三国志と劉備が好きな俺が三国時代に転生したけど、なぜか袁紹だったので、とりあえず袁家滅亡を防ぐために頑張ってみることにした件 作:ひいちゃ
とはいっても、袁紹、郭嘉、顔良、関羽、張コウだけですがw
袁紹(生年不詳~西暦198年)
◇◆◇◆◇ 概要 ◇◆◇◆◇
三国時代の群雄の一人、統一王朝『章』の初代皇帝。
……(中略)……
190年。公孫サン軍の分裂に介入し、群雄としての行動を開始。
その後も、華北の諸将を打ち破り勢力を拡大。191年秋には、華北を制圧し、曹操に匹敵する大勢力となった。
192年。劉備軍との白馬決戦に挑む。劉備軍・関羽の戦術に窮地に陥るも、顔良率いる別動隊の活躍もあり、からくも勝利を収める。
この勝利により勢いにのり、ボク陽を攻略、さらに一度は撃退された張エンを攻略するなど、さらに勢力を広げる。
194年には、大陸東部にも進出。対陶謙戦に、張コウ、続いて、関羽、張飛を派遣する。
この東部攻略戦は、195年に、陶謙の跡を継いだ陳登が降伏したことで終結し、大陸東部を得る。
その195年には、曹操との官渡の戦いに挑む。曹操軍の将となっていた劉備の作戦に、再び窮地に陥るも、ちょうどその時、南から進出してきた孫堅軍が、汝南を攻略したことで、曹操軍が撤退、九死に一生を得る。態勢を立て直し、陳留を攻略させる。なおこの時、劉備は許されて野に下っている。
その孫堅軍が降伏し、袁紹軍に合流したことで、ついに曹操軍への本格的な攻勢を開始。洛陽を陥落させ(曹操は陥落にあたって自害)、さらにその勢いで呂布軍を撃破。同時期に、孫堅が劉焉を降したことで、197年。中国の統一を完了する。
統一後、統一王朝『章』の建国を宣言。ただちに新体制作りに始めるが、それが完成した矢先、高幹と腹心であった郭嘉が、袁紹の第二子である袁煕を擁して決起。『咲華2年の乱』が始まる。
袁紹の腹心であり、三国時代屈指の謀将と呼ばれた郭嘉の参画に、反乱軍には袁紹に不満を持つ将兵や、旧群雄の残党などが集まり、一大勢力を築いたが、袁紹は軍をうまく使って、これを抑え込み、そして決戦の末、反乱軍を打ち破り、その支配体制を確固たるものとすることに成功した。
だが、ここまでにしてきた無理がたたったのか、急病を発し、皇太子である袁譚が命じた祈祷や治療もむなしく、乱が終結した直後に急逝する。なお、皇帝の位は袁紹の遺言により、長子である袁譚が継いだ。
ただ、旅路の途中で、袁紹らしき人を見たとの民間伝説も当時の文献の中にあり、一説では生存説も唱えられている。
◇◆◇◆◇ 功績 ◇◆◇◆◇
天下統一以外で袁紹が成した功績の中で一番大きいのは、白馬の戦い後に行った農業改革であろう。
当時としては考えられなかった、正条植や肥料散布などを導入し、領内の生産力を大きく改善した。
この改革は、統一後、中国全土にも導入され、『章』存続の間、農民たちは飢えとは無関係であったという。
◇◆◇◆◇ 人柄 ◇◆◇◆◇
当時の文献全てにおいて、『高貴らしくない人』という表記は共通している。
人当たりよく、それでいて分け隔てなく、身分問わず等しい態度で接したという。
また、敵味方関係なく、なるべく人を死なせず、有能な者を取り立て、重用したという。
その彼の元へは、軍師であり腹心の郭嘉や、元劉備軍の関羽や張飛、そして軍閥当主の孫堅といった、名だたる者たちが集ったといわれる。
また、失態に対しても、必ず挽回の機会を与えるなど寛容であったが、その一方で、自分の罪を他人になすりつけるなど、卑劣な者に対しては激しい怒りを見せることもあったという。
郭嘉(西暦170年~198年)
◇◆◇◆◇ 概要 ◇◆◇◆◇
三国時代の人物の一人、袁紹軍の軍師。
……中略……
190年。袁紹の噂を聞き、彼に仕官する。そこで彼の人柄と可能性に惚れ、袁紹軍に入る。
その直後、公孫サンの内紛が始まると、これに介入して勢力を広げることを進言。これがうまくいったことで、袁紹や他の武将たちの信頼を得る。またこの時、新兵器『投石器』を開発、投入し、新時代の戦術の基礎を築いた。
