ぱちりと目を覚ますと、見慣れない天井が視界に飛び込んできた。ここはどこだろうかと疑問を覚えながら、掛け布団とタオルケットを退けて起き上がる。壁を伝って降りて来る朝の冷気が身を撫で、少しずつ頭の回転数が上がり始める。
……あぁ、そうだ。入厩――ではないか。入寮したんだ。
トレーナーが調教師、厩務員、騎手、装削蹄師などといった競走馬に関わる人間を一まとめにした存在だとするなら、担当トレーナーが付いていないどころか厳密には入学前の私は、ようやく育成牧場に来たくらいの段階だろう。競走ウマ娘を目指す覚悟をしたとは言えども、まだまだ先は長い。
朝の寝ぼけた頭で考え事をしながら部屋の反対側に目をやる。女神様がいた。私の頭が暖機運転を無視してフルスロットルで回り始める。起きているときは美しいという印象が先行するラフィさんだが、寝顔は意外とあどけない感じであり、それがまた大変に良い。髪が起きているときと同じく緩い三つ編みのままであるあたり、意外とラフィさんは面倒くさがりだったりするのだろうか。しかしラフィさんくらい髪が長ければ、それくらいの時短はしないと髪のケアなどやっていられないのだろう。
ラフィさんの髪について考えているとき、そういえばと私は枕元のスマートフォンを手に取り、インカメラを起動する。鎖骨辺りまで伸びた葦毛には、特に寝ぐせはついていないようだ。櫛で整えれば問題ないだろう。自宅からトレセン学園へ環境が劇的に変わっても、特に寝付きや寝相などへ影響はないようだ。環境変化への図太さは前世譲りなようで実に助かる。
ラフィさんの寝顔鑑賞に戻るためスマートフォンを置こうとした私だが、ふと魔が差した。布団の中の暖かな空間に差し込んだままだった脚を引き抜くと、物音を立てないようにスリッパに足を突っ込み、スマートフォンのアウトカメラを起動してそろりそろりと部屋の反対側へ歩いて行く。消音機能はないので一発勝負だ。ラフィさんの寝姿をディスプレイいっぱいに映し出したとき、寝顔盗撮はさすがに気持ち悪くないかと自制心が声を上げる。そうかな、そうかも、そうだなぁと迷いが生じた瞬間だ。ラフィさんのスマートフォンがアラーム音を鳴らす。
覚えている限りの前々世まで含めて、最速の判断で自分のスマートフォンを布団に投げた。前世でこれができていれば1回くらいはギンシャリボーイに勝てたのではないかと考えると、少し鬱屈とした気分が芽生えてくる。美しい放物線を描いたスマートフォンは、起きるときに半分に折り畳まれた掛け布団の上へ無事に着地した。
「んみゅ……」
実に可愛らしい寝起きボイスが内耳を通り脳に染み渡り、暗く沈んだ思いが一瞬にして晴れ上がる。至福の思いに浸っていると、ラフィさんがアラームを止めて起き上がった。腕に体重を預けた横座りのラフィさんが、不思議そうに首を傾げた。耳は横に向いてすっかりリラックスした様子だ。
「……どうしたんですかぁ、ノヴァさん?」
「……少し早く目覚めたので、起こそうかどうか迷ってました」
「次からは起こしてくださって全然良いですよぉ」
「わかりました」
朝だからだろうふにゃりとした笑顔が大変愛らしい。どうやら私の動きは不審には思われていないようだ。安堵に胸を撫で下ろした私は、洗面所へ持っていく朝の身支度セットを準備しつつ、怪しまれないようにスマートフォンを枕元に戻す。
「先に顔洗ってきます」
「はい。私もすぐに行きますねぇ」
扉を開くと同時に冷たい廊下の空気が体を冷やし、まだ少しだけ重たい瞼を持ち上げさせた。
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御着替えをちらちらと見ていても疑わしげな目線を送られなかったあたり、やはり昨日の虚実入り混じった弁明は功を奏したらしい。別に凹んでなどいない。
