七海は呪術師が善であると思ったことは一度もない。
人に害をなす呪霊を祓い、人知れず非術師を守る。聞こえはいいがそれは呪術師側の犠牲を巧妙に隠す言葉だ。誰よりも死が近いのに、誰にも感謝されない役割なんて生贄と何が違うのか。
そんな環境に耐えられるのはよっぽど盲目なヒーロー志望か本当の意味で頭がイカれている奴だけだろう。
蒸すような湿気が立ち込める午後5時。昼から夜へと移り変わる時間帯は『逢魔が時』と呼ばれ、読んで字のごとく妖怪や幽霊といった人ならざるものが現れる。そして、それは呪霊も例外ではない。夕焼けの赤が雲に張り付き、血のようにさえ見える。重苦しい空気をまとう建物の前に三人は立っていた。
任務に向かう前から嫌な予感がしていた。
心霊スポットとしてオカルト界隈で有名な郊外の廃病院で頻繁に行方不明者が出ているうえに調査に向かった二級呪術師との連絡が途絶えた。被害者数は確認できている時点で20人を超えている。生還者はいない。
本来ならば一つ学年が上の五条と夏油が引き継ぐ予定だったが、別の緊急案件が入ったことで七海たち一年生にお鉢が回ってきた。
「明らかに采配がおかしい」
「できるだけのことはやろうよ。最悪祓えなくても行方不明の人たちを救出できれば良いし」
「生きていれば、の話でしょう」
問題児ではあるがあの二人の実力は確かなものだ。降伏した呪霊を取り込み自分の意のままに操る呪霊操術と、絶対的な防御と圧倒的な攻撃力を併せ持つ無下限術式。「最強」を自称するのも納得できるほどに彼らの強さは分かりやすいものだ。
七海は自分たちが彼らの代役を務められると思うほど傲慢でも思い上がってもいない。正直、まだ実践を積んでいる途中の学生に投げてよこすには余りにも無茶な任務だ。呪術師が万年人手不足なのはこういう使い捨てのような運用にも原因があるのではないかとさえ考えてしまう。
ぐるぐると廻っていた思考はプヒューッという間の抜けた音によって中断された。
「貴透」
「んー?」
「前も言いましたがもう少し緊張感を持ってください」
音は彼女の唇に挟まれたタブレット菓子から出ている。平べったい穴空きの錠剤のようなそれは薄い紫色だ。返事の代わりにピューッと甲高い音が響く。
「緊張しすぎても良くないでしょ。リラックス、リラックス」
ニヤニヤしながら甲高い音で三三七拍子を刻む同期に頭が痛くなった。
「リラックスを通り越してやる気が削がれるんです」
「フエラムネかー、懐かしい。グレープ味よく食べてた」
「おまけのおもちゃは緊張しいな七海に進呈しよう」
「いりません」
「そういえば貴透、この間医務室に運ばれたときに夏油さんにゲロかけたって本当?」
「本人にはかけてない。ていうか今それ聞くのおかしくない?ラムネあげないぞ」
くだらない掛け合いをしながら菓子を分け合っている二人を見て無意識のうちに強張っていた肩から力が抜けた。いつの間にか手に滲んでいた汗を見られないようにそっとズボンで拭う。
貴透は意識的にか否かは分からないがよく人を見ている。
普段のふざけた言動とヘラヘラした態度に隠れがちなだけで、常に『いつも通り』を崩さず、周囲を観察して気が付かないうちに気をまわし、他人に分け与えることを躊躇わない。あまりにもさり気なさ過ぎて数か月共に過ごしている自分たちでも見逃すことが多い。彼女をよく知らない人間は尚更だろう。そんな彼女に不本意ではあるが精神的に救われている部分があった。
「皆さん、人払いは終わりました。これから帳を降ろします」
補助監督から声がかかる。穏やかな口調と物腰の彼は任務の付き添いで何度か会ったことがある。たしか星川という名前だ。
