翌朝――8月最初の月曜日、いつも通り保険としてセットしたアラームが鳴る前に目が覚めた私は、しかしいつも通りではない光景を見ることになった。
普段なら目覚ましが鳴るか私が起こすまで無防備に眠っているラフィさんが、すでに起きていたのだ。まだ目覚めたばかりなのか、右手に体重を半ば預けて横座りになったラフィさんの腰から下を、夏用のダウンケットが覆っている。
……やはりラフィさんは女神様。ただ座っているだけでも華があるなぁ。
などと2週間ぶりにラフィさんの美しさを礼賛しようとして、些細な違和感を覚える。その正体を探ろうとよくよくラフィさんの様子を見て、私はようやく気が付いた。日の出前かつ照明も点けていないために見えにくいが、首を傾げたラフィさんのウマ耳が何かに耐えるように後方へ絞られているのだ。
「ラフィさん、どうかしたんですか?」
むくりと起き上がった私は、挨拶をするよりも前にラフィさんに体調を尋ねた。するとラフィさんは、みぞおちの辺りを押さえて答える。
「……少し、胃が良くないみたいで。自分で思っていたよりもストレスだったみたいです」
ラフィさんはそう言って、自嘲するように笑う。しかし私にとっては笑い事ではなく、頭から血の気が一気に引いていった。
ベッドを飛び出て、ラフィさんに詰め寄る。
「いつからですか!?」
「えっと、ですね……」
ラフィさんの眼が泳いだ。
「正直に答えてください」
「昨晩から、です……」
昨晩。昨晩と言ったか。しかし昨晩の時点では耳を引き絞るようなことはしていなかった。痛みが増しているということだ。
「どうして何ともない振りしたんですか!?」
「すぐ治ると思っていましたし、またノヴァさんを心配させるのも悪いので……」
以前の『しゃっくりで救急車要請未遂騒動』が、悪い方向に働いている。
「どうしますか? 保健室行きますか? いえ、病院行きましょうか。寮長に電話して、救急車呼んでもらいますね?」
「大丈夫、大丈夫ですから。スマホを放してください。ね?」
ラフィさんは苦笑し、広げた両手でまあまあと抑えるような身振りを交えて私を落ち着かせようとする。
「ちゃんとお薬を飲んで休めば治ると思いますから。朝練も今日はお休みします。どうですか?」
私としては、今すぐにでも病院に行って欲しい状況だ。しかし、ラフィさんの意思を尊重したいという気持ちもあり、板挟みにむむむと唸る。
「これ以上悪くなるようなら、保健室に行きますから」
「……わかりました」
渋々とラフィさんの主張を受け入れる。心配の種は残ったままであるが、以前のように迷惑をかけるわけにもいかない。
「でも、ラフィさんがちゃんと眠れるまで、私も朝練を休んで見守らせてもらいます。良いですよね?」
「良いですよ。もう、本当にノヴァさんは心配性ですね」
そう言って、ラフィさんは笑う。
いつも私の心を蕩かせるその笑み。しかし今だけは、一抹の不安を取り除いてくれなかった。
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結局のところ、ラフィさんは一睡も出来なかった。少なくとも、私はそう判断した。
ラフィさんが穏やかな寝息を立てることなく、布団の中で
朝ご飯だって、今日のラフィさんは好物であるクロワッサンをたったの半分しか食べなかった。普段なら、クロワッサンを1ダースと日替わりメニューを食べているのだ。いくらラフィさんが「大丈夫です」と主張しても、心配が増していくばかりである。
……やっぱり、朝ご飯の後でせめて保健室には無理やりにでも連れて行った方が良かったかなぁ。
「――ゃん。ノヴァちゃん?」
「えっ? あっ、はい。何ですか?」
ランさんの呼びかけで我に返り、出口もなく渦を巻いていた思考から抜け出す。辺りを見渡すと、勉強会の面々が心配そうに私の様子をうかがっていた。
……そうだった。今日は勉強会の皆で、夏休みの宿題を一緒に片付ける約束だった。
大量の蔵書を保管している図書室特有の、古書の匂いがする。夏休み期間中でも開放されており空調も効いているので、自由研究も含めた勉強をするには最適だ。そう考えて、今日の勉強会の場所をここに決めたのは、2週間と少し前――実家に一時戻る前の私だった。
「ため息ついて手止まってたから、どうしたのかなって」
「……ラフィさんの体調が良くなくて、どうにも心配で」
しかし、彼女たちには関係のないことだ。私は今この場では教える側なのだから、散漫とした態度を見せることはよろしくない。そう思い直し、気持ちを切り替えるように頭を横に振る。
「すみません。集中しないとダメでしたね」
「前みたいに心配し過ぎとかじゃないよね?」
首を傾げたランさんが問う。例の騒動で、私には『心配症を通り過ぎた心配性』というイメージが付いている。不本意ではあるが、ランさんの疑問は当然出てくるものだ。
「朝練ができないくらい胃が痛いみたいで」
「んー、そこまでだと心配だね」
「はい……」
ランさんが眉をひそめる。
本音を言えば、勉強会を投げ出してでもラフィさんの看病をしたい。しかしこの勉強会は私が実家に2週間戻る前から決まっていたものだし、当のラフィさんが「約束を破ってまで看病していただく必要はありませんから」と固辞したのだ。
思わずまた1つ、ため息が出た。そんな私の様子を見かねたのか、エレジーさんが1つ提案をしてくる。
「ねぇ、ノヴァちゃん。お昼はご飯より先にぃ、先輩の様子見てきたらぁ? 落ち着いて食べられないでしょ?」
