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トレセン学園の新学期は、今時珍しく9月1日から始まる。
理由はいくつかある。開校当時の教師陣や校舎の設計が外国人だったために、欧米の影響を強く受けたこと。学制公布よりも前――まだ元号が慶応だった頃に開設された、日本初の近代学校であると言う矜持。9月に学年が変わる国から留学してくるウマ娘もいるので、その方が都合がいいこと。
歴史と伝統と現実が噛み合った結果の9月1日なのだ。
その新学期が始まる朝、寮の玄関が開くのを待っている私の隣には、一か月半ぶりにラフィさんの姿があった。
両手を組んで伸びをしているラフィさんが、少し艶めかしい声を漏らす。夏休み前の私なら心の馬っけが思わず出てしまいそわそわしていただろうが、今はとある心配の方が勝っている。
「ラフィさん、そんなに伸びてお腹は大丈夫ですか?」
そう尋ねると、ラフィさんは「んー」と考えるような声を出した。そしてそのまま、上半身を左右に軽く捻り始める。傷口に障らないか冷や冷やしながらそれを見守ること数往復の後、ラフィさんは手術痕のある辺りを擦りながら答えた。
「大丈夫、だと思います。何か変にくっついていたり、剥がれたりするような感じはしませんから」
「それなら良いんですけど……」
昨日に『ヒト並みの運動であれば再開しても良い』と言う医者のお墨付きが出ている。そのため、ラフィさんも制限付きではあるが朝練に参加できるようになった。それ自体は非常に喜ばしいことだ。
しかしながら、療養明けにいきなり以前と同じ強度の朝練をするのはあまりにも不安が大きい。何せ、ウマ娘はヒトを遥かに凌ぐ身体能力があるために、『(ウマ娘基準で)軽い運動をしたら傷口が開きました』という例も少なくないと聞く。
故に、少なくとも1週間くらいは朝練と言ってもトレセン学園周辺を歩いて回るだけにするつもりだ。それだけでも療養中に落ちたラフィさんの体力をある程度つけ直すことはできるはずだし、朝練は軽くして復帰に向けたトレーニングはアダラのトレーナー陣に任せた方が良いだろう。
「無理しちゃダメですからね」
「はい。わかっていますよ」
「ちょっとでも変だなって思ったら、背負って帰りますからね」
「では、負担をかけないよう自重しないといけませんね」
「……そうしてくれるなら、いいですけど」
……出来れば私への負担じゃなくて、自身の体調の方を気にしてほしいんだけどなぁ。
焦る気持ち自体は私にもわかるので、完全には止めない。多少の無理をしなければ目標を果たせないという考え方自体は私にもあるから。こういう気持ちは誰かが制御できる環境で発散させた方が良いだろう。
そもそも私自身、体調管理の面ではあまり他人のことは言えないのだ。肉体面はともかく、精神面があまりにもぜい弱だ。
最終直線に入った後で加速しようとすると、未だに足が竦む。芝の匂いを嗅いだ時になんの前触れもなく過去を想起して動けなくなることがある。
眠るためにベッドに潜った後、2度の死の瞬間――私を構成する何もかもが抜け落ちていき完全な無に向かっていく感覚を思い出してしまい、眠れなくなることがある。前々世では、夜眠る前にうっかり死後とはどのようなものか、完全な無とはどのようなものか思いを馳せてしまい、恐怖に震えたことがあった。実際に経験したそれは想像とは比べ物にもならないもので、脳裏にこびりついたそれは不定期に私を苛む。
……朝から嫌なこと思い出しちゃったなぁ。
どうして自ら気が滅入るようなことを考えてしまったのか。一度考えだすと精神的にドツボにハマるから良くないとわかっているのに。
頭の中で反省をしていると、眠たげな眼を擦りながら今日の解錠担当がやって来た。鍵を錠に差し込む小さな金属音がして、玄関が開き始める。そして前に続いて歩き出そうとしたその瞬間。
「退いて」
「うわっ」
不意に誰かに押し退けられて、身体が左へと倒れ出す。踏ん張るために
しかし、私の体はぽふっと暖かく柔らかいものに受け止められた。安心感すら覚えるほど馴染みがある柑橘類の香水の匂い。
「少し乱暴ですね」
目線だけ上げると、艶やかな唇がほとんど目の前で動いていた。ラフィさんだ。私を押し退けた子を目で追っているらしい。翠色の目に籠った感情は相手への不愉快だろうか。だが、それだけではないような気がする。
「怪我はないですか?」
優しく声をかけられて我に返り、転ばないよう抱き留めてくれていたラフィさんから離れる。あまりにも目まぐるしく感情が動いたせいか、心臓が早鐘を打っていた。
