詳細については各話後書きに記載しています。
このままお読みいただいて問題ありません。
口の中がカラカラに乾いて行くような感覚がする。血の気があっという間に引いて行って、衝撃でリズムの狂った横隔膜が呼吸を震わせた。自分では制御できなくなったウマ耳が真後ろに引き絞られ、尻尾が脚の間に収まる。
何故だ。何故私が左脚を折ったことがあると、アダラのトレーナーたちが知っている。今世では一度も怪我らしい怪我をしていない。例え私の両親に聞いたとしても、前世での骨折など知りようもないはずだ。
「あの、嫌でしたら本当に話さなくていいですからね? 無理はしないで――」
「どうして」
ラフィさんたちが心配してくれている。それ自体はとても嬉しいことだけれど、今はどうでもよかった。それよりも、もっと大事なことがある。
「どうして、そう思ったんですか」
「えっと、トレーナーさんたちがノヴァさんの走りを見て、そういう話をしていたので」
「言われてみれば、確かに左脚を庇っている感じがしたんだよね。言われないと分からなかったけど」
今まで私に自覚はなかったが、見る人が見ればフォームが崩れていたらしい。もしかして小学校の運動会の後、毎年のように両親が「どこか痛いところはないか」と心配していたのもそのせいか。
いずれにせよ、アダラのトレーナーたちに問う必要のあることが出来た。
「トレーナーさんたちは今、どちらに?」
「トレーナー室に戻っていると思いますけれど……」
ラフィさんが少し戸惑ったような様子で答える。私は肩に添えられたリツさんの両手を退けた。
「そうですか。すみません。先に戻っていてください」
「えっ、ノヴァさん!?」
目を丸くしたラフィさんたちを玄関に残して、トレーナー室へ駆け出した。
もしも、本当に彼らがあの人たちなのだとしたら。どの面を下げて私は会いに行こうと言うのだろう。何を言われるだろう。本当は顔も見たくないだろうか。それでも、そうなのだとしたら。言葉の通じなかった前世で謝れなかったことを、今度こそ。
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結論から言って、盛大に道に迷った。トレーナー室へ向かうのは初めてのことであったと言うのもあるが、何よりもトレセン学園が広すぎる。もちろん、案内看板はいたるところに立ってはいるのだ。しかしそれらのほとんどは文字情報だけの簡素なもので、しかもグラウンドなど校外の関係者が立ち寄るような施設への案内がほとんどだった。トレーナー室と言うそれこそチームの身内しか立ち寄らない施設へは、案内用の看板がなかったのだ。どうしてそこをケチった。
どうしたものかと途方に暮れながら、たまたま目についた花壇を見る。花に詳しいわけではないので何が咲いているのかはわからないが、色とりどりの花が良い匂いをさせて咲き誇っている様は、荒れている心を少しだけ落ち着かせてくれる。これもエアグルーヴ副会長が世話しているのだろうか。
1つため息をつく。
「どうしたの。ため息なんかついて」
先ほどまで私しかいなかったはずの花壇の傍に、1人のウマ娘がいた。前髪に流星の白いメッシュが入った鹿毛の彼女は生徒会の腕章を巻いており、右耳に赤、黄、青の3色が外側から配されたリボンを付けていた。何故か顔を合わせると嫌な気持ちになって来る彼女とは、どこかで会ったことがあるような気がして少しだけ考え込む。
「……入学式の」
「覚えていたんだ。久しぶり。……と言うほどでもないか」
一呼吸分ほどの間を置いて無事に私は思い出した。家族に送る写真を撮ってくれた、親切な生徒会の人である。
「こんなところでどうしたの?」
「トレーナー室に行きたいんですけど、道に迷ってしまって」
「……ああ、初めてだと迷うよね」
彼女は苦笑しながら、「校内向けの看板も増やすよう、会長に提案しておこう」と独り言を呟く。
「私が案内するよ」
「いいんですか?」
「困っている生徒の助けになることが、生徒会の仕事だからね。ついて来て」
「ありがとうございます」
「まあ、見習いみたいなものなんだけどね」
少し眉を下げながら、彼女は腕章を引っ張って見せる。生徒会と言う文字の下に小さく、『見習心得』と後付けで刺繍がしてあった。
「見習い制度なんてあるんですね?」
「いや。中等部だと生徒会役員選挙には出られないんだけど、どうしても力になりたくて。会長たちに何度もお願いして、指名枠で入れて貰ったんだ。この刺繍は、本当ならインチキになるかもしれないって忘れないための、自分への戒めだよ」
人間のできているウマ娘だ。本当に、どうして彼女と話していると惨めな気持ちになって来るのかがわからない。
「トレーナー室はこっちだよ。行こうか」
「はい」
私は生徒会のウマ娘の後について行く。彼女が歩いて行く先は、ちょうど私が歩いてきた道だった。盛大に逆走をしていたと気が付いて、まだ春なのにブラウスの首元からパタパタと風を送りたくなるほどに、顔も体も熱くなっていった。
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「アダラのトレーナー室はここだね」
「ありがとうございました」
「いいよいいよ。じゃあね」
「はい」
ニコニコと笑いながら手を振る彼女に、私も手を振り返す。生徒会のウマ娘が、階段の方へ曲がって姿が見えなくなるまで見送る。そういえば名前を聞き忘れたが、なんとなく今後も長い付き合いになる気がするので、まあ良いだろう。
気を改めて、トレーナー室の扉に向き直る。右手の甲でノックをしようとして、手が震えていることに気が付いた。左手で右手首を掴んで抑え込もうとしても、止まらない。大きく、大きく深呼吸を数度繰り返して、ようやく震えが小さくなる。
