どうにか自力で動揺から抜け出した後で、まず最初に私がとった行動――それは、ラフィさんの病状がどれほど重いのか確認をとることだった。
「あの、リツさん」
「
「ラフィさんの病気って、どれくらい重いんですか?」
「えっと……」
リツさんがスマートフォンの画面に視線を向ける。
「……そこまで書いてないね。でも手術するってことは、重いんじゃないの?」
「それはそうですけど。でも、虫垂炎の手術って、たぶんそんなに大きく切らないですよね?」
「そうなの?」
「たぶんですけど。なので今年はもう走れないなんて、少し納得できなくて」
虫垂は右下腹部の盲腸にぶら下がっている小さな器官だ。いくら開腹手術とは言えども、そこまで大きく切るとは思えない。傷口が小さいなら、体への負担は比較的抑えられるはずである。
それに、いつまで経ってもウマ娘に獣医学を適用しようとする私ではない。診察結果を聞いた瞬間に狼狽してしまったが、消化器系の病気が致命的だというのはあくまでも前世における競走馬の話だ。ヒトではなくとも人間ではあるウマ娘ならば、現代の医学でどうにかならないのかと考えることは自然だろう。
「なるほどねぇ。トレーナーさんに聞いてみよっか?」
「お願いします」
リツさんがスマートフォンを操作し始めたところで、自分に向けられている数対の視線に気が付く。勉強会の面々だ。
「あっ、すみません。まだ勉強会の途中でしたね」
「いや、それは別にいいよ。て言うか。先生具合悪そうだし、今日はもう終わる?」
「そーだね。もうすぐ夕飯だし、丁度いい時間だし」
「よし、片づけちゃおう」
「んにゃあっ、ふぃ。疲れたぁ」
スレーインさん、エフェメロンさん、アクアフォールさんが示し合わせたように話を進め、エレジーさんは話に便乗するようにわざとらしく伸びをした。今日はもう解散の流れだ。私自身もうそろそろ時間だとは思っていたが、気を使わせてしまったようで少々申し訳ない気持ちである。
「……すみません」
「いやいやぁ。もうお腹すいたしぃ、ノヴァちゃんが具合悪くなくてもぉ、もう終わりだったよぉ」
「そうそう。メロンなんて集中切れちゃって、さっきからずっとシャーペンでノート叩いてるだけだったし」
「レーちゃんだって、ずーっとあくびばっかりしてたでしょ!」
「2人とも落ち着きなって。目立つから」
……今日は一日、気を使われてばかりだな。
いつもの勉強会では集中力が持たないことも考えて適宜休憩を取っていたし、散漫とした様子が見えてきたら少し早めに休憩にしていた。しかし、今日はそこまで頭が回らなかった。教える側としては、これはよろしくないだろう。
「……すみません。いつもより休憩少なかったですよね」
「えっ、あっ、いや、そういうつもりで言ったわけじゃないんだけど……」
「レーちゃんさー」
「メロンだって乗って来たじゃない!」
こうして話している間にも、エレジーさんはささっと机の上を片付けていた。ここにいる中では彼女1人だけが栗東寮の寮生なので、夕飯時に備えて席を空けようという配慮だろう。そうして彼女自身の荷物がまとめ終わるや否や、エレジーさんは立ち上がる。
「もう席空けないとだしぃ、じゃあねぇ、みんなぁ」
「ちょっと待って」
エレジーさんの挨拶を遮り、ずっと沈黙を保っていたランさんが声を上げた。
「次の勉強会なんだけど、ノヴァちゃんが余裕取り戻してからの方がいいと思うの。どうかな?」
「えっ?」
思わず声が出てしまった。
「あー、そだね。今のままだと先生の負担になっちゃいそうだし」
「それもそうね」
「リツ先輩は、どう思いますか?」
アクアフォールさんが、質問の送信が終わって私たちを見ていたらしいリツさんに話を振る。「うーん」と少し考えるような素振りを見せてから、リツさんは口を開く。
「ノヴァちゃん次第じゃない? 落ち込んでいるときだからこそ気晴らしに何かしたい子もいるし、反対に何もせずゆっくり休んで気力回復させてくる子もいるし」
「何とも言えない感じぃ」
「いやぁ、そうなんだよね。エレジーちゃん。
少しげんなりしたような顔をして、リツさんが話を続ける。
「トモエはああ見えて全員引きずり回して何かしたがるから、宝塚記念の後まるまる一日カラオケに付き合ったし。反対にローズは、『何事もありません』見たいな顔しといて、トレーニングすっぽかして1週間くらい部屋から出てこなくなるんだよね」
ランさんの耳がピンと伸びる。
「えっ。ローズ先輩すごく真面目そうなのに、意外です」