「任務の主目的は呪霊の討伐ですが、行方不明者の数からして確認時点から階級が変化していることも考えられます。どうかご無理はなさらず、必要であれば撤退してください。ご武運を」
深々と頭を下げる星川に見送られ、三人は建物内へ足を踏み入れた。
病院の内部は埃臭く、床のひび割れや壁の老朽化からかなり長い時間放置されている事が窺える。灰原が足元に落ちていたものを拾い上げる。真新しい懐中電灯だ。アイコンタクトをして先に進む。
病院の奥から感じる気配は大きく二つ。もし両方とも二級相当以上の呪霊だった場合、戦闘は可能な限り避けて生存者を探すべきだろう。
「なんか…変な病院だね」
灰原の言葉に七海も同意する。
受付ロビーは普通の病院と変わらなかったが、進むにつれて違和感が増す。異様に廊下が長く、ほとんどが一本道になっている。階段は続いておらず何故か廊下の両端にあり、上の階に上がるには長い廊下を横断しなくてはならなかった。そして、要所要所に二重の扉が設置されており、まるで侵入を拒むような構造だ。
「入るのを防いでるんじゃなくて、出るのを防いでるんだよ。患者が逃げないように」
「…なぜそんなことが分かるんです」
「多分ここ精神病院でしょ。昔よく通ってたし、大体どこも似たような構造だから何となく分かるよ」
貴透は何てことはないように話す。
数日前に灰原が彼女を質問責めにしていたとき、母親は亡くなる前に入院していてよく見舞いに行っていたと話していたことを思い出した。まさか精神を患っていたとは思わなかったが。
「精神病院だと普通の病院より厄介かもねー。悪いものめっちゃ溜まりやすいし」
「でも病院ってどこも呪霊が出やすくない?」
「精神系は特にだよ。一回入ったら中々出られないうえに人の出入りも限られるから風通しが悪い」
「つまり、呪霊の温床になるには打ってつけという訳ですか」
目の前にある鉄製の扉に手をかける。ぐっと体重をかけて開いた瞬間、視界が歪んだ。
引きずり込まれるように三人全員が扉の向こうに吸い込まれ、重い音を立てて扉が閉まった。
振り返ると存在感を放っていた鉄扉が忽然と消えている。やられた、と七海は舌打ちをする。
「七海」
灰原の声に顔を上げる。
目の前の景色が明らかに先ほどの病院内と様変わりしていた。階段が縦横無尽に折り重なり、壁や天井から牢獄のような鉄柵の病室が顔を出している。トリックアートのような光景に眩暈がした。
「生得領域か…」
この時点で撤退という選択肢はほぼ消えた。空間の大元になっている存在を叩かなければ、外に出ることも生存者を連れ帰ることもままならない。
「うーわ迷路みたい。こりゃ二級でも一人で調査なんて行ったら帰れないわ」
「言ってる場合ですか。気配はまだ奥にある。とにかくはぐれないように全員で…」
言いかけた言葉を遮る鈍い音。唐突に貴透の立っていた床が消失した。彼女に手を伸ばす灰原がスローモーションに見える。指先は虚しく空を切り、声を上げる間もなく貴透の身体は奈落の底へ吸い込まれていった。
あまりに突然の出来事に呆然とする七海と灰原だけがその場に残された。
少女はただ外に出たいだけだった。
昔から変なものが見えていて、それが怖くて両親に打ち明けたら即病院送りにされた。
入院生活は地獄だった。
叫びながら廊下を闊歩する老人、人を見るや否や殴りかかってくる女、ずっと壁に話しかけていると思ったら頭を打ち付け出す男。四六時中が聞くに耐えない奇声の嵐。しかもここは家や学校よりも変なものが多く住み着き、彼女の精神を蝕んだ。
何度も両親に手紙を書いた。どこも悪くない、もう変なものが見えるなんて言わない、ずっと良い子にする。だから迎えに来て。
その願いが叶えられることは終ぞ無かったけれど。
