秋の盾をあなたに   作:江芹ケイ

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お待たせいたしました。


第36話:小向で鍛えた最後の日

 光陰矢の如しとはよく言ったもので、2週間はあっという間に過ぎ去っていく。

 

 ストライドを伸ばすためにマーカーを使ったり。

 美月と一緒にイカになってインクの撃ちあいをしたり。

 ピッチを上げるためにミニフレキハードルを使ったり。

 美月と一緒に駅前のショッピングセンターにある水族館に行ったり。

 交流競走ではない地方の重賞のライブ曲練習に混ざったり。

 美月やバーフニュカさんたちと一緒にカラオケに行ったり。

 中央とは構造の異なる宮道式ゲートでゲート練習をしたり。

 美月の夏休みの宿題をバーフニュカさんたちと一緒に見たり。

 

 パッと思い出した分だけでも半分くらいは美月と一緒に遊んでいるが、そもそも美月に寂しい思いをさせないために来たのでこれで良いのだ。

 

 そんなこんなでお父さんお母さんが指導するチームの練習に参加して14日目、最終日を迎えた私は――。

 

「あれ? ノヴァちゃん、元気ないね?」

「お姉ちゃんの応援してる先輩が負けちゃったの」

「なるほどね」

 

 ――ちょっと凹んでいた。

 

 8月最初の開催で行われたラフィさんの昇級戦は、内枠から好位につけて4角から攻めるも4着。とは言えども、2着と3着、3着とラフィさんの着差はクビ差で、1着の子が抜けて強かったというべきだ。掲示板には入っているのだから、いずれ勝ち上がるだろう。

 

 だがしかし、いずれだ。目標としている菊花賞へラフィさんが出走するためには、ここは勝っておきたいところだったのだ。ここを勝って、8月中に2勝クラスも勝って3勝クラスに上がり、菊花賞のトライアルレースであるセントライト記念か神戸新聞杯で3着以内を確保する。ラフィさんにとっては、それが最も確実に菊花賞へ臨むことができるローテーションだった。

 

 もちろん、まだ可能性が潰えたわけではない。トライアルならフルゲートを超えないこともあるから、1勝クラスのままでも抽選無しで出走できることもあるし、トライアルまでにもう1勝できれば2勝クラスだから、抽選になっても望みはある。しかし、3勝クラスまで上がってしまう方が遥かに確実だ。

 

 当然、ラフィさんだってそれはわかっている。金曜の午後、レース場へ出発する前のラフィさんに電話した時の気合の入り方は、電話越しでも良くわかるほどのものだった。

 

 レースが終わり、間違いなく失意に沈んでいるラフィさんをどう元気づけようか。以前ラフィさんが未勝利戦で負けたときは、美月が私にしてくれることを思い出して、その勢いのままハグをして結果オーライだったのだ。しかし今回は、言葉だけで合宿先に戻っただろうラフィさんを励ます必要がある。どう言ったものか考えて、スマートフォンの画面の上で指が彷徨ううちに深夜になってしまい、結局は『お疲れさまでした』と、とてもではないが応援にならないようなメッセージを送っただけだった。

 

 ……どうやら私は、励ますことも満足にできない無能だったみたい。あっ、そもそも競走でも繁殖でも無能だったか。無能三冠だよ。前世じゃクラシックでも春と秋の古馬でも全戦あとちょっとで差し切られた準三冠馬だよ。無様だね。

 

「うわっ、俯いたまま笑い始めた」

「怖い怖い怖い」

「お姉ちゃん、たまーにこうなっちゃうの。こういう時はね」

 

 集合時間になるまでのつもりで練習バ場のベンチに腰掛けて、メッセージアプリの既読が付いただけのルーム画面を見つめていた。すると、腕を押し退けて美月が横向きに膝へ乗ってくる。3歳差とは言えど、膝に乗られると私が小さい分美月の方が目線が高い。

 

「どしたの、美月」

 

 美月は私の問いかけに直ぐには答えず、体を捻って私を抱きしめる。真夏とは言えどもまだ比較的涼しい朝だからか、私より少しだけ平熱が高い美月の体温を感じる。

 

「美月?」

「ぎゅーってして、私の元気分けてるの」

「……そっか。また心配させちゃってごめんね」

 

 スマートフォンをベンチに置き、美月を抱きしめる。

 

「ぎゅー。美月のおかげで、もうすっかり元気だよ。ありがとう」

「もっともっと元気上げる。ぎゅー」

「もう、美月がぎゅーってしたいだけでしょ? ぎゅー」

 

 ……美月は宇宙一かわいいなぁ!

