秋の盾をあなたに   作:江芹ケイ

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第1話:深夜4時少しの風景

 木枯らしを吹き飛ばすような大歓声の中、騎手を乗せた18頭の競走馬が芝の大地を揺るがしながら駆けていく。

 

「第4コーナーを抜けて先頭は依然キャンドルノヴァ、7馬身のリード!」

 

 残り500m。長い長い最終直線を逃げ切れば、私と鞍上はオーナーの1周忌に秋の天皇賞制覇を、1年前の天皇賞の日、まだ生きていたオーナーに見せることが叶わなかった人馬ともに初のGI制覇を報告できる。しかし、今の私たちにとっては限りなく長い500mだ。大半の馬はもう追いつかせないだけの差と脚があるが、このレースの大本命は私ではない。

 

「しかし来た! 大外からギンシャリボーイ飛んできた! 凄まじい末脚!」

 

 馬の広い視界が、芝を抉りながら凄まじい勢いで追い上げてくる1頭の馬を捉える。知っている人は知っているふざけた馬名だが、コントレイル以来となる無敗でのクラシック三冠、そして同一年度に春古馬三冠、秋古馬三冠を達成し、テイエムオペラオー以来となるグランドスラムを達成した正真正銘の化け物だ。このままではギリギリで差し切られると、私も鞍上も判断した。

 

「行け、ドリー!」

 

 人馬一体の1頭と1人には鞭は要らない。声だけで十分だった。鞍上の声に応じるように最後の力を振り絞って加速しようとした瞬間、左前脚の球節に激痛が走る。思わずよろめいて内ラチにぶつかり、その拍子に騎手が背中から芝へ落ちていく。その様子が、私にはストップモーションのようにゆっくりと見えた。芝に叩き付けられた鞍上がぐるぐると転がって、止まる。鞍上はピクリとも動かなかった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 掛け布団を跳ね除けるように飛び起きた。辺りを見渡してそこが寝藁の敷いてある馬房でないことを確認すると、次いで側頭部に手を当てる。ヒトならばそこに存在するはずの耳がない。頭頂部に手をずらすとウマ耳が手に触れた。そうして今はウマ娘であること、悪夢が競走馬だった前世に起きた事実であることを改めて認識すると、ウマ耳がぺたんと折れた。悪夢を見た日のルーチンワークだ。毎度毎度、それが何の根拠もない夢であれば良かったのに、と思わずにはいられない。

 

 『ウマ娘』。生まれつき別世界の名前と共に生まれその魂を受け継いで走る、ヒトとは少し異なる神秘的な種族。その中でも私は、別世界の名前の持ち主である『彼』の記憶も受け継いだという点で特別だった。そしてその『彼』もまた前世にヒトだった記憶――私から見て前々世の記憶を持つという点で特別だった。2つの特別のうち片方だけでも欠けていれば、悪夢に苦しむこともなかったのに。

 

 負の方向に傾く思考を首を振って振り払うと、枕元の時計に目をやる。午前4時前を指していた。いつも起きる時間の少し前だ。2度寝をする時間でもないのでスマホのアラームを切り、ベッドから足を下ろしてスリッパを履いて私室を出る。トイレを済ませ、手を洗い、歯を磨き、顔を洗う。そして最低限のスキンケアをして、髪としっぽに櫛を通す。おしゃれというものに興味はなかったが、やらないと今世の母が「せっかく美人さんに生まれたのに」と悲しむ。化粧水と日焼け止めをして、髪としっぽの毛並みを整えること。これらが面倒でも忙しくても最低限すると母と交わした約束だ。

 

 部屋に戻るとパジャマとナイトブラを脱ぎ、スポーツブラ、Tシャツとジャージを着た。そして姿見を使って身だしなみと、ついでに今世の自分自身を確認する。身長は同年代の平均を下回り、前世の馬体から考えるとここからあまり伸びないだろうことが予想できた。『小柄で毛並みも悪くみすぼらしい。とても走ると思えないのに走る』とある意味で評判だった前世と比べたら、毛並みがよい分今世のほうが立派な体である。しかしその胸元は大変機能美に溢れていた。前々世の記憶の中のウマ娘、サイレンススズカといい勝負だ。

