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アイラ・ラリスのデスク ある封筒に記されたメモより
それはアレク・エルタがゾディアックに入学する1週間程前のことだった。
ジャック・ポルグスはクラブ棟の一室を使える許可を学園長から取り付け、絨毯やテーブル、ソファなどの家具や、食器といった道具を部屋に運んでいた。
彼の趣味である、ハーブティーを楽しむための空間を作るのだ。生徒同士の交流の場にもなるだろうと、学園長も乗り気だった。
だが、その作業は難航していた。重い上に慎重に扱う必要がある物が多かったため、ジャックは契約している妖精のベルガを実体化させ、荷運びを手伝わせることにした。
「ベルガは力持ちだな。助かる」
家具の配置を終え、ジャックは早速紅茶を淹れて寛いでいた。
彼の隣で礼の言葉を聞いた彼女は微笑む。
(ベルガのパワーは妖精の中でもかなり強い部類だと聞いてはいたが……これ程とはな。まぁ、実体化に必要な魔力からすれば当然か)
妖精であるベルガは紅茶を飲むことはできないが、契約者であるジャックの感覚をある程度共有できているようだ。
紅茶を飲む彼の横で、彼女も満足気な顔をしている。
この時、ベルガが身につけていたのは制服ではなかった。
折った布を体に巻き、ブローチを両肩に使って留め、腰にベルトを付ける、古代ギリシャの女性が着ていたワンピースのような服だった。
それが彼女が実体化した時の、いわばデフォルトの姿なのだ。
2人がゆったりと時間を過ごしていると、突然部屋のドアが開き、ある人物が入って来た。
「やぁ。邪魔するぞ」
「えと……担任のラリス先生ですか。どうしたんです?」
「何。学園長から、クラブ棟でタダで紅茶が飲めると聞いてな。休憩がてら寄ってみたのだ」
「そうですか。俺の趣味でやってる事ですから、いつでも来て頂いていいんですが……」
「なるほど。では遠慮なく来させてもらうとしよう。中々によい場所を取ったよう…む?」
部屋を見渡していたアイラは、ジャックの後ろに身を縮めて隠れているベルガに気付いた。
「そこにいるのがお前の妖精か?」
「はい。母から継承されています。実体化させる機会が少ないので、人見知りですが…」
彼の説明を聞かず、アイラはズカズカとベルガに近づいていく。
「怖がることはない。ほら…」
ジャックの肩越しに顔を覗かせたベルガ。
アイラはその顎を人差し指で軽く持ち上げ、さらに彼女の頬を撫でる。
「ほう……。実に美しいではないか…。どうだ、君。私とこれから……」
「勝手に妖精をナンパしないでください先生。……嫌がっていないのか、ベルガ」
「この私が相手なのだ、当然だろう?」
アイラが頭をポンポンと軽く叩くと、ベルガは心地良さそうに目を細めた。
ふと、アイラが何か思いついた顔になる。
「ん?そうだ。ちょっと立ち上がるように言ってくれないか?」
「はぁ…。ベルガ」
ジャックが命じると、アイラに慣れたのか、彼女はすっと立ち上がった。
その姿を、アイラがまじまじと見る。
「ふむふむ。ほう?ほほう……」
「あの?先生?」
ジャックが声をかけても、アイラは無視して観察を続ける。その後しばらくして呟いた。
「これはひょっとすると…当たりかもな…」
「何の話ですか?」
アイラは足早にドアに向かった。扉を開け、何がなんだかわからない2人(?)に命令する。
「そのまま、ここで待て。いいな?妖精を引っ込めるなよポルグス!絶対にだからな!!」
「は、はぁ…」
ジャックの答えを聞くが早いか、アイラはドアを勢い良く閉めて部屋から走り去って行った。
「一体何なんだ…?」
彼が呆然としながら1分程待っていると、アイラが戻って来た。ずっと走っていたのか、息が上がっている。
だが、ジャックを驚かせたのは、彼女の様子ではなく持っている物だった。
右手には何故かハンガーに掛かった状態の、新品の女子生徒用の制服を、左手には、これまた何故かデジタルカメラを持っていたのだ。
脇には何かの箱を抱えている。
「ハァ…ハァ…。どうだベルガ!本校女子生徒の制服だ…!ゼェ…ゼェ…。是が非でもこれに着替えてもらうぞゲホゲホ…」
「ベルガに合うサイズがよくありましたね」
アイラはむせ返りながらも手にした品を見せた。ベルガはソファの背面から身を乗り出し、眼前に突き出された制服を、目を輝かせて見つめる。
興味深々といった具合だ。
「着てみたいのか、ベルガ」
主人からの問いに、彼女はこくこくと頷いた。
「まぁ、いいとは思うが……」
ジャックがそう言うと、彼女は嬉しそうにアイラから制服を手渡された。
透明なビニールに包まれたそれをじっくりと見て、細かいところまで記憶していく。また、アイラが持って来た箱から靴も取り出すと、彼女はそれも食い入るように見つめる。
しばらくして、彼女は制服と靴をアイラに返した。
「着ないのか…?」
アイラが残念そうにすると、ベルガは心配するなと言わんばかりに胸を張る。
彼女が目を瞑ると、身につけている服が緑色に輝いた。身体全体の輪郭、ディテール、そして色の順に姿を変えていく。
光が消えると、ベルガの服は寸分違わず制服と同じ物になっていた。先程まではサンダルを履いていたが、それも靴に変わっている。
また、脚にストッキングも着けていた。今日のアイラの服をコピーしたのだろう。
その変身を見たアイラは感激の声を上げた。
「おおおーーーー!!素晴らしい!!模倣も着こなしも完璧だ!!こんな能力があるとはな!お前の妖精は凄いぞ、ポルグス!」
「はあ…」
ジャックは彼女のテンションに着いて行けず、間の抜けた返事しかできなかった。
