秋の盾をあなたに   作:江芹ケイ

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第15話:新入生のタイム測定

 春の朝の涼しい風が、急坂を駆けあがる私の体と、煩悩で未だに上せている頭を冷やす。

 

 入学してから初めての月曜日を迎えた朝、私はこの間新しくラフィさんから教えて貰った朝練コースを1人で走っていた。是政橋北の交差点――いつも公園の方へ左折している交差点を右に曲がり、府中四谷橋を渡って川崎街道を東に向かい、多摩川原橋を超えて遊歩道に戻り1周するコースだ。入寮翌日に教えて貰ったコースとの最大の違いは、向ノ岡交差点付近から約1kmで55mを登り、直後に2.4kmで80m近くを降る強烈なアップダウンである。数字上は坂路よりも厳しい高低差と勾配があり、速度制限のせいで一杯に追えないとは言えどもなかなかの負荷がかかる。

 

 どうして1人で走っているのかと言えば、理由は大きく2つある。

 

 1つ目は、ラフィさんは昨日レースがあり、帰りも遅かったために今も眠っているからだ。昨晩のラフィさんはすっかり疲れきっていたらしく、お願いを聞いてハグを続けていたらラフィさんはそのまま私の腕の中で眠ってしまったのである。

 

 腕の中でラフィさんが美しい寝顔を見せたとき、それはもう大層悩んだ。あまりにも無防備すぎて、「これはもうそういうことでは? OKでは?」などと思ったほどである、しかし、私は紳士である。今は淑女だが、前世的には紳士である。据え膳レベルのあからさまな誘い受けでない限り、きちんと本人の口から同意を得てからそういうことはしたいものだ。そういうわけで、紳士的な私はきっちりラフィさんを彼女のベッドに寝かせてから自分のベッドに潜ったのである。悶々としていたのになんだかんだ3時間も眠れたことを褒めてほしいくらいだ。えらい。えらすぎる。

 

 アラームも付けていなかったようで、朝になってもスマホが鳴らなかったので、せっかくだからとそのまま眠っていてもらうことにしたわけだ。

 

 2つ目、私自身も昨晩は遅かったのに、今朝こうして走っている理由だ。土日に朝練できなかったということもあるが、1番の理由は煩悩退散のためである。私には昨晩の出来事は刺激が強すぎたようで、自分に都合の良いちょっとえっちなラフィさんの夢を見て、解釈違いで飛び起きてしまったのである。

 

 ……私はともかく、ラフィさんはそんなふしだらなことはしません!

 

 そんなことを誰に言うまでもなく考えていたら、暖かくて柔らかくて、良い匂いのする眠るラフィさんの抱き心地を再び思い出してしまう。せっかく冷えてきた頭に熱が上ったことを自覚した私は、邪な気持ちを振り払うように首を振り、いつの間にか登り切ろうとしていた坂の先を、朝日を浴びながら駆け降りて行った。

 

 

 

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「どうして起こしてくれなかったんですか」

 

 ベッドの上に座る寝起きのラフィさんが、タイキシャトルのビッグぱかプチを抱きしめながら少しむすっとした様子でそう呟いた。私が寮に戻ってラフィさんを起こした後、時計を確認したラフィさんの第一声である。

 

 ……女神様が大きなぬいぐるみを抱いている様子、あまりにも絵になりすぎないか。もはや宗教画である。今この瞬間を絵にして飾って置くことが出来たらどんなに良いか。

 

 そんなことも考えているとはおくびにも出さず、理由を答える。

 

「昨日はだいぶ疲れていたみたいなので、そのまま寝かせてあげたほうが良いかと思って」

「それは……」

 

 一瞬反論しようとしたらしいラフィさんだが、ゆるゆると首を振って止めてしまう。

 