 

 私はお父さんとお母さんから集合の掛け声があるまで、美月を甘やかし倒すことにした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 お昼まで残り30分、午前中最後――私の川崎での練習の締めくくりに、バーフニュカさんの併走相手を務めることになった。

 

「ノヴァちゃん、よろしくー」

「よろしくお願いします、バーフニュカさん」

 

 併走前の挨拶を交わしてから、直線の外ラチに2つ設けられた入出場口のうち中央にある北側から、タイミングを見計らってコースに入る。そしてそのまま、1ハロン(200m)20秒のペースで右回りに走り出す。

 

 本格化を迎える前と後のウマ娘を併走させることなど、普通はない。アプリ風にいうのであれば、根性と賢さはともかく、スピード、スタミナ、そしてパワーに大きな差があり、お互いのためにならないのだ。

 

 では何故バーフニュカさんと併走することになったのか。

 

 答えは簡単で、バーフニュカさんがそう提案したからだ。朝のミーティングで私だけが単走の予定となっているのを目敏く見つけ、「私が2本走るから」と両親に申し出たのである。もちろん、バーフニュカさんに余計な負担が掛かるので断ろうとした。したのだが、「JDC(ジャパンダートクラシック)まではまだ時間があるから」、「坂路2、3本上るのとそこまで変わらないから」、「今日だけ、今日だけだから」と、バーフニュカさんに押し切られてしまったのである。

 

 お父さんもお母さんも「他で負荷は調整するから」と許可した以上、大丈夫なのだろうとわかってはいる。しかし、本来は予定に無かったメニューの追加だ。少しばかり心配である。

 

 ちらりと後ろを見ると、0.5秒後方にバーフニュカさんが着いて来ている。先に他のウマ娘と1本併走した後であるにもかかわらず、息の上がった様子もフォームの乱れもない。

 

 ……馬とウマ娘じゃ色々と違うし、余計な心配かな。

 

 杞憂だったかと少し安心したところで前を向いて走る。そしてぐるりと半周を回り、中山の外回りに近いおにぎり型コース、その向こう正面にある半マイル標識――右回りでのゴールを目印として、15-15(1ハロン15秒)まで加速した。今日どの程度のペースで走るのかは、お母さんから予め指示されている。

 

 左手側を並行するように流れる多摩川の方から湿気た風が吹き、舞い上がった砂塵が私の顔に付着した。不愉快なそれを袖で拭う。

 

 後ろを走るバーフニュカさんの気配が、まるで私を抜くタイミングを探るように左右に動いている。併走の前半で抜くとも思えないので、これはプレッシャーの掛け方の練習だろう。本気で抜こうとしているのではなく、先行する逃げウマ娘を刺激し、ペースを上げさせてスタミナを消費させるための動きだ。そうわかっていても、逃げ()の本能的に反応しかけてしまうが、それを理性で抑える。

 

「へぇ」

 

 時速にして凡そ50km、聴力が良い分風による雑音で聞こえにくいはずの、バーフニュカさんの感心したような声が聞こえた気がした。

 

 緩やかなカーブで構成され、向こう正面と一続きになった第1コーナー、その終わりにある最初のハロン棒を通過し、半径わずか70mの第2コーナーを抜ける。ホームストレッチ――ゴールが反対側にある右回りの週にそう呼んでいいのかわからないが、練習(調教)スタンドと呼ぶにはあまりにも簡素な小屋側の直線は350mある。しかし、バーフニュカさんは私をつつくばかりでまだ来ない。

 

 直線のほぼ終端にある残り3(ハロン)の標識を横目に、1F14秒まで加速する。音だけでの判断になるが、バーフニュカさんは既に1バ身差(後方0.2秒)まで迫っているだろう。

 

 半径80mの第3コーナーを抜けたら、残り2Fだ。ここからゴールまでの目標速度は、1F12秒である。現役競走馬や本格化を迎えたウマ娘としてはごく当たり前に出せる速度、しかし本格化を未だ迎えていない今の私では限界を超える必要のある速度に挑む。

 

 ……最終直線相当だけど、直線じゃない。東京の芝じゃない。レース本番じゃない。だから、大丈夫。大丈夫。大丈夫……。

 

 前は限界を超えようとして、脚が折れた。脚を庇って姿勢の崩れた私から鞍上が落ちて、下半身不随になった。でも、今はそうならない。万が一何かあっても、それで直接被害を受けるのは私だけだ。だから、必要なものは覚悟だけ。

 

 それに、この練習コースの向こう正面は半径350mと250mの複合カーブで構成されていて、直線区間がない。私自身を騙すにはちょうど良い、はずだ。

 

 ……いつまで経っても、怯えていたらダメだから……!

