ルドルフ会長の四字熟語に満ちた開会宣言と共に、トレセン学園の春のファン大感謝祭は始まった。新入生のタイム測定をした週の土曜日、その朝のことである。クラスメイトの子たちと一緒にグラウンドに並んで開会式に参加していた私は、それが終わるや否や観客席にいたラフィさんのもとへ駆け出していく。
トレセン学園の行事なのに、どうしてラフィさんが観客席側にいるのか。それは、今週から再来週にかけてレースを控えているような、クラシック級やシニア級の子たちは春のファン大感謝祭やその準備への参加を免除されているからだ。分かりやすくGI競走で日程を表すなら、中山グランドジャンプ、皐月賞、春の天皇賞に出るような子である。ラフィさんは再来週に京都の未勝利戦を走る予定なので、その対象だ。
免除と言うだけで別に参加しても良いのだが、ラフィさんは先週のレースに出ていて疲労が溜まっているし、もしトレーニングをしようとしても出来ないのでお休みである。何故なら、春のファン大感謝祭は一般の学校で言えば体育祭に当たる行事だ。グラウンドは種々の競技に使われるし、プールや坂路も一般向けの体験会に使用されてしまうので、わざわざ校外まで行かないと練習をする場所がない。それなら休養日に当ててしまえ、とアダラでは考えたらしい。
ラフィさんは私が真っ直ぐ近づいてきていることを認めると、華が開くような笑顔で手を振ってくれた。『女神様の更に上』はどう表現すればいいのか、私の語彙力ではわからないことが恨めしいくらいだ。
私が参加する最初の競技まではまだ時間があるので、それまではラフィさんと一緒に、アダラのチームメンバーたちや私とラフィさんのクラスメイト達を応援する予定である。
同じクラスの子たちと一緒に応援しなくていいのか、と金曜日にリツさんから尋ねられたが、開会式が始まる前に「競技の集合時間には一旦戻って来てね」と言われたくらいだ。入学してまだ2週間経っていないわけだが、どうもクラスメイト達からも「あの子はそういう子」扱いされているらしい。クラスではごく普通に振舞っているのに、何故だろうか。
それはともかくとして、風紀委員に怒られないギリギリの速度で驀進していた私は、ちょうどラフィさんの目の前で止まれるように足を緩める。急停止は脚に悪いので、普段から意識して避けなければならない。
「ラフィさん、お待たせしました!」
「全然待っていませんよ。隣にどうぞ」
「……はい!」
……ニコニコしながら隣の席をポンポン叩くのは破壊力高くないですか、ラフィさん!?
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トレセン学園生にとって、入学して最初のファン感謝祭と言うものは、クラスの全員が1つの行事に参加する唯一の機会となりうるものだ。リボンエレジーのように、早い子なら新年度最初の選抜レースでチームに所属し、以降の行事はチーム側で参加することになる。わざわざGIレースと日程が被るところに感謝祭をねじ込んでいるのは何故か。おそらく、選抜レースの日程の都合上ここでやっておかないと、クラス全員が一丸となって1つのことに取り組む機会が全く無くなってしまう可能性があるからではないか。
そのような話を事前に知らされているためだろう。入学して2週間も経っていない割には、クラスの団結力が強いように思う。クラス対抗綱引きの決勝、その待機列で私は勝負の前に相応しくない余計なことを考えていた。
ウマ娘にとって、綱引きと言う競技は割とフェアな競技であると思う。理由は2つだ。1つ目は、前々世で設定上どうだったのかは知らないが、今世ではウマ娘の体重はヒト並みであること。故にウマ娘が規格外の力を持っていたとしても、引っ張る力には垂直抗力が影響を与える地面との摩擦力という上限がある。2つ目は、団体戦であるので、ヒシアケボノのように大柄な子でも、ナリタタイシンのように小柄な子でも人数を揃えた時点でその影響は小さくなること。つまり、本格化を迎えているか、体格差がどうかにかかわらず、団体戦である綱引きならお互いに同じ土俵で戦えるのだ。