 

 ふと思考の脱線に気が付き、頭を左右に振るう。無意識に胸に当てていた手を下ろし時計を確認すると、午前4時を回っていた。補導の心配がないことを確認するとリュックサックを背負って、音を立てないように忍び足で廊下を歩いて行き、玄関を出る。決して広いとは言えない庭で十分に動的ストレッチを行い、寝起きの体をほぐしていく。体が暖まってきたところで門を出た。

 

 3月下旬のまだ少し冷たい風を切るようにいつものコースを走る。住宅街の生活道路は狭いから、広い道路に出るまではもどかしくとも逸る気持ちを抑えてヒト並みの速度だ。よく晴れた空、電線の隙間から街灯に負けず輝く星々が見える。あっという間にウマ娘専用レーンが設置された広い道路に出ると、制限速度まで加速する。全速力ではないし速度計があるわけでもないが、それでも疎らに走っている車よりは速い。前世の駆歩(かけあし)と比べても明らかに速いが、ウマ娘にとってはそこまで負担でもない速度だ。

 

 10分ほど走ると、かつて横浜レース場と呼ばれた公園にたどり着く。戦争による徴用と進駐軍による接収が30年近く続き、URAに払い下げられた時には近代的なレース場としての使用は周辺環境を鑑みて現実的ではなくなっていたため、公園として整備されたのだ。住宅地のど真ん中でフル規格のウイニングライブをするわけにもいかないから、致し方ないことである。

 

 とはいえ競走馬とウマ娘の違いのためか、前々世とは異なりウマ娘が本気で走っても問題ない設備を今でもURAが整えている。戦前メインで使われていたレースコースはURA管轄であり、その整備状態は中央のレース場と何ら変わりがないほどだ。URAがコース整備の実習に使っているらしい。スタンドがないため観客がほとんど入れられないこと、内馬場は市管轄の公園になったためにないこと、騒音問題でウイニングライブができないことなど問題はあるものの、整備が行き渡りすぎているためか『URAは今でも横浜レース場を諦めていない』という噂がある。

 

 夜勤の監視員にコース使用料を渡し、入場する。公園部分は市管轄なので無料だが、コース部分はURA管轄で整備費もかかるので有料だ。金額自体はなかなかお高いが、整備中を除けば24時間いつでも中央レベルの芝を走れて、全速力のウマ娘が転倒した時のために夜間も監視員を置いているのだから、その経費を考えると完全に赤字の慈善事業だ。アスファルト舗装の道路は無味乾燥としていて、走っていて楽しくないので非常に助かる。

 

 日の出前のこの時間でも、数えられる程度ではあるがウマ娘が走っている。ウマ娘というものは、幼いころに1度は競走ウマ娘に憧れるものだ。トレセン学園で夢破れたウマ娘でも、そもそも入学できなかったウマ娘でも、夢の舞台と同じレベルの芝で走れるのだからやはり料金は破格だと、この公園で知り合った社会人ウマ娘が語っていた。

 

 旧スタンドの最前でリュックサックからウマ娘用の蹄鉄シューズを取り出す。蹄鉄に緩みがないことを確認して、ヒト用の運動靴から履き替えてコースに入る。1周1632m、ゴール板の後方約220mにあるホームストレッチ入り口まで外ラチ沿いを歩いて行く。横浜、芝1850m。かつてここで皐月賞が開催されていた頃のコースだ。

 

 屈んでもう一度蹄鉄シューズの靴紐を結び直して立ち上がる。ターフの上で大きく深呼吸をする。

 

 ……私の大嫌い(好き)な匂い。私が犯した罪(楽しい思い出)を思い起こす匂い。今すぐ柵を超えて(芝生の上を)逃げ(駆け)出してしまいたい。

 

 相反する2つの気持ちを同時に抱えたまま、想像のゲートに入る。目を瞑り、胸に手を当て、もう一度深呼吸をする。余計な力を抜いたところで左足を半歩引いて構える。集中力が最高に高まったタイミングで、ゲートが開いた。

 

