」
右肩に鋭い痛みが走り、ジュリアは言葉にならない悲鳴を上げる。あまりの激痛に、倒れそうになった。後ろに足を踏み出し、身体を支えようとする。
しかし、彼女の足は大地を踏み締めることができなかった。
そして、不意に襲いかかる浮遊感。
――何?
目を開けると、空が遠ざかっていた。
しまった! という山賊の声が聞こえた。
不思議と、心地好い。まるで、空を飛んでいるかのような感覚だった。
しかし次の瞬間、石の壁に激突したかのような痛みが全身を駆け抜けた。あまりの衝撃に、肺の中の空気を全て吐き出してしまう。苦しい。大きく息を吸い込む。いや、吸い込んだつもりだった。しかし、彼女の身体に入ってきたのは空気ではなかった。何か、どろどろしたもの。肺が進入を拒絶する。たまらず吐き出した。どろどろした何かは、ジュリアの身体中にまとわりついてくる。何? 目を開けたが、かすんでよく見えない。
ジュリアはようやく、このどろどろしたものの正体に気がついた。水だ。自分は崖の下に落ちたのだ!
苦しい。もがく。肺が空気を求めている。水面に顔を出せば、息をすることができる。だが、そんな簡単なことができない。流れが激しく、どちらが上で、どちらが下か判らないのだ。上だと思っていた方が、次の瞬間には下になり、またすぐ上になる。水にもてあそばれているかのようだ。もがく。無我夢中で手足を動かす。その手足に、水がまとわりつく。彼女を押さえ付けるかのように。もがく。空気が欲しい。息がしたい。しかし、存在するのは水ばかり。死にたくない。助けて! だれか、助けて! 叫ぶが、その声は空しく水に吸い込まれていくだけ。やがて、意識が遠のいていく。手足がいうことをきかなくなった。死ぬのかな。そう思った。突然、楽になった。
――と。
薄れゆく意識の中で、ジュリアは、青い髪の美しい少女を見たような気がした。
激流の中を、優雅に泳いでいる。その姿はまるで、水の女神のようだった。
――誰?
問い掛けた。
女神は微笑む。そして、ジュリアに手を延ばした。