ファン感謝祭から1週間が経った土曜日のお昼前、
トレセン学園には多くのウマ娘がいると言うことは、周知の事実だ。チームに所属しているウマ娘だけでも相当の人数であるため、トレーニング施設の予約枠はほとんど常に埋まっている。しかも、キャンセルが出て空いたとしても、次走の時期が迫っているような子、重賞に出るような子が優先にされるシステムだ。チームに所属しないウマ娘たちは、授業用に確保された場所と時間以外ではなかなか利用機会が来ないのである。
「お願いしてアダラの練習に混ぜて貰う」と言うようなことは、1回切りなら体験見学ですと言い張れるだろう。しかし、規則の抜け道のようなものであるし、大浪トレーナーはそれを許すような人でもない。
三大欲求と言う言葉がある。ウマ娘の場合は追加で走欲とでもいうべき本能があるのか、正直言ってそろそろ我慢の限界だった。小学校の高学年になってからは、毎週好きなだけこの芝の上を走っていたのだ。
踏みしめられて傷ついた芝の青い匂いと、夜の間に吹いた海風が持ち込んだのだろう微かな潮の匂いが、久々に嗅覚を刺激する。それらを含んだ風を纏い、私は第4コーナーを抜ける。
第3、4コーナーで脚を溜めて、最終直線で二の脚を使う。そういう走り方は、今の私にはできない。そうしようとしても脚が竦んでしまうことは、入学前の最後にこの公園へ来たときに試して分かっていた。そうである以上、私にできることはラップタイムを維持したまま決勝線を駆け抜けることだけだ。
体内時計に従ってペースを守り、ゴールまで300mもない距離を走り抜ける。ゴール板の前を超えて少し走った後に足を緩めると、私はいつの間にか浅くなっていた呼吸を意識して深くした。息の入りの良さは、前世でも評価されていたことだ。数十秒程度で息を整えると踵を返し、ゴール直後の急勾配な下り坂――今は逆方向に歩いているので上り坂を登る。今日はこれで切り上げるつもりだったこともあり、残っている体力も日常生活に必要な最低限分を除けば使い切るように走った。そのせいか、脚が鉛のように重い。
ひいひい言いたくなる気持ちを抑え、やせ我慢してなんとか坂を登り切る。足元が平らになると共に筋肉への負荷が下がり、脚に溜まった二酸化炭素や乳酸を血流が運び去っていくような感覚がし始める。
……この間、乳酸は疲労物質ではないと読んだような。
前々世や前世がある分、疲れて判断力が落ちているとそちらで学んだ
そんなことを考えながら歩いていると、ゴール前で待っていた鹿毛のウマ娘――スタークさんが、ストップウォッチをこちらに見せながら話しかけて来た。
「ひと月前よりも少し速くなってるな。年末までには本格化するんじゃあないか?」
「わかるんですか?」
「いや、勘」
「えぇ……?」
スタークさんのいる会社の企業機密的な何かがあるのかと思いきや、そうではないらしい。『勘と言うものは無意識に蓄積した情報からの判断である』と聞いたことはあるが、勘で話される側としては「うそでしょ……」と言いたくもなる。
「いや、個人差もあるし、難しいんだよ」
「それはそうですけど」
「大丈夫大丈夫。私の勘はそこそこ当たるんだ。信じとけって」
「じゃあ、外れたら何かください」
「うーん、がめつい」
スタークさんは苦笑いをしてそう言った。
欲深いことを言ったが、スタークさんの予測はおそらく当たるだろう。前世で1つ上の世代だったエレジーさんは今年中にデビューするだろうし、そうなれば私も来年中には競走者登録をしてジュニア級の競走ウマ娘になるはずである。
……ジュニア級のうちにデビューできるかは別だけど。