もはや自分が正常なのか狂っているのか分からない檻の中で数年が過ぎた頃、何度も病院に出戻りしている男に声をかけられた。異常な収集癖の持ち主で、院内チェックを掻い潜って変なものを持ち込んでは看護師に取り上げられていた。
「とっておきだよ。多分僕には使えないからあげる」
古ぼけた長細い桐の箱。何か、とてつもなく怖いものが入っていることが分かった。そして、とても強い力が宿っていることも。
怖い。けれども好奇心と何かが変わるかもしれないという淡い期待から少女は箱を開けた。中にあったのは赤茶けた枝のようなもの。五つに分かれた末端は人の手を思わせた。
それに彼女は一つだけ願った。この地獄から出るためのカギがほしい。
パキリ、と何かが折れる音がした。
少女はカギを探している。外の世界とこちらを分断するあの分厚い鉄扉のカギ。桐の箱から与えられた力で大きな『目』を手に入れ、ひたすらに探した。看護士も、リネン業者も、病院に入ってきた知らない若い男たちも、変な黒い格好の人も、持っていたカギはあの扉のじゃない。
今日やってきたあの子の持つものはどうだろうか。
「おあー…、シャレにならんくらい痛い」
貴透は強かに打ち付けた尻をさすりながら暗い廊下を進む。まさか問答無用で分断されるとは思っていなかった。壁に身体を擦り付けて何とか落下スピードを殺したが、おかげで手の皮が剝がれてしまった。
二つあった気配のうち一つはこの先から感じる。廊下の奥に佇む白い影に気が付き足を止めた。15歳くらいの女の子だ。細長い木製の箱を抱きかかえ、黒く濁った目がこちらを見ている。
「カギ、持ってるでしょう?」
入院着の少女の問いかけに貴透は首をかしげる。ポケットに手を突っ込んで探ると指先に固い感触があった。引っ張り出してみるとそれは菓子のおまけでついていたプラスチックのおもちゃのカギだ。
「カギ、ちょうだい。出たいの」
「これはここのカギじゃない。ていうかどこにもカギなんてかかってなかったよ。出たければ出ればいいじゃん」
「ちがう、出られないの。カギがないと。みんな持ってなかったの。だから仕方なかったの。カギ、カギが必要なの」
「いやいや、あの殺し方は仕方なくないでしょ」
ここに来るまでに行方不明の被害者たちと連絡が絶えていた呪術師の遺体は見つけていた。普通の人が見たら余りに凄惨さに卒倒していただろう。アリの巣に水を流し込むような、トカゲの尻尾を弄ぶような子供の無邪気な悪意が透けて見える残酷さ。
「もう目的と手段が入れ替わっちゃってるんでしょ?生得領域が迷路もどきなのもカギを探すためじゃなくて、殺すためにカギを持ってる人間を招くため。千切ったり、潰したり、剝いだりするのが楽しくてしょうがないんでしょ」
「…ちがう」
「違くない。ダメだよあんな殺し方しちゃ。命は大事なものなんだから、生かすなら後腐れなく、殺すなら苦しませず一思いに。あんなことに夢中になってたらそりゃ出口なんて見つかるはずないって」
「ちがう!!」
少女の激昂に応えるように桐の箱から呪力が吹きあがった。天井から無数の眼球と腕を持つ猿のような呪霊が這い出す。
「呪物に魅入られてるけど、まだ君が人間で良かったよ。転化されてたら私じゃどうしようもない」
ナイフを引き抜き、地面を蹴る。呪霊の腕が伸びるより先に貴透の腕が少女の頭を掴んだ。
「人間なら簡単に殺せる」
銀色の刃が閃く。真一文字に裂かれた少女の喉から鮮血が噴き出した。
七海と灰原は大きな気配の一つであろう呪霊との戦闘の真っただ中だった。無数の眼球と腕を持つ猿に似たそれには死角がないのか、どれだけ攻撃を打ち込んでも致命傷に届かない。耐久戦に持ち込まれたら明らかに不利なのはこちらだ。
