貴透由衣は物心ついたときから「真っ当な人間らしさ」が欠落していた。
人を殺さないと生きることができないという、人間としてはあまりにも悪辣な体質。そして、感情と倫理観の欠如。
彼女が人殺しをしても平然と生きていられるのは他者を殺すことへの罪悪感というものをそもそも持ち合わせていないからだ。
彼女にとって、殺しは食事と何ら変わらない。目の前のハンバーグを食べるのに犠牲になった豚や牛に感謝こそすれ「殺してごめんね」と涙する人がいないように、貴透も感謝して手を合わせる。
今日もあなたのお陰で生きられました、と。
任務から帰ってきた夏油は自販機横のベンチでぐったりしている貴透を見つけた。両足を投げ出して壁にもたれている彼女の顔には「疲れた」の三文字がはっきりと見える。
「仮にも女子がその足の開き方は良くないんじゃない?」
「後輩の女子相手に一言目がそれなのもどうなんです」
体勢を変えずに「お疲れ山脈でーす」と投げやりな言葉が返される。貴透はポケットを漁り、紺色の小さな箱を取り出した。黄色い柑橘類がプリントされたそれからオレンジ色の四角を摘まみだし口に放り込む。こちらに差し出された箱を手で制して隣に座る。そういえばこうして二人だけで話をするのは初めてかもしれない。彼女の隣にはいつも七海か灰原の姿があった。
夏油にとって貴透はよく分からない後輩だった。大して強いわけでもなく、これといって人柄が良いというわけでもない。しょっちゅう何かしらを食べているかと思えば、体調不良で担がれて帰ってくる。夏油には彼女が優しい同期に甘やかされているようにしか見えなかった。
「一人でいるなんて珍しいね」
「それ言ったら先輩もじゃないですか。いつもニコイチなのに」
「悟は夜蛾先生に捕まってるんだよ。巻き込まれるのは御免だし尊い犠牲になってもらった」
「クズい」
「そういう君はどうなんだ」
「私もお説教と質問攻めから逃げてきたんですよ」
口をもごもごさせながらうんざりした顔をする。
貴透は朝から七海に正座をさせられていた。数日前に傷心を慰めるためにレトロゲームと駄菓子に金をつぎ込んだせいで帰りの交通費が足りなくなり補助監督の車をタクシー代わりにしたのがバレてしまったのだ。まだ脚の痺れが残っているからこうしてだらしない恰好をせざるを得ない。
そのうえ最近何故か灰原になんで呪術師になったのかだの、家族はどうしてるのかだの聞かれまくっている。久しぶりに親戚の集まりで会ったおじさんかよ、とつい口にしたツッコみはあえなく無視された。二人が任務のため担任に呼び出されてようやく解放されたのだ。
そういったあらましを説明すると夏油の視線が貴透に向けられた。
「私も気になるな。なんで呪術師になったのか」
「先輩今までの話聞いてました?疲れてるんですけど」
「私だって任務終わりで疲れてるよ。良いだろう、減るもんじゃないし。先輩と親交を深めると思って」
「えー…」
分かりやすくめんどくさそうな顔をしつつ貴透は話し始めた。
「先輩と同じでスカウトですよ。学校にいた低級を祓ったときにたまたま高専の関係者が居合わせたたってだけです。私のやりたいことが高専に来たらできそうだったんで受けました」
「やりたいこと?」
「普通の高校生活」
「呪術師やってる時点で普通ではないだろう」
「視えない人間に視える人間が混じってたら異常扱いされますけど、周り全員が視える人間ならそれはもう普通でしょ」
普通でありたいというあまりにささやかな願いを少し意外に思う。
夏油は幸いにして親にも環境にも恵まれていた。両親は視える自分を受け入れてくれたし、友達もそれなりにいた。しかし、それは自分が例外だったに過ぎない。視えることで迫害を受けることは往々にしてある。恐らく、彼女もそちら側だったのだろう。
血色の悪い指先が二つ目のオレンジ色を摘まみ上げ、紫がかった唇に運んでいく。
「先輩はなんで呪術師やってんです?」
「…私は自分に特殊な力があるなら人のために使うべきだと思ったんだよ。余裕のある人間が余裕のない人間に手を差し伸べる。社会は弱者生存であるべきだ」
貴透は苦虫を500匹ほど嚙み潰したよう顔をしている。以前五条に同じようなことを言って諭したときを思い出した。
「何その顔」
「いやあ、志はご立派だとは思うんですけどその考え方は止めといた方がいいっすよ」
「何?」
「『そうするべき』、『そうあるべき』ってある種の呪いですよ。真綿で自分の首を締めてるようなもんです。どんなに頑張ったところで、後々しんどくなっても誰も褒めてくれないし助けてくれない。結局は自分がどうしたいかです」
「それは持論?」
「どっちかというと経験則ですね」
遠い目をしながら紺色の箱を指先でいじっている。先ほどの『やりたいこと』といい、こんなに暗い表情をする子だっただろうか。灰原たちと一緒にいる時とはあまりに違う。
「君は…」
「あの、先輩。ビニール袋とか持ってません?」
「は?」
おもむろに貴透が身体をくの字に折り曲げる。顔色はいつの間にか真っ青で、苦しそうに口元を押さえる。
夏油の顔から血の気が引いた。
「うわ嘘だろ。ちょっと待って待って」
「無理です……」
「少し我慢してくれ!硝子ー!硝子ー!!」
夏油の必死の絶叫が高専に響いた。
貴透は「真っ当な人間らしさ」を持たなかったが、「真っ当な人間になろうとした」ことはある。
貴透は片親だった。女手一つで育ててくれた母親は彼女が幼い頃からどこか情緒不安定であり、
小学生にもなっていない頃、既に命を奪うことが日常になっていた貴透がカマキリを潰すところに遭遇した母親は烈火のごとく怒った。
命は大切なもの。
食事で手を合わせるのも命をいただくから。
だから命を大事にできる正しい人間になりなさい。
人間はそうあるべきなのだから。
涙を流しながら彼女の肩を掴む母親を見て、生き物を殺すことは一般的には悪いことなのだと気がついた。
育ててくれた母親を悲しませるのは申し訳なくて、彼女は殺すのを止めた。
貴透は殺人衝動があるわけではない。止めることに苦痛はなかった。
そうして、普通の人間らしく過ごしていた数日後に異変が起こる。何を食べても胃が受け付けてくれない。異様に呼吸が苦しく、歩くだけでも息が切れた。その上、身体を押し潰さんばかりの倦怠感。みるみるうちに彼女は衰弱した。
病院で診てもらっても原因は不明。医者は「まるで身体が生きることを拒絶しているようだ」と話していた。
彼女が回復したのは入院していた病院の庭で見かけた猫を殺した後だった。
自分は人間らしくあることはできない。
そう自覚したときから貴透は躊躇わなくなった。
母親が自殺したのはその数年後の話だ。
翌朝、夏油の机には見覚えのある紺色の箱とメモ書きが置いてあった。
『運んでくれた呪霊にゲロぶっかけてすみませんでした』
淡白に一言。隣の五条が覗き込んで鼻で笑う。
「何それ、ダジャレのつもりかよ」
箱にプリントされた赤い「ボンタンアメ」の字に夏油も苦笑するしかなかった。