「そだよ、先生。先輩もきっと心寂しいよ」
アクアフォールさんがうんうんと首を縦に振る。明るい栗毛の三つ編みが揺れていた。
「そうだ! どうせなら、お粥持って行ってあげたら?」
「名案だね、メロン。カフェテリアまで歩いてお昼食べるのも大変だろうし」
「そうでしょ、レーちゃん」
スレーインさんに褒められたエフェメロンさんが、ふふんと平らかな胸を張る。
……気を使わせているなぁ。
申し訳ないと思うも、心配で集中できていないことは紛れもない事実だ。
「では、お言葉に甘えて。お昼は少し別行動させてもらいます」
「あっ、ノヴァちゃん。お粥持ってくなら私も手伝おうか? お盆持ったままドアとか開けるの大変でしょ?」
「……そうですね。お願いします、ランさん」
「任せて。あと、ラフィ先輩に伝えておいたら?」
「はい」
スマートフォンのメッセージアプリで、お粥を持って行く旨を書き残す。
……何はともあれ、今は集中しないと。
「ところでノヴァちゃん。この問題の答え、どうしてこうなるの?」
「どれですか? ……ああ、これはですね」
どうにか気持ちを切り替えて、どうやらタイミングを見計らっていたらしいアクアフォールさんの質問に答える。
心の奥底には、ちりちりとした焦燥感のような何かが残っている。お昼になっても、既読はついていなかった。
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お昼を迎えた私たちは1度カフェテリアへ向かい、職員の方に事情を話す。急なお願いにもかかわらず、職員の方はレトルトのお粥と少しの漬物を用意し、さらにそれらを運ぶための出前箱を貸してくれた。
ありがとうございますと頭を下げ、エレジーさんたちには先にお昼を食べてもらうようお願いして、ランさんと一緒に寮へ向かう。
朝は遠くに浮かんでいた入道雲が黒く変色し、学園に迫っている。すぐにでも一雨あるだろう。
「道具も貸してもらえましたし、ランさんは先に食べていて良かったんですよ?」
「ノヴァちゃん1人だと、何かあった時に大変でしょ?」
「それは――」
例の騒動では、実際に救急車が呼ばれることはなかった。
……頭が真っ白になって、救急車の番号すら出てこなかったから。
痛恨の極みである。それを考えると、ランさんが一緒にいると心強いことは事実だった。
「――そうかもしれませんけど……」
「でしょー?」
そのような調子でランさんの話に答えながら、校門を出て片側1車線の道路を横切る。するとすぐに寮の敷地だ。私とラフィさんの居室は北棟――学園側にある寮の正門を通ってすぐの棟である。
寮の玄関をくぐり、階段前に来たところでランさんがつぶやく。
「体力的には全然だけど、階段上ったり下りたりするの面倒だよね……。いっそ坂にしてくれた方が速そう」
「こんな勾配の坂じゃ、雨の日危ないですよ……」
「そこは、ほら。大きな駐車場みたいな坂作って」
「そこまでやったら階段の方が速くありませんか?」
「……そうかも」
ランさんは、他愛もない話を普段以上に矢継ぎ早に振ってきている。
……だいぶ、気を使わせているなぁ。
私が余計なことを考えないように、という配慮だろう。前世の件もあり、本当に頭が上がらない。
今度何かお礼をしないといけないな。話しながらそう決意した頃合いで、自室にたどり着いた。
寝汗を拭うために脱いでいるかもしれないので、念のためノックとともに声をかける。
「ただいまです、ラフィさん。お粥持ってきました」
「先輩、調子如何ですか?」
返ってこない。何も。
「……ラフィさん?」
もう一度、ノックをして呼びかける。
答えがない。
「落ち着いて、ノヴァちゃん。寝てるかもしれないから」
「……そう、そうですね。そうですよね」
声の震えを押さえつけながら、「入りますね」と一声かけて扉を開いて――。
「――えっ?」
倒れている。ラフィさんが。お腹を――お腹の右下を押さえて。
ガシャンと何かが落ちる音がして、止まっていた思考回路が再び回り出す。
「ラフィさん!?」
今まで出したことのないような、悲鳴に似た声と共にラフィさんに駆け寄る。強い痛みに耐えるような浅い呼吸と、時折漏れるうめき声。
「……ノヴァ、さん?」
掠れたような弱弱しい声だ。
「今起こします!」
「すみません……。冷蔵庫の水、取ろうとしたら、急に、目の前、真っ暗になって……」
抱えたラフィさんの体は尋常ではない高熱を出しており、全身から脂汗を掻いている。
知っている。私は、この状態に近いヒトを見たことがある。オーナーさんがすい臓がん闘病末期の終末期ケアで牧場に返ってきたあと、モルヒネが効かなくなってきたとき。それと、秋天で私が足を折った拍子に背中から落ちた鞍上が、脊椎骨折の痛みに耐えているとき。
命に係わりうる状態だと、直感が訴えかける。
「救急車! 救急車、呼ばなきゃ……!」
「ノヴァちゃん! 私が寮長に電話するから、そのままラフィ先輩抱えてて!」
「でも、先に救急車――」
「私とノヴァちゃんだけじゃ、担架で運べないから!」
ランさんはそうぴしゃりと言い放ち、電話をかける。
ヒシアマゾン寮長と応援の子が来て、緊急時の連絡網に従って保健室の先生やアダラのトレーナーたちが来て、空がすっかり黒い雲に覆われた頃に救急車が来て、大雨が降る中ラフィさんが搬送されて。
私はずっと、役立たずだった。
少々描写が散文的なようにも思われますので、余裕があるときに加筆いたします。
皐月賞は、気が付いたら書いている間に終わっていました。