今しかない。そう考えて扉を叩こうとした瞬間、引き戸が開いて右手が空を切った
「ん? ノヴァちゃん、どうしたの?」
「い、いえ。その……」
引き戸を開けたのは、紗雪さんだった。椅子に座ろうとしたらそこに椅子がなかったような、予期しない展開に頭が真っ白になってしまう。
「ん? ノヴァさんですか。どうかしましたか?」
「選抜レース出てからでねぇと、チームには
安城さんが紙の資料から顔を上げて私に声を掛け、大浪トレーナーはパソコンの画面から目を離し、眉間を揉みながら宣言する。
「えぇー、別にいいでしょ、お爺ちゃん」
「ここではトレーナーと呼べ言うとろうが。本格化したかどうか確かめないと本人のためにならんから、ダメだ」
「紗雪も先生も、ノヴァさんが置いてけぼりですよ……」
安城さんが呆れたような声で話の流れを戻そうとする。
「あっ、ごめんね? 用事があるんだよね?」
「えっと、はい」
「じゃあ、こっちに来て」
手を引かれるがまま着いて行き、トレーナー室の応接用だろうソファに座る。その後で安城さんと紗雪さんが正面、大浪さんがいわゆる誕生日席に座った。
「それで、どうしたの?」
紗雪さんが微笑みながら私に問いかける。他の2人もじっと私を見ていた。どうにか口を開こうとするも、まだ動揺が抜けきっていないのか、なかなか声が出ない。
「ゆっくりでいいですからね。お茶をどうぞ」
緊張を見て取ったのか、安城さんがテーブルの上に置いてあったポットから紙コップに麦茶を注いで出してくれた。
「ありがとう、ございます」
麦茶をぐいっと呷る。緊張のせいか唾液で粘ついていたらしい口の中が、すっきりと洗い流される感覚がした。3人が見守る中、数度深呼吸してから私は話を切り出した。
「私の脚のことですけど」
「うん?」
「どうして、折ったことがあると思ったんですか?」
これは、本題ではない。確認のために必要な前置きだ。
「うーんと、安城くん?」
私がそれを問いに来ると思っていなかったのだろう。よくラフィさんたちと一緒にいるから、「チームに入れてくれ」と直談判しに来たと思ったのかもしれない。一瞬戸惑いを見せた紗雪さんは、安城さんに矛先を向ける。
「根拠はないです」
「えっ?」
思わず声を漏らしてしまう。私のように前世持ちだから見抜いたのかと思ったのに。前世とは関係なく、ウマ娘好きの武さんや解説の細江さんのような、ただのそっくりさんなのだろうか。
「ないです。本当に、なんとなく違和感があっただけなんですよ。骨折だと思ったのもただの直感で」
「坊主の言う違和感ってのも重要だがな。怪我の前兆ってことも多い」
「……そう、ですか」
何故骨折だと思ったのかは、問い詰めたとしても分かりそうにないようだ。私のように誤魔化しているのか、それとも本心なのか。判断が付かない。前世持ちだという確信が持てない。
「それで、どうなんですか?」
「何がですか?」
「脚ですよ。もしよろしければ、教えてくれませんか?」
安城さんが、じっと私の目を見ている。前世の鞍上そのままな顔つきだけあり、やはりいわゆるイケメンである。私には女神様がいるので惹かれることはないが、一般的には魅力的な人だろう。
「折ったことも、捻ったこともないですよ」
「あれ?」
直感が外れたことに首を傾げる安城さんの背中を、大浪さんがバンバンと叩いた。
「まあ、そういうこともあるさ、坊主」
「痛いですって」
安城さんは背中を曲げて耐えているが、音の割には痛がっていない。本当に前世のオーナーと鞍上の関係にそっくりで、懐かしい気持ちになる。私は悪あがきのように、確認のために1つだけ質問をした。
「安城さん」
「はい、なんですか」
背中を紗雪さんに擦られている安城さんが顔を上げた。
「……もし私が骨を折るとしたら、それはいつになると思いますか?」
「ノヴァさんがうちに来たら、の話ですが」
背中を伸ばした彼が、真剣な眼差しをして答える。
「そうさせないように指導することが、トレーナーの仕事ですよ」
「……そうですか。皆さん、今日はありがとうございました」
「あっ、うん。いつでも来ていいからね」
「ほどほどならな」
「お爺ちゃん!」
「トレーナーと呼べ!」
「あはは……。やかましいですけど、悩みくらいならいつでも聞きますからね」
「ありがとうございます」
トレーナー室の扉へ歩いて行き、お辞儀をして私は出て行った。
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「あっ、ノヴァさん。おかえりなさい」
「はい。ただいまです」
寮室の扉を開くと、ブラウスとジャンパースカートに着替えたらしいラフィさんが出迎えてくれた。タイキシャトルのビッグぱかプチを抱えて、ベッドに腰かけている。脚をパタパタとさせている様子が本当にかわいいなぁ。
「顔色が悪いまま走って行ってしまったので、心配しましたよ?」
ラフィさんの形の良い耳が、ぺたんと頭についている。
「ごめんなさい……。今は大丈夫です」
「そうみたいですね。良かったです」
ほっとしたのか、耳を立てたラフィさんが蕾の綻ぶような笑顔を零す。滅多なことでは両立しない美しさと可愛さという2つの概念そのものを浴びせられ、私の頬が熱を持ち始めた。ラフィさんの笑顔はそのうち万病に効くようになるだろう。
「今日は先にお風呂にしましょうか。私もノヴァさんも、全力で走りましたからね」
ぱかプチを学習机の棚に戻したラフィさんはそう提案すると、いそいそと風呂へ向かう準備を始めた。今日もまた、理性と煩悩との戦いの火ぶたを切る時間が来たのだ。
切りが良かったので少し短めです。