 

 300mの最終直線に入ろうかというところで、加速するために強く踏み込む。その瞬間に私の視界を大量の砂粒が覆った。

 

「ゔぶぇっ」

 

 そのまま口の中や目に飛び込んできた砂粒に怯み、失速する。

 

 ……キックバックか!

 

 コースを走る他のウマ娘たちが跳ね上げた砂だ。何が起きたのか理解し、袖で顔を拭い再加速したときには、もうバーフニュカさんは外を回って遥か前方にいた。差を縮めることができないまま、ゴールポストとして設定したハロン棒の横を駆け抜ける。

 

 ……最後流されても目算で8バ身差くらい、か。

 

 現在の地力の差を痛感する差だ。ため息をつき、脚を緩めながら再びコーナーを回る。前方を走っていたバーフニュカさんが減速し、私に並んだ。

 

「キックバック苦手?」

「そうですね。雨も降っていると嫌です」

「あぁ、やっぱり?」

 

 納得したようにバーフニュカさんが声を上げた。高い位置から真夏の日差しが降り注ぐ中、直線南側の入出場口から練習コースを出る。不完全燃焼な気持ちと汗で髪と砂粒が張り付いた不快感とで、あまり気分は良くない。

 

「にしても、今日で最後かぁ。ノヴァちゃん、川崎(うち)の子にならない?」

「そう言って頂けるのはうれしいですけど……」

「まぁ、ノヴァちゃんは芝向きだよね」

 

 ……ダート適性G、と言ったところかなぁ。

 

 両手を振っている美月に手を振り返しながら、そんなことを考える。自身の適性を再確認する併走だった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 小向練習場のシャワーを借りて汗と汚れを流し落とし、バーフニュカさんたちと別れの挨拶を交わして家に帰る。そして家族でだいぶ早い夕食を取り、また月末に帰ってくる約束をして寮へ戻った。それから寮室の鍵を開けようとして、それが既に解錠されていることに気が付く。部屋の中で、誰かが驚いたような物音がした。

 

 様子を窺うように扉を開くと、ラフィさんがタイキシャトルのビッグパカプチを抱えてベッドに腰掛けている。翠色の瞳は潤んでいて、目元は少しだけ赤く腫れていた。

 

「おかえりなさい、ノヴァさん」

 

 にっこりと微笑んでそう挨拶するラフィさんは、無理に感情を押し殺したような様子だ。おそらく、私が予想よりも早く帰ってきたのだろう。背に隠そうとしたと思わしき、少し濡れたタオルが隠し切れていない。

 

「……はい。ただいまです、ラフィさん」

 

 自分のベッドにリュックを下ろし、腰掛ける。考えなしの行動だ。どこかへ出かけて感情を吐き出させてあげるべきか、何か声をかけて励ますべきか。悩んでいる間にうっかり座ってしまった。

 

 ラフィさんがパカプチを横に置き、緊張感のある沈黙が部屋に満ちる。ピンと虚勢を張っていたのだろうラフィさんの耳が、へにょんと萎れ始める。

 

「……すみません」

 

 最初に口を開いたのは、ラフィさんだった。

 

「えっと、何がですか?」

「昨日も今日も、気を使わせてしまいましたよね」

 

 ラフィさんがぎゅうと両手を握りしめる。

 

「いえ、その、私の方こそ、あまり気の利いたこと言えなくて、すみません」

「いえいえ、とても気を使ってくれていましたよね? ありがとうございます」

「えっと、あの、……はい」

 

 ……はい、じゃないでしょ。

 

 それだけは、わかっている。だがしかし、何を言うべきか。私の()生経験ではわからなかった。前々世のヒトだった頃の記憶は破損が著しく、馬やウマ娘に関連していないことは自分の性別すら思い出せない。ある程度はっきりと思い出せる前世の27年間は辞書通りの意味合いで畜生だから、言葉を使う機会は皆無だ。言葉で人を励ます方法は、今世13年分だけの経験しかあてにならない。

 

 視線を自分の両膝へ落とし、どうするべきか思案する。沈黙で満たされた部屋の中には、廊下ではしゃいでいる生徒たちの声が入り込んでいた。

 

 そうして10秒か20秒か、30秒は超えていないだろう時間を費やして、1つの結論を導き出す。

 

 ……ハグをしよう。

 

