詳細については各話後書きに記載しています。
軽微な修正ですから、このままお読みいただいて問題ありません。
スタークさんに情けない姿を見せた後、私たちは朝の9時まで休憩を挟みながら走りこんだ。現金な話だけれども、今世では本当に辛くなったらレースから逃げてもいいのだとわかると、ほんの少しだけ気分が楽になったような気がする。それと共に、なんとなく入学手続きまで終えた今更逃げたら負けなようにも思えてきた。大逃げ馬だったのに逃げたら負けだなんて、笑えてくる話である。
クールダウンを終えて汗を拭き、入退場口近くの旧スタンドで靴を履き替える。その時、スタークさんが気が付いたように言葉を漏らす。
「ああ、そうか。入学前だと今週でもう最後か」
「はい。次にこのコースを走れるのは、当分先ですね」
「当分先、か。少しはまともな面になったじゃないか」
幼稚園に通っていた頃、初めてこのコースに立った日を思い出す。お昼を過ぎて少し傾いてきた太陽から降り注ぐ光。海の向こうから潮の香りとともに吹き抜ける海風。丁寧に管理された踏むと柔らかく跳ね返してくる芝。走り抜けるウマ娘たちの足音。踏まれた芝の少し青臭い匂い。立っているだけで
理性が主張した。
本能が反論した。芝の上こそ
理性が説得した。また期待を裏切って、失意の中死んでいくのかと。
本能が反発した。期待を背負って走れないなんて、死んでいないだけだと。
理性が
本能が叫んだ。私は生きたい!
1か月。それが私の我慢できる限界だった。生きながら死んでいることに耐えられなかった。手間のかからない子供で通っていた私は、今世で生まれて初めてのおねだりをした。失望されるだろうかと内心震えながらしたお願いは、しかし今世の優しい両親を大喜びさせた。呆気にとられたまま、あれよあれよという間に再びこのコースに来て。
私は
それからは親にねだって少なくとも毎月、小学校の高学年になってお小遣いが増えてからは、自分でもお金を払って毎週このコースで走っていた。純粋に楽しさしか感じなかったのはあの時だけだったけれど。思い出深いコースを離れることに、少しだけ寂しさを覚える。
「――い。おーい! 起きてるかぁ!」
「あっ、はい! すみません!」
スタークさんの大声で我に返る。ウマ耳としっぽがビンと伸びた。
「ったく。話聞いてたかぁ?」
「その、すみません。あまり来られなくなると思うと、なんとなく寂しくなって」
「あぁ、まぁ近いっちゃ近いけど、トレセンに入るとなかなかなぁ」
スタークさんが渋い顔をした。世間一般のヒトには忘れられがちではあるが、トレセン学園は中高一貫校だ。つまり中学高校の勉強をこなしながら、トゥインクルシリーズやドリームトロフィーシリーズに向けた練習もしなければならない。普通の学校とは異なり長期休暇なんてものはないのだ。正確に言えば長期休暇自体はあるのだが、普通の学校のように休んだりしたら、その間トレセン学園や夏季合宿で練習を重ねたウマ娘に差をつけられてしまう。そのために、大抵のウマ娘は年末年始とお盆休みの数日程度ずつしか帰郷しない。今世では、夏と冬は放牧されてのんびり過ごせた前世よりも忙しくなるだろうことが予想された。前々世は社会人だったような記憶があるので、それと比べたらどうということはないのだけれど。
「まっ、今生の別れってわけじゃねぇんだ。かなりきついトレーナーでも休みはくれるし、気が向いたらそん時にでも走りに来な。知っての通り、私も週末ならいるからよ」
靴を履き替え終わったスタークさんが立ち上がりながら言った。週末に来たら、また相手をしてくれるということだろう。心がぽかぽかと暖かくなり、自然と笑顔になる。
「はい! 週末に来ますね!」
「んぐ……」
スタークさんの顔が赤くなった。ウマ娘はみな美人だし、スタークさんなら笑顔くらい見慣れていそうなものだけれど。不思議なものであると首を傾げた。
なんとなく変な雰囲気のまま歩き出し、コースを退場する。私の家とスタークさんの家は、公園を挟んで正反対の方向だ。どちらからともなくお互いに向き合う。こほんと1つ咳払いをしたスタークさんは、もういつも通りだった。
「それじゃあな。デビュー戦の日程は教えろよ」
「はい! 絶対連絡しますから!」
「おう!」
お互いに手を振り合いながら駆けだした。
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「ただいま」
「おかえり、お姉ちゃん!」
「おかえり、ノヴァ」
「おかえり。シャワー浴びて着替えてらっしゃい。朝ごはん用意しておくから」
「わかった。ありがとう」
朝の9時半、整理運動の続きも兼ねてヒト並みの速度で走って帰ってきた私を家族が出迎えてくれる。私を除いてみんなヒトだ。ウマ娘はウマソウルが宿ることで生まれるそうなので、こういうこともあるのだろう。