 誰よりも速く先頭に立つ。前世の私は大逃げが得意だった。前々世由来のヒトの知能を持った馬だ。ハナを切った後は距離と自分のスタミナに合わせてハロンタイムを管理すれば、理屈の上では負けなしのはずだった。そもそも前々世から大逃げが好きで、好きな馬と言えば当時の私がまだ生まれる前の馬ではあったがサイレンススズカやツインターボだったし、ゲーム版ウマ娘でも逃げウマ娘ばかり育てていた。

 

 スタミナを残せる範囲の最高速で1回目のゴール板を通過する。ここから第1コーナーを抜けて第2コーナーに入るまでの260mで高低差8.9mを下っていく。しっかり抑えないとあっという間に外に膨らんでしまう。

 

 坂を下り無事に第2コーナーに入るとすぐ上り坂だ。バックストレッチ中ほど辺りまでの490mで高さ約10m、しかもそのうち6m程度を第2コーナー入ってすぐの130mで登らなければならない。淀の坂よりきつい。先日卒業したとは言えども、まだ体の出来上がっていない2度目の小学生の身としては、コースに坂路を置くなと言いたい。

 

 上り切ると次はまた下り坂だ。勢いに乗ってバックストレッチを駆け抜けていく。何せ第3コーナーはまた上り坂だ。80m走る間に1.4mを上るから、勾配は東京の最終直線よりも厳しい。

 

 どうにかもう一度上り切ればそこは第4コーナー、あとはゴールまでほぼ平坦だ。最終直線に入ってからゴールまでは280m、中山よりも短い。逃げ馬に有利だが、彼なら――前世でただの1度も勝つことが叶わなかったギンシャリボーイならば、まくって数馬身後ろについている。想像の彼を突き放そうと残り100mを全力で駆け抜けようと脚に力を込めたとき、脳裏に今朝の悪夢が過ぎった。

 

 芋づる式に嫌な記憶ばかりが引きずり出されていく。繋養先の牧場で骨折して安楽死され自分を構成する何もかもが虚空に拡散して消えていく感覚。種牡馬になったはいいものの子供たちはみな大成しなかった。結果的に最後の競走となった秋の天皇賞で振り落とした鞍上に騎手を続けられないほどの後遺症が残り彼の夢を断ってしまった。クラシックも古馬王道も距離を問わずいつも2着でただの1勝もできなかった。すい臓がんで死んだオーナーが最後に見に来てくれたのも秋の天皇賞だった。期待してくれていたのに1回も勝てなかった。デビュー戦が弥生賞になったのは新馬戦直前に骨折をしたからだ。幸い治る範囲だったけどもう1度骨折したら次こそ死ぬのではないかと怖くて全力で走れなくなった。気に入ったただ1人の鞍上しか乗せない我儘な私を見捨てないでくれたオーナーが見に来てくれる最後のレースだったのに全力を出さなかった。放牧されるたびにオーナーの生産牧場に帰って来る私の面倒を見てくれたオーナーの孫娘の旦那の夢を絶った。「君もあの人も死ななくてよかった」? 違う。自分の命惜しさに鞍上を守らなかったんだ。本当なら命に替えても鞍上を守らないといけなかったんだ。サイレンススズカのように。彼も彼女もオーナーもみすぼらしい仔馬だった私に期待してくれていたのにことごとく裏切った。オーナーが死んで鞍上が引退して私が種牡馬になった後も無様に生き恥を晒していた私に最後まで期待してくれていたのに結果を残せなかった。

 

「おいおいおいおい。どうしたんだよ、ノヴァ」

「……スタークさん」

 

 乱暴にハンカチで顔を拭われる。この公園で知り合った鹿毛の社会人ウマ娘、シアトルスタークがいつの間にか隣にしゃがんでいた。思考が現実に戻ってきてようやく、私がゴール前でぺたりと座り込んで泣いていることに気が付いた。この時間では数少ない周りのウマ娘たちや監視員が心配そうに見つめてくる。

 

「春からトレセン生だろ? もっと楽しそうにしろよ」

「……すみません」

 

 スタークさんは笑いながら私の頭をポンポンと叩き、努めて陽気に話しかけてくれる。

 