係りの声に従い、クラスメイトに続いて綱の横まで歩いて行く。
「お姉ちゃーん! がんばれー!」
その時、ほんの数週間前まで毎日聞いていた声がした。ピクリと動いたウマ耳に従いそちらを見ると、そこには
……負けたくない。
来るはずがない、と思っていた家族が来ている。もし負けたら、きっとがっかりする。だから、勝たなければいけない。
綱を両手で持ち、審判の動きに集中する。感謝祭の喧騒が遠くなっていき、静寂が訪れる。旗を高く掲げている審判の腕に力が入り、振り下ろすための加速を始めた瞬間に私は綱を引っ張り始めた。脳から神経信号が体に伝わっていくタイムラグと、旗が振り下ろされ切るまでの時間は狙い通り完全に一致し、理想的なタイミングで私は綱を引く。
ほんの30cm程度だろうが、うちのクラスが有利に立つ。しかし相手もやるもので、そこ止まりだ。お互いに力んで声にならない声を喉から漏らし、強い張力のかかった綱が軋む。時折数cm程度動くことを除けば、数十秒近く均衡状態が続き、少しづつ集中の質が低下していく。
今年最も長い綱引き勝負の決着は、一瞬だった。こちらの力が一瞬だけ不揃いになった隙を突いて、相手が一気に牽引する。必死に踏ん張るが、体勢が崩れてしまった以上は力を出し切ることなどできるはずもない。そのままずるずると引っ張られて。
……負けた。負けた? また負けたのか。
頭がそれで一杯になって、ただ立ち尽くす。クラスメイトに引っ張られて、出口へ向かう。
「ノヴァちゃん、妹が来ているみたいだよ」
「えっ? ……あぁ、ありがとう」
「どういたしまして」
競技会場から捌けた後、クラスメイトに声を掛けられてようやく我に返った。そのクラスメイトは別の子と合流すると、「ノヴァちゃん、あんなにショック受けるくらい負けず嫌いだったんだね」と雑談しながら離れていく。
入れ替わるように、身軽そうな美月と大きな白い望遠レンズの付いたカメラを担いだお母さんがやって来た。
「お姉ちゃん、惜しかったね」
「……負けちゃって、ごめんね」
「なんで謝るの?」
美月が首を傾げ、さらさらとしたセミショートの髪が流れる。
「ノヴァ、いつも言っているでしょう? 『負けたからって全部ダメになったりしない』って。2着なんだから、もっと喜んでいいのよ?」
「でも、負けたし」
「全く、もう。本当に負けず嫌いなんだから」
負けず嫌いが過ぎる、と言うことを両親はとても危惧している。それで精神状態を悪くして退学したウマ娘を見てきたからだろう。闘争心も度が過ぎれば毒になると言うことだ。
「そんなことより、なんで来てるの?」
「来ちゃダメ?」
「いや、そんなことはないけど……」
我ながら露骨すぎる話題転換だが、お母さんは乗ってくれた。
「羽田盃、水曜日でしょ? かしわ記念も近いし。トレーニングはいいの?」
両親は川崎のトレーナーで、毎年のように重賞ウマ娘を出す上澄みの部類である。当然、今年も南関東の三冠路線を狙っているはずだ。南関東の
「うちの子たちも快く送り出してくれたし、今日はお父さんに任せてるから大丈夫よ。それに、娘の晴れ舞台に親がどっちも顔を出さないなんて、寂しいじゃない」
「……そう」
気恥ずかしくなって、そっぽを向いた。両親に愛されていると言う実感はある。だからこそ、勝って、もっと喜んでほしかったのに。
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「娘がいつもお世話になっております」
「いえいえ、私の方こそノヴァさんにはいつもお世話になっています」
お母さんと美月を連れて、ラフィさんと合流したところ、挨拶合戦が始まった。余計なことを言われないか冷や冷やしたが、今のところそういうことはない。美月が唸りながら「確かに美人だ」と呟いているくらいだ。予想した中でも最悪のパターンなら、ここで「お姉ちゃんを誑かしたのは貴女ね!」と突撃していたので、肩透かしを受けたような気持ちだ。
「ラフィ、ノヴァちゃん。どう? 楽しんでる?」
「リツ、話しているところに割り込んだらダメですよ」
