秋の盾をあなたに   作:江芹ケイ

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ライブシアターで確認したところ、トモエの身長が150cm程度しかなかったため、第9話、第20話、第21話の描写を修正いたしました。
詳細については各話後書きに記載しています。
このままお読みいただいて問題ありません。

日曜日の内に間に合わず、申し訳ございませんでした。


第29話:泳げないウマ娘は珍しい

 無数の三角錐が集まって出来た、立体トラス構造の屋根が見える。おそらく青いのだろう壁が私の両脇に聳え立ち、その上で眠たげな眼をした調教師の男や、もし騎手になれなければ絵描きかアイドルにでもなっていただろう鞍上が、心配そうに私の泳ぐ様子を見守っていた。

 

 パノラマ写真のように横方向に広く、しかし赤系の色が判別できない視野は前世で慣れ親しんだものであり、これが夢であることを物語っている。

 

「相変わらず、ここまで泳ぎが下手な馬は見たことないな」

「泳いでいると言うか、溺れてると言うか」

「普通の馬は特に習わなくても泳げるんだが」

「ドリーはちょっと普通じゃないですからね……」

 

 脚が付かない深さの温水プールで必死に4本の脚を動かし、適度にひんやりとした流水を掻き分ける。しかし水の流れは容赦なく私を押し戻し、私の進むペースは差し引きなめくじのような速さだった。

 

 肺に空気を溜め続けていなければ沈んでしまいそうだ。なるべく息を止めて、時折深く大きな呼吸を素早く済ませて、どうにか肺を膨らませている時間を確保し、浮力を維持する。

 

 私の記憶が正しければ、この夢の数か月前の調教中に左前脚に痛みが出て検査をしたところ、種子骨の頂部が折れていることが判明したはずだ。おそらくだが、この夢は手術でその骨片を取り除いた後、ようやく中断していたトレーニングを再開した日の記憶だろう。

 

 私が藁を掴めない馬の身で奮闘する様をしばらく見つめていた鞍上が、私を見たまま調教師に声を掛ける。

 

「先生、ドリーをいきなり弥生賞に出すって、本気ですか?」

「開業したばかりのウチに来るとは思えんほどの素質馬だからな。トライアルは未出走でも出せるんだから、条件戦に出す方がもったいないだろう?」

 

 わざとらしく肩を竦めてそう言った調教師が、鞍上の方を向いた。

 

「それに、ギンシャリボーイが叩きで出るって言うじゃないか。お前だって、あの朝日杯は見ていただろう」

「えぇ、当日平場で出ていましたから」

「持ったまま、最終直線の最後方から3馬身差だ。2歳とは言えども、マイルGIをな」

 

 お手上げだと言わんばかりに調教師が両手を上げて、そのまま腕を組んだ。

 

「化け物と一緒に走らせたいなんて思うやつは、そうはいない。今年はフルゲートにならないだろう。そうなれば、ドリーが滑り込む余地は十分にある」

 

 調教師が私に向き直る。先ほどからほとんど進んでいない私を見て、眉間に小さく皺を寄せた。

 

「まあ、正直なところ、あれに勝てるかはやってみないとわからないが、ドリーなら勝負に持ち込める。未出走馬なんて誰もマークしないから、奇襲が上手く行けば1着だって取れるし、最悪でも2着は固い。そうすれば収得賞金が入るから皐月賞に優先出走できるし、皐月賞で入着すればダービーにも出せる。ほら、出さない理由がないだろう?」

「先生が言うならそうでしょうけど……」

 

 自信なさげに鞍上が俯く。デビュー2年目にして見習を脱した(通算100勝超えの)、疑いようもない天才だ。しかし、このころはまだ大舞台で緊張してしまうのか、重賞で勝利した経験はなかったはずだ。

 

「ドリーとならGIにだって勝てる、つったのはお前だぜ? 俺もそう信じているんだから、言い出しっぺのお前は腹括って乗ればいいんだよ。屋根が弱気じゃ、勝てるものも勝てないぜ?」

 

 調教師がバシバシと鞍上の背を叩く。眠たげな目つきに反して、意外と体育会系の男だった。どうやら闘魂を注入されたらしい鞍上の表情が晴れていく。

 

「それもそうですね。僕が信じないで、誰が信じるんだ……!」

「馬主だろうなぁ」

「そこで梯子外さないでくださいよ……」

 