「……お気遣いは、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 ぎゅうっと、ぱかプチを抱きしめながらラフィさんは言った。言いたいことがあるだろうに、相手の思いやりを慮ってまずは感謝をするだなんて、メジロの家は本当に良い教育をしているのだろう。それはそれとして、ぬいぐるみは私と場所変わってくれませんか。そのポジション、あまりにも羨ましすぎる。

 

「でも、ですよ?」

「はい」

 

 ウマ耳が元気なく垂れているラフィさんが言葉を続けた。ベッドに座っているラフィさんは、その前に立っている私の目を上目遣いで見て、ポツリと一言漏らす。

 

「置いて行かれると、寂しいじゃないですか……」

 

 ……あ゜!

 

 許容量を超えた可愛さの暴力に、内心断末魔を上げた。庇護欲をそそるラフィさんの新たな一面と言う魅力が、先ほどまで私の中に渦巻いていた煩悩が浄化していく。

 

 ……世界にこんなにも可愛らしい存在があってよいのだろうか。国を挙げて保護するべきではないのか。私の全てを掛けてでも守護(まも)らねば。

 

「ノヴァさん?」

「あっ、はい。すみません。私も置いて行かれると寂しいなと思いまして。今度からは1回起こしますね」

「ありがとうございます。私もノヴァさんを1度起こすようにしますね」

「はい」

 

 ラフィさんに起こしてもらえるなら、1度でいいから今度狸寝入りをしてみようか。そんなことを割と本気で検討しながら、ラフィさんと私は朝の準備を始めた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 午前の授業を終えて、カフェテリアでもはや日課と化しつつある昼食会を終えた私とラフィさん、そしてアダラのメンバーたちは、みんなでラフィさんの淹れてくれた美味しい紅茶を味わいながら優雅な午後のひとときを過ごしていた。

 

 のんびりとした弛緩した空気が流れる中、ラフィさんが私に話しかけて来てくれる。

 

「ノヴァさん、新入生のタイム計測は今日ですか?」

「はい。5時間目から7時間目までですね」

 

 そう、今日は新入生が今の実力を測る日である。先週は入学した直後と言うこともあり、一般の学校と同じ授業内容である午前の授業は小学校の復習で終わり、トレセン学園特有の科目がある午後の授業も、実技を伴うものはオリエンテーションで終わってしまったのだ。

 

 今日からようやくトレセン学園らしいことが出来るということもあり、今日の教室は朝のホームルームからずっと浮足立った雰囲気だった。先生たちも苦笑しながら授業していたので、毎年のことなのだろう。

 

 そわそわとした教室の様子を思い返していると、リツさんが追加で質問を投げてきた。

 

「ノヴァちゃんはいつ?」

「6時間目です」

「だって。ラフィ、一緒に見に行こうよ」

「トレーナーさんが許してくれれば、行きましょうか」

「本当ですか? 頑張ります!」

 

 トレセン学園に来てから、まだ走るためにコースに立ったことはない。自分でもどうなってしまうのかはわからないが、ラフィさんが見に来てくれる以上は下手なレースはできない。

 

 そのためには少しリラックスしすぎているな、と改めて座り直して気合を入れ直す。午後の授業開始は、30分後に迫っていた。

 

 

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 家庭科扱いとなるスポーツ栄養学の授業を終えた6時間目、私はグラウンドの芝コースに立っていた。春のそよ風が運んでくる、踏みつぶされた芝から出る青臭い匂いが鼻腔を通り肺を満たす。毎朝のようにラフィさんと走っている河川敷、観客として入ったレース場、おとといの練習見学で立ち入ったときのグラウンドで嗅ぐときであれば、単に爽やかないつまでも嗅いでいたい良い匂いだと感じるだけだろう。しかし、今の私にとっては最後まで栄光を手にして貰えなかったこと(背中に鞍上を乗せ無邪気に走っていたころ)を思い起こさせる後悔(思い出)の匂いだ。やはり、いざ自分がコースに立つとなると心持ちが違うらしく、同じ匂いであるはずなのに感じ方が全く異なって来る。