その後しばらくアイラは「んんーいいぞ!とてもいい!!ああ~~素晴らしい!何という美しさと愛らしさだ!」などと口走りながら、興奮の形相でベルガの写真をカメラで撮り続けた。
彼女も嬉しそうに小躍りしていたが、流石によろしくないと思ったジャックが2人(?)を止める。
「ベルガ、その辺にしておけ。着せ替え人形にされるぞ。先生も一旦落ち着いて…」
アイラは血が昇った顔を赤く染めつつ深呼吸をする。
「スゥーー…フゥーー…こほん。済まないな、ポルグス。美しい物を前につい、取り乱してしまった。危うく教師としての尊厳が失われる所だった。助かったぞ」
「……」
ジャックは死んだ魚の目で彼女を見つめた。
「(……うん。先生も人間だし、こんな一面もあるだろう。知り得るとは思っていなかったが……)…そういえば何故嬉しそうにしていたんだ、ベルガ?」
「それは当然、
アイラの予想は正しく、その通りの意思がベルガからジャックに返って来た。彼女がにっこりと笑う。
「そうか……よかったな」
笑うベルガのすぐ近くで、アイラがどかっとソファに陣取った。
「ふぅ、喉が渇いたな!さあポルグス、ティータイムにしようではないか!」
「………」
何を言っても無駄だと思ったジャックは、心を無にして湯を沸かし始めた。
やがて用意できた紅茶をアイラの前に置く。一口飲んだ彼女が好意的な反応を示したので、彼は気になっていた話題を振ってみた。
「それで…ここで見聞きしたことを他言した場合、俺はどうなりますか?」
「もし私の耳に入れば退学だな」
あまりに厳しく理不尽なペナルティだが、大方予想はしていたので別段驚くことはなく、ジャックは「そうですか」とだけドライに答えた。
十数分の後、嵐のように騒がしくしたアイラが去って、ジャックが一息吐く。
「はぁ…。……君も疲れただろう、ベルガ。実体化の解除を…」
ベルガを戻そうとすると、彼女は首を振り、窓の外で夕焼けに染まる景色を指差した。
ジャックも振り向いて、赤い光を浴びる校舎を見る。
「……このまま出掛けたいのか。確かにこういう機会は滅多に作ってやれないからな。この時間なら人も少ないし、その服なら怪しくないだろう」
ジャックは妖精に向き直った。
「久しぶりに行ってみるか」
その声を聞いたベルガは、花の妖精らしい笑顔を咲かせた。
部屋を片付けて、クラブ棟から出る。ベルガから嬉しさの感情が伝わって来るので、ゾディアック構内を散策している間、ジャックも自然と笑顔になった。
寮の近くの道を抜けて、丘の頂上に着く。太陽系を模したモニュメントと案内板、そして水路が組まれた場所で、ジャックは妖精と共に沈み行く太陽を眺めた。
夕陽を受けているベルガは、着ている制服も相まってごく普通の赤髪の少女に見える。
「これからも世話になるな、ベルガ。もしもの時は頼らせてもらうぞ」
等身大の妖精は力強く頷くと、実体化を解除して空中に溶けていった。
「……そんな訳で、ベルガが制服を着ているのは俺の趣味ではない。わかってもらえたか?」
怪鳥を無力化した渓流の川辺で、ジャックは以上の事をアレクたちに説明した。
3人は頷くが、顔色はあまり良くない。
「ラリス先生の趣味……だったのか…。誰にも言わないようにしよう…」
「そうね。ジャック、貴方の妖精自身はこの格好を気に入っているようだからいいとは思うわ。でも…何というか……」
「ちょっとやり過ぎな気もしますね…。もし他の人に見られたら…どうすれば…」
3人とも、アイラへの憐み、或いは警戒がこもった感想を口にした。
「ふぇ?」
突然、目を伏せて考えているマリーにベルガが歩み寄る。そして、微笑みながら彼女の頭を撫で始めた。
「あ…あの…?」
マリーが困惑していると、ジャックが後ろからベルガに問いかける。
「おーい、ベルガ。どうした?」
彼女は振り返り、主人の質問に笑顔で返した。
「何でもないって…何だそれは…。まぁいいか。そろそろ実体化を解くぞ」
ベルガは頷くと、マリーに向けて手を振りながら消えていった。
「何だったのかしら…」
「さあ…?」
エマとアレクも、ベルガの仕草の意味を理解できずにいた。
「さて、あの鳥が起きる前にここを離れるぞ」
「煙を見た先生と合流できるかも知れないわね」
ジャックとエマの言葉に従って、集合場所に速足で向かう。
「あ…」
「む?」
4人が出発してしばらくすると、案の定、アイラと鉢合わせになった。
「あの緑の煙はお前たちか?何があった?」
「火を噴いてくるでっかい鳥に襲われたので、煙で撹乱してマリーに殴ってもらいました」
「何十メートルか向こうで伸びています」
アレクとジャックが淡々と答えた。ジャックが妖精を実体化させた事は、この場では口にしないでおく。
「よし、見て来よう。お前たちは先に集合場所に行っておけ。今なら最後の1組にはならん」
「お、それなら目立たないな。急ごうぜ!」
「ええ」
「はい!」
アレクの提案を皆が承諾し、走り始めた。その道中で全員がヘルメットと手袋をエマに返す。
(ん…?そういえば…)
そんな中、エマの顔を見たアレクはふと違和感を覚えた事を思い出した。ジャックの説明を反芻する。
(「雷は炎と相性が悪い。攻撃をぶつけ合わせても、互いに素通りしてしまうからな」)
その発言を元に、違和感の正体を探り始める。
(それが正しいなら、あの鳥が体中に炎を張った場合でも、エマの攻撃は鳥に届いたってことだよな。エマがそれを知らないはずはないし…。何より、今日はカノーネの時みたいなキレがなかった。何かぼうっとしてる感じで…)
今日の彼女はどこか妙だった。妖精すら使わず、常に逃げの一手。それに関わる動作もよくワンテンポ遅れていた。
何か、普段の彼女らしくないとアレクは感じたのだ。理由があるのだろうか?
