1時間近く水のカーテンが流れていた寮の食堂の大きな窓、その水幕が所々切れてきた。バケツをひっくり返したような激しい雨の音も、少しずつ弱まっている。
救急搬送されるラフィさんと同乗した
もちろん、許されるならラフィさんについて行きたかった。しかし私とラフィさんの関係は、客観的にはたまたま同室になっただけの先輩と後輩だ。故に、救急車が来たその場にチームの大人がいる以上、私が救急車に同乗するなんてことがあるはずもない。
そして、ラフィさんが搬送された今、私にできることは何もないのだ。私に何かできたとするならば、ラフィさんが倒れていたあの瞬間だけだ。けれども、私は無様に狼狽するばかりで何もできなかった。
……いけない。集中しないと。
油断すると、後悔と自己嫌悪のループに陥る。それでラフィさんの状態が良くなるならいくらでもするが、そうでない以上は普段通りに振る舞う必要がある。だから、私自身に何か考える時間を与えないように、宿題の1つである数学の問題集を解き進めていく。
しかし、誰かにトントンと右肩を叩かれる感覚がして現実に引き戻された。右の方を向こうとして、頬に指が突き刺さる。
「
「やっほ、ノヴァちゃん」
「……リツさん?」
そこにいたのは、ジャージ姿のリツさんだ。雨の中アダラの部室から移動してきたのか、少し濡れている。アダラのウマ娘は、土曜日に出走したラフィさん以外は今日も練習であるはずだった。
シャーペンを置いて、リツさんの方へ体ごと向く。
「今日はトレーニングの予定だって聞きましたけど」
「雨降って来ちゃってたし、ラフィのこともあるからさ。今日は休みになったんだよ」
重馬場の練習したかったんだけどなぁ、とリツさんはこぼす。
「……すみません」
「いやぁ、ノヴァちゃんにはどうしようもないでしょ? あれは」
「でも、10時ごろに様子を見に行っていれば、何か違ったかもしれません」
「んー。まあ、そうかもね。ラフィは変に我慢するし」
リツさんの言葉で、ラフィさんと一緒にダービーを観戦した時を思い出す。あの時も、いつもと様子が違うと明確に気が付いたのは、ダービーのパドックが始まってからだった。
「ま、終わったことをいつまでもくよくよしててもしょうがないよ。ラフィはもう病院に着いて診察受けてるらしいし、あとはお医者さんに任せよう」
その言葉を聞いて、荒れていた気持ちがほんの少しだけ落ち着いた様な気がした。診察を受けていると紗雪さんが連絡できる程度には、ラフィさんの容態が安定しているのだろう。
私の変化を感じ取ったのか、リツさんがほっとしたように小さく息を吐いた。
「それより、周り見てみなよ」
「周り……?」
さっきまで向かっていた宿題――そこから目線を上げると、私の様子を探るようなランさんたちの視線がさっと逸らされた。
「
「
「
どうやら私はリツさんに指摘されるまで、ランさんたちに心配をかけさせていたことに気が付いていなかったらしい。
……誤魔化し方下手くそ選手権でも開催してるのかな?
リツさんは私たちの様子を見て、思わずといった調子で吹き出した。
「みんなの分も一緒にお茶淹れてくるからさ。いったん休憩したら?」
「先輩、私が淹れてきます」
「いいよ、いいよ。部室からパクって来たお茶淹れるから、私がやる」
スレーインさんの申し出を断って、リツさんは広い食堂のあちこちに置いてあるドリンクバーコーナーの1つへ向かっていった。
リツさんがいなくなった場には、沈黙が漂っている。先鋒となったのは、やはりと言うべきかランさんだった。
「ノヴァちゃん、ちょっと落ち着いた?」
「まぁ、そうですね。すみませんでした」
「まぁ、まぁ、仲の良い子が倒れたら慌てちゃう気持ちはわかるしー」
エフェメロンさんが私をフォローするようなことを言う。
「そういえば先生」
「なんですか?」
「先生のやってるとこ、多分2学期の終わりくらいにやる
「えっ」
アクアフォールさんの指摘で問題集を見返すと、確かにだいぶ先の単元だった。
「わっ、
「出来る人は違うねぇ」
「でも、小学校の時塾行ってた子はこれくらい先の内容やってたような気がする」
「つまり、先生は塾の先生だった?」
「禁断の愛ってこと……!?」
ランさん、エレジーさん、アクアフォールさん、スレーインさんまでの話の繋がりはまだわかるのだが、エフェメロンさんが話を明後日の方へと飛ばした。
「少女漫画の読み過ぎじゃないですか……?」
「ノヴァちゃんは優しくてイケメンでちょっと年上の男の人に興味ないの!?」
「別に……」
「担当のトレーナーさんとゴールインは!?」
「性別問わず中高生に手を出すのは、ただのヤバい人でしょうに……」
