秋の盾をあなたに   作:江芹ケイ

17 / 45
第16話:彼女の名はリボンの哀歌

 ゴールを超えた後、第1コーナーの入口まで1ハロンほど流してから、私は踵を返した。全身が酸素を求めて横隔膜と肋骨を大きく動かし、肺はそれに従って膨張と収縮を繰り返す。吐き出される息には血の匂いが混じり、脚は生まれたての仔馬のように震えていた。今の私が出せる限界まで酷使したせいだろう。歩くことすら億劫になるほどの疲労が全身を襲っていた。

 

 それでも、相当消耗した様子の他の子たちのように、膝に手をついて俯いたり、大の字になって倒れ込んだりしないのは、それが体に悪いと知っているからである。整理運動の重要さは、私の内心を慮ってレースの指導らしい指導をしなかった両親が指導してきた数少ない知識である。

 

 死屍累々とでもいうべき状況を見ていると、なんとなく前世を思い出す。前世でも私が出るレースはハイペースになるので、皆消耗しきっていた。直接見たわけではないが、ギンシャリボーイも私が出ないレースは余裕を持って勝っていたと聞く。

 

「ノヴァさーん!」

 

 息を整えながら歩いて教官のいるゴール板付近まで戻る途中で、私の耳がラフィさんの声を捉えた。スタンドに視線を向けると、ラフィさんたちが私に向かって腕を振っている。

 

 私が呼びかけに気付いたと見たラフィさんが、両手で拡声器を作る。

 

「格好良かったですよー!」

 

 声を出せるまでには回復していないので、右手を振り返して答えた。個人的には落第点、本格化前と言うことを考慮して及第点の走りだったが、ニコニコと笑顔で褒めてもらえるとそれはそれで嬉しいものである。頑張って良かった。

 

 本当なら駆け寄ってもっと話していたいところではあるが、今は授業中だ。教官のところへ戻ることを優先して歩き続ける。一緒に走った他の子たちは、まだ動けないようだった。

 

 ゴール板まで戻って内ラチの中に入り、教官にタイムを尋ねる。やはりと言うべきか、前世での走破タイムと比べると遅い。入学直後の本格化前のウマ娘など、入厩直後で調教を積んでいない競走馬のようなものだから、それを考慮するとそう遅いわけでもない。しかし、今世でも同期かどうかはわからないが、ギンシャリボーイ(あいつ)に勝とうと思ったらこのレベルでは到底満足できないタイムだった。

 

 教官に感謝の言葉を返してから、適当な場所に座り込む。私のクラスと他のクラスのいくつかは、合同で6時間目を丸々タイム測定に当てている。他の子の走りを見学することもまた勉強だ。また新たな4人組が、バリヤーの跳ね上がった瞬間に駆け出していく。

 

「久しぶりぃ」

 

 たった今発走した4人組が第1コーナーを曲がっていく様子を見届けた直後、黒鹿毛で短いツインテールのウマ娘が話しかけてきた。一瞬誰だと身構えるも、記憶の端に何か引っかかるものを感じる。たしか――。

 

「新歓レースで隣だった……」

「覚えててくれたんだぁ。ありがとう」

 

 何事にも楽天的そうな笑顔で、黒鹿毛のウマ娘は私の手を取り上下に振る。随分と距離感の近い子だが、記憶が正しければ逃げウマ仲間なのでそう悪い気はしない。それにしても――。

 

「自信がないのに話しかけたんですか……?」

「話さなきゃ仲良くなれないでしょ?」

「それはそうですけど」

 

 種族性別問わず、今世の私に話しかけてくる人は珍しいので戸惑ってしまう。同年代で名前を覚えている人なんて、ラフィさんやリツさんたちアダラのメンバーなど、トレセン学園に入ってからの方が多いくらいだ。

 

「走っているの見てたよぉ。上手く言えないんだけど、シニア級の先輩たちみたいですごかったぁ」

「ありがとうございます」

「もし良ければなんだけどぉ、どんな練習してたのぉ?」

 

 いきなり練習の秘訣を聞こうとするとは、なかなか肝の座った子だ。しかし、勝利に貪欲な姿勢は私的に高得点である。

 

 答えてもいいのだが、どう答えるべきか。「前世の記憶の賜物です」なんて言ったら、電波系ウマ娘一直線だ。一瞬考えて、答えをひねり出す。

 

「地元に昔URAのレース場だった施設があって、そこで走っていたんです」

「おぉ。やっぱり経験値もあったんだぁ」

 

 やっぱり、と言ったあたり自信があったわけではないのだろうが、私の経験をある程度見抜いていたのだろう。只者ではなさそうだ。

 

「あっ、そうだぁ。自己紹介してなかったぁ」

 

 突然手を離した彼女は、両手を打ち鳴らして思い出したかのように名乗る。

 

「私、リボンエレジーって言うのぉ。よろしくねぇ」

 

 ……本当に只者ではなかった! お前か!?