「あ、広場に着きました!」
マリーの発言に、アレクの思考は一旦止まる。目の前を見ると、先に来ていた1組のヴィヴィアと目が合った。
「何だ貴様ら。泡を食って…」
「ああ、ちょっとした邪魔者に遭遇してな…」
アレクはかいつまんで事情を説明した。
「なるほど…。つくづく魔物に縁のある奴らだな、貴様ら」
「言ってろよ……」
「エマは平気なのか?」
ヴィヴィアに心配されると思っていなかったのか、エマは少し驚いた。
「あら、お気遣い感謝するわね。もう体も乾いたし、怪我もこれといってしていないから大丈夫よ。まぁ…疲れはしたけど」
「ほう。それなら良いが。ポルグスとギウスはどうなんだ?」
「あ…その。巨人さんが火傷しちゃいましたけど、私は平気です」
「俺は魔力が空だが、それ以外に問題はない」
「?!いや、問題はあるだろう!貴様、昼食を摂った後の実技講習はどうするんだ!!」
「ああ、そういえばあったな。できる範囲でやらせてもらうか。魔力が必要なときには見学に回ってやればいい」
「…まあ、考えがあるなら別に良い。邪魔したな」
そう言って、ヴィヴィアは4人の下から去ろうとする。
「おおいちょっと待て!」
「何だアレク・エルタ」
「何だ、じゃない!俺のことは?!心配も何もなしかよ?!」
「貴様は見るからにピンピンしているだろうが!誰が心配するんだ貴様の身など!」
「うわーずいぶん冷たいな!全く酷いぜ!あんたの事、本当は親切な人なのかな〜と一瞬思ったのに実際はそんなヤツだったんだへえーそうだったんだ!あんたはもっと常識的な人間だと思ってたのに!ガッカリだよこんなだったなんて!!」
「うるさい男だな!身勝手な期待が外れたくらいで泣き言を喚き散らしおって!!情け無いとは思わないのかこの恥晒しが!!」
「あー!ついに出しやがったな!道徳に背く発言を!!」
「事実を言ったまでだろうが!!」
「それが悪いって言ってんだよ!」
口喧嘩を続ける2人の周囲に、何だ何だと人集りができ始める。どうやら全てのグループが合流したようだ。
「なんだか、あの2人のこんなやり取りって久しぶりな気がするわね」
エマは、アレクたちの様子を、懐かしい物を見る落ち着いた目で見つめていた。
「と…止めなくてもいいんでしょうか…」
「先生が止める。ほら」
マリーが心配していると、ジャックが言った通り、アレクたちの横にアイラが歩いて来た。睨み合う2人は彼女に気付かない。
やがて彼女は両手を振り上げて拳を握り、それぞれをアレクとヴィヴィアの脳天に叩き込んだ。
「ギャ!」
「ぐうっ!」
2人が頭を押さえて地面に座り込む。
「全生徒が揃ったので、これより今後の活動の指示を出す。心して、
アイラはまず、ついさっき魔物が出現したが制圧に成功した事、昼食の後は予定通り錬金術の実技講習を行うと伝えた。
一行がロッジに向かう中、アイラがジャックを呼び止める。
「ポルグス、ちょっと来い」
「はい」
声を耳にしたジャックはすぐに歩く方向を彼女の方に変えた。
「おい、まさか…」
「あの…」
「心配するな」
彼の話を聞いていたマリーたちは不安になるが、ジャックは顔色一つ変えずアイラについて歩き去った。
ロッジに荷物を置き、昼食を済ませた生徒たち。キャンプ場の一角にある、黒々とした広い砂地に集まる。
全員が揃った事を確認したアイラが指示を出す。
「よし。お前たちには今から錬金術の基礎を実践してもらう。足下を見ろ」
皆が首を傾けて地面の砂を見た。
「ここにある砂は火山活動で造られた岩石が砕けた物で、他の種類の岩石と比べて魔力が通りやすい。今回の実技講習では、この砂に形状変化を与え、身長と同じ高さの壁を作ることを課題とする。これはシンプルな技術でありながら身を守るためにも有効だ。では登山の時のチームに別れ、配られた手引書に従って作業を開始しろ。注意事項には必ず気を配れ!」
一通りの指示を出し終え、彼女は固まり始めたグループの中へ分け入った。
アレクたちも集まるが、3人とも不安そうである。すると……。
「待たせたな」
軽く手を上げてジャックが合流した。表情は普段と変わらず、落ち込んだりはしていない。
マリーが真っ先に彼の前に飛び出す。
「ジャック!だ、大丈夫なんですか?!その…退学とか!」
それは彼女がなんとしても避けたい事態だった。慌てて声を上げる彼女の唇を、ジャックが人差し指で押さえる。
マリーは赤面するが、それに構わず彼は注意していた。
「声が大きい。周りに聞かれたら面倒だろう?」
「んぅ……」
彼女が頷いた後、ジャックは自らの処遇を説明する。
「俺に関しては特にお咎めなしだ。君たちがベルガの姿について正直に話さなければ退学はないだろう……というか、あのベルガを見られたとしても、彼女が制服を気に入っているという事実だけで十分説明になる」
彼の話を聞いて、アレクとエマがほっとした顔になった。マリーは安心したからか微笑む。
「よかった…」
「しかし、先生って凄いんだな。ジャックが全開の魔力で植物を育てたって事を見抜いたんだろ?」
「それくらい簡単よ、先生には」
「先生は寧ろそっちを心配していたな。俺の魔力は空になったから、実技講習を受けても意味がない」
「それです!どうするんですか?」
マリーからの質問に、ジャックは迷う事なくさらりと答えた。
「どうもこうも、見学するしかないだろう。ベルガの魔術は錬金術の一つだから、実技講習分の働きはしたということで先生も手を打ってくれた。それに……」
言葉を切った彼はマリー、アレク、エマの順に3人を見た。
「君たちを助けられたから、何一つ後悔はない」
3人は目を合わせて、嬉しそうに笑った。