そうこうしているうちにリツさんたちアダラのメンバーも一緒になる。私たちはそのまま、その時出場している知人を応援したり、競技のために一時席を外したり、また戻って来たりを繰り返し、お昼間際を迎えた。
春のファン大感謝祭は体育祭に相当すると言ったが、お化け屋敷や屋台などのどちらかと言えば文化系の出展もないわけではない。特に屋台は、ウマ娘には健啖家が多いと言うこともあって春でも充実しているようだ。
私はみんなと一緒に、今日のお昼を何にしようかと目移りさせながら屋台が出店している通りを歩いていた。焼き立て熱々だろう粉ものにかけられたソースの匂い、尻尾までぎっしり詰まっていそうな鯛焼きの甘い匂い、タレに付け込まれた鶏肉や牛肉の焼ける匂い。パッとわかる匂いだけでもお昼前の空腹には辛いくらいだ。いろいろあって迷ってしまうが、その中でもひと際美味しそうな匂いのもとになっている屋台を指さし、みんなに提案する。
「あそこの焼きそばとかどうですか?」
「良いですね。ゴルシ先輩の焼きそばはとても美味しいんですよ」
「やった、まだ短い! ゴルシの屋台はいつも行列なんだよ!」
「えっ、あっ、本当だ。ゴールドシップ先輩だ」
女性としては非常に目立つ長身と腰まで届く葦毛の美人料理人は、よく見たらゴルシだった。帽子や耳当てをしておらず、余りにも調理姿が様になっていて気が付かなかった。
「やっほぅ! 並ばずにいられるかぁ!」
「待ちなさい、リツ!」
ローズさんがリツさんの後を追って走り出した。私も行きたいが、今は集団行動中である。グッとここは堪え、ラフィさんたちの方を見ると、努めて冷静に一言だけ声に出した。
「どうですか」
「リツも行ってしまいましたし、そうしましょうか」
「そんなに尻尾振るくらい食べたいんだもんね」
「耳でバレバレだねぇ」
トモエさんとネルさんに指摘されて意識を向けると、新しい玩具を貰った犬並みに尻尾がぶんぶん振れていて、耳は鉄板と小手のぶつかる音を聞こうとして思いっきり屋台の方を向いていた。アダラのメンバーとあっという間に打ち解けたお母さんと美月も、微笑ましいものを見るようにニコニコとしている
顔に熱が登って来るのを感じながら、右手で耳の向きを戻し、左手で尻尾を掴んで抑える。
「恥ずかしがらなくても、可愛らしくて良いと思いますよ?」
「色々筒抜けなのは嫌です……」
「そうですか?」
考えていることや感情が顔と耳と尻尾に出やすい、と言うトレセン学園に来てから自覚した癖は、治せる気がしないし無駄な努力かもしれないが抗いたいものでもある。何というか、子供っぽくて恥ずかしい。前々世はあまり覚えていないが、少なくとも前世込みで30年以上は生きているはずなのだから。
次は羞恥で垂れてしまった耳をきちんといつも通りに戻そうとして悪戦苦闘していると、ラフィさんが尻尾を振りながら目の前まで歩いて来て、右手を差し出した。
「ノヴァさん、行きましょう? ゴルシ先輩の焼きそばは私も食べたいんです」
「……はい」
間違いなく気を使われていると察しながら、私はラフィさんの手を取った。
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「お姉さまー!」
リツさんと彼女を追って行ったローズさんに合流し、ゴルシの屋台に並んだ直後、遠くから大きな声がした。何事かと思ってそちらを見ると、レトロ調のフレアワンピースを着た黒鹿毛のウマ娘が1人、真っ直ぐこちらに向かって突撃してきている。
あれは周りが見えていなさそうだと考えて、私はラフィさんの手を引いて一緒に脇に避けようとした。したのだが、そのウマ娘はなんとこちらに向けて針路を修正してきたのだ。猛スピードで走り寄ってきた彼女は、私たちの目の前で急減速して勢いを殺すと、そのままラフィさんに抱き着き、女神様の柔らかそうな頬に頬ずりを始めた。ラフィさんは私の手を離し、大型犬をあやすようにその子の背中を優しく叩く。
「お姉さま! お会いしたかったです!」
「あの、ジェニー? 喜んでくださるのは嬉しいですけれど、苦しいです……」
……羨ましい!
