なお、本話投稿に先立ち、第32話について一部内容を修正いたしました。
トレセン学園の坂路はグラウンドとは別にあると勘違いしていたためです。
このままお読みいただいて支障ありません。
全休日、と呼ばれるものが前世のトレセンには存在した。
普段通りなら開催明けの月曜日がそうで、基本的にその日は馬場もコースも閉じられており調教がなかったのだ。なので我々競走馬としては、馬房で1日のんびり過ごす日だった。
もちろん、休日とは言えども生き物相手の仕事なので担当の厩務員は餌やりに来るし、調教師は馬主との会合があったり外厩の馬の調子を見に行ったりと忙しくしていた。私は元人間のくせに、「人間って大変だなー」と他人事のように思いながらごろごろしていた記憶がある。
そして、今世のトレセン学園にも全休日のようなものがある。
毎週その日は、いつもならトレーナーやトレーナー付きのウマ娘を優先する施設予約が、そうでないウマ娘優先になるのだ。練習バ場や坂路はもちろん、ジムやレッスン室もそうなる。そしてトレーナー付きのウマ娘たちは学園において少数派なので、その日は基本的に部室で出来る範囲のことしかできない、らしい。聞いた話である。その週の重賞に出る場合など例外もあるとか。
何はともあれそう言うわけで、競争率が気持ち落ちる月曜日、その午前に私たち勉強会の面々は坂路の抽選予約を勝ち取ることができた。
ここ数日の猛暑も何のそのと元気な芝、造園担当職員の尽力が垣間見えるそれを踏みしめる。心を騒めかせる芝の香りを意識から押しやり、顔を上げてコースの先に目を向ける。そこにはウッドチップの敷かれた坂路があった。
1人で駆け上がっていく子もいれば、2人以上で併走している子もいる。次の選抜レース出走間違いなしと言われるような子が、本格化前の子たちをどんどん追い抜いていく。
各々にそれぞれの目的がある十人十色の練習風景だ。私たちも、その中の一員である。
じっと風景を見ていると、エフェメロンさんが長い葦毛の髪を風任せに靡かせ、髪と対照的な褐色の右腕を突き上げて叫んだ。
「よーし、30分しかないし、どんどん登ろう!」
「メロン、まだ何回も登れる体力ないでしょ」
黒鹿毛の長い髪が顔にかからないように手で押さえながら、スレーインさんが突っ込みを入れる。しかし、エフェメロンさんは舌打ちのような音と共に人差し指を左右に振った。
「こういうのは気持ちが大切なんだよ、レーちゃん」
「何様よ……」
2人が話している横で、栗毛の三つ編みを揺らしながら靴ひもを結び直していたアクアフォールさんが立ち上がる。
「お待たせ。今結び終わった」
「じゃあ、レッツゴー!」
「オッケー」
「あっ、待て! メロン、アクア!」
「待ちませーん!」
「待たないよー」
「不意打ちで出遅れさせるのは卑怯でしょ!」
エフェメロンさんたちが姦しく3
残念ながらエレジーさんは、チームシリウスの練習と時間が被ってしまったので不在だ。今日は部室でビデオを見てフォームチェックをするらしい。
1人だけ仲間はずれにするのもどうかと思い、規則をよく確認してエレジーさんをねじ込む算段を整えていたので、少々肩透かしを食らった。チーム所属のウマ娘とそうでないウマ娘では、時間の都合がどうしても合わないことはあるので致し方ないことではある。
少々収まりの悪いゼッケン――タイムの自動計測と映像追跡用のICタグが付いたそれを引っ張り、位置を調整する。そうしている間に、先に走り始めた3人が芝からウッドチップにバ場が切り替わる部分に差し掛かった。
トレセン学園の坂路は、少し奇妙な構造をしている。ウッドチップコースと一体化しているだけならともかく、バ場の一部が芝なのだ。前世なら、馬がびっくりしてしまうので可能な限り避ける構造である。
そして、前世の経験がある私としては正直物足りない坂路でもある。なにせ上り勾配区間がたったの