「何だか知らんが、謝んなって。それで、何があったんだ?」

「……ちょっと夢見が悪くて」

「……そういうことにしといてやろう」

 

 それだけではないとは見抜かれているだろう。それでも放っておいてくれる優しさがありがたかった。

 

「ほらほら、散れ散れ。見世物じゃあないぞー」

 

 スタークさんが声を張ると、他の方々が散っていく。皆まだ心配そうではあるが、多少の安堵も見て取れる。この世界は優しい方々が多いように思えた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「さて、面を合わせるのは1週間ぶりだな」

「そうですね」

 

 あのままでは周りに迷惑だし危険だということで、スタークさんと私は旧スタンドまで戻っていた。シアトルスターク、元トレセン学園生でトゥインクルシリーズの戦歴は10戦0勝。「地元じゃ負けなしだったんだけどなぁ。強かった強かった」とは本人談だ。今でも毎週末この公園に来て走りこんでいる。

 

「それで。全力は出せそうかよ」

「……すみません」

「謝んなって。ほらよ」

 

 スタークさんは勝手知ったる様子で私のリュックサックからスポーツドリンクを取り出し、私に手渡す。そこで初めて、泣いたせいか喉が渇いていることに気が付いた。両手でペットボトルを掴みながら、ぐいぐいと飲んでいく。

 

「ノヴァ。あんたは全力を出せなくても、私がトレセンにいた頃よりずっと速くなる。私が保証する。オープン戦だったらそれだけで勝てるだろうよ」

「……ありがとうございます?」

「首を傾げるなかわいいな。そこは子供らしく『やーいやーい。遅い遅ーい』とか言っとけ」

「言いませんよ……」

「で、だ」

 

 ずいとスタークさんが身を乗り出す。鼻筋が通っていて、睫毛が長く、目が大きい。化粧なしにこれだ。やはりウマ娘は眉目秀麗に生まれるものなのだなと改めて思う。

 

「あんたが全力を出せたら、絶対GIに勝てる」

 

 スタークさんも、裏切者()に期待をしてくれるのか。期待が怖い(嬉しい)せいか目に熱が溜まっていくのがわかる。

 

「おいおいおいおいおいおい。泣くな泣くな泣くな。何がスイッチかわからねぇやつだな!」

「すみません……」

「こらこら、鼻をすするな。ちゃんとかめ」

 

 差し出されたティッシュで鼻をかむ。汚れたティッシュをどうしようかと目線を彷徨わせると、スタークさんがすかさず小さなビニール袋を手渡してくれた。

 

「まぁ、あれだ」

「はい」

「あんたくらい才能が有れば、トレセンのトレーナーだったら何とかしてくれんだろ」

「そうでしょうか……」

 

 スタークさんは私の背中をバシバシ叩きながら言う。

 

「何とかなるなる! 何とかなんなくても、その時はその時だ。別に競走ウマ娘だけがウマ娘の道じゃねえよ。私は私なりに今の生き方楽しんでるからな」

「ならその時は、道を教えてくれますか」

「その時はな。まあ、私の目に狂いがなけりゃそうはならねえよ」

「でも……」

 

 何を言えばいいのかわからなくて黙ってしまう。スタークさんは私に期待してくれているのに、私は私に期待できない。スタークさんの目を疑うようで嫌だった。

 

「……しょうがねぇなぁ」

 

 スタークさんは頭をガシガシと掻くと、どこからか名刺を取り出してその裏に何かを書き込み、裏面を上にしたまま私に差し出した。

 

「ほら。私のプライベート用アドレスと電話番号だ。兆が一退学したら連絡しな」

「すみ――、ありがとうございます」

「よろしい」

 

 なんとなく名刺を捲る。そこに書かれていた肩書は、大手ウマ娘用蹄鉄シューズメーカーの開発部だった。目を丸くしてスタークさんの顔を改めて見る。

 

「こういう道もあるってこった」

 

 スタークさんはいたずらに成功したような笑顔だった。




ニコニコの某MAD、良いですよね。

2021/04/03 17:35
表記ゆれ修正(競争→競走)

2021/04/05 00:10
一部セリフ修正(ずっと速い。→ずっと速くなる。私が保証する。)
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