「でしょ? 午前中の授業だけはちゃんと出てくるらしいんだけどね」
話を横から聞いていて、ふと1つ思い出したことがある。
「あれ、水着買いに行ったときって……」
「そう。安田記念負けた後、部屋の外に出てきたところ見たのはあの日が初めて」
「えぇ……」
「でも、ちゃんと楽しんでたでしょ」
「はい」
「だから、こういうのは人それぞれってこと」
私だけではなく、勉強会の面々にも聞かせるように、リツさんは普段より少しゆっくりとそう言った。
……こういうときは先輩らしい面見せるんだなぁ。
意外なことだ。何せ普段は、後輩であるフユさんやネルさんからも弄られるアダラのマスコット枠だ。ご飯と勉強が絡まなければ、リツさんも立派な先輩と言うことだろう。
「それで、ノヴァちゃんはどうしたい?」
考える。できれば、私の都合で予定に穴を開けるということはしたくない。しかし、ラフィさんのことで頭がいっぱいで集中できないこともまた事実だ。故に。
「とりあえず、明日と明後日だけ、勉強会はお休みにさせてもらっていいですか? 明々後日からはまたする予定でお願いします」
「ノヴァちゃんがいいなら、それで」
「わかったぁ」
「おっけー」
「するか。自習」
「出来るならそもそも参加してない気がする」
「……確かに」
スレーインさんとアクアフォールさんが何やら遠くを見ている。
そのまま今日は解散となり、エレジーさんは栗東寮へと帰っていった。
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解散したは良いものの、エレジーさん以外は美浦寮所属なので、結局夕飯は一緒に食べることになる。いまいち食欲が湧いてこないものの、少し心配そうに様子をうかがってくるランさんたちを安心させるためにも、今日の夕飯であるカレーを胃袋に詰め込んでいく。そしてそろそろ食べ終わろうかと言うところで、リツさんが通知音を鳴らしたスマートフォンを見て声を上げた。
「あっ、トレーナーさんから返信来たよ」
「どうですか?」
ガタリと、背後で音が立つ。少し驚いて後ろを見ると、それは私が無意識に立ち上がって動いた椅子の音だった。
「まあまあ、落ち着いて、落ち着いて」
リツさんに保たされるまま、椅子に腰を下ろす。
アプリを開いたリツさんが、「うへぇ、長い」と独り言を漏らした。
「んっとね。まず、病気自体は重いけど最悪じゃないみたい。虫垂ってところが破裂寸前まで腫れちゃってるけど、破れてはいない。だから急いで手術すれば、何か悪いことが残ったりはしないだろうって」
「良かった――いえ、すみません。そもそも病気になってるんですから、良くはないですね」
後遺症は残らないと聞いて思わず安堵してしまったが、今もラフィさんは苦しんでいる。それに手術が終わっても、秋の大目標どころか年内復帰すらできない見込みである以上、ラフィさんの苦しみは続いてしまうのだから。
「まぁ、何も残らないっぽいのは良いことだし、言いたいことはわかるよ。で、今年走れない理由はね」
リツさんが再度スマートフォンの画面を見る。
「えーっとね、病院の都合で開腹手術っていう体の負担が大きい手術をするんだって。で、ウマ娘って手術するために筋肉切っちゃうと、元通りに運動できるようになるまでヒトより時間がかかることが多いんだって」
「そう、ですか……」
いまいち納得がいかない。それが正直な感想だった。
「もしよければ、どうして時間がかかるのかも聞いてもらっていいですか?」
「全然いいよー」
……リツさんには世話になりっぱなしだし、今度何かスイーツを奢らないとなぁ。
そんなことを考えながら、スマートフォンを操作するリツさんを見る。
「よし、おっけ。返事返ってきたら、ノヴァちゃんに送るね」
「ありがとうございます」
「これでも先輩だからね」
リツさんは腕を組んでささやかな胸を張り、ふふんと威張って見せる。
「流石先輩です」
「いいよ、いいよ。もっと褒めたまえ」
耳がピコピコと上機嫌に動いている。
「えっと、アダラのムードメーカー! 短距離界期待の星! 世代のマスコット枠!」
「いやぁ、そこまで褒められると――」
何かに気が付いたように、リツさんは怪訝そうな顔をした。
「――ん? マスコット枠……?」
「かわいいということです」
「なるほどね。いやぁ、照れちゃうなぁ」
……これだけじゃれ合っているところを見せたら、みんな心配しなくなるかな。