 男2人が声をあげて笑う。それを私は、2mほど進んだ位置で聞いていた。

 

 私が裏切ってしまった人たちの、楽しそうな笑顔。もしここで泳ぐのを止めたら、一瞬悲しませてしまうかもしれない。それでも、鞍上がおおよそ3年後の天皇賞で私から落ちて、脊髄を損傷することも無くなるだろう。

 

 ……きっと、みんな幸せになれる。

 

 理性は「夢なのだからそんなことはあり得ない」と言っている。それでもその誘惑に耐え切れなくて、衝動的に脚を止めて息を吐き出した。音もなく、冷たく暗い水底に沈んでいく。そのうち、前後左右どころか天地も分からなくなっていき、五感も消え去っていく。これまでに2度――夢も含めたら数えきれないほど経験したそれに、生存本能が悲鳴を上げた。悔恨の情が赴くままに自死を選択しておきながら、今更自らが消えていくことに怯え、まだ生きていたいと左手(・・)を伸ばす。

 

 誰かの暖かな両手が左手を包み込んだ。世界が急速に明るさを取り戻していき、柑橘系の――今日は甘いオレンジの匂いがする。

 

「ノヴァさん、大丈夫ですか?」

 

 鈴の音よりも済んだ美しい声が、私の目を覚ました。ベッドサイドのランプが、翠色の大きな瞳と前髪の流星、整った顔を照らしている。知らぬ間に荒くなっていたらしい呼吸が、少しずつ、ゆっくりと落ち着いて行く。

 

「……大丈夫です。ちょっと、溺れる夢を見ちゃって……」

 

 以前も似たようなことがあったな、と思いながら誤魔化した。人を騙すことばかり上手くなっていく私は、碌な死に方をしないだろう。

 

「そうですか……」

 

 私のベッドに腰かけたラフィさんが、じっと私の目を見つめて来る。目を逸らして何かあると気取られないように、私も見つめ返した。数拍ほどの間を置いて、ラフィさんが口を開いた。

 

「ノヴァさん、少しこちらに来てもらえますか?」

「……はい。わかりました」

 

 意図がわからず首を傾げながら、体を起こし両手をついて、ラフィさんの前へと動く。

 

「これでいいですか?」

「はい」

 

 ラフィさんがそう言うや否や、暖かく柔らかな感触が私を包む。私はラフィさんの首筋に頭を埋めた形になっているようだ。発散しやすい香水の匂いや高級そうなシャンプーの匂いに混じって、女の子特有(ラクトン)の良い匂いがする。それなのに心の中の牡馬ソウルが馬っ気を出さないあたり、自覚はなかったが精神に来ていたらしい。

 

「大丈夫です。もう怖くないですよ。大丈夫、大丈夫」

 

 ラフィさんの手が、私の後頭部を撫でる。しばらくの間、私はラフィさんの厚意に甘えるようにもたれかかっていた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 朝に甘えさせてもらったことを除けば、朝4時の自主練習を含めていつも通りに過ごした平日の午後、私は目の前の光景に気力を削がれていた。

 

 6レーンの50mプール――飛び込み台付きの、とても深い温水プール。それがトレセン学園のプールだ。脚が付かない深さと言う点では今朝に夢見た前世通りであり、流れがない分難易度的には簡単になっている。それでも、溺れる夢を見た当日に泳ぎたいと思う人はいないだろう。

 

 もう何度目かになろうと言う水泳の授業だが、毎回憂鬱な気分にさせられる。大きな窓から見える空も、梅雨らしくどんよりとした色をしていた。競走馬だった頃はギリギリ沈まない程度には泳げたのだが、ウマ娘になった今となっては完全な金槌なのだ。

 

 私たちの1つ前の子たちが、教官の合図でプールに入り泳ぎ始める。

 

 ……次は、私の番だ。

 

 前の子が波立たせた水面を見つめたまま、胸に抱えたビート板を抱きしめた。

 

 しばらくすると、横を通って私の前に来たランさんが、私の顔を覗き込んでくる。私よりも少し高いランさんの体は、なかなかのボリュームがあるとても女の子らしい曲線を描いていた。

 

 お互いにきっちり水泳帽を被って、学園指定のスクール水着を着ている。描き分けが必要なアプリやアニメならともかく、実際に授業として泳ぐのであれば、水泳帽を被らないと言うのはあり得ない。泳ぐうえで髪が大きな抵抗源になるし、塩素に晒されると髪が痛んでしまうからだ。