「だ、大丈夫です。ラフィさんは――」
「大丈夫ですよ」
じっと見つめて様子を伺うが、特に不審な点はない。
「なら、良かったです。今ので悪くなったらどうしようかと」
「これくらいなら本当になんてことありませんから、安心してください」
「うーん。頭ではわかっているつもりなんですけど……」
「心配性ですね」
仕方ない子だなと言う声色だ。ラフィさんからすれば鬱陶しいくらいだろうに、ただ微笑んで許してくれる。それが少しばつが悪くて、話題を変えた。
「それにしても、今までこんなことなかったんですけどね」
「そろそろ未勝利戦が終わりますから。焦っているんだと思います」
「……そっか。9月に入ったから」
「はい」
引退を選んでも、トレセン学園が学校である以上は在籍し続けることができる。よほどの問題児でもない限りは、学園の方から引退した子を退学させるということもしない。これは入学前の説明会で聞かされる話だ。
実際、デビューしたタイミングによっては未勝利戦終了時点で中等部か高等部の卒業まで半年を切っていることがあり、そういう子のごく一部はそのまま卒業までトレセン学園に在籍するそうだ。だが、未勝利戦を突破できず心を折られて引退を選んだ大抵の子は、たった半年でも耐えられず退学していく。
何故なら、競走ウマ娘を目指すような子はほとんどが尋常ではない負けず嫌いで、地元では誰にも負けたことのない天才だ。そんな子が、夢を叩き折られてトレセン学園では底辺に近いのだと思い知らされて、それでも学園に残ることを選べるだろうか。ヒシミラクルならともかく。
改めて玄関から出ていく子たちを観察してみると、その顔に焦りを浮かべた子が意外と多くいることがわかる。気にしたことがなかった――特にここ1か月は気にする余裕がなかったので、今まで気が付かなかった。
そんな彼女たちを見ていたラフィさんが、溜め息をついた。
ラフィさんの先ほどの視線と、今の溜め息に籠った感情。それは、安堵だろうか。
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朝練を終えてシャワーを浴び、下着も含めて娯楽室に用意しておいたものに着替えてから一度部屋に戻る。本当はここで部屋に戻る手間をなくしたいが、洗濯物を一旦部屋に持ち帰る必要があるので仕方ない。改めて制服に着替えて、授業に必要なものや宿題を忘れていないか確認する。問題なければ荷物を持ち、部屋を出て食堂へ向かう。朝のルーティンワークだ。
1学期と違うところがあるとするなら、私が2人分のスクールバッグを両肩に提げている点だろう。こんな重たい荷物をラフィさんに持たせるなんて、正気ではない。2人並んで階段を降りようと廊下を曲がると、見慣れた尾花栗毛の少女が踊り場の壁にもたれてスマホを弄っていた。
「おはようございます。リツ」
「おはようございます」
「ん。おはよう、2人とも」
リツさんはスマホを仕舞い、身体のバネだけで壁から離れて足元に置いていたバッグを肩に掛ける。
「もう朝ごはん食べ終わったんですか?」
「まだだよ。2人を待ってたからさ」
まるであり得ないものを見たとでも言わんばかりに、ラフィさんが目を丸くする。
「……今日は雪が降るかもしれませんね」
「ひどくなーい?」
リツさんがわざとらしく文句を言った。
「冗談ですけれど。リツが食事より優先するほど体調悪く見えますか?」
「いや、全然。ただ、新学期でしょ? ノヴァちゃんがどうかなって」
「見ての通りです」
「やっぱりねぇ」
ラフィさんとリツさん、2人揃って私を見てくる。ラフィさんの鞄の紐を握る手に、意図せず力が入る。
「な、なんですか」
「ノヴァちゃんは世話焼きだなって話」
そう言うとリツさんはこちらに手を差し出す。
「はい、ノヴァちゃん。荷物よこして」
「私が持って行きますよ?」
「食堂行くまでならそれでもいいけど、その後は学年が違うでしょ? 私はクラスも一緒だから、私が持ってく方が良いよ」
「鞄くらい、もう持てそうな気はするのですけれど……」
「ダメだよ、ラフィ。心配性のノヴァちゃんが心配で心配で勉強に手が付かなくなっちゃうから」
理屈は通っているし、ラフィさんが持たないなら特に反対する理由もない。素直にリツさんに鞄を渡す。
「どうぞ」
「あっ、素直に渡してくれた。一応秘策も用意してたんだけどなぁ」
「参考までに聞いても良いですか?」
「後輩に荷物持たせてる先輩って、他の子が見たらあれじゃない? ラフィは事情があるけど、パッと見だとわからないし」
「……なるほど」
……そこまで考えていなかった!