そんな意図も込めてリツさんとしばらくふざけ合ったのはどうやら正解だったようで、ランさんたちから時折向けられていた様子をうかがうような視線は、時間とともに減っていった。
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その後、私たちは少し残っていた夕飯を食べ終えて解散し、それぞれの寮室へと戻ることになった。
北棟の4階、南側に面した418号室――実家に戻っていた2週間を除いて4か月弱を過ごしてきた部屋の鍵を開けて、中へ入る。薄暗い部屋の窓からは、寮を構成する他の棟、そして日が落ちてなおわずかに明るさを残した群青色の空が見えた。
照明をつけることもなく、机に荷物を置いてそのままベッドに腰掛ける。
……ただいまって、言わなかったな。
しばらくの間は、お帰りなさいと言うこともないのだろう。やけに広く感じられる部屋の中で、一人ため息をつく。
視線の先にあるラフィさんのベッド、その上にはこの時間になってもぐちゃぐちゃになったままのダウンケットが置いてある。いつも朝練の間は湿気を逃がし、戻って来てからきちんとベッドメイクをするラフィさんならありえない光景だ。
……手術、大丈夫かな。
また一つため息が出る。皆の前では誤魔化すために頑張ったが、今はもう到底何かをする気分にはなれなかった。トレセン学園で身に着けたことと言えば、周りを心配させないための嘘のつき方と、ついでにウマ娘の体の効率的な動かし方くらいのものだろうか。
……ダメだなぁ。
思考回路が負に傾いていると、そういう自覚はある。今の精神状態的にすぐ出てこないだけで、ほかにも色々と学びや良いことはたくさんあったはずなのだから。けれども、一人でいるととにかく考えが暗くなっていくのだ。
窓の外の空は、まるで私の思考と同期するように色を濃くしていく。何もする気が起きず、時折通知で明るくなるスマートフォンの画面に目線を向けるとき以外、私はただそれを見つめていた。
空がもう夜の色と言っていい頃になって、スマートフォンに電話の着信が来る。表示された名前は、リツさん。
「もしもし、ノヴァです」
「リツだけど、今大丈夫?」
「大丈夫ですけど、その、何かあったんですか?」
意図せず声が震える。メッセージを送ると言っていたのに、わざわざ電話をするということは、何か重大なことが起きたのだろう。
「悪いことじゃないから、安心して。ラフィの手術が始まったよ」
「あっ、そう、ですか。そうですか。良かった……」
ふぅと息を吐く。心臓の鼓動の音がうるさい。
「あと質問の返事だけどね、まだちゃんとわかってないって」
「医者でもですか?」
「みたいだよ? いくつかこうじゃないかって言うのはあるけど、どれも説明できないことがあるんだって」
ウマ娘がトレーニング復帰まで時間がかかる理由について、理屈では完全には説明がつかない。ならばそれはおそらく。
……運命、か。
一説に拠れば、前髪以外禿げてる
もちろん、私が勝手にそう考えているだけだ。ただ単にウマ娘の人口が少ないがために症例が集まらないだけなのかもしれない。けれども、ウマ娘は異世界の名前と魂を受け継いで生まれてくるオカルト寄りの存在で、私が調べた限りでは現役中に負う怪我や病気もほぼその通りになる。療養期間もそれに準じたとしても、おかしくはない。
今日何度ついたかわからないため息を再度ついて、通話中であると思い出す。
「あっ、すみません。今日はありがとうございました」
「全然いいよ。じゃあ、また明日ね」
「はい。おやすみなさい」
通話を切って、スマートフォンをベッドの上に放り出す。そしてそのまま、頭をぶつけないように背の方へ倒れた。
何も手に着く気がせず、そのまま数時間ほどを足だけベッドの外に投げ出したまま横になって潰す。ラフィさんの手術が無事に終わったとの連絡が来て胸中の不安がある程度晴れたのは、いつもならとっくに眠っている消灯時間の直前だった。
ノヴァのちゃんとした勝負服デザイン案が出来上がったので、調子乗って依頼して書いてもらおうかとも思ったのですが、そもそも依頼サイトの数が多くて戸惑うなどしました。そのうちプロローグの勝負服描写を修正します。
ついでにノヴァを育成キャラにしたらどうなるかを妄想したものもできたので、いつになるかはわかりませんが本編中にある形で出す予定です。
2023/7/16 14:35
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