一度部屋に立ち寄って着替えのワンピースを手に取り、洗面所に入って扉を閉じた。汗を吸ったジャージ、Tシャツ、下着と靴下を脱いで洗濯機に放り込んだら、耳飾りも置いて風呂場に入る。シャワーを手に取って初めに出てくる水が体にかからないようにしてから、レバーを奥の方へ回す。しばらく待ってお湯が出てきてようやくシャワーを体にかける。いきなり頭から浴びるとウマ耳の中に入って大変なことになる。なった。一度痛い目を見てからずっとこのやり方で浴びている。
一通り汗を流したら、お風呂に浸かりたい気持ちをぐっとこらえて洗面所に出る。本当ならお湯に浸かって脚のマッサージをしたいけれど、お母さんが作ってくれる朝ごはんを置いておくわけにもいかない。タオルで頭と体、髪としっぽの水分を手早く吸い取った後、体を冷やさないよう用意しておいた着替えを着てから、ドライヤーで髪としっぽを乾かしていく。葦毛ウマ娘特有の光を浴びて輝く銀髪――鎖骨辺りまで届く内巻きのセミロングはこれまたお母さんとの妥協の産物だ。しっかりと乾いたことを確認したら、朝と同じように髪としっぽを梳かしていく。
鏡の中の自分、ろうそくの炎のような色のたれ目が自身を見つめ返す。ナルシストみたいで口には出さないが、我ながら綺麗な子だと思う。未だにこれが自分だという実感がわいてこない。前世に引っ張られすぎているなぁという自覚はある。
髪としっぽに引っ掛かりを感じなくなったら、白いレースのシュシュを右耳に通して廊下に出る。濃厚なバターと小麦の香りが鼻腔をくすぐり、きゅるきゅるとお腹が鳴る。午前4時に起きて、トレーニングして、朝ごはん。競走馬だったころの生活習慣をそのまま続けていることもあり、すっかりお腹が減っている。LDKタイプのリビングに入ると、ちょうどお母さんが配膳を終えたところだった。ありがとうと一言告げて食卓につく。
「いただきます」
「召し上がれ」
今日の朝食は、溶かしバターを塗り薄切りのハムと蕩けるチーズを乗せて焼いたトーストが半斤分、薄切りの
「そういえば、みんな揃っているなんてずいぶん珍しいね」
あっという間に食べ終えた私は、ゆっくりと紅茶を飲みながら両親に尋ねる。両親は共に川崎トレセン学園でトレーナーをしていて、重賞の常連トレーナーだ。ローカルシリーズとは言えど、トレーナーは多忙なはずである。
「忘れたの? 制服届くの今日よ?」
「入学式当日は僕たちも忙しいからね。今日を逃したらこの目で見るのがいつになるかわかったものではないから、無理を言ったんだ」
「わくわくして眠れなかった!」
「そっか。……ありがとう」
家族みんな笑顔で、声の調子がいつもより高い。
……本当に、私にはもったいないくらいのいい家族だと思う。
また思考が負に寄っていることに気が付く。スタークさんに元気づけてもらったのに、朝の出来事はよほど精神に来ていたらしい。私は紅茶を飲み切って「ごちそうさま」と席を立つと、洗い物をシンクにおいてある大きなボウルの中――中性洗剤を溶かしたお湯に浸けた。
「勉強してくるから、届いたら教えて」
「もちろん。あんまり根を詰めるなよ」
「わかってるよー、お父さん」
一旦気分を切り替えたかった私は、自分の部屋へ逃げるように歩いて行った。
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最低限の生活感はあるけれど、殺風景な部屋。それが私の部屋だった。大体この年頃のウマ娘なら、憧れのウマ娘のポスターが2枚や3枚貼ってあって当たり前、ぱかプチが置いてあって当たり前らしい。だがしかし、私にはだいぶ朧気ではあるが前々世の人生経験があり、価値観が引っ張られるほど強烈な前世の馬生経験があるわけだ。多少らしくなくても許してほしい。
親に勉強すると言ったは良いものの、特に何かしなければならないことがあるわけではない。朝のように、何かやることがあれば気が紛れるだろうと思っただけだ。トレセン学園で使う教科書は入寮後に受け取ることになっているし、今更小学校の勉強をやり直す気にもならない。
そういうわけで、以前お母さんから借りてそのままにしていたトレーニング理論の本を読んでいた。すると家の前にトラックのエンジン音が停まり、運転席のドアと荷台の後部ドアが開く音がして、インターホンが鳴った。音がばっちり聞こえているだなんて、我ながら集中できていないなぁと苦笑いしながら私が本を閉じるのと、ドタバタと廊下から足音が響いてくるのはほぼ同時だった。
「お姉ちゃん! 届いた!」
「わかってる、わかってる」
ノックなしに飛び込んで来て、キラキラの笑顔で私の腕をぐいぐいと引く妹を制しながら玄関へ向かう。私は長子長女であるためか両親もだいぶ舞い上がっているし、新しい制服というのは私でも少々気分が高揚してくる。
