グラスワンダーのファン交流会は順調に進んでいた。
幾つかの催し物やファンとの直接の触れ合いや質問に答えたりと今日の主役であるグラスワンダーは大活躍をし続けており、そのおかげもあって交流会は滞る事なく順調に進行し、その予定していたスケジュールの大半を終わらせる事が出来た。
残ったのは今回の交流会のメインイベントであるレース。
それさえ終われば――と安堵しながらグラスワンダーは再度観客を見渡す様に視線を巡らせる。
「………?」
その際に無意識に彼女の視線はある箇所へ――スペシャルウィークが居る場所へと向けられる。
しかし先程の失態を反省しているのだろう。向けられた時間はほんの数秒程度で先程とは違い、誰も其処に視線が向けていると思わせない完璧な動作で彼女の場所を確認してみせた。
だが、そんなグラスワンダーは今自身が観た光景に戸惑うしかなかったのであった。
「(…スぺちゃん?)」
――《いない》のだ。
所謂VIP席と言う個室作りの客席。其処に居る筈のスペシャルウィークの姿が見えないのだ。
咄嗟に浮かんだのは先程の自身が犯した失態だ。
もしやあれのせいでスぺちゃんの存在がバレそうになったから、スタッフの判断で一時的に身を隠しているだけなのかもしれないと言う考えが浮かんだ。
だがそれならば何かしらの手段で連絡してくるのではないか、と言う当然の疑問がその考えを否定する。
浮かび上がる可能性とそれを否定する考え。
その2つに挟まれ、不安が駆り立てられるグラスワンダーは不意に背筋に冷たい物を感じてしまっていた。
――もしかしてスぺちゃんに何かがあったのでは、と。
そう思ってしまうと同時に焦りに似た感情が全身を駆け巡る。
すぐにでも駆け出したい。駆け出してその無事を確認したい。
胸から込み上げるその想いに身体が従いそうになるが、それをなんとかグッと堪えた。
スペちゃんの事は心配。けれど今自分が果たさないといけない役目が何であるのかを認識しなおす。
こんな自分を応援してくれて、こんな自分の為に集まってくれた多くのファンの方々の想いに報いる。
その為にもと、不安な心に無理やり蓋をして必死に笑みを浮かべながらファンの方々へと手を振る。
その心に苦々しい想いと、抑えきれない不安を抱きながら――
「~♪~~♪」
そのウマ娘は終始ご機嫌な様子で鼻歌を奏でながら会場の通路を歩いていた。
グラスワンダーのファン交流会で行われる最大のメインイベントであるレース。
その参加ウマ娘の1人に自身が選ばれたからだ。
たかがイベントのレースだと思うかもしれないが、彼女にとってこのレースは大きな意味を持つ。
「(グラスワンダーさんだけじゃなくてテイエムオペラオーさんと一緒に走れるなんて!ほんっとうに嬉しい!!それに…もしも…もしも、このレースで勝ったりしちゃったら…)」
トレセン学園に在籍している彼女だが、実はここ最近レースの調子が良くない。
去年のGⅡで何とか一着をとったものの、それ以降はとことん駄目である。
彼女のトレーナーとも色々と話し合い、様々な練習方法や他のウマ娘との合同レースなんかもしたりしている。
だがそれでも勝利する事が出来ず、己の不甲斐なさとこんな自分の為に頑張り続けてくれているトレーナーへの申し訳なさから一時は引退さえ考えてしまっていた程だ。
そんな時にトレーナーが持ってきてくれたのがこのレースへの参加だった。
参加する面々はイベントの主役であるグラスワンダーを始めGⅠでも活躍し続けている有名ウマ娘ばかり。
こんな面々を相手にするなんて、と最初は断ろうとした。
しかしトレーナーはそんなワタシを説得し続けた。
《今の君に必要なのはただ勝ちよりも経験を積む事だ》
《自分よりも上の存在を知り、その相手がどう走るのかを知り、それをどう自分に取り組んでいくのかが必要なんだ》