その後も彼の元でその辣腕を振るうが、197年の『章』王朝成立時、その重臣から外される。これは、彼の才能を袁紹が恐れたためと伝えられる。
その翌年、高幹とともに袁紹の次子・袁煕を担ぎ、袁紹及び『章』に反旗を翻す。これは、王朝の重臣から外されたことが理由と言われるが、別説もある。(後述)
咲華2年の乱序盤では、電撃的に華北の諸城を攻略し、その城の間に、補給や連絡態勢を整えるなど、ここでもその手腕を発揮するが、虎牢関の戦いでは、彼の戦術の上をいく袁紹の戦術に敗れ、章軍につかまり、斬首される。
◇◆◇◆◇ 袁紹、および『章』への反逆について ◇◆◇◆◇
長年、郭嘉が高幹の誘いに応じて対章反乱軍に参画したのは、『章』王朝成立時の人事に恨みを抱いてのもの、というのが定説となっていたが、近年、これに疑問を投げかける声が出てきている。
〇〇博士は、文献での袁紹と郭嘉の関係についての記述に触れ、王朝成立まで二人はとても親密な関係だったとの記述から、そんな郭嘉が、重臣から外された、という理由で、その関係を断ち、叛乱に踏み切るか、と疑問を提示している。
2018年に、袁紹が郭嘉の死を悼んだ句を詠んだ木簡が発見されたことも、この疑問を強化している。
そして2020年には、袁紹と郭嘉、袁煕、袁譚の間で、何かの謀議がなされたことが記された文献が発見され、咲華2年の乱は実は、袁紹、郭嘉、袁煕の三人が、高幹をはじめとした反袁紹派、袁紹に滅ぼされた各群雄の残党を一網打尽にするためではないか?という説が浮上している。
郭嘉と袁煕が反章勢力を糾合し、これを袁紹が討つことで不安要素を一掃して王朝の基盤を盤石にしようとしたのでは?というものである。
顔良(生年不明~没年不明)
◇◆◇◆◇ 概要 ◇◆◇◆◇
顔良とは三国時代、章時代の武将。
袁紹軍の武官筆頭を務め、章創立時には、章軍初代の総大将及び、章軍第一軍の大将を務めた。
袁紹軍のほとんどの戦いに参戦。その武勇を誇ったという。
袁紹に対する忠誠は無比で、『袁紹様に仇なす者には、相応の報いをくれてやる』と常日ごろから豪語していたと伝えられている。
章による天下統一後も、反乱分子相手に戦い、没したのも戦陣の中である、と文献に記されている。
関羽(西暦162年~231年)
◇◆◇◆◇ 概要 ◇◆◇◆◇
関羽とは三国時代、章時代の武将。
最初は劉備、その後、袁紹に伝えた。
……(中略)……
彼にとっての転機となったのは、192年の白馬の戦いである。
この戦いで、一時は袁紹を追い詰めるも、袁紹配下顔良率いる軍が本拠地である平原を攻略したことで、劉備軍は一気に崩れ、逆転を許す。(関羽は平原の守りを担当していたが、陥落寸前に、このことを劉備に伝え、彼を救うために脱出している)
この戦いの後、劉備軍が崩壊した後、袁紹軍に所属することになる。
その後は、袁紹軍のほとんどの戦いに参戦。袁紹による大陸東部平定戦にも参戦した。
章王朝成立時には、軍の副総大将に着任。第二軍の大将も務める。西暦231年に病死したと伝わる。
◇◆◇◆◇ 袁紹軍への参入について ◇◆◇◆◇
関羽が袁紹軍に参加したいきさつだが、これについて文献『章帝伝』にはこう記されている。
劉備軍が瓦解した時、関羽は劉備を無事に逃がすため、小数の部下を率い、袁紹軍本陣に突入した。
そこで袁紹との一騎打ちとなり彼を降すが、そこで袁紹は驚くべきことを願う。
自分の命と引き換えに、自軍の将兵や領内の人々の助命を願うと。
その彼に態度に感じ入った関羽は、袁紹に、劉備以上の慈愛の心を感じ、彼の幕下に加わった、ということである。
張コウ(生没年不詳)
◇◆◇◆◇ 概要 ◇◆◇◆◇
張コウとは、三国時代、章時代の武将。
はじめは韓フク、のちに袁紹に仕えた。
堅実な戦いに定評があり、地道な任務をよくこなした、という。
袁紹軍では早いうちに、東部軍団を任されて、公孫サン軍の攻略、および大陸東部平定戦でその手腕を発揮。
章王朝成立時には、第四軍大将に就任する。
とても無口で、彼の生涯で、誰も彼の声を聴いたものはいなかったと伝わる。