「ぐらちゃ!ぐらちゃ!」
「は~い。ぐらちゃですよ~」
――スペシャルウィーク3歳発言から一時間弱。
グラスワンダーの活躍で落ち着いたスペシャルウィークは、無事に全ての検査を終える事が出来た。
折り紙の一件で、彼女の中でグラスワンダーは安心できる人物だと思われているのだろう。
検査中ずっと傍に居る事を強請り、グラスワンダーもそれに応え、時には泣きそうになるのを優しく宥めたり、時には逃げ出そうとするのを優しく諫めたりと大活躍を果たした。
そんな感じに全ての検査を終えたスペシャルウィークは、グラスワンダーに甘えっぱなしである。
膝の上をゴロゴロしたり、新しい折り紙をおねだりしたり、舌足らずな言葉使いでぐらちゃと名前を呼んでは反応を楽しんだりと、終始楽しそうにはしゃいでいる。
その姿はまさに三歳児のそれだ。
「…あれ、本当にスぺちゃんなの?」
そんな様子を、少し離れた場所で様子見していたトウカイテイオーは呟く。
未だにスペシャルウィークは、グラスワンダーにしか気を許していない。だから近づくと怒ったり泣き出しそうになったりするので、こうして離れた場所から見ているのだが………
子供の様に笑い、子供の様に駆けまわり、子供の様にコロコロと表情を変えるその姿からは、とてもではないが彼女達の知るスペシャルウィークのそれと掛け離れ過ぎていた。
「……ですが、先生のお話通りであれば納得は出来ますわ」
メジロマックイーンの言葉通り、少し前に医師は診断結果を面々に語ってくれたのだ。
《記憶喪失》だと。
今のスペシャルウィークは3歳児までの記憶しか覚えておらず、その影響で幼児退行していると。
元々彼女が病院に運ばれた理由と言うのが、車に轢かれそうになっていた老婆を助けようとし、老婆を救う事は出来たのだがその際に頭部を強く打ち付けてしまった事にある。
頭部の怪我こそ軽傷であったが、その際に脳内で何かしらの異常が発生して――今に至ると言うのが医師の診断結果だった。
《はっきり申しまして…いつ記憶が戻られるのかは私には分かりません。ウマ娘の記憶喪失、それは前例のない事ですので……。ひとまずの対応としましては、経過観察としか……》
病院としても、全力で検査を行いその結果でこんな返答しか出来ない事に、不甲斐なさを感じていた。
だからこそせめて、今後は病院内で安全に経過観察を行い、何かしらの治療法を見つけたいと考えていたのだが――
《……ぐらちゃとはなれるの、やッ》
入院すると1人になる、と言うのを何となく察したであろうスペシャルウィークが反対。
下手をすればまた大泣き+大騒ぎの結末が予測できる危機的状態に陥り、その結果―――
《でしたら、私がスぺちゃんの面倒を見ますよ》
グラスワンダーの救いの提案が採用される事となった。
既にトレセン学園には連絡済みで、状況が状況なので特別に部屋の交換が許可され、暫くの間はスペシャルウィークが使っていた部屋に、同室相手としてグラスワンダーが入る事になった。
病院としても、以前と同じ環境で同じ生活をする事は、記憶を取り戻すきっかけを得られるのに最適であると判断し、1週間に1度の検査を絶対条件に退院を許可。
今はトレーナーが手続きをしており、それを待っていると言う状況だ。
「けど、本当に良いの?スズカに知らせなくて?」
サイレンススズカ。今は単独アメリカへと渡り日々頑張っている、スピカの仲間の1人。
スペシャルウィークとはアメリカへ渡る前は同室相手であり、良き友人であり、良きライバルでもあった。
その関係性は途切れる事なく続いており、結構な頻度で、連絡を取ったりニンジンを郵送したりしている。
そんなスズカに対し、トレーナーはスペシャルウィークの今の状態について知らせない事を決めたのだ。
「それについてはトレーナーさんがおっしゃっていたでしょう?今スズカさんはレースが近く、仕上げの時期に入っています。この状態のスペシャルウィークさんの事なんて話したらレースどころではなくなってしまう、だから知らせないと。今回ばかりは、私もトレーナーさんに賛成ですわ」
スズカもアメリカで1人頑張っているのだ。
その努力を知っている面々からすれば、今回の選択もやむを得ないと判断していた。
それにずっと秘密にするわけでもない。レースが終わり落ち着いた時期になれば知らせる、とトレーナーも言っていた。
だからそれまでは仕方がない。そう決まったのはついさっきの事なのだが……
「分かってるけどさぁ~…」
仲間に秘密にする。その罪悪感に複雑な気持ちになっていたトウカイテイオーは、渋々ながらも承諾した事を未だに迷っていた。
やっぱり知らせるべきじゃないかと、自身が下した判断に迷いを見せて、むぅー……と唸っていた。
マックイーンとてその気持ちは理解しているし、今回の決定も賛成こそすれど、決して心地良いものではなかった。
けれど、スズカはアメリカで1人で頑張っていて、レースはその努力の成果を示す場所なのだ。
そんな大舞台での失敗に繋がる様な真似をしたくない。彼女の頑張りを無駄にしたくない。そう想ったからこそマックイーンは、心苦しくもトレーナーの意見に賛成したのだ。
それをテイオーにも理解してほしい。そう思いながら彼女を見つめる。
「おーい、お前ら帰るぞ」
そうこうしていると、手続きを終えたであろうトレーナーが戻ってくる。
時間も既に遅く、スペシャルウィークが退院するのであればもう此処にいる理由はないと全員がトレーナーの言葉に素直に従い後に続いて病院を後にしていく。
そんな面々に続く様にグラスワンダーも立ち上がり、駆け回っていたスペシャルウィークに帰りますよ、と声を掛ける。するとスペシャルウィークは慌てて戻ってきて、グラスワンダーが差し出した手を笑顔で握り返して、その隣を歩き始める。二人のその姿は、さながら仲の良い姉妹か、母と娘の様な微笑ましい光景だった。
――そんなスペシャルウィークを、グラスワンダーがとても幸せそうに見つめていた事に気付く者は、誰1人いなかった。
寮へと戻ると、結構遅い時間になっていた。
詳しい事は明日また決めるとして今日はとりあえず解散となった後、グラスワンダーはスペシャルウィークの部屋へと一緒に帰ってきていた。
「ワォ…電話で聞いてはいましたが…本当にスぺちゃん記憶喪失になったんデスネー…」
スペシャルウィークから離れるわけにも行かないので、代わりにグラスワンダーの部屋から荷物を持ってきてくれたエルコンドルパサーが、部屋の中心で指を咥えて不思議そうにキョロキョロとしているスペシャルウィークを見て、そう漏らす。
恐らく今の彼女にとって、此処が自分の部屋だと言う認識すらないのだろう。
自分が使っていた机の中を探ってノートを千切って遊んだり、布団の上で跳ねて遊んだり、段ボールに詰められたニンジンを取り出してはポリポリと美味しそうに食べている。
その姿は本当に子供であり、エルコンドルパサーからすれば最初はとても信じられなかった電話の内容が、真実である事を嫌でも認めるしかなかった。
「んぅ?」
そんなエルコンドルパサーに気付いたスペシャルウィークが、テケテケと彼女の傍に近寄り、ジーッと顔を見つめて来る。
慌てて何かを喋ろうとするエルコンドルパサーであったが、その視線がエルコンドルパサーの顔ではなく、顔にある何かを凝視している事に気付く。
まさか、そう思った瞬間――スペシャルウィークの手があっと言う間にエルコンドルパサーのマスクを奪い取っていった。
「――え?え、あ、ああ!!あわわわッ!!!!か、返してくださーい!!!!」
「きゃきゃきゃっ☆」
追うエルコンドルパサー、逃げるスペシャルウィーク。
狭い部屋の中で突然始まったマスクを求めた小さなレース。部屋の中を激しく荒らしまわるそれは――
「こーら、駄目ですよスぺちゃん。エルにマスクを返してあげてください」
グラスワンダーの優しくも厳しい一言によって阻まれる。
このトレセン学園の中で一番信頼しているグラスワンダーのそれは効いたのだろう。しょんぼりとした表情で、スペシャルウィークはエルコンドルパサーに奪い取ったマスクを差し出し、小さな声でこそあったが、ごめんなさいと謝った。その様子を見ていたグラスワンダーは、良くやったと優しくスペシャルウィークの頭を撫でてあげた。
「はい、えらいですよスぺちゃん。良い子のスぺちゃんには、ご褒美にまたウサギさんを作ってあげますね」
「ウサギさん!!」
どうもスペシャルウィークの中で、ウサギの折り紙は大変お気に召したらしい。
病院から寮へ戻る車中で幾度もウサギの折り紙をグラスワンダーにおねだりし、その都度新しいウサギを作ってはあげているのだけれどそれでも飽きが来ず、遂にはこうした時のご褒美として使えるレベルにまで至っていた。
「…ワォ…グラス、スぺちゃんの扱い上手デス…」
「そう?スぺちゃん良い子だから、そんなに手は掛からないよ?ね、スぺちゃん?」
「すぺはいいこです!!」
「ほら」
まるで親子の会話かと、そうツッコミたくなる感情を抑えながら苦笑いするエルコンドルパサーであったが、ふと伝言を思い出したのでグラスワンダーに伝えておいた。
「寮長から、今日は特別に貸し切りでお風呂を使わせてあげるから速めにスぺちゃんを入浴させてほしいって、伝言を受けていたのを忘れるところでした…必要なら手伝うデスよ?」
「んー…大丈夫ですよ。スぺちゃん良い子ですから。ね、スぺちゃん?」
「すぺはいいこです!!」
「ほら」
――この会話ほんの数秒前にしたような気がする。
そんな既知感を覚えながらも、エルコンドルパサーはそれじゃあとお風呂へと向かう2人を見送り―――
「あついのやぁぁぁぁッ!!!!!」
――お風呂から鳴り響いた悲鳴を聞いたのであった。
スペシャルウィーク内信頼できる人物
1位ぐらちゃ
2位変なマスクかぶった人