「なんだこれ」
教室に入った五条の目にまず飛び込んできたのは自分の机に山と積まれた駄菓子だった。
カラフルな長細いパッケージが机の上を埋め尽くしている。
同級生二人を見れば明らかに笑いを堪えている。
「おい、
「良いじゃないか、厚意でくれてるんだし。それに、悟が最近教室にいないから他にも溜まってるよ」
そう言って夏油が指差す先にはこれまた駄菓子が詰まった五条のロッカーがあった。こんな量どうやって一人で処理しろというのか。食べきれないわけではないが、大人しくもらうのもなんだか癪である。
「甘くなくていいね。夏油、そっちの白いやつ取って」
「これ納豆って書いてあるけど。あ、プレミアムもある」
「なんでお前ら普通に食ってんの?」
「食べないと湿気るじゃん」
「悟のことだし甘くないからいらないって言うかと思って」
「ふざけんな食うわ」
警戒していた自分がバカみたいじゃないか。適当に山から一本取って齧る。コーンポタージュ味だった。甘いには甘いがこういう甘さを求めているわけではない。
夏油の言うとおり、最近は任務以外の時間を自分の術式の性能向上に費やしていたため教室に来ることも減っていた。
呪力を持たない刺客に敗北した要因は『無下限』を解除してしまったことだ。
死の淵で掴んだ呪力の核心。そして、手に入れた反転術式。これがあれば脳が煮崩れを起こすことなく、自己補完しながら術式を常に出しっぱなしにできると考えていた。
掌印の省略、《赫》と《蒼》の複数同時発動、領域に瞬間移動と課題は山積みだが自分がどこまでやれるかが楽しみでもあった。
術式を完全に使いこなせるようになれば名実ともに夏油と最強を名乗ることができる。
「マジでどっからこんなに持ってきてんだよあいつ」
「安いから大量買いでもしたんじゃない?」
「あ、噂をすればじゃん」
家入が窓の外を指さす。グラウンドでは一年生たちが戦闘訓練の真っ最中だった。
七海と貴透がそれぞれの武器を手に打ち合っている。七海の強烈な一振りを小さなナイフで上手くあしらいつつ小柄な体格を活かしてちょこまか動き回っている。
「悪くない動きしてる。近頃良い先生がついたからかな」
「別にそういうんじゃないさ。彼らも頑張ってるし」
灰原の提案以降も夏油の体術指導は継続していた。
口ではあーだこーだ言いながらも貴透の飲み込みは早く、成長過程を見てハードルを上げつつ教えるのは中々楽しかった。最初は見守っていた七海と灰原も次第に加わるようになり、本格的に先生のような立場になりつつあった。
案外教職というものもアリかもしれないなんて考えまで浮かぶ。
「私ばかりが教えるのも偏りが出そうだからね。今度暇なら悟も…、悟?」
五条は何も言わずに窓の外を凝視している。視線の先には受け身を取りながら転がる貴透の姿があった。
歪みが大きくなっている。
以前ほど避けていたわけではないが進んで会いたいと思う相手ではなく、教室に顔を出すことも減っていたためいつから変化したのか分からない。
元々体と不釣り合いだった呪力は歪に肥大化し、不自然な流れを作っている。
まるで呪力が意志を持ち、貴透の体を侵食しているような、得体のしれない悍ましさ。
「おい、悟?どうしたんだ」
五条は立ち上がり、窓から出て行く。突然の行動に目を白黒させながらも夏油も後を追った。
「いつまで術式なしで戦うつもりなんです」
「だから言ってんじゃーん、役に立たないの!使うのがすごい面倒なの!」
「対象が半径2m以内に居ないといけないんだっけ?確かにけっこう難しいよね」
「自分の勝ち筋に相手を引き込むのも必要なことでしょう。ナイフに呪力を流すだけの戦い方では昇級どころか進級だって危うくなりますよ」
「好きでやってるんじゃないし。ていうか灰原だってほぼステゴロじゃん」
「僕はその分筋トレしてるから」
「なんで筋肉でカバーできてるのか未だに分かんないんだけど」
近付くにつれて賑やかなやりとりが聞こえてくる。真っ先にこちらに気が付いたのは灰原だった。
「あ、五条さんと夏油さん」
「お疲れ様です」
「なんですか。うまい棒の返品なら受け付けてませんけど」
そうじゃねぇわバカ、と罵倒が返ってくると思ったが、五条は黙ったままだった。じっと凝視してくる自販機ほどの背丈の男に貴透は怪訝そうな顔になる。ちらりと夏油を見やるが首を振っている。彼もよく分かっていないらしい。
五条はただ単に言葉が出てこないだけだった。
間違いなく目の前の女は異常だ。だが、それが何だというのか。彼女が他者を害した所を見たわけでもない。問い詰めようにもこの違和感は五条にしか知覚できない。思っていることを言語化できないことがここまでもどかしいとは思わなかった。
「何なんだよ、お前」
辛うじてそんな言葉だけを絞り出した。
「見ての通り同級生に虐められてる哀れな後輩ですけど。ていうかこのやりとり前もやりませんでした?」