いや、それはどうでもいい。全くどうでもよくないが、どうでもいいと言うことにする。ラフィさんを堪能している黒鹿毛のその子は、よく見るとラフィさんに顔立ちがよく似ている。ラフィさんよりもほんの少しだけ身長が高く、黒い
「ジェニー、大人しくしなさいと言いましたよね?」
「うっ、はい……」
その後ろから来たのは、やはりラフィさんに顔立ちの似た葦毛のウマ娘だ。しかめっ面をした彼女は、落ち着いた色合いのニットとマーメイドスカートを着た、大人の女性と言った雰囲気である。こちらはラフィさんよりもやや身長が小さいように見える。やはり緑色の、大きなリボンが左耳に巻いてある。ちなみに、ラフィさんの妹は注意されても止めるそぶりを見せなかった。
「サンドラお姉さま、お店はどうしたのですか?」
「今日はお休みにしました。ジェニーがどうしても感謝祭に行きたいと言うものですから」
まだ熱烈な勢いで再会を喜んでいるその子へ『全くしょうがない子だ』とでも言うように、ラフィさんのお姉さんが溜め息をつく。直後、ラフィさんの隣にいた私に気が付いたらしい。こほんと1つ咳払いをすると、彼女は自己紹介を始めた。
「お恥ずかしいところをお見せしました。メジロラフィキの姉、メジロサンドラと申します」
「ラフィさんの同室で、キャンドルノヴァです。よろしくお願いします」
「あら? アダラではないのですね」
サンドラさんが首を傾げた。アダラのウマ娘と一緒にいるから、そう見られたのだろう。
「本格化がまだなので」
「そういうことですか。ラフィは先輩としてうまくやっていますか?」
「親切で優しくて、とても良い人です!」
「そうですか。そうですか。あの子はなかなか連絡をくれませんから。それは重畳です」
顔を合わせてから初めて、サンドラさんの表情が柔らかくなった。ラフィさんの妹らしき子が婉曲的に言って『お嬢様らしくないこと』をしているので、それも仕方ないだろう。
それにしても、ラフィさんなら家族にはまめに連絡を取りそうな印象があるので、意外である。
「お姉さま、私のことはいいですから」
まだぐりぐりと妹らしき子に擦りつかれているラフィさんが、サンドラさんに抗議をする。その甲斐があったのか、あるいは少し苦しそうなラフィさんへの助け舟なのか、サンドラさんはその子に声を掛けた。
「ジェニー、ご挨拶なさい」
「もう少し、再会の喜びに浸らせて貰ってもいいではないですか」
「公衆の面前で目に余りますから」
「はーい……」
彼女はラフィさんから離れると、すっと姿勢を正す。
「メジロジェニファーと申します。ラフィお姉さまの妹に当たります。どうか気軽に、ジェニーとお呼びください」
……メジロの教育って、すごいんだろうな。
先ほどまで久しぶりに飼い主に会った大型犬を思わせるほどに興奮していたとは思えないほど、ジェニーさんは楚々とした完璧なお辞儀をした。
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『ゴルシちゃん印の鉄板焼きそば』と言う割とふざけた商品名で売っていた焼きそばは、噂に違わず本当に美味しい。鉄板焼き故の少しカリカリと焼けた蕎麦と香ばしいソース、良く火の通った豚肉やしんなりと熱が通った野菜は、たとえメニューがそれだけの専門店だとしてもやっていけるだろうと思わせるものだ。
「ねぇ、お母さん。ゴルシちゃんって、現役のはずだよね……?」
「そうね。いったいどれほどの修練を積めば、これだけの焼きそばを……」
美月とお母さんも、その味に目を丸くして驚いている。前々世持ちの私や、トレセン学園生なら「だってゴルシだし」で済ませてしまうようなことでも、そうでない人にとっては驚くべきことらしい。とはいえ、だ。
「どうですか、ノヴァさん。とても美味しいでしょう?」
「はい。ここまでだとは思っていませんでした……」
私の隣に座るラフィさんが問いかけて来る。間違いなく美味しいと言う確信はあった。しかし、いくらゴルシでも、ここまでのレベルのものを出してくるとは思っていなかったことは事実だ。
「ゴルシ先輩は、たこ焼きや寿司の屋台を出していることもあるんです。聖蹄祭で一緒に行きましょうね」
「はい!」
ラフィさんは美しい笑顔を浮かべて私を誘ってくれる。改めて思うが、こんなに綺麗で優しい先輩が同室だなんて、一生分の運を使い果たしているかもしれない。
「あっ」
唐突に、ラフィさんの隣――私と反対側のそこに座るジェニーさんが声を漏らした。あれだけお姉さまお姉さまと甘えていたのに、今思えば食べ始めてからやけに静かだった彼女は、たった今気が付いたと言わんばかりに空になったプラスチック容器を見ている。
「どうですか、ジェニー。美味しかったでしょう?」
「……そうですね」
ジェニーさんは、少し恥ずかしそうにラフィさんに同意した。食べる前は『どうせお祭りの屋台でしょう?』と言わんばかりの態度だったからだろう。
その後しばらく沈黙していた彼女が、サンドラさんに話しかける。