 

 じっと私の顔を見ていたランさんが、口を開く。

 

「ノヴァちゃん、顔色悪いよ?」

「いや、今朝溺れる夢を見たので……」

「それは、縁起悪いね……」

 

 自身のことに置き換えたのか、ランさんが嫌そうな顔をしながらそう答えた。

 

「まあ、夢は夢ですし、泳ぎはしますが……」

「無理しちゃダメだよ」

「無理なんかしませんよ」

「本当かなー」

 

 ランさんが訝しむような半目で私を見る。明らかに私の言葉を信じていない目だった。

 

「な、何ですか?」

「いや、だって、ローズ先輩とトモエ先輩の応援行った時、体調悪そうなのに『大丈夫』って言い張ってたでしょ? ノヴァちゃんは絶対無理しちゃうタイプだと思うんだよね」

「いやいや、私ほど諦めの早いウマ娘はいませんよ」

「えぇ……?」

 

 3歳の秋から1年間、ギンシャリボーイに勝つことを諦めていたのだ。抜かれそうだと、そう思った瞬間に足を緩めて。最後まで諦めなければ、勝てたかもしれないのに。調教だって、雨が降った日は露骨にやる気を出さなくて。あの1年間を真面目に過ごしていれば、もしかしたら。

 

「次!」

「あっ、はい!」

「本当に無理しちゃダメだからね」

 

 教官の声に応え、梯子を下りてプールに入る。すぐ後ろに並んでいたランさんも一緒だ。

 

 胸に抱き込んだビート板だけが、私の命を保証してくれる。普段は意識しないものの、他人に言われると少し頭に来る程度には気にしている、発育のハの字くらいしかないような大平原じみた薄い胸――サイレンススズカと同じく、決して無と言うわけではないそれが、今だけは頼もしい。ビート板との間に余計な隙間が空かない分、沈んでいる体がより水面に近づくからだ。

 

 どうにか自分の泳ぐレーンまでたどり着き、右腕でビート板を抱いたまま、水面下にある掘り込みの足場とプールの縁を使って体を固定する。

 

 ブザーの音と同時に左手を縁から放し、両腕でしっかりとビート板を抱きしめて水を蹴る。格好良くドルフィンキック、なんて私には出来やしない。背泳ぎではどのようにキックしたらよいのか。プール授業が始まる前にランさんに教えて貰っていても、実際に泳いでいる今は油の切れたブリキのおもちゃのようなギクシャクとした動きだ。

 

 上手く進んでいるのか、それともほとんど動いていないのか、それすらよくわからないまま必死に脚を動かし続ける。時折顔に掛かる水が不快で、思わず目を瞑ってしまう。そのまま泳ぎ続けてしばらくした時。

 

「止まって、ノヴァちゃん!」

 

 ランさんの声を聞いて、脚を止める。ランさんの手が私の頭頂部に添えられ、慣性に従って進んでいたらしい私の体が壁に当たる前に止まった。

 

「ありがとうございます、ランさん」

「良いの良いの。何事もなくて、良かったぁ」

 

 トレセン学園のプールは、この深いプールしかない。ならば泳ぎの下手なウマ娘は、一体どうするのか。答えは簡単で、泳ぎの上手い子とペアになるのだ。私の場合は、それがランさんだったわけである。

 

 ……頼むから、素直に浅いプールを作ってほしい。

 

 私としては切にそう願うのだが、何でも『ビート板が無ければ浮くことすらできないウマ娘』と言うのは、例年中等部高等部合わせて1人いるかどうか、と言うレベルで珍しいらしく、そのためだけに作ると言うのはなかなか難しいそうだ。前世でも、全く泳げない競走馬はいないと聞いたことがあるので、ウマ娘もそうなのだろう。そのあたりは、前々世を持ってしまっていることが悪さをしているのかもしれない。泳ぎに関する記憶は無いが、間違いなく金槌だったのだろう。

 

「じゃあ、頑張って帰ろうか、ノヴァちゃん」

「また、50mですか……。わかりました」

 

 左腕だけをビート板から放し、どうにかこうにか方向転換を済ませると、私は泳いできたレーンを逆方向へ向けてもがき始めた。




薄々お気づきかとは思われますが、本作は独自設定がかなり多いです。

なお、天皇賞(春)は夕飯代が消し飛ぶ程度で済みました。
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