……今はともかく、本格化したら4、5本は登らないと話にならないなぁ。
前世でやっていた坂路3本と同等の負荷をかけるには、それくらいの数をこなさなければならないだろう。
そこまで考えたところで捕らぬ狸の皮算用をしている自分に気が付き、呆れの籠ったため息が零れた。
すると、併走相手であるランさんが尋ねてくる。
「どうしたの?」
「立っているだけでも暑いのに、これから坂路かと思いまして」
息をするように誤魔化した。他人を欺くことばかり上手くなっている。
私の答えを聞いたランさんは、少し呆れたように息を吐いた。
「いつも言ってるけど、その格好で言うことじゃないよ。ノヴァちゃん」
「それはまぁ、そうですけど……」
夏も真っ盛りだが、私は相変わらず丈の長い冬用のジャージ姿だった。『見てるだけで暑い』と言われたこともあるが、紫外線対策なのでやめる気はない。
ランさんは私の紫外線嫌いを知っているので、着替えなさいとまでは言ってこない。言ってこないのだが。
「そうだ。次の抽選、プールだけ入れる?」
プールと言う単語を聞いただけで、意図せず自分の耳が引き絞られていくのを感じる。何かとプールを推してくるのは勘弁してほしい。
「えぇー、プールですかぁ? ジムとかレッスン室とかにしません?」
「ノヴァちゃんって、本当プール嫌いだよね。泳ぐのはとても良いトレーニングだって、自分で言ってるのに」
「実際泳ぎたいかは別ですー」
「私が教えてあげるよ?」
ランさんがふふんと胸を張る。どこか自慢げな様子に、ふと頭に浮かんだことを言ってみる。
「……もしかして、たまには教える側に回りたいだけだったりします?」
スッと目線をそらされた。こやつめ。
「まぁ、プールの予約が取れてしまった時はお願いします」
「うん。任せて!」
会話に一区切りがついたところで、スタンドから女神様の美しい声が響く。
「ノヴァさーん、ランさーん、もういいですよー」
視線を向けると、樹脂製のメガホンを持ったラフィさんがこちらに小さく手を振っていた。スタンドの椅子に傘ホルダーを取り付けて日傘を差しているので、日射で体調を崩すこともないだろう。膝の上には坂路のカメラ映像を確認できるタブレット端末が置いてある。タブレットがちょっと羨ましい。
ラフィさんには指導担当として来てもらっている。元々はエレジーさんをねじ込む手段として用意していた立場だ。
まだ退院してから1週間と言うこともあり、ラフィさんは療養最優先でトレーニングを免除されている。なので私としても来てもらうつもりはなかった。なかったのだが、少し寂しそうに「私もお手伝いに行っていいですか」とお願いされて、気が付くと許可を出してしまっていたのである。体調が悪くなったらすぐ戻ると条件こそ付けたが、我ながらちょろすぎる。
しかし、しょうがないのだ。朝練のため毎朝4時に部屋を出る私や、朝ご飯終わりにトレーニングへ向かうリツさんを、ラフィさんが何かを堪える様に送り出す姿を知っている。手伝いすら断るほど心を鬼にはできなかった。
はーい、とラフィさんの呼びかけに答えて、ランさんの外側に並ぶ。
「じゃあ、さっきのじゃんけん通り私が外で」
「むー。そういう意味じゃないって、わかっていても嫌な気分」
「まあまあ」
前世において併せ馬と言うものは、基本的に強い馬が外側を回る。それは今世でも同じようで、併走をする時に「私が外回るね」と言うのは、遠回しに「お前は私より弱い」と言っているようなものだったりする。
「じゃあ」
「うん」
せーのと声を合わせ、同時に走り出す。併走なので、加速はランさんに合わせて少し控えめに。足元がスピードの乗りやすい芝から柔らかく力のいるウッドチップに切り替わり、登り坂が始まる。入学当初と比べると細かく砕け香りはないも同然のウッドチップが、このコースが多くのウマ娘たちに使い込まれてきたことを伺わせた。