「サン姉さま」
「どうかしましたか、ジェニー?」
「その、おかわりを買いに行っても、良いですか」
ラフィさんに似ているだけあって、もじもじとしている様は実に可愛らしい。しかしである。
「あれに今から並ぶのは、無理だと思いますよ」
サンドラさんは一言、そう答えた。ゴルシの屋台にはすでに長蛇の列が出来ており、生徒会が整理券を配る事態にまで発展していた。私と何かと縁のある例の生徒会ウマ娘も忙しそうにしている。
「そう、ですか。そうですね……」
しょげた様子の彼女を見て、自然と私は動き始めていた。年下の子の笑顔を守ることが、お姉ちゃんたる者の使命である。私はラフィさん越しに彼女に声を掛けた。
「あげましょうか」
「えっ?」
「食べかけで良ければ、あげます」
「あなたはどうするんですか」
ジェニーさんは首を傾げて問う。ここは大人らしく一瞬で言い訳を考え、私はそれを口にする。
「午後も動くので、食べすぎると動けないんです。もし良ければ、貰ってくれませんか」
「……そ、それなら仕方ありませんね。貰ってあげます」
つんと澄ました顔だが、揺れる尻尾を隠せていない。口元が緩んでしまいそうな可愛らしさだが、私自身もこう見えていることがあるのかと思うと恥ずかしくなってくる光景だ。
「ありがとうございます。ジェニーさん」
少し惜しむ気持ちがないわけではないが、焼きそばを渡す。それを受け取ったジェニーさんが、私の目を見た。
「ジェニーで構いません。丁寧語も、不要です」
「そうで――そう?」
「はい、来年には後輩になりますし、同志のようですから」
ジェニーはラフィさんを一瞬だけ見た。
……なるほどね。
ラフィさん推しの同志、と言うわけだ。この短い間に見抜くとは、なかなかやりおる。それに、ウマ娘の中でも上澄みであるトレセン学園を指して、『来年には後輩になる』と言ってのける自信に満ち溢れた子は嫌いじゃない。どちらからともなく、私たちは固く握手を交わす。
「いったい何を通じ合っているんですか……?」
ラフィさんの困惑した声が、私たちの間からした。
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お祭り、と言うものはあっという間に終わってしまうものだ。私はラフィさんより一足早く、寮の大浴場で今日一日の疲労をお湯に溶かしていた。お湯から身体に流れ込んでくる熱と浮力を感じながら、私は何をするわけでもなく、ぼんやりと今日の出来事を思い返す。
結局、私が参加した競技は全て
久しぶりに美月やお母さんと会ったり、ほぼ間違いなく後輩になるだろう子や、トレセン学園の卒業生であるそのお姉さんと顔を合わせたりと、良いことも多い日だったことは確かだ。
しかし、もっと私が頑張れば、みんなにとって更に良い日にすることはできたはずなのだ。それがどうしても悔しかった。
湯船のお湯を掬い、少しだけ溜まってきていた涙を誤魔化すように目元を洗う。お湯が熱いのか、涙が熱いのか、私にはわからなかった。
隣で誰かがお湯に浸かる音がする。結構空いているのにわざわざ隣に来るだなんて、変な人もいるものだと思ってそちらを見る。
張りのある白磁のような肌。すらりと伸びたしなやかな脚。女性らしい丸みを帯びた大きめのお尻から、水中にあってなお艶やかな鹿毛の尻尾が伸びている。皮下脂肪の下にアスリートらしい引き締まった筋肉を感じさせるお腹の上で、白魚のような指が緩く組まれている。大きすぎず小さすぎない、形の良く美しい胸は、全くないわけではないと言う程度しかない私からすれば、とても羨ましいものだ。薄く華奢な肩は強く抱きしめたら折れてしまいそうで、首も本気を出せば手折ってしまえるだろう。腰まで届く長い鹿毛の髪はナイロンタオルでまとめられていて、
間違いなく、ラフィさんだった。女神様の産まれたままの御姿を、私は直視してしまったのだ。ラフィさんは微笑みながら、優しい声色で話しかけて来る。
「感謝祭、お疲れさまでした。ノヴァさん」
「……ありがとうございます」
今まではお風呂でラフィさんが隣にいて正気を保てる自信がないので、ラフィさんが少し寂しそうにしても、恥ずかしがりの演技をして自主的に距離を取っていたのだ。どうしてラフィさんは、今日になって急に距離を詰めてきたのだろう。いずれにせよ、隣に来られてから慌てて上がると、誤解を生みかねない。鼻から噴き出て来そうな赤い情熱と、心の中の種牡馬が掛かり気味に出す馬っ気を必死に我慢しながらお風呂上りまで過ごす羽目になり、悶々とした気持ちは眠りに落ちるまで続いた。
この時点のノヴァが知りようもないので、本文中に書き切れなかったこと
1.ノヴァはラフィとべったりなのを、美浦寮で頻繁に目撃されていることに気が付いていないらしい。
2.お父さんとお母さん、どちらが感謝祭に行くかで熾烈なじゃんけん戦争があったらしい。
2022/09/10 16:00
一部表記をシンデレラグレイの板書に合わせて変更(カワサキ→川崎)