「ちげぇよ、俺が言いたいのは…」
「あ!」
会話を遮ったのは灰原だった。
「術式の訓練なら五条さんにやってもらうっていうのは?無下限術式ならどんな攻撃しても危なくないし」
「ヤダ」
「ぜってー嫌」
珍しく意見が一致した。
「おかしくない?ヤダって言ったじゃん」
グラウンドで五条と向き合った貴透はずっと不平不満を垂れ流している。それは五条も同様だったが、「可愛い後輩の頼みを無下にするのは良くないよ。ああ、そういえば最近授業をサボりがちな誰かさんのせいでしょっちゅうノートを貸さないといけなくなってたっけ」という圧と笑顔に黙るしかなかった。どうやら相方は後輩の味方らしい。いつの間にそんなに仲良くなっていたのか。
ため息をつきながらガシガシと頭を搔く。
「あーもー面倒くせぇ。とっととやれ。話はそれからだ」
「まだなんかあるんですか…」
説教なら勘弁してくれといったげんなりした表情で貴透は渋々構えた。
「―術式展開」
貴透がナイフに手をかける。
「
その瞬間、五条の首が落ちた。
正確には『落ちた気がした』。それほどまでに濃厚な死の匂い。そして、このままでは
それが現実になると五条の生存本能が警鐘を鳴らしている。
全身の毛が逆立つ。考えるより先に指が動いた。
――術式反転、赫。
貴透の体があっけなく吹き飛ばされた。
咄嗟に動いた灰原が彼女をギリギリ捕まえる。勢いを殺しきれず一緒に吹っ飛びそうになったところを夏油の呪霊が受け止めた。
真正面から《赫》を受けた衝撃で貴透は完全に気絶している。鼻と口から血が滴り、右手はあらぬ方向に曲がっていた。
「何やってるんだ!悟!」
夏油の声で我に返った。
駆け付けた家入がすぐに貴透の治療に入る。顔を歪めた七海に胸ぐらを掴まれた。
「貴方の術式ならあそこまでする必要はないでしょう」
「やめろ七海。悟もどうしたんだ、らしくない」
揉み合いに発展しかけたところで夜蛾を含めた教師陣が騒ぎを聞きつけてやって来た。
結局、五条は夜蛾から指導という名の鉄拳を食らい数日間の謹慎処分。貴透にも意識が戻り次第なにかしらの形で処分が下ることとなった。
謹慎を言い渡された五条は一人部屋で考え込んでいた。
七海の言う通り、自分の無下限なら弾けたはずだ。だが、とっさに体が動いていた。
つい首をさする。あの感覚は夢ではない。
例えるなら肉食獣に首を咬まれた草食動物だろうか。喉元を噛み砕かれるような、根源的な恐怖。そんなものが自分の中に残っていたことも驚きだが。
貴透が術式を発動させた瞬間、五条の目にはあるイメージが見えていた。
黒い
あれは一体何だったのか。考えようにも頭痛とともに脳があれについての思考を拒否している。
ただ、あれは人間とは決して相容れない存在であるということだけは分かった。
「だからやりたくなかったんだよー」
医務室のベッドで貴透は一人愚痴をこぼしていた。
五条なら自分の術式なんぞ余裕で弾いてくれると思っていたが、想像以上に強烈な反撃をもらってしまった。灰原が受け止めてくれなかったらあのままどこまで吹っ飛ばされたことか。衝撃が重すぎて一瞬で意識が持っていかれた。生きていただけ運がいい。
ポケットに入れていたうまい棒は一緒に衝撃を受けたせいで粉になっていた。
貴透の術式が役立たずというのは嘘ではない。単に七海と灰原には完全に術式を開示していないだけだ。
「黒雲顎門」は発動の条件がシビアということと効果の相手が限られているため、呪霊相手の戦闘ではそもそも使用機会がない。
その一、対象が自分を中心とした半径2m以内にいること。
その二、貴透自身が対象を両目で視認していること。
その三、対象が
効果は対象の生命を奪うという非常にわかりやすいもの。
そこまで殺人特化にしなくてもいいだろうと何度思ったことか。
本来なら貴透の術が五条を捉えるなどまず無理だ。今回のように発動前のタイムラグに射程圏外まで飛ばされるのは言わずもがな、そもそも射程圏内に近付かせてもらえないのだから。
任務の戦闘でも使用できる環境が整うことはまずない。発動まで対象を両目で視認していなくてはならないため途中でよそ見すれば不発に終わるし、下手をすればフレンドリーファイアもあり得る。
要は自分を舐めてかかってくる相手に対するタイマン専用だ。
五条相手に使用したなんて報告したら確実に星川に怒られる。
「でも最近あの人忙しそうだしなー」
何でも『協力者』が有益な情報を持ってきたとかなんとか。
一度だけ、その協力者に会ったことがある。額にある縫い目を除けば見た目は普通の人間だった。しかし、何か底の知れない不気味さがあったことを覚えている。
貴透は自分の学生生活を守れるなら、星川が何を企んでいるのかにさして興味はない。
でも、こんな自分に居場所をくれて感謝はしているから、星川には生きていて欲しいとも思うのだ。