「そっか。ありがとな、ジャック」
「……おう」
アレクからの礼を、ジャックは快く受け取った。
「さて、前置きはこれくらいにして。課題を始めましょう」
エマが音頭を取り、アレクたちは手引書を見ながら錬金術の魔術陣を地面に展開し、壁の形成を始めた。
ジャックはメモを取りながら3人の観察を続け、議論が始まると彼らに加わって積極的に発言した。
やがて壁が出来上がると、アイラがやって来た。彼女は出来が悪ければアドバイスを、出来がよければ採点してその場を離れた。
「上になるほど薄くなっているな。厚みは一定にしろ」
「強度に難有りだ。もう一度陣を見直せ」
「効率が悪い。ここは文字を使って短縮できるだろう」
何度もダメ出しされたアレクの気分は萎えて来たが、ジャックと話しながら壁を組むマリーを見ると心温まる気持ちになった。
彼女は緊張して顔を赤らめながら、しかし喜ばしい表情をしている。
アレクたち全員が実技講習を終わらせたのは、陽が傾きもうすぐ夕方という頃だった。
砂地を離れる生徒たちに混じってロッジに戻りながら雑談する。
「ようやく終わったな。なんだか疲れた……」
「ロッジで一休みしたら夕食、その後は風呂だな」
「夕食って……材料は用意してあるけど調理は自分たちでやるのよね?」
「そうですね。ルームメイトが教えてくださった技を使う時が来ましたよ!」
マリーの発言に、エマは驚いた。
「貴女のルームメイトって…ニーナよね?あんな見るからにお嬢様な人が、料理できるの?」
「はい!乙女の嗜みだとおっしゃっていましたよ!」
「本の影響を受けただけだと思うわ…」
マリーのルームメイトであるニーナ・スハイルがロマンス小説好きだという話は、ニーナ自身が誇らしげに語ることがあるため、女子寮ではよく知られている。
アレクはロッジに着き、自分に割り当てられたベッドに座った。ここは4人部屋であり、並んだ2段ベッドに窓があるだけの簡素な空間だ。
実習の間の彼のルームメイトは、クラスメイトでもあるリュウ・カン、4組のニール・アルマ、3組のショーン・サラスである。リュウとはそれなりに仲が良いが、他2人とはほとんど初対面であるため簡単に自己紹介をしておく。
リュウは眼鏡をかけた穏和で小柄な生徒だが、彼の家系に伝わる拳法と併用される魔術はかなりパワフルである。
しばらく談笑していると夕暮れ時が訪れた。キャンプ場の広場にはグループ毎の調理台が設けられている。アレクが割り当てられた場所に着くと、既にエマがいた。
「あら、また貴方と組むのね?」
「みたいだな。…不満か?」
「いえ、別に。貴方が料理できるなら、何も不満はないわよ」
「おう、任せとけ。……ん?」
エマの言葉を受け流していると、2人に近づいて来る人物がいた。背が高く、癖のある金髪が特徴的な男子生徒だ。
「よお。いつぞやの競技会じゃあ世話になったな?」
「あら、ジョン。元気そうね。このグループなの?」
「まあな。今日は味方同士って事で、俺らとも仲良くやろうぜ」
彼らと組む内の1人は、以前の新入生魔術競技会でエマと対戦したジョン・メンケンである。
「そう言ってもらえると嬉しいな。よろしく頼む、ジョン」
アレクはジョンに手を差し出し、彼もそれに応じて握手する。
「さっきのは、お前さんにも言ったんだがな…」
「ん?どういう意味だ?」
アレクが尋ねると、ジョンの後ろにもう1人、1組の生徒が現れた。長い銀色の髪をポニーテールにした女子生徒である。
「済まない、少し遅れ…あ」
「あ……」
銀髪の生徒…ヴィヴィアとアレクが目を合わせた。数秒の沈黙の後、アレクが口を開く。
「……マジかよ…」
「こちらのセリフだ。よりによって貴様と…?因果な物だな」
ヴィヴィアは額に手を当てて呆れたという仕草をした。
「なんだよ人を邪魔な虫みたいに…」
「なぁおい、頼むから実技講習の前みてぇな喧嘩はしねぇでくれよ?飯を台無しにされちゃあかなわねぇ。お前さんも腹減ってるだろ?」
ジョンがヴィヴィアの肩に手を置き、この場の平静を取り持つ。
「ふむ。それもそうだな。今回は見逃してやろう、アレク・エルタ」
「はいはい…」
全員で調理台の前に固まると、ヴィヴィアが声を上げた。
「よし!では料理の腕に自信のある者は手を挙げろ!」
腕を組み、胸を張って出した指示。
それに従って手を挙げたのは……アレクだけであった。
「……。お?全員自信ないのか?」
「生憎、料理の実体験は全然ないのよね」
「俺もだ。でも知識はあるからな、手伝いならできるぜ」
「私もよ」
「そうか。じゃあ頼む。それで…」
3人は腕を組んだまま驚きの表情で固まっているヴィヴィアを見やる。
「言い出しっぺのあんたが手を挙げてないのはどういう訳だ?」
「そりゃあ…料理できねぇんだろ?」
「なんで音頭を取ろうとしたのよ…」
エマは呆れの感情を、両手を上げて表現した。
微動だにせず冷や汗を流すヴィヴィアを放って置いて、3人は話を進めていく。
「さぁて、何からすりゃあ良いんだ?」
「そうだな…。取り敢えず2人は食材が置いてある所から適当な肉と野菜、それから小麦粉を持って来てくれ。その間に、俺は道具の手入れとかやっとくから」
そう言うと、アレクは包丁を取り出して刃の状態を確認し始めた。
「わかったわ」
「行ってくるぜ」
食材置き場に向かう2人の背中を見ていたヴィヴィアは、内心かなり焦っている。
(不味い…これは不味い!料理ができないのはヤツ…アレク・エルタも同じだと高を括っていたのがこれほど致命的だったとは…!これでは、料理の腕で…ヤツと戦わずして負ける事になる!どうすれば…一体どうすればいい…?!)