勾配そのものは前世で走り慣れた美浦の坂路と同程度だろう。違う点があるとすれば、それは私の体だ。前世で鍛えぬいた体とは異なるのだと、走るたびに嫌でも思い知らされる。
もどかしさを感じながら、
登り始めてから
登り区間最後の50m程で、過剰な加速を幾度も繰り返した分スタミナを削られたランさんの姿勢が崩れ、速度を維持できなくなる。目論見通りの状況に持ち込めたことにわずかな満足を覚えながら、声にならない声を漏らすランさんを追い越して第2コーナー中ほどの最高点に到達し、脚を緩めた。
前世よりも1ハロン短い坂路なのに、息が上がっている。やはり全盛期とは程遠い。そう自覚しながら息を整えつつ流していると、ランさんが追いついてきた。
「もー! ノヴァちゃんはそういうことするタイプって、わかってたのに引っかかった!」
「まあ、6割頭なんて言い方あるくらいですから、しょうがないですよ」
走っているウマ娘は酸素が筋肉に回る分、普段の6割程度まで頭の働きが落ちるという俗説がある。
「それでも! もう!」
ランさんが牛になってしまった。まんまと罠にかかったのがよほど悔しかったのだろう。私は前世の経験分、大逃げする私相手に競り合ってくるような根性のある相手の潰し方も心得ている。レース経験の浅いランさんが引っかかること自体はしょうがないことだ。
もうもうとふくれっ面のランさんを宥めつつ、ウッドチップコース――事実上の帰りバ道をぐるりと流してスタンドへと戻る。
先に走った3人は水分を補給したり、ハンディタイプの扇風機を胸元に突っ込んで涼んだりしている。私たちが帰って来たことに気が付いたのか、ラフィさんが声をかけてきた。
「おかえりなさい」
「ただいまです」
ラフィさんの傍に置いておいた水筒2つを手に取り、片方をランさんに渡す。
ラフィさんの気が利かないわけでは断じてない。まだ荷物を持ったりすると手術痕が痛むようなので、私からラフィさんに「タブレット以外は絶対に持たないでください」とお願いしてあるだけの話だ。本当ならタブレットすら持たせたくない。それどころか食事も私が手ずから食べさせたいくらいだが、それは流石に言葉にしたら気持ちが悪い自覚はある。
「ラフィさん、お腹痛くないですか?」
「座っているだけなら、もう痛みませんよ。大丈夫です」
ラフィさんがひらひらと両手を振る。かわいい。
私とラフィさんのやり取りを見て、エフェメロンさんとスレーインさんが呆れ気味に口を開いた。
「先生、先生。いくらなんでも過保護すぎー」
「もう2週間でしょ? ちゃんとくっついてるって」
「それはまあ、そうなんですけど」
頭ではわかっていても、心配なものは心配なのだ。
……ただ、まあ、それでも。
「先に3人の映像を振り返りましょうか」
「はーい」
ラフィさんとエフェメロンさんたち先発組3人が、同じタブレット端末に顔を寄せる。ICタグの情報をもとに、坂路のライブ映像を巻き戻して確認しているのだろう。
そんなラフィさんの横顔は、久しぶりに寂しくなさそうで。来てもらって良かったなと、そう思うのだった。
アニメ3期にさらっと独自設定した部分を壊されておりますが、私は元気です。
第26話で、本作中の安田記念は文部科学省賞典であると描写しました。
しかし、3期2話での菊花賞の成り立ちに関するみなみとますおの会話から考えると、農林水産省賞典のままと思われます。
ウマ娘の力があれば農林水産業でも大活躍でしょうから、考えてみれば農水省が賞典を提供していてもそこまでおかしくはありません。
ノヴァに自分は異物なのだと思わせるための設定でしたが、安易に変えてはいけないと反省しております。
幸い明言されていないので、本作では文部科学省賞典扱いでごり押します。