朝の身支度を終えた私とラフィさんは、娯楽室で動的ストレッチを行う。横浜のコースを走り始めた頃に、両親が「怪我をしないように」と教えてくれたストレッチの内容は、ラフィさんのストレッチと一部の順番が違うくらいだった。それくらいなら中央と地方でそうそう差は出ないものなのだろう。
「割とのんびり準備したのに、まだ1時間以上ありますね……」
「そうですね。朝外に出られるようになった途端に駆け出していくような子でも、この時間はまだ眠っていると思います」
寮長に言っておいて何だが、トレセン学園のリズムに合わせるべきだろうか。自己練習のメニューも作れていない状況では、朝に起きてもしょうがない気がしてくる。そんなことを考えていると、ラフィさんが声を掛けてきた。
「ノヴァさん。昔ライアンお姉さまが作ってくださったトレーニングメニューがあるので、ノヴァさんに差し上げます。私が入学してすぐの頃のメニューなので、今のノヴァさんがやっても大丈夫だと思います」
やはりラフィさんは女神ではないだろうか。
「いいんですか?」
「今はトレーナーさんが付いているので、そちらの指示に従わないといけませんから」
「……担当がいるってことは、もうデビューしたんですか!?」
衝撃的な言葉だった。担当トレーナーが付いているのであれば、デビューしていてもおかしくない。もしデビュー済みだとすれば、ラフィさんのウイニングライブを見たことがないと言う事実は痛恨の極みである。どうして妹のようにトゥインクルシリーズのレースを全部見なかったのだろうか。そう思いながらぐいっとラフィさんに迫る。しかしラフィさんの耳はぺたんと元気なく垂れ、笑顔が陰ってしまった。
「出走はしたのですけれど、まだ1度も勝ててなくて……」
競走馬の魂を受け継いで生まれてくるウマ娘は、どれだけ美しくとも一皮むけば闘争心の塊である。故に普通のウマ娘にとって、どれだけ努力しても勝てないという状況は少しずつ精神を蝕んでいく遅効性の毒のようなものだ。ラフィさんだって例外ではないだろう。
ラフィさんのライブを見逃していたという事実は実に残念なことではあるが、一旦横に置いておき、ラフィさんを元気づけようと何か掛ける言葉がないか考える。しかし意気消沈したラフィさんに何というべきかわからなくて、私は言葉にならない声を上げることしかできなかった。無責任に「次勝てるように頑張りましょう」ということは簡単だ。しかし、そんなことは当人が一番よくわかっている。頑張り続けなければ勝負にすらならない世界なのだから。
少しの間目を瞑り顔を伏せていたラフィさんだが、首を振り顔を上げると両拳を胸の前でむんと構えた。
「……でも、次は勝つために頑張るんです! 私だって、メジロなんですから!」
「……はい! 頑張りましょう!」
少し憂鬱な気分になっても自分ですぐに立ち直れるラフィさんは間違いなく強い人だ。本当に絶望するのは、『次』が永遠に来なくなった時でいいのだから。
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ラフィさんに貰ったメニューを参考にして軽めのトレーニングをこなしているうちに、外出禁止時間の終わりが見えてきた。ランニングマシンとフィットネスバイクを2人で交代して使っていたためか、いい感じに全身が暖まっている。もうそろそろ出られるだろうと、ラフィさんと私は荷物を持って一緒に玄関へやって来た。
ちらほらと集まっているウマ娘たちを見てみると、背中合わせのペアストレッチをしているライスシャワーとゼンノロブロイの姿を見つけた。2人ともすでにドリームシリーズに参戦している実績と知名度を兼ね備えた人気のウマ娘だ。ゼンノロブロイがライスシャワーに担がれて背中を伸ばしている。
目算ではあるが、私よりも彼女の方が身長は小さいはずである。しかし私のそれは精一杯に見栄を張って丘陵地帯だが、彼女のそれは過少申告でチョモランマだった。自らの胸元に手を当てるが、擬音で表現するなら『すらぁ……』である。ここまで差があると実際にムネ差もありうるほどの格差がそこにはあった。