以前に今世のレース結果を確認したとき、サイレンススズカもライスシャワーもレース中に競争中止級の怪我を負っていることが分かっている。2人とも現在は復帰できているとは言えども、私も、そしてラフィさんも同じようになる可能性は十分にあるわけだ。特にラフィさんのそれは、即死だ。どうやってラフィさんの運命を捻じ曲げるのか見当もついていないと言うのに、油断なんかできるはずがない。
もちろん、何もせずとも運命が変わる可能性はあるだろう。前世では10年単位で世代が異なるはずの私とラフィさんが、先輩と後輩と言う形でトレセン学園に通っているのだから。しかし、楽観的に構えてダメでした、は洒落にならないのだ。
いずれにせよ、これは今考えることではない。そう思い私は、目の前のスタークさんに訂正の言葉を掛ける。
「冗談ですよ」
「そうかい。まあ、デビューしたら靴の2、3足くらいはやるよ。当たるにしろ当たらないにしろ、何足も履き潰すだろうしな」
予想だにしなかった言葉に、一瞬何を言っているのか分からなくなった。一拍置いて何を言われたのか理解した私は、慌てて冗談だと再度強調する。
「えっ、あの、だから冗談です」
「良いんだよ。やるっつってんだから貰っとけ。『私はあの子が小さいころから大物になると思っていました』って後方師匠面をさせろ」
「でも……」
「でももだってもない。私がそうすると決めたんだ。ノヴァはただ走ればいいんだ」
スタークさんは屈み、私と目線の高さを合わせる。
「前も言っただろ。『ノヴァならオープン戦で勝てる』って。別に条件戦でも良し。重賞ならなおさら良し。GIだったら極上だ。だから、勝ってあたしには縁のなかった美味い酒を飲ませろよ。もう1本は買ってあるんだからな」
そう言って、スタークさんはにっかりと笑った。
期待、されている。体の芯からじんわりと暖まるような熱を持つ嬉しさと、それをまた裏切るかもしれないことに対する脳の髄に液体窒素を流し込んだような怖さ、それらの感情が自分でもわからないくらいごちゃ混ぜになり、頭で処理しきれなくなる。たったひと月前と同じようなことを言われているだけなのに、同じように目頭からも目尻からも涙が零れていく。
「だから泣くなって!? 本当涙脆いやつだなぁ!」
ひと月前と同じように、スタークさんはハンカチを取り出して私の顔を拭い始めた。
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薄曇りの空が、浴びていると意外と暑い春の日差しを遮っている中、私は何度目かわからない溜め息を吐きながら家への道をとぼとぼと歩いていた。
……またスタークさんの前で泣いちゃったなぁ。
期待されると言うことに対して、どうにも感情の制御が上手くいかない。前々世の記憶は、2回も転生しているせいなのか、馬に関すること以外は前世で思い出す機会が少なかったせいなのか、どちらが原因かはわからないが朧気だ。しかし、ここまで感情面で幼くはなかったと思う。「来月もまた来ます」と約束はしたが、どのような顔をして会えばいいのか。
また一つ溜め息を吐いて角を曲がると、周りの建物よりもほんの少しだけ立派、に見えるらしい我が家が見えて来る。幼い頃、小学校の集団登校班が同じだった子がそんなことを言っていたはずだ。私にはよくわからないが、周りの子たちも同意していたし、そうなのだろう。
事実として勝手知ったる家の門を通り、屋外の水道で念のため一度顔を洗う。泣いた痕跡が残っていれば、心配を掛けてしまうかもしれない。
タオルをリュックから取り出すのが面倒で、周りに誰もいないことを確認してからシャツの首元で顔を拭った。少し汗臭く、失敗だったかもしれないなと思いながら、私は首に下げておいた鍵で玄関を開ける。鍵の回る音がした瞬間に、私のウマ耳がドタバタとした足音を捉える。それは、丁度私が扉を開くと同時に玄関に到達した。
「ただいま」
「おっかえりー!」
私の姿を見た
……気にしてなんか、ないけど。