彼女が悶々と考えている間に、アレクは包丁を磨いてフライパンを眺め、フライ返しやコンロ、調味料といった品々の数と品質を確かめていた。
これらはコンロや流しの下に収納されている。
(研ぎはよし。フライパンはフッ素樹脂加工済みか。しかも2つあるとは都合が良いな。道具も一通り揃っているし、調味料は……岩塩、胡椒、オリーブオイル……高級品ばっかりだな。さすが王女立の学校が用意しただけはある…)
彼が感心していると、食材を取りに行っていた2人が戻って来た。
「持って来たわよ」
「済まねぇ、大したモンは残ってなかった」
流し台の横にジョンが抱えて来た段ボール箱を置く。中身は玉ねぎなど数種類の野菜と、キノコ、小麦粉、鶏肉。
それから。
「トマト缶って、野菜に含まれるのかしら?」
エマが赤いラベルの缶を取り出した。
「ああ。何にしても、これだけあれば4人分には足りるだろ。助かった。んじゃ早速…」
「待て!」
アレクが洗った手を箱に伸ばした瞬間、ヴィヴィアが声を上げてそれを掴んだ。
「え?」
「ここは……私に任せては貰えないだろうか!」
「お、おい、ヴィヴィア…?」
「何、心配はいらん。ほら、そこを退け!」
突然の行動に呆気に取られるアレクを押し退けて、ヴィヴィアが調理台の前に立つ。
「なぁヴィヴィア…無理すんなって…」
「そうよ。料理の経験がないのよね?」
「誰にでも初めてということはあるだろう?それが偶々、私にとっては今だっただけだ」
「それ、あんた1人で料理する時まで保留にするってのはどうだ?」
「舐めた口を聞くなアレク・エルタ」
「そうじゃなくてだな、俺はただ心配をしてるんだよ…」
「だから心配は無用だと…」
「…俺たちの体と調理器具、そして貴重な食材の」
アレクが放ったその一言で、ヴィヴィアはついに怒りを覚えた。彼女は口だけで笑い始める。
「ほほう?それはつまり、私の料理はまともな物にはならない…と、言いたいのだな、貴様は?」
「あっ…しまった…」
スイッチを入れてしまった事をアレクが後悔しても、もう遅い。
「では私が作った料理を食らって、採点してみろ!あんなことを言ったのだ、それくらいの覚悟はあるのだろうな?!」
(ヤバイ……ここで冗談だったと言ったら、ヴィヴィアの料理を信頼していることになる。本気だったと言ったら余計意地になって食わせようとしてくる……!何てこった!!)
この問いに頷いても、首を振っても、彼女が作った料理を食べるという未来は変わらないだろう。
そこでアレクは答える。
「わかったわかった。好きにやってくれ。でも最低限身の安全は守られるように、ちゃんと見させてもらうからな。余計な手出しはしないって約束するから」
「良いだろう!私がそんなヘマをする訳がないがな!」
2人のやり取りを見ていたジョンとエマは強い不安を感じていた。
「おい……大丈夫なのか、コイツは…?」
「なんだか嫌な予感しかしないわね…。アレクの言う通り、私たちもヴィヴィアの様子を見ておきましょう」
スケジュール:1日目
08:00 集合
08:20 出発
11:30 駐車場に到着・登山開始
13:30 キャンプ場に到着・ロッジにて昼食
14:20 実技講習(錬金術)
16:00 自由行動
17:30 夕食
19:00 自由行動
22:00 就寝
第1期1年団編 第1回ゾディアック新入生野外実習のしおり(1、2組用)より抜粋
ヴィヴィアは調理台の前に緊張の面持ちで立っていた。戦わずに敗北感を味わうよりは、ここで料理をやってみて、僅かな可能性に賭けた方が良いと判断したのだ。
もっとも、今になってはその判断を少し後悔している。
アレクたちが怪訝な目で見守る中、彼女は恐る恐るフライパンに手を伸ばす。
「ま、まずは…」
手に取ったそれをコンロの上に置いた。
「フ、フライパンを…温める」
「言葉遣いは間違ってないな」
「!!」
アレクからの一言が嬉しかったのか、ヴィヴィアはぱあっと笑顔を輝かせた。
「ええっ?!」
それを見たアレクが驚いたので、彼女も気持ちを切り替える。
「ん…こほん。ではこの間に…」
ヴィヴィアは包丁を手に取り……コンロのダイヤルを強火にして点火した。
「ニンジンとキャベツをみじん切りに…」
「はい。火を止めような」
アレクが突如身を乗り出してコンロを切る。
「何故だ?!」
「あんたがなんでだ?!」
「貴様ぁ…余計な手出しはしないと約束しておいて…」
「お前さん、空焚きって事をわかってねぇのか?!」
ジョンに問い質されたヴィヴィアは、目が点になった。
「か…空、焚き…?」
「あんたのことだ、みじん切りなんてしてたら時間かかるだろ?!そんな中あのフライパンを強火に晒し続けてみろ!樹脂コーティングがダメになるだろうが!」
「そうなのか?!」
「驚くなよ!!」
ショックを受けたヴィヴィアはエマの方を見た。そんな彼女に、エマが留めを刺す。
「まあ…常識よね…」
「なっ!!」
その言葉を聞いたヴィヴィアの顔からは血の気が引き、ふらふらと数歩退がった後に座り込んでしまった。