貴透の行方も分かっていない。仮にもう一体の呪霊と鉢合わせしていたら彼女の生存は絶望的だ。
灰原の攻撃が弾かれ、反動で壁に叩きつけられた。追撃の無数の腕が振り上げられる。術式で切断するのが間に合わない。
「灰原!」
身体を砕くために振り下ろされた腕は彼に届くことはなかった。呪霊が耳障りな声を上げながら崩壊していく。何が起こったのか分からず、とりあえず灰原を助け起こす。脚を骨折しているが幸いにも出血は酷くない。応急処置をしていると再び視界が揺らいだ。生得領域が消えたのだ。
薄暗い室内でどうすべきか考えあぐねていると遠くからプヒューっと間抜けな音が聞こえた。ハッとした表情で灰原がポケットからフエラムネを取り出す。思い切り吹きならすと耳をつんざく程の高音が鳴り響いた。耳を塞ぎ損ねた七海の頭の中で音がぐわんぐわんと反響している。
ほどなくしてワイシャツ姿の貴透が階段の向こうからひょっこりと顔を出した。
「良かったー思ったより近くにいた。お、ボロボロじゃん。大丈夫?」
「あんまりだいじょばない…、上着どこやったの」
「汚れたから置いてきた。なんか七海の方が重傷っぽいね」
「……灰原、せめて一言言ってからにしてください」
「あ、ごめん」
貴透の案内で被害者たちの亡骸があったであろう部屋へ向かったが、死体は残っていなかった。領域の消滅と共に消えてしまったのだろうか。
灰原に肩を貸し、外へ出るとちょうど帳が上がった。
「で、あなたは何を持ってるんです」
「ん?ああこれね。多分さっきの領域の核になってたものだと思う」
古ぼけた長細い桐の箱。長さ20cmほどのそれには既に簡易的な封印が施されているが、それでも気味の悪い気配が漏れだしている。あの呪霊が引き寄せられたのも納得だ。
「うわぁ、それ一級あたりの呪物じゃない?」
「持って帰ったら厳重封印のうえお蔵入りだろうね」
「…そんなものがあってよく生きて帰れたものです」
「生還祝いにおまけとラムネを七海に」
「いらないって言ってるでしょう」
結局おもちゃのカギと穴あきのラムネを押し付けられた。怪我をしているくせに元気な二人は揃って素っ頓狂な音を奏でている。まだ反響している耳を守るために、七海は口に含んだラムネをそのまま噛み砕いた。
「聞くのも野暮ですけど、あんなもん何に使うんです?」
深夜の医務室。会話が外に漏れないように簡易結界が張られているそこで貴透は星川に問いかけた。
灰原と七海は家入の反転術式によって回復し、既に自室に戻っている。施術中に爆睡をかました貴透はそのまま置いてけぼりを食らったのだ。
「ただ視えるだけの一般人をでかい呪霊と生得領域を従えるまでに押し上げる呪物ってけっこうヤバい案件じゃないんですか」
「お上からの依頼だからね。なによりあの耄碌どもに取り入るにはこういった物を献上するのが手っ取り早いんだ」
「いやいや、そのせいで私の同期死にかけたんですけど。どうせ先輩方に別の任務回したのも星川さんでしょ」
「まさか。ただの補助監督の私にそこまでの権限はないよ」
星川は微笑みを返す。この胡散臭い表情の時は決まって嘘だ。
「一応心配してるんですよ。星川さんには感謝してるし」
「なら余計な口は挟まないでくれ。『私は君が生きられる環境を提供する代わりに、君は私の手足になる。』それが私たちの縛りなんだから」
「はーい。ま、私はちゃんと高校生活が送れればそれでいいです」
ポケットから二個だけになったラムネを取り出す。一つを口に放り込んで残った最後を星川に差し出した。それを受け取ることなく彼は部屋を出て行き、一人部屋に残された貴透は二度寝のために布団をかぶり直した。