「
エフェメロンさんの冗談――冗談ですよね?――を切っ掛けとして騒いでいる間に、リツさんがお茶を載せたお盆片手に戻ってくる。
「お茶淹れてきたよー」
「ありがとうございます、リツさん」
「どういたしまして」
ことりと小さな音を立てて、ティーカップが置かれる。ふわりと何かの花の香りが鼻腔をくすぐる。お盆に入りきらなくなるからか、
リツさんの淹れてきた淡い褐色のお茶は、匂いと色の濃さからして紅茶ではないだろう。どこかで嗅いだことのある匂いだとは思うが、花には詳しくないので思い出せない。それでも、これはおそらく。
「ハーブティー、ですか?」
「おっ、
「ラフィさんが……」
ハーブティーを飲むことがあるなんて、知らなかった。私は、ラフィさんについて何も知らないのだ。異変に気が付けるはずもなかった、ということだろうか。
「あー、ほら。ラフィだったら、ノヴァちゃんが落ち込んだままでいるよりは、戻ってきたらお茶仲間が増えてる方が嬉しいと思うからさ。とりあえず飲んでみなよ」
「……はい」
カップを顔に近づけていく。ふわりと香るラベンダーの匂い。一口含んでも特に渋さは感じず、飲み込めば舌に爽やかさのある後味が残る。
「結構好きですね、この感じ」
「えぇ、本当? パック開けた瞬間、むせるくらい匂いが濃かったんだけど」
リツさんがラベンダーティーに口をつけ、しかめっ面をした。
「うーん、私は好みじゃないなー。途中で色変わっちゃったし、何か失敗したのかな?」
「色変わったんですか?」
「うん。淹れ始めは綺麗な青緑色だったんだよね。こっち持ってくる間にこうなっちゃった」
「何ででしょうね? リンゴみたいに酸化されるんでしょうか……?」
「さぁ……?」
ランさんたちも飲むが、評価は半々と言ったところだ。
「紅茶の方が好きかなぁ」
「私は好きかも」
「ママが、ラベンダーは人を選ぶって言ってたような」
「そうなの? レーちゃん」
そうして盛り上がったお茶の話が一通り終わった後、おそらく私の様子を見るためにそのまま居座ったリツさんも一緒になって勉強会は続いた。
⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰
数時間後、そろそろ夕飯も近いので解散しようというタイミングで、リツさんのスマートフォンから通知音が鳴る。その通知を目に入れたリツさんが、「あっ」と声を上げた。
「ラフィの診察結果出たよ」
「どうですか!?」
「急性虫垂炎? だって」
さっと血の気が引いていく感覚がする。虫垂――つまり消化器系の病気だ。競走馬の内科系疾患では最も危険な部類である。少しだけふらついて、直後に支えられる。
「大丈夫?」
「……大丈夫、です」
ランさんだ。左隣に座っていた彼女が手を差し伸べてくれていたようだ。また迷惑をかけてしまったなと、自責の念に駆られる。
そうしている間に、アプリを開いて詳細を確認していたらしいリツさんが顔をしかめた。少なくとも、良い報告ではないだろう。
「ラフィさんに、何か、あったんですか?」
自分の声は、思っていたよりも震えていた。
私の様子を見たリツさんは少し悩むそぶりを見せた後、「隠してもしょうがないか」と口を開いた。
「手術するみたい」
「……手術?」
ただオウム返しにすることしかできない。
「うん。だから、その……」
言い淀むリツさんに、視線で続きを保たす。
「年内には、復帰できないだろうって」
……どうして、ラフィさんが辛い目に合わなきゃいけないの?
私が前世の報いを受けるのであれば納得だ。負けて腐って1年を無駄にした結果オーナーへ勝利を届ける機会を失い、脚を折った時に保身を優先して鞍上の未来を断ち、悲惨な繁殖成績で関係者の期待を裏切り、自分で死ぬ勇気がなかったせいで孫娘さんの牧場に負担をかけて、競走で結果を残せず馬肉になるほかなくなる子供たちを作り続け、前世のランさんをはじめとした故郷の牧場にいる繁殖牝馬の貴重な機会を奪い続けた。
けれど、ラフィさんは前世の記憶なんてないごく普通のウマ娘で、思うように行かなくても腐らず一生懸命に頑張れる強い心があって、負け続きの時期ですら新入生の私に気を配れる優しさがあって、私の知る限り誰とでも仲良くなれる才能がある、非の打ちどころのない女神様なのだ。
……どうして。
ぐるぐると思考がループし続け、しかし1つだけ確信できることがある。
運命の神がいるならば、やはりそいつは何が何でも蹴り飛ばさなければならない、私に匹敵するろくでなしだ。
ラベンダーティーを実際に飲んでみてから当該部分を書きました。初心者には厳しいかと思っていましたが、意外と良いものでした。