しかし妹のそれは家族の誰よりもすごかった。私について来て採寸に行った時からずっとテンションが高いままだ。3つ年下の妹は、少し前まで「私もウマ娘だったら良かったなぁ」としょっちゅう言っていた。最近「ウマ娘になれないならトレーナーになろう」と思い立ったらしく、前世のレースならともかく、今世のトゥインクルシリーズについては私よりもずっと詳しい。好きこそものの上手なれとはよく言ったものだ。
「ノヴァ、届いたぞ!」
「早く着て見せて!」
「……お父さんもお母さんも、慌てなくても制服は逃げないから」
妹のテンションは誰よりもすご
お父さんから箱を2つ受け取って、着替えるために部屋に戻る。ベッドの上に置いた箱を開いて出て来たのは、トレセン学園の冬服だ。紫色を基調とした長袖のセーラー服に、小さな蹄鉄があしらわれた大きな白いリボンが付いている。その下からはこれまた腰に大きな白いリボンが付いた紫色のプリーツスカートが現れた。裾に白いラインが2本入っている。それも取り出すと紫色のペチコートとショートスパッツ、白いラインが1本入った紫色のオーバーニーソックスが収まっていた。前々世で見かけたようなペラペラのコスプレ衣服とは異なり、実用品の制服としてしっかりとした厚さの布が使われている。
部屋着のワンピースを脱いでそれらを着ていく。一通り着たところで鏡を見ながらリボンの位置を調整し、ペチコートのフリルをしっかりスカートの裾から出す。ペチコートは下着ではないかと一瞬悩んだが、トレセン学園の広報写真ではどれも出ていたからいいのだろう。
もう1つの箱を開けて出て来たのは、蹄鉄型金具付きのメリージェーンだ。少し悩んだが、まだ1度も履いていないし大丈夫だろうと部屋で履いてしまうことにした。
振り向いて姿見を見る。輝く銀髪に揺らめく炎のような瞳、慎ましい胸元は制服のリボンがカバーしている。調子に乗ってくるりと一回転などしてみたりする。髪としっぽが揺れ、スカートの裾がふわりと広がり、ペチコートのフリルが揺れた。
……やっぱり、かわいいな?
本日2度目の自画自賛だ。中身が私であることが残念でならない。
「お姉ちゃーん! まだぁ?」
「今行くよー」
「やった!」
待ちきれないといった声色で妹が呼んでくる。待たせてしまったなと反省しながら自室の扉を開けると、1秒でも早く見たいと言わんばかりの食いつき方で妹が待ち構えていた。私の姿を目に入れた瞬間、大きく目を見開いて口をぽかんと開けている。自分ではなかなかだと思っていたのだけれど、そうでもなかっただろうか。自画自賛が過ぎたか。不安になり始めたとき、妹が目を輝かせて破顔した。
「かぅわいい! きれい!」
ご近所一帯に響き渡る大声だった。今日は耳としっぽがよく伸びる日だ。
「女神だ! 女神がいる! お母さぁん! お父さぁん!」
「あの、ちょっと、静かに……」
我ながらかわいいとは思ったが、女神は言い過ぎだ。恥ずかしくて顔に熱が集まっていく。妹はそんな私の様子を一切気にせずに、リビングへ引っ張っていく。
「女神さまの、
「
本気で抵抗していないとはいえ、ウマ娘をこうも簡単に引っ張れるものかと驚くほどの力で両親の前に引っ張り出される。力任せに見えて関節を痛めないような引っ張り方をしているあたり、トレーナーの才能がある子だと思う。両親もしばらく無言で表情を変えなかったが、お披露目の前まで同じテンションだった妹の前例を考えると嫌な予感がする。
「お父さん」
「あぁ」
お父さんがどこからともなくレフ板を、お母さんが赤いリングの巻いてある冗談みたいに大きなレンズが付いたカメラを取り出した。
「女神よ、女神がいるわ!」
「うちの子が世界一かわいい……!」
両親のテンションも振り切れて完全に壊れていた。乗りが完全に妹と同じだ。そんなところで血縁を感じさせないでほしい。
そもそもだ。両親は川崎のトレーナーである。トレーナーとはなんだ。ウマ娘のトレーニングを担当する職業だ。ということは。
「川崎にだってウマ娘はたくさんいるでしょ!?」
「娘は特別なものよ!」
「自分の子が宇宙一に決まっているだろう!」
「インフレしてる……!」
これは満足するまで止まりそうもないと悟った。きっと今日は昼ごはんも晩ごはんも外食になるだろう。部屋の中では光量が足りないと言い出したお母さんと、せっかくだからご近所様にも見てもらおうと言い出したお父さん、2人の提案に首がもげそうな勢いで頷く妹が私を外へ連れ出す。
そこからはもうてんやわんやの大騒ぎだ。恥ずかしくなるほどの勢いで私を褒め称えながら、いったいいつどこで学んだのかと言いたくなるほどテキパキと私にポーズの指示を出してシャッターを切るお母さん。一切指示が来ていないのに以心伝心でレフ板を捌くお父さん。なんだなんだと様子を見に来たご近所様に
結局、夏服も見たい撮りたいと言い出した家族に応えるうちに私も調子に乗り、家族全員お昼は抜きになってしまった。
2022/09/10 16:00
一部表記をシンデレラグレイの板書に合わせて変更(カワサキ→川崎)