「ノヴァさん、ノヴァさん。気持ちはわかりますが目線が余りにも不躾ですよ」
「……はい」
ムネの差が着順の決定的差にならないと示してみせる。そう秘かに決意した時、ふらりと現れたパジャマ姿のウマ娘が「開けますよぉ」とまだ眠たそうな様子で言いながら玄関の鍵を開けた。押し合いへし合いにならないように玄関近くの子から順番に出ていき、私たちの番が来る。
「行きましょう、ノヴァさん。ついて来てください!」
「はい、ラフィさん!」
上って来たばかりの朝日を浴びて駆け出したラフィさんについて行く。トレセン学園は甲州街道を挟んで京王線府中駅の北側に位置している。そこを出た私たちは、学園前の通りを南下して府中街道に合流するとそのまま多摩川へ向けて走っていく。片側1車線の道路をヒト並みの速度で走っていると、左手側に東京レース場のフェンスが現れた。
……いつになるかはまだわからない。けれど、あの日の私たちはあいつに勝てたのだと証明して見せる。
決意を新たにしながらラフィさんについて行くと、道路が片側2車線に広がった。是政橋と言うらしい大きな橋が見えてきたところで、ラフィさんは側道に逸れていく。どうやら川を越えては走らないらしい。逸れた先の緩い坂を駆けあがると右手側に広い緑地が現れた。私たちは道路を渡り、遊歩道を自転車程度の速度で走っていく。
「川まで結構距離がありますね?」
「そうですね。でも大雨が降ったりすると、すぐ傍まで川になるんですよ」
「ちょっと想像がつかないですね……」
前々世は一部の記憶を除けば性別すら朧気で、前世は競走馬だから川の傍など行ったこともなかったし、今世は横浜生まれの横浜育ち。そのためか増水した川というものがどのようなものか映像でしか見たことがなく、いまいちピンとこない。
「もう少し走るといつも私が休んでいるところにつくので、そこで一旦休憩しましょうか」
「はい!」
トレセン学園を出て15分程度、休憩には少し早いがトレセン学園付近の練習コース案内も兼ねているのだろう。面倒見のいい女神様は慣れた様子で三つ編みをなびかせて駆けていく。春の朝、まだ冷たい風を受けながら数分ほど走り続けると、川のミニチュアのような水場が見えてきた。ラフィさんが減速して、人によっては青臭いと感じるだろう芝の良い匂いがする河川敷へ降りていくのを追う。丁度腰かけて休めそうな岩の前でラフィさんが止まった。
「ここです。親水公園なんですけど、朝は人が少ないのでスタートダッシュの練習くらいはできますし、道路を渡ったところの公園でお花を摘むこともできるので休憩にはもってこいなんです」
「花壇の花を摘んでもいいんですか?」
公園の花壇と言えば触ってはいけないものだと思っていたのだが、ずいぶん珍しい公園もあるものだ。そういえば競走馬になる前、ただの仔馬だったころに牧草になかなか慣れることができず、何か良いものはないかと探し回った挙句ツツジの花の蜜をよく吸っていたものだ。そのようなことを考えていると、ラフィさんが何と言おうか悩んだような表情をしていた。
「……その、その花摘みではなくてですね」
「……あっ、わかりました。そういうことですね……」
言い淀むようなラフィさんの様子を見て、思い切り勘違いをしていたことに気が付く。練習中に積極的に水分補給をしていると、トイレの有無は重要なことである。耳の端まで熱くなっていくのを感じ、早朝のひんやりとした空気を両手でパタパタと扇いで送る。天然を通り過ぎて無知を晒したような気分だ。
「……走りましょうか、ノヴァさん!」
「はぃ……」
私は顔に熱を感じたまま、少し声を裏返して休憩を切り上げたラフィさんについて再び朝日へ向けて駆けだす。走っているうちに恥ずかしくなくなるだろうという、ラフィさんの気遣いがありがたかった。
2021/5/5 19:15
誤字を修正しました(東京競馬場→東京レース場)
ご報告ありがとうございました