 

 よく覚えている。私の現役期間中で唯一、ギンシャリボーイに勝利した競走馬の名だ。私は出られなかったけれど、私とあいつが3歳の年のジャパンカップで、見事な幻惑逃げを決めて逃げ切った4歳馬である。

 

 たまたま名前にエレジーと入っていたこと、勝った相手がギンシャリボーイだったことから、ハリボテエレジーと呼ばれるようになったのは、フロック扱いされているようで可哀そうだった。実際、ジャパンカップの直後に屈腱炎で引退してしまい、翌年はあいつが無双したのでまぐれ呼ばわりされていた。フロックでもなんでもないと証明することに、挑戦すらできなかったのは本当に不運だったと思う。

 

「キャンドルノヴァ、です」

「ノヴァちゃんって言うんだぁ。寮はぁ?」

「美浦です」

「そっかぁ。クラスも寮も違うみたいだけど、よろしくねぇ」

「はい、よろしくお願いします。エレジーさん」

 

 ちょうど挨拶を終えたタイミングで、教官がエレジーさんを呼ぶ。彼女の番が来たようだ。バイバイと手を振って2000mの発走位置に向かおうとするエレジーさんに、私も小さく手を振り返す。エレジーさんは満面の笑みで大きく手を振り直した。

 

 前世では浮かばれなかった彼女だが、今世では良いことがあると良いなと願う。

 

 バリヤーの後ろに4人が並んだ数秒後、6本のワイヤが跳ねあがった。

 

 先頭を駆けていくのはエレジーさんだ。幻惑逃げとは程遠く、しかしラップ走法とも異なる粗削りで単調な逃げだが、後続をぐんぐんと突き放していく。走りを見るに無理をして大逃げをしているわけでもなさそうと言うか、戸惑いすら見て取れる。しかし、テンの3ハロンで15バ身差――異次元の差をつけていた。根本的な能力の違いが見て取れる当たり、既に本格化を迎えているとみるべきだろう。

 

 困惑している様子だったエレジーさんだが、走り続けるにつれて喜びの色を浮かべるとさらに加速した。後続のウマ娘たちも、エレジーさんが本格化しているだろうことに気が付いたようで、既に勝負の対象からは外したようだ。タイムアタックをするエレジーさんと、レースをする3人のウマ娘たち。全く別の競技が同時に行われていると言ってよい状態だ。

 

 私やほかの新入生が気が付くということは、当然教官たちも気が付く。教官たちが「次の選抜レースにエレジーさんを推薦しよう」と話し合っているのを、私のウマ耳が捉えた。

 

 おそらく、エレジーさんは今年のうちにデビューすることになるだろう。となると、前世通りになるならば私のウマ娘としての本格化は来年、クラシックレースに出るのは再来年だろうか。ラフィさんが今現役な時点で前世通りになるとは限らないわけだけれど、だいたいの見通しは立つ。

 

 いろいろと考えている間に、エレジーさんが最終直線に入った。後続はまだ6秒以上後方だ。エレジーさんは完全にばててしまっているようだが、36バ身以上もの差は完全にセーフティーリードと言って良い。

 

 圧倒的なリードを保ったまま、ヘロヘロとエレジーさんはゴールラインを超えて倒れ込んだ。そこから何とか、本番ならタイムオーバー(5秒)寸前(以内)で3人のウマ娘が駆け込み切る。

 

 倒れ込んだ後、仰向けに転がったきり動かないエレジーさんの傍に私は近寄った。

 

「大丈夫ですか」

「大丈夫ぅ。今までこんなことなかったくらい調子良くて、飛ばしすぎちゃったぁ」

 

 彼女の顔には、多幸感に満ち溢れた笑みが浮かんでいた。逃げ馬なら、あれだけ豪快に逃げ切れたらそれはもう気持ちがいいだろう。私は1度も味わったことのない感情だが、想像することくらいはできる。

 

「そのままだと、後の人に迷惑ですよ」

「そうだねぇ」

 

 エレジーさんは私の呼びかけに答えようとして立ち上がりかける。しかし、ぷるぷると震えたかと思ったらそのまま、べしゃりと擬音を立てそうな勢いで芝に沈んだ。

 

「……内ラチまで引っ張ってぇ」

「えぇ……?」

 

 本格化後初めて走ったせいだろうか。エレジーさんはスタミナの配分に完全に失敗したらしい。私は少し呆れながらも、どう運ぶべきか考える。言われた通りに引っ張っていくと、いろいろと脱げてしまうかもしれない。今日は男性教官もいるし、アダラの大浪トレーナーや安城サブトレーナーも来ている。見えてしまう(・・・・・・)のは、向こうとしても大問題だろう。