《負けは決して恥じゃない。負けは次の勝利に繋げる大事な過程なんだ》
馬鹿みたいな熱血漢丸出しの言葉。
けれど私を必死に説得しようとするその姿に、そして私の勝利を諦めずに応援し続けてくれているその姿を前に、引退なんて考えていた自分が馬鹿みたいだなと思ってしまい、私は今回のレースを引き受けた。
参加する面々は強敵ばかりだ。
正直勝ちを狙いに行くのは厳しいかもしれないし、今回の目的だってあくまで強敵の走りを体験し、今後にどう生かしていくのかを学ぶ為だ。
けれど、もしもと考えてしまう。
もしもこの面々を相手に勝利する事が出来たら、と。
それは私に絶対の自信を与えてくれるだろうし、それにきっとトレーナーも喜んでくれる。
だから私は今日のレース、勝ちに行きたいと思っていた。
勝ってトレーナーに勝利を捧げたいと、私はまだまだ活躍できるのだと。
それが身に過ぎた欲望だと知りながらも、私は手放す事が出来ずにいた。
……まあ、それを差し置いてもあの面々と走れると言うのは素直に嬉しい事でもあるのだけれど、それは置いておこう。
「えっと…此処、かな?」
そんな彼女が辿り着いたのはとある一室。
今回のレースに参加する予定のウマ娘達に用意された控室の1つだ。
当然彼女にも用意されているのだが、今目の前にあるのは彼女の控室ではない。
この部屋は元々ダイワスカーレットの為に用意されていた物だったのだが、彼女は学園の用事(補習)で参加を辞退している。
ならば誰が彼女の抜けた穴を走るのかと運営側が少々揉めたらしいが、辞退したダイワスカーレット本人が代理を呼ぶ事でその問題は解決となったのだが……
「…いったい誰なんだろう?」
どうもその代理を決めるのにひと悶着あったらしく、交流会が始まってもなお、誰が走るのかをこの会場にいる全員が知らないでいた。
しかしそんな折に、彼女は偶然運営側のスタッフの会話を聞いてしまったのだ。
何とか代理のウマ娘が決まり、この会場へと来ていると言う事を。
けれどももう間もなくレースが始まると言うのにその姿を見せずにいると言う事を。
時間が迫っているのでそろそろ呼びに行こうとしている事を。
それを聴いた彼女は丁度良いと思った。
あのダイワスカーレットの代わりに来たと言うウマ娘。それが誰であるのかを先に知る事が出来ると彼女は自ら進んでスタッフに手伝いを申し込み、こうして控室まで呼びに来たのだ。
控室を前に一度深く深呼吸をする。
この部屋の中にいるのはダイワスカーレットの代理。
きっと有名なウマ娘がいるのだろうと興奮し、それを落ち着かせながらゆっくりとドアをノックする。
「失礼します!もうすぐレースが始まるのでパドックの方へ来てほしいとスタッフの方が…………ん?」
其処まで話してから中が異様に静かな事に気付いた。
まるで誰もいないかの様な静けさに疑問を感じ、もう一度失礼しますと声を掛けてからドアを開けてみる。
中は想像通りに真っ暗闇だった。
まだ誰もこの部屋を使っていないのだろう。置かれている備品のどれにも手が付けられていない。
ならば何処へ行ったのだろうと周囲を見渡し――
「―――あれ?」
机の上に視線を向けてある事に気付いた。
確かに備品――タオル等には手は付けられていない。
だが、机の上に置かれている筈のお菓子系の備品が空皿だけを残して全て無くなっているのだ。
補充していなかった?…いやそれはないだろう。
今回の交流会は規模はかなりのものでURAからも支援を受けている。
更に今回の交流会メインイベントであるレースに参加するのは名があるウマ娘ばかり。
そんな面々を相手にそんな粗相をするとは思えない。
「…もしかして」
ある可能性を思い浮かべた彼女はすぐに部屋に置かれている冷蔵庫を確認してみると此方も飲料水、それもジュース類が全て無くなっている。
此処まで揃うともはや間違いないだろうと彼女は判断した。