もちろん、そんなことはおくびにも出さない。妹がすくすく成長できるようにすることが、
「この間会ったばかりでしょ」
「だって、学校でもお家でもお姉ちゃんがいないんだもん!」
美月は私を抱きしめたまま、まだ私がリード出来ている身長差の分首元に顔を埋めてそう言った。
だいたい2か月前の卒業式までは、家はもちろん学校でも一緒だったのだ。寂しい思いをさせてしまっているのだろう。自分のことに一杯一杯で、美月の気持ちまでは気が回らなかったなと反省しながら、可愛い妹を抱きしめる。
「全く、しょうがないなぁ」
「んへへ」
美月の頭を撫でてあげていると、再び廊下の扉が開く。まだ達成できていなかった今日の2つ目の目的、お父さんが嬉しそうな顔をして現れた。最後に会ったときと変わりなく、元気そうに見える。トレーナーと言う職業は忙しいので疲労を溜めていないか心配していたが、杞憂だったようだ。
「おかえり、ノヴァ」
「ただいま、お父さん」
「元気そうでよかったよ」
「お父さんもね」
「ありがとう。お昼は何がいい?」
家で一番料理が上手いのは、お父さんだ。その気になればお店を開けるだろうレベルのそれは、トレーナーとして管理するウマ娘の栄養面や、美味しい食事を摂ることによる精神面のサポートを考えて覚えたらしい。故にお父さんにお任せでも全く問題はない。ないのだが、「なんでもいい」と言うのは、料理を作る人にとって良くないらしい。うーん、と少し悩んで、私は答えた。
「フレンチトーストがいいな」
「うん。わかった。ノヴァはシャワーを浴びて来なさい」
「はーい」
私は抱き着いたままの美月をウマ娘の腕力で持ち上げると、そのままお風呂へと向かった。感謝祭ではあまり相手をしてあげられなかったし、久しぶりに構い倒してあげよう。
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晴れ上がった空が群青色と茜色の美しいグラデーションに染まった頃、私は美浦寮の敷地に入り、北棟の玄関へ入った。その時、見覚えのある艶やかな三つ編みの後ろ姿が目に入り、思わず声を掛ける。
「ラフィさん、ただいまです。おかえりなさい」
「あっ、ノヴァさん。おかえりなさい。私も今帰ったところです」
ジャージ姿のラフィさんはくるりとその場で振り返る。足取り軽く駆け寄ると、ラフィさんと一緒にふわりと動いた空気はなんだかいい香りがするような気がした。
「ご家族の方はお元気そうでしたか?」
「はい。この間会えなかったお父さんも元気そうでした!」
「そうですか。それはよかったですね」
ニコニコと笑顔のラフィさんに私は今日1日の出来事を話しながら、2人並んで部屋へと戻っていく。もちろん、公園で泣いたことは恥ずかしいので伏せたけれど。
すると、話の流れでラフィさんが旧横浜レース場に行ったことがないことが分かった。
「ラフィさんは、あの公園に行ったことないんですか?」
「はい。有名だとは聞きますが、本邸からでは遠くて。小さい頃から、走りたいときはメジロ家で持っているトラックに行っていましたね。だいたいお姉さまたちの後をついて走っていました」
……小さい頃のラフィさん、間違いなく天使のような子だったろうなぁ。今度アルバムとか見せて貰えないかなぁ。
などと頭の片隅で考えながら、私はラフィさんを誘う。
「じゃあ、今度一緒に行きませんか? 高低差が凄いコースなので結構トレーニングになると思いますし、博物館もあるので勉強にもなりますよ!」
「そうですね。お休みの日に一緒に行きましょうか。案内、お願いしますね」
「もちろんです!」
鼻息荒く、そう答える。もはや事実上デートの約束を取り付けたと言っても過言ではない。もちろんラフィさんの体調次第だが、早ければ2週間後になるだろう。
ラフィさんの次走は、1週間後に迫っていた。