「…常識…常識…。私には…常識がなかったのか…?!」
「料理に関してはな」
「ぐおぉぉぉぉぉ!!」
アレクの追い討ちを受け、彼女は膝に顔を埋めて悲鳴を上げた。
「だ…大丈夫よヴィヴィア!今!今わかったから!それにこれから勉強すれば、
「おい、今『ごとき』って言ったか?」
彼の質問を無視して、エマがヴィヴィアを慰め続ける。
「泣かないで…」
「うるさい!下手な慰めは言うな!!あと泣いてない!!」
嘘である。
「とにかく、できるだけのことをやりながら彼を見て、料理も味わって。次に繋げた方が賢明でしょう?」
「それはわかっている…が…」
「どうしたのよ?」
ヴィヴィアは涙目を釣り上げて、上目遣いでアレクを睨んだ。
「屈辱だ…。こいつに教えを乞い、その上施しを受けるなど…!」
「そうね。その悔しさを活かして生きましょう」
「俺は何扱いなんだよ?!あと賛同するなエマ!」
ヴィヴィアはその後も呪いの文言を呟き続けた。そんな彼女をエマがなだめ、アレクは背後から伝わって来る濁った空気にうんざりしつつ料理の手を進めた。
そんな彼の助手としては、ジョンは中々に優秀であった。
しばらくして、アレクが作った料理が近くのテーブルに置かれた。
メインはトマト缶とコンソメで味付けされた、鶏肉とキノコのホイル焼き。
サラダは小麦粉を水のみで練って焼いた生地に野菜が巻かれた、クレープのような物。
食器の用意はエマが、飲み水の確保はヴィヴィアが行った。
暗く濁った目で水の瓶を片手に2本ずつ持って歩く彼女を見た者は、自暴自棄になって酒に溺れた人物にその姿を重ねてしまい恐怖を味わったという。
「サラダのドレッシングはオリーブオイルに粗挽きの岩塩を混ぜただけのシンプルなやつだ。これに関しては塩と油の品質によるから、不味くても文句は言うなよ?」
アレクが釘を刺し、4人でテーブルを囲んで食事を始める。空は既に暗く、広場の所々に設置された照明が彼らを煌々と照らしている。
「おお!う、美味え!イケるぜ、このドレッシング!」
「鶏肉もキノコと一緒に味が染みていて…悪くないわね」
「そりゃあ結構。俺としても狙い通りの味だからな。これがいいんだ、これが」
「ヴィヴィアはどうかしら?」
エマからの問い掛けに、まだ暗い顔のヴィヴィアはボソリと答えた。
「……敗北と屈服の味だ…」
「もっと原始的な感覚に訴える感想を聞かせてちょうだい…」
そんなこんなで食事を終え、道具の後片付けをしている間にヴィヴィアの表情は元通りになった。
「お、飯食って元気出たみてぇだな」
食器の水気を取っているジョンからの指摘に、彼女は頷く。
「どうやらそのようだ。おい、アレク」
「ん?」
シンクを磨く彼が振り返った。
「今回は生憎と一本取られたが……明日のアスレチックでの勝負では必ず勝ってみせるからな!」
「げ…忘れてた……」
アレクが思い出すと同時に、エマが戻って来た。
「ゴミ出して来たわよ。……アスレチックで競走って言ったかしら?危ないわね…」
「俺もそう言ったんだけどな?この人聞いてくれないんだよ…」
「まぁ怪我しなけりゃいいんじゃねぇのか?」
「そうそう。だから俺は安全第一で行く」
アレクの発言を聞いたヴィヴィアは得意気に笑う。
「フッ。せいぜい足掻いて見せろ。……それはそうと、この食器の箱を指定の場所に返せば片付けも終わりだな」
「ああ。ようやく休めるぜ…」
「んじゃ、こいつは俺が持って行く。ここで解散にしよう」
「お前さんに任せるぜ。じゃあ、いい夢をな」
「おう!」
「お疲れ様」
ジョンとヴィヴィアが離れて行き、アレクとエマが並んで歩き始める。
「ここの風呂って、確か天然の温泉に浸かれるんだっけ?」
「ええそうよ。私、初めてだから結構楽しみなの」
「ふーん。…ん?」
ふと背後に気配を感じた2人が振り返ると、マリーが走って来た。
「あっ!エマ!アレク!」
「どうしたんだ、マリー。そんなに慌てて」
「こ、これ!見てください!」
彼女は携帯電話を取り出し、画面に表示されたジャックとのメッセージのやり取りを二人に見せた。
『お風呂から上がったら、近くの展望台に来てください』
そのマリーの言葉に、ジャックが短く返信していた。
『了解』
その画面を見つめたエマが声を漏らす。
「これって…」
「はい!彼が私のお誘いに乗ってくれたのです!」
「おいおい、喜ぶにはちょいとばかり早いんじゃないか?」
「わかっています!彼より先に展望台に行っておきたいので、今から急いでお風呂に入ってきます!」
「湯冷めしてしまうわよ。お風呂まで一緒に行ってあげるから落ち着きなさい」
「あ…!ありがとうございます!」
笑顔を向け合うエマとマリーを見ていたアレクは、抱えた箱に目をやって歩く方向を変える。
「(本当は心細かったのかね…)俺はこれを持って行くから、ここからは別行動だ。頑張れよ、マリー」
「はい!」
「ではまた、ね」
「おう」
足早に去って行く2人を見送り、微笑んだアレクは1人、目的地に向かった。
「はぁぁ~…」