《泥棒》だと。
大方食べる物に困った人が会場に忍び込んで盗んでいったのだろう。そう判断した彼女はすぐにスタッフを呼びに行こうとした。
恐らくだけれど盗まれてからさほど時間は経っていない。今すぐに探したらきっと見つかるだろうと急いで向かおうとする。
けれどその脚は―――部屋に置かれているロッカーから聴こえたカタンっと言う音で止められる。
「――ッ!?」
《居る》
そう理解すると同時に彼女の動きは素早かった。
入口へと向かおうとしていた脚は即座に反転し、ロッカーへと向き直る。
向こうも自身が犯した失態に気付いたのだろう。
慌てて隠れようとしているのがロッカーから鳴り響く音で分かる。
もう逃げ場はない、そう伝えんとばかりにロッカーの前で仁王立ちしながら――
「大人しく出てきなさい!!今ならまだ情状酌量の余地はあります!!けれど出てこないなら…」
ロッカーの中にいるであろう犯人を追い詰めながら彼女は若干後悔していた。
あの時気付かない振りをしてスタッフを呼びに行っておいた方が良かったのではないか?と。
けれど出来なかったのだ。
犯罪を許す事が出来ない自身の心と、そしてせっかくのイベントを崩壊させてしまいかねない犯人への憤りがそうさせてくれなかったのだ。
それ故に彼女は恐怖心を飲み込みながらも堂々と宣言する。
出てこないのならば無理やりにでも、と。
実際ウマ娘の身体能力のそれは人間の倍以上と言われている。
相手が同じウマ娘ならばともかく、人間相手であればまず負ける事はないだろう。
無論、そう言った行為は極力避けたいと思ってはいるのだけれど………
「さあ!!出てきなさい!!もう逃げられませんよ!!」
堂々とした宣言を前に犯人は――ガタガタと音を鳴らすだけで出てくる気配がない。
こうなっては仕方がないとロッカーを無理やり開けようとして―――
「――――ぐ―――ひぐ―――」
ロッカーから聴こえる《それ》に気付いた。
《それ》は一言で言えば――泣き声。
声を押し殺して、それでもなお堪え切れない泣き声。
それが聴こえた瞬間、もしかして――とゆっくりとロッカーのドアを開けてみる。
「ひぅ!!?」
――其処に居たのは1人のウマ娘だった。
部屋の電気を付けていないので暗くてその顔は分からないが、同年代位だろう。
きっと彼女が例のダイワスカーレットの代理のウマ娘なのだろう。
ちょっとした悪戯を考えていたら本気で怒ってきて怖くなったと言った所だろうか。
そんな彼女は恐怖に身を丸めて此方を怯えた瞳で見ている。
自身の先程までの行為と態度を振り返り、そうなるよねと乾いた笑みを浮かべながら手を差し伸べて謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさい!!私てっきり泥棒かと思っちゃって…」
「……どろ、ぼう?」
「そう、泥棒。ほんっとうにごめんなさい!私昔っからそそっかしい所あって…」
差し出した手をロッカーの中にいたウマ娘が恐る恐る握ってくれたのを感じ取る。
ひとまずこんな狭い所に居ても仕方がないと中から引っ張りだしてあげながら、少しでも恐怖を紛らわせようとして自己紹介でもと自分の名前を口にした。
「えっと…こんな感じで自己紹介するのもあれなんだけど、私は《ゴーイングスズカ》。貴女は?」
「…………す」
ウマ娘が名を口にしようとする。
だがそれが聴こえる事は無かった。
何故なら――
《今から交流会メインイベントのレースを開始します。参加予定のウマ娘達は至急パドックへと御集り下さい》
会場中に聴こえたアナウンス。
それを聴いたゴーイングスズカは慌てて彼女の手を握ったままパドックへと向かう通路へと飛び出した。
「マズイ!!もう始まっちゃう!!ほら貴女も急いで!!」
「ふぇ?」
手を引かれている彼女は何がなんだが分からないまま、彼女に連れていかれるまま通路を駆けていく。
その先に何があるのかさえも分からないまま―――
《13番メジロブライト 仕上がりは万全の様ですね。レースが楽しみです》
パドックに集まるウマ娘達。
その誰もが数々のレースで活躍し続けている猛者ばかりだ。
そんな面々を前にグラスワンダーは高まる興奮を抑えようと深く深呼吸をし、呼吸を整えて心身を落ち着かせる。
並み居る強敵達、そのどれもがこのレースで勝ちを狙いに来ている。私を、打ち倒そうとして来ている。
そう思うと落ち着かせようとしていた興奮が沸き上がってくるが、それを深呼吸をしてから宥めると、面々を見据えて決意を固める。
今目の前に並ぶこの面々に負けないと。
誰が立ちふさがろうと私は駆け抜けて見せると。
「おや?緊張しているようだね」
そんな彼女に近づいてきたのは《テイエムオペラオー》。
今回のイベントレースの誘いを引き受けて、進んで参加してくれたチームリギルの1人だ。
「オペラオーさん。今日はイベントの参加ありがとうございます」
「ハッハッハ!気にしないでくれたまえ!ボクはボクが輝ける舞台へと赴いただけなのだからね!」
相も変わらずの様子にグラスワンダーは懐かしさを感じてしまい、自然と笑みを浮かべる。
スペシャルウィークの事があったとは言え、あまりにも突然の移籍に皆がどう思っているのかと言う恐怖心もあったが、テイエムオペラオーの何も変わらないその様子に安堵してしまう。
けれどもそれとレースは別だ。
「ふふ、けど今日のレースで輝くのは私です。負けませんからねオペラオーさん」
「それは此方の言葉だよ。全身全霊を以て君を打倒しに行かせてもらうよ、グラスワンダー」
パドック上でぶつかる2人の視線。
その様子にファンもまた歓喜の声をあげていく中でパドックにウマ娘達が揃っていくが――
「…………?」
――2人足りないのだ。
1人はゴーイングスズカ、もう1人はダイワスカーレットの代理として参加する予定のアグネスタキオン。
と言ってもアグネスタキオンが参加する事を知ったのはついさっきで、スタッフのほとんどもそれを知らないらしい。あまりにも急に来すぎたので連絡が回りきっていない証拠だ。
「(あの人らしいと言えばらしいですけれど…)」
スタッフもそれに気付いているのだろう。
実況席で何か揉めている様に見える。あまりにも大ごとになりそうならば自分も行った方が…と思っていると、実況席にスタッフが1人駆け足で飛び込んでいき、何かを小声で話している。
それを聴いた実況者が驚きの表情を浮かべるが、それが何を意味しているのかをグラスワンダーは分からなかった。
――そう、この時は。
《えー、遅れてすみません。少々トラブルがありましたが、続けさせていただきます》
実況の声と同時にウマ娘が1人パドックに入ってくる。
遅れてきたゴーイングスズカだ。周囲に謝る様に頭を下げながらパドックへと入ってくるのだが、その視線は今しがた自分が入ってきた入口へと向けられている。
困惑、戸惑い、そう言った感情を以て見つめている。
どうしたのだろうと思いながらその様子を見ていて―――
《では最後の入場です。3番――》
嗚呼、何だと納得する。
きっと彼女は遅れてきたから今から入場してくるのがアグネスタキオンだと分かっているのだ。
だからきっとあんな視線を―――――――
《―――――スペシャルウィーク!!》
「――――――――――――――――――――――ぇ?」
――なにを、言っているの?
だって、スぺちゃんは……
きっと間違いだ。聞き違いだと思ったが見える光景がそれを否定する。
おどおどと、けれども足を止める事なく入場してきた彼女が――
スペシャルウィークが、其処に居た。
ゴーイングスズカ、個人的に好きな馬です。
勝手にウマ娘化したけど…やばかったかな(白目)