 

「はぁ……。失礼します」

「うん? おぉ、力持ちぃ」

「ウマ娘ならみんな出来るでしょう……」

 

 いわゆるお姫様抱っこで、まだ良い気分に浸っているエレジーさんを内ラチに連れて行った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「あっ、王子様じゃん」

「リツさん、やめてくれませんか?」

 

 7時限目の授業も終わり寮に帰ろうとしたとき、アダラでの練習を終えたラフィさんたちと校舎の玄関でばったり会った瞬間に、背中に回ったリツさんが両肩を掴んで弄って来た。

 

「顔色一つ変えずにわざわざお姫様抱っこするのは、もう王子様だよ」

「ノヴァさんが殿方でしたら、さぞ絵になったことでしょうね」

「ローズさん!?」

 

 ローズさんは悪ふざけをするタイプではない。まず間違いなく素で言っているのだろう分、(たち)が悪い。からかいになっている自覚がないだろう。

 

「ノヴァちゃん小っちゃいし、どうだろう?」

「小さな王子様、……それはそれで、有りじゃない?」

「背伸びしているみたいで可愛いね」

「皆さん乗らなくていいですから!」

 

 トモエさんが首を傾げると、真剣な顔つきでフユさんが世迷いごとを言い、ネルさんに至っては微笑ましい小動物を見るような表情をしている。みんな、それぞれの形でこの場のノリに乗じていた。こうなったらもう、私の味方はラフィさんだけである。

 

 私は最後の希望に縋るようにラフィさんを見た。優し気な翠色の瞳が、私の目を見つめている。

 

「……ラフィさん」

「だめですよ、みなさん」

「ラフィさん……!」

「ノヴァさんだって、お姫様になりたいかもしれないじゃないですか!」

「ラフィさーん!?」

 

 ……今ここで可愛いお茶目を見せなくても良かったですよ!?

 

 それもそうだと、いつの間にやら私にお姫様願望があることにされつつある。

 

「たしかに、ノヴァちゃんの私服って可愛い系が多かったよね」

「そうでしょう、そうでしょう。()子にも衣裳ですよ」

 

 リツさんとラフィさんが、「ノヴァは可愛いものが好き」と言うことを既定路線としつつある。

 

「あれは親の趣味です!」

「そうなの?」

「はい。私が選ぶと家族みんな渋い顔をするので、自分で服を買ったことがないんですよ」

 

 背後のリツさんに向かって、首を回して答える。好きな服を好きなように選んで試着すると、家族みんな「正気か?」と問うようなすごい顔をするのである。解せぬ。

 

「じゃあ今度、みんなで服見に行こうか」

「良いですね! 買わなくても、見ているだけで楽しいですし!」

「よし、じゃあ決定! 夏は今のところレースの予定ないし、合宿前に水着と一緒に買いに行こう!」

「賛成!」

「今年はどんなのがいいかなぁ」

 

 トモエさんの提案にローズさんが乗ると、リツさんがチームの決定事項にしてしまった。フユさんとネルさんも既に乗り気である。あれよあれよという間に、今度アダラのメンバーと一緒に服を買いに行くことになってしまった。

 

 これはいけない。何せ前世が牡馬なので基本裸だったし、その影響か今世でも好きな服をさっと選んでレジに向かおうとするのが私だ。家族になぜか阻止されるけれど。女の子の買い物、などと言うどう考えても長丁場になるものの経験値はないのだ。

 

「楽しみですね、ノヴァさん」

「……はい」

 

 しかし、にこにこと笑顔のラフィさんを見ると「それでも良いか」と言う気分になる。我ながら、ちょろいなぁ。

 

 あっ、とラフィさんが何かを思い出したような声をあげる。

 

「何ですか、ラフィさん?」

「いえ、今の話とは関係ないのですけど」

「あぁ。もしかして、トレーナーたちがしていたあの話?」

「はい、そうです」

 

 リツさんたちはどうやら知っているらしい。

 

「ノヴァさん。答えたくなければ答えなくていいのですけれど――」

「はい」

 

 わざわざ逃げ道を用意してから尋ねるだなんて、プライバシーに関わることだろうか。今世の分であれば、そう隠すことはないはずである。

 

「――左脚を折ったことは、ありますか?」

 

 それは、今世では誰も知りうるはずのないことだった。




エレジーと名が付く以上、出さないわけにはいかないという使命感。
ハリボテ要素は『エレジー』の部分が被っているだけで、ベースはアプリ版モブウマ娘です。

我ながら、話が進まないことに定評が出来そうなペースです。



2021/10/03 09:40
一部修正いたしました
(アダラのトレーナーたちが→今世では誰も)

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。