エマは溜息を吐く。普段のそれとは違い、リラックスしているからこそ溢れる吐息だった。
ここはキャンプ場に併設された温泉施設の広い露天風呂、その女湯である。浴槽が特別に大きい訳ではなく複数が設置されているため広い。
それらの浴槽は岩を集めて作られていて大変趣がある。
見上げれば立ち昇る湯気の向こう、澄んだ空で輝く星々を眺めることができる。
彼女は体にバスタオルを巻き、足を伸ばして肩まで浸かっていた。
「心地良いわね、気に入ったわ。緊張も解れてくるでしょう、マリー?」
エマの隣では、マリーが白く細い体を湯に沈めていた。
「そうですね…。こうしてしばらく浸かっていれば……リラックスして告白できそうです…」
「誰に?」
「「うひゃああ?!!」」
背後から突然話しかけてきた声に驚き、エマとマリーは悲鳴を上げて勢いよく振り返った。衝撃で叩き出された湯が声の主にかかる。
2人の視線の先には黒髪の少女がいた。
バスタオルを巻いていても、エマを上回る筋肉がしなやかに、無駄なく付いていることがわかる鍛え抜かれた肢体の持ち主……
「サラ?!驚かさないでよ!」
「びっくりしました。でも…どうして?」
サラは石畳をひたひたと歩き、マリーの横に足を浸けて腰を下ろす。
「…お前たちと話がしたくて。無粋だったら…謝る」
マリーは慌てて手を振る。
「そ、そんなことないです…!私は…その。ジャックが好きで…それで…」
「ジャック…。……。おいしい紅茶の彼?」
「はい!彼ですよ!」
「サラ…貴女の中でジャックってもう紅茶の人なのね?」
「……自分は、おいしい紅茶を淹れている彼しか知らない…から。お前の気を悪くしたなら、ごめん、マリー」
「いえ、いいんですよ。私は彼とは幼馴染みで…いろんな面を知っているだけですから」
「そう…。昔から、彼が好き?」
「えと……。そう、ですね。いつから好きなのかわからないくらい、ずっと…」
湯に浸かっているマリーの顔は桃色になっていたが、サラと話すうちに赤くなってきた。
柔らかく微笑んでいたサラは、ふとマリーの背中に目が留まった。手を伸ばし、ぺたぺたと触る。
「ひゃっ?!ど、どうしたんですか、サラ?!」
くすぐったさに驚いたマリー。そんな彼女に対して、正面に来て湯に浸かったサラが真剣な目つきで答える。
「肋骨の凹凸が…見てもわかるほど浮いてる…。どうして、お前はこんなに痩せた?」
「あ、えと…。巨人さん…妖精を身につける修行をした時に、体質が変わって…それで……」
「ジャックが…きっと心配してる」
「それは…わかっています。体調を崩してしまった後は、実際に心配をかけていましたから。でも、そんな彼が心配しなくて良くなるのはきっと、私が彼を頼った時で…それでは迷惑をかけてしまいます…。それで嫌われたら…私は…」
不安な顔のマリー。そんな彼女の手を、サラが取ってきゅっと握った。祈るように優しく語りかける。
「大丈夫。彼は…お前に頼りにして欲しいと思ってる」
「…?どうしてですか?」
「彼もお前と同じ関係。お前のいろんな面を知ってる。お前が…しっかり気遣いできる人間だということも……絶対に理解してるから」
その言葉を聴いて、マリーは眼前の霧が晴れるような気分になった。
「そう…ですか。私はただ…彼を信じて任せればいいのですね…」
サラは頷くとまたマリーの横に座った。
「ん。ジャックに心配かけたくないなら……運動して筋肉を鍛えてみるといい。きっと今より元気になれる。自分ならいくらでも付き合う」
「…はい。わかりました。ありがとうございます」
サラとマリーが微笑み合っていると……存在感が湯煙に遮られ薄くなっていたエマが咳払いした。
「こほん。それはそうと、サラ。貴女にはマリーのように想いを寄せる人はいるのかしら?」
質問を聞いたサラは思い出すように夜空を見上げ、しばらく考えてから口を開いた。
「……いない」
「あら、本当かしら?例えば…アレクとは親しくしているようだけれど?それにジョンともよく話していると聞いたわよ?」
「…?ああ、その2人……仲は良いとは思う…けど。アレクは、自分に友達ができるきっかけを作ってくれた恩人で、同志。ジョンは…一緒に死戦を潜り抜けた仲。恋人になりたいと思う相手じゃない」
サラの返答に、エマは顔を引きつらせる。
「い、意外と硬派なのね、貴女……」
「かっこいいですよ!」
反対に、マリーは目を輝かせていた。
しっかり体を温めて厚着をしたマリーが温泉から出て、懐中電灯を頼りに展望台へ向かう。
時間はもう夜。気温はぐんと下がっているが、今の彼女なら平気だ。
案内板を見て、山肌から突き出た岩場に続く階段を登る。月明かりに照らされた見晴らしの良い場所には、既に先客がいた。
「君か。早かったな」
「ジャックも…ずいぶん早いですね」
細長いベンチに座っている彼の左に、マリーが腰を下ろす。
ジャックも風呂から出たばかりのようだ。胸を高鳴らせる彼の湿った髪や顔から目をそらし、宝石が散りばめられたような空を見る。
「……綺麗な空…」
「ああ」