スッと血の気が引いていく感覚がする。私のせいでラフィさんの評判に傷がついたかもしれない。
「あ、いや、美浦寮の中なら大丈夫だよ? あの時寮にいた子は皆知ってるし」
「いなかった人もいますよね?」
「みんな周りの子に聞いてたから大丈夫。それくらい超お世話焼きモードなノヴァちゃんは目立ってたから」
「助かりましたけれど、家でもお風呂のお手伝いはなかったので、その……」
少し恥ずかしそうに顔を赤らめたラフィさんが、誤魔化すように笑う。入浴の介助と言っても、少し前かがみにならないと届かない膝から下や、腕の回りにくい背中くらいなので、そこまで恥ずかしがらなくてもという感じがする。
……お肌すべすべだったなぁ。
いけない、邪念が漏れる。
「と、とにかく、食堂行きませんか? 良い席が埋まっちゃいます」
「あっ、誤魔化した」
「誤魔化しましたね」
「いいから、早くいきましょう」
誤魔化しは誤魔化しでも、別方向の誤魔化しだとは言わない。藪をつつく真似はしないのだ。
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校舎に入ったところでラフィさんたちと別れ、教室へと向かう。先にB組に来ていたクラスメイトと挨拶を交わし自席へ荷物を置いたところで、ランさんが鼻歌交じりに軽やかな足取りでやって来た。
「おっはよーう、ノヴァちゃん」
「おはようございます、ランさん」
「なんか不思議だねぇ。新学期なのに、久しぶりって感じがしないの」
「そうですね」
私の小学校6年間は他の子と全く話が合わずぼっちを極めていたが、それでも新学期初日は久しく感じるものだった。
こうして言葉を交わしている間も、ランさんの淡い灰色の瞳は爛々と輝き、ウマ耳はピコピコと動き、尻尾もぶんぶんと振られている。
「なんだか機嫌よさそうですけれど、何かありました?」
「そうかな?」
「はい。わかりやすいくらいに」
ランさんは「うーん」と天井を見上げる。そしてすぐに「あっ」と心当たりがあったような声を上げた。
「もしかしたら、始業式より前に宿題が全部終わってるなんて初めてだからかも!」
「えっ。それ、大丈夫だったんですか?」
「出す日の朝までに終わっていればいいから」
間に合わないよりはずっと良いが、そんなに「ふふーん」と胸を張って言えることではないだろう。
「小学校の時は自習、出来てたんですよね……?」
そう問うと、ランさんは照れくさそうに髪を撫でつける
「夏休みは誘惑が多くて……」
「何々? 何の話?」
「挨拶くらいしなさいよ、メロン。おはよう、2人とも」
いつの間にか登校してきていたらしく、エフェメロンさんとスレーインさんが現れた。
「おはようございます」
「おはよう。アクアちゃんは?」
「今日出す宿題部屋に忘れたみたいで、三女神様の広場辺りで慌てて戻っていったわ」
「たまにドジだよねー」
人数が増えたためか、一気に騒々しくなる。こうなるともう私は圧倒されるばかりで、基本的に受け身でみんなが楽しそうにしている空気を楽しむ形になる。だが、それも悪くない。
ラフィさんのこともあり夏休みは平穏無事とはいかなかったけれど、新学期は穏やかに始まった。
【トレセン学園開設時期に関する独自設定について】
・ドラマCD『トレーナー候補の為のトレセン学園案内』の発売が2018年
同CDの2:00ごろから、たづなさんが「当学園は(中略)150年ほど前に設立されました(後略)」と言っているので、設立は1868年の前後5年間のどこか
・日本初の常設洋式競馬場である『横浜競馬場』の開場が1866年(慶応2年)
・洋学の流れを汲む最初の近代小学校である『沼津兵学校付属小学校』の開校が1868年
・日本最初の近代的学校制度を定めた『学制』の公布が1872年
以上から、本作ではトレセン学園を日本初の近代学校としています