ホテルの間に止めていた黒のオープンカーに二人は急いだ。
「ほら! 早く乗って! 」
最初に運転席に乗り込んだのはフレン・E・ルスタリオだった。大急ぎでキーを回すと、
急に叩き起こされたの気に食わなかったのか、エンジンは不規則にけたたましく唸り始めた。
続いて、助手席に乗り込んできたのは
肩で息をしている緑仙は大事そうにパンダのシールの貼られたノートパソコンを抱えていた。
「もー。僕はこういう体力系の仕事は向いてないって言ってるじゃん! 」
二人が出てきたホテルの中から怒号と悲鳴。それに発砲音が外まで響き渡ってきていた。
「あの二人は!? 」
フレンが後部座席を振り返るが、そこには誰もいなかった。
「先に逃げちゃう? 」
「駄目に決まってるでしょ! 」
「へーい。」と一言呟くと、緑仙は流れ弾に当たらぬように態勢を低くしようと
助手席に体を深く埋めていった。
ホテルの地下から続く階段をダッシュで駆け上がる二人の後ろからは複数の屈強な
黒服の男たちが追いかけて来ていた。しかも、皆が皆で揃って物騒な
そこから放たれた銃弾が二人を掠めていたが、幸いにもここまで無傷で到達できていた。
「へっ。クソエイムが。」
先を走るイブラヒムが相手に聞こえない程度な声で挑発をしていた。
彼の右手には、何とか片手で持てるほどの特大のダイヤモンドが握られていた。
「それ...何かのフラグじゃないよね? 」
後に続くメリッサ・キンレンカは呆れた顔でため息をついた。
走り続ける二人の視線の先に階段の終わりが見えてきた。上り切れば出口はすぐそこだ。
疲れ切った二人の足取りが自然と軽くなっていった。
「よし! もうすぐ...。」
イブラヒムが勝利