 莫迦の一つ覚えだった。しかし、今朝のように塞ぎ込んでいる時の私、3か月少し前に未勝利戦で負けた時のラフィさん、ダービーを一緒に見に行った時のラフィさんと、少なくとも効果がある事はわかっている。

 

 意を決して面を上げ、口を開く。

 

「ラフィさん――」

「ノヴァさん――」

 

 ……被った。

 

「――えっと、ラフィさん、お先にどうぞ」

「――いえいえ、ノヴァさんこそお先にどうぞ」

「あっ、はい」

 

 ラフィさんの前へ歩みを進める。立っている私とベッドに腰掛けているラフィさん、いくら身長差があるとは言えども、今はラフィさんが私を見上げる形だ。私と少しだけ首を傾げたラフィさんとで見つめ合う。

 

「ちょ――」

 

 思いのほか大きな声が出たうえ、盛大に上ずった。ラフィさんの翠色の眼が丸く見開かれる。

 

 どうやら緊張しているらしい。そう自覚した途端に顔へ熱が上り、全身から汗が噴き出す。しかし黙っているわけにもいかず、私は手汗でしっとりとした両手を握り込んで言い直す。

 

「――ちょっと、立って貰って、いいですか」

 

 きょとんとしていたラフィさんは私の様子が可笑しかったのか、くすりと笑う。

 

「はい。いいですよ」

 

 そう答えて立ち上がったラフィさんは――そのまま、私を抱きしめた。

 

「な゛っ?」

 

 予想していなかった展開に変な声が出て、全力疾走直後のように心臓が早鐘を打つ。

 

 ふわふわと柔らかくて、陽だまりのように暖かい。前回までと違い屈んでもらうなどしなかった分、ラフィさんの首筋に鼻を埋める形になっているせいか、ほのかな柑橘系の香りと甘い匂いが鼻腔を満たしていく。

 

「あら? もしかして、違いましたか?」

「い、いえ。違わない、ですけど、なんで……」

「前もこうして貰いましたよね。あの時はちょっと驚いちゃいましたから、お返しです」

「そう、ですか」

 

 衝撃とそれに伴う混乱こそ抜けないものの、私は当初の予定通りに振る舞おうとラフィさんを抱きしめ返す。とは言えども、ラフィさんに上から抱きしめられているので、腰に腕を回すので精一杯だ。

 

「どう、ですか」

「暖かいです。とても」

 

 そう言ったきり、ラフィさんは再び黙り込んだ。ときどきラフィさんが私の髪に手櫛を入れたり、お互いより収まりが良くなるよう抱き締め直したり、そんなことをして10分ほどが経過しただろうか。ラフィさんが1度、大きく深呼吸をする。

 

「ありがとうございました」

 

 その一言と共にラフィさんが腕を解いた。惜しむ気持ちはあるが、それに合わせて私もラフィさんを放す。

 

「まだ芽があるのに、落ち込んでばかりではダメですよね」

 

 ゆるゆると首を横に振り、ラフィさんはそう独り言ちる。

 

「明日からまた――っと、明日はトレーナーさんから休むよう言われていました。明日もう1日お休みして、また頑張ります」

「新幹線のチケット、予約しておきます」

「ノヴァさんの期待に応えないとですね」

 

 吹っ切れたのか、ラフィさんはにっこりと笑っている。

 

 ……元気になってくれて良かった。

 

 ラフィさんの笑顔を見て安堵した私は、ふと先ほど2人の声が被ったことを思い出す。

 

「そう言えば、さっきラフィさんは何を言おうと思っていたんですか?」

「あのまま黙っているのはどうかと思って、お風呂に誘うつもりだったんです。少しは気分も晴れますから」

「なら、今から行きませんか?」

「そうですね。一緒に入るのも久しぶりです」

 

 2週間ぶりに寮に戻って来たのだから、ラフィさんと一緒のお風呂も当然2週間ぶりである。1学期の間ずっと一緒に過ごしてきて少しは慣れてきていたはずなのに、脳裏にラフィさんの艶やかな姿が過った。

 

 ……これは、またダメになってるかも。

 

 少々浮足立った心地のまま準備を進め、私はラフィさんと一緒に浴場へと向かった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 この時はまだ、あんなことになるだなんて思ってもいなかった。




小向トレセンの練習馬場が実際にどう使われているのか調べるのに時間を要しました。
何か違いがありましたら是非ともご指摘ください。



2023/3/5 23:50
ノヴァが寮へ戻ってきて以降の展開を修正いたしました
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