 

 4()立てずつで行われるタイム測定、自分の前走が終わりラチの中に入ろうかと言うところで、ちらりとスタンドの方を見る。選抜レースではないために、タイム測定に参加するウマ娘以外の人の姿はほとんどないそこには、ラフィさんがいて、リツさんたちがいて、そしてあの人達そっくりなトレーナーたちがいた。

 

 彼らの姿を見ると、「本当に戻ってきてよかったのか。また期待を裏切り続けるだけに終わるのではないか」と負の方向に考えが傾き、脚が竦んでしまう。お昼に頑張ると誓ったのに、膝が笑うような感覚がして咄嗟に内ラチを掴んだ。

 

 ……競走の世界でなければ生きられないと言っておきながら、なんて無様なのだろう。

 

 そう自嘲したとき、スタンドからラフィさんたちの声がした。

 

「ノヴァさーん、今の自分が出せる最高を出すことだけ考えましょう!」

「本格化前の子なんて、みんな遅いから大丈夫だって!」

「がんばれ、がんばれ!」

 

 周りのクラスメイトたちが、「もうチームに入ったの?」だとか「もうトレーナーと契約したの?」と言うようなことを口々にしているが、それはただの勘違いである。しかし、今は訂正をする余裕もなかった。

 

 皆の応援を受けた私は。大きく深呼吸をする。

 

 ……過去は、過去だ。この先も一生背負い続けていくだろうけれども、終わったことだ。振り切ることはできないし、しない。しかし、その重みで未来を潰してしまうこともまたダメだ。だいたい、ラフィさんの運命を蹴り飛ばしてみせると誓ったのだから、自分のことで弱気になっている暇などない。他人の運命を捻じ曲げようというのに、自分の運命すら変えられずにどうすると言うのか。

 

 自己暗示で自分を奮い立たせ、内ラチを離す。待っていてくれた教官や一緒に走るクラスメイトに一言謝り、バリヤー式発バ機の前、内から4番目の1番外に立った。

 

 そう、今は廃れたバリヤー式である。新入生はまだゲート式の練習をしていないためか、正式にタイムを計ろうという時は古めかしいバリヤー式が使われるようだ。

 

 私には無縁だが、競走馬もウマ娘も狭いところに入ることを本能的に嫌がる。しかし競走馬ならともかく、ウマ娘ならバリヤー式でも良いのではないか。そう思い、先ほど自分の順番が回ってくる前に教官に質問をしたところ、好位の取り合いになって発走前から収拾が付かなくなることが頻発したために、ゲート式が採用されたらしい。

 

 もう一度、肺の空気を全て入れ替えるつもりで深呼吸をしてから、左脚を引く。芝の匂いが鼻から抜けていく。タイム測定のコースは自分で選べることになっていて、私が希望したコースは芝2000mだ。今はそれを走り切ることだけを考える。

 

 トレセン学園の練習用芝トラックは、1周がほぼ東京レース場と同じになるように作られていて、決勝票の位置を動かせるようになっている、らしい。ポケットのない完全なオーバルコースなので、これによってスタートから第1コーナーまでの距離や最終直線の長さを調節して練習できるようにしているようだ。今回であれば、1角までおおよそ1ハロン、最終直線は約2ハロンだ。多()立てでもほぼ実力通りが出せるコースだろう。

 

 6本のロープで構成されるバリヤーが、跳ね上がった。初めて使うバリヤー式と言うこともあり、ゲートの隙間を縫うように発走出来ていた前世と比べて、コンマ1秒ほど遅れて駆け出す。

 

 畳よりもわずかに固い野芝の反発を足裏に感じ取りながら、風を切って加速していく。所々荒れた部分こそあるものの、芝の状態は全体的に良好だ。コース変更してから日が浅いのだろう。そう判断し、斜行を取られないように後続に2バ身差以上をつけていることを確認してから内に入る。そのまま第1コーナーに入ったところ、やはりと言うべきか最内が少し荒れていた。直線で荒れた部分が見受けられた以上はそうなるだろうなと思いながら、最内1歩外側、芝の荒れていないギリギリのラインを走る。

 

 1角から2角に入ろうかと言うところ、テン(最初)の3ハロンを通過したところで、再度後方を確認した。8バ身差、思ったよりも差をつけることが出来ていない。他の新入生と同じく、私自身も本格化前ではこの程度かと少し心配になって来るが、そこは成長を待つほかないだろう。将来の成長を願いつつ、残りの7ハロンできっちりスタミナを使い切るためのラップタイムを逆算し、わずかに減速する。

 

 最初に大逃げして差をつけてからのラップ走法、それが前世での私の基本戦術だった。

 

 小柄な私は馬群に飲み込まれれば周りの様子がわからず、パワーに劣るために脱出もままならない。かといって追込みは、デビュー前の骨折が直線一気を想定した追い切りだったこともあり、再度の骨折を恐れて最終直線で全速力を出そうとしても出せなくなったせいでできなかった。私にはもう、逃げと競り合うことすらしない大逃げしか残されていなかったのだ。

 

 追ってくる後続は全員バテさせ、疲労狙いで足を溜める奴らは物理的に差し切れないだけの大差をつける。そういう作戦だ。実際、3着相手には平均で6馬身差をつけていたので、そう荒唐無稽な作戦ではなかった。結局全てギンシャリボーイに差し切られたわけだが。あいつ絶対私を都合のいいラビットとして使っていただろう。

 

 前世で骨折のトラウマを払拭し、私をペースメーカー扱いして来るギンシャリボーイ対策として、大逃げをして3角から4角で息を入れて最終直線で差す。いわばサイレンススズカ式の逃げを実戦で最初の最後に使ったレースが、あの天皇賞だった。勝つために賭けに出て、失敗した。そして自分の命で掛け金を支払うことを嫌がった私のせいで、鞍上は夢を絶たれた。何もかも、私のせいだ。

 

 今世では、未だに最終直線で全速力を出すことが出来ない。フラッシュバックともいうべきトラウマの想起が邪魔をしてしまう。私が大怪我をする分には、まだ良い。しかし、自我が薄れてゆく死の感触と、他人を巻き込むかもしれないという恐怖が脳裏にべったりとへばりついて離れない。

 

 だから、今日はラップ走法で走る。

 

 ……レースに集中すると決めたのに考え事をしながら走るなんて、我ながらなっていない。

 

 そう思いながらも、体は無意識のうちにコースの微かな起伏(アンジュレーション)に合わせて体を前へ前へと蹴り出す力を調節している。起伏の激しい横浜のコースでも問題なく出来ていたわけだから、ほぼ平坦な練習コースなら問題なく出来るだろうとは思う。しかし今は単走ではなく併走だ。実質単騎行だとしても、相手がいるのといないのとではプレッシャーの面で大違いである。

 

 前半の5ハロンを終え、第3コーナーの入口でもう一度後ろを見た。目測で10バ身差、ラップ走法をしている私が相手なら、ギンシャリボーイは上がり3ハロンできっちり差し切って来る程度の差だ。しかし、ラップ走法で行くと決めた以上はこのまま行くしかない。

 

 肺と脳が酸素を求めて、呼吸筋に限界まで鞭打つ。残り2ハロンで最終直線に入ると、後方のウマ娘たちが一気に追い上げようと加速し、シューズの蹄鉄で芝を抉る鈍い音が近づいて来た。しかし、私を差し切るためには。

 

 ……300m足りないね。

 

 最後まで先頭のまま、決勝線を駆け抜ける。逃げて5バ身差、1度たりとも影を踏ませることはなかった。




相変わらずレース描写が下手。
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