ここは山の上。遠くの街明かりも、キャンプ場の施設の明かりも遮られ、空気が澄んでいるため星の光がくっきりと見える。
頭上にうっすらと伸びる天の川。それが立ち上る東の空……2人の正面では
少しして、ジャックが口を開いた。
「君と2人だけで過ごす時間は、久しぶりだな」
「はい…。あの、迷惑でしたか?」
「いや、嬉しいくらいだ。昼間のこともあったし、こうして無事な君といると……安心できるからな」
そう言った彼の方を見ると微笑んでいた。その優しい顔に、マリーは見惚れてしまう。
「あ、安心…ですか…」
「ああ」
「それは…その。私も同じ…です」
「同じ?」
「はい。それで…あの……っ!」
意を決した彼女はジャックとの間隔を縮め、肩と肩を触れ合わせた。
「ジャック…。私たちは、小さな頃から一緒で…貴方は辛い時にいつも助けてくれました。守ってくれました……」
「……」
「迷惑をかけても一緒にいてくれて…私が距離を置いても、貴方は戻って来てくれました……」
「……」
思い出を振り返りながら連なるマリーの言葉を、ジャックはただ黙って聴いている。
「それで…えと、その。て、提案があるのですが…」
「……」
彼が頷くと、マリーは照れながら打ち明けた。
「私たちの関係を…もっと前に進めてみませんか?今までのお友達から、その…こ、恋人に…!」
緊張感から目を閉じたマリーが再び目を開けると……
この上なく幸せそうに微笑むジャックがいた。
「いい考えだな。俺もそろそろ頃合いだと思っていた」
「わっ?!」
彼は唐突にマリーの肩に手を回して軽く抱き寄せる。
驚いた彼女もすぐに落ち着き、彼の胸に頬を埋めた。厚手の服が柔らかく迎えてくれる。
「あ、あの……本当に私でいいんですか?」
「君がいいんだ。…以前、君が寝込んでいた時…俺はもっと君の側にいたいと…君と過ごす時間の全てを無駄にしたくないと思った。だから、君がいい」
「でも、きっと…これからたくさん迷惑をかけると思います。体が痩せて…壊れやすくなっています。これから寒くなりますし…」
「なら、大切に扱うだけだ。寒さからも必ず守る。前の冬のような辛い思いはさせない」
彼の一言一言がマリーの胸に染み込み、たちまち心をいっぱいにした。
溢れた分が涙となって流れる。
「っ…。本当、ですか?」
「ああ。約束する」
「では…」
マリーが左手を彼の前にかざすと、ジャックはそれに右手の指を絡めて握った。
そしてそっと唇を重ねる。
それだけの浅いキスだったが、2人の絆を確かめ合うには十分だった。
幼い頃より時間をかけて信頼と友情を築き、そして今。
ようやく愛情で繋がった。寄り添う2人を、同じように身を寄せ合う双子座が天空の彼方から見下ろしている。
「ただ今戻りました…」
展望台から女子生徒のロッジに戻ったマリーは、自分たちが使っている部屋に入った。ジャックはロッジの入り口まで付き添ってくれた。
「む?遅かったな。早めに風呂に行ったと…?!」
マリーと同じ部屋に泊まっているのはヴィヴィアである。彼女は戻って来たマリーの顔を見て驚いた。
「ど、どうした?貴様、そんなに腑抜けた顔をしていたか?」
「腑抜け…?なんの事ですか…?」
「何があったらそんなに幸せそうにニヤニヤできる?!」
マリーは今にも蕩けそうな笑顔だった。
「幸せ…?そうですね、幸せです…」
「だから何があったのかと…」
「今宵はよい夢が見られそうです。皆さんよりも一足早くお休みしますね……」
マリーはヴィヴィアを無視して、部屋にいる他2人の女子生徒の視線も気にせず、着ていた服を荷物の上に置き、自分のベッドに潜り込んだ。
彼女の言動が理解できなかった3人が顔を見合わせていると、数十秒と経たずに安らかな寝息が聞こえ始める。
1組の生徒であり、マリーとあまり話していなかったヴィヴィアは彼女がジャックに惚れている事を知らない。
また、一緒に泊まっている2人は4組の生徒であるため、普段接点がない彼女の事情を知る由もなかった。
マリーは夢の中で、昼間に頭を撫でてきたベルガから感じた意思を思い返していた。
『どうか主人の側にいて……』
その意味を理解した彼女は、微睡に飲まれつつある極めてぼんやりとした意識の下、答えを導いた。
(はい…絶対に…彼から離れません…)
生徒が皆寝静まった頃。
アイラは自ら使っているロッジの部屋で、ある資料と睨み合っていた。
(今日捕らえたあの魔物…。名称はパッシオで、生息地はここから数百キロ離れたオールト山脈。そこの保護区域に縄張りを持つパッシオが、これほど移動するという話は聞いた事もない)
資料のページをめくると、歪んだ五角形のロゴマークが付いた報告書に辿り着いた。
(拘束した上で保護区域に移送。請負いは獅子出版傘下の企業…私営魔物研究機関、“
そこでふと手が止まる。
(む?
真相を確かめる術はない。
謎を残したまま、キャンプ場での夜は更けて行く。
タイトルは毎回天文学用語に寄せているので、ストーリーの中身より難産なときがあります。他のエピソードに使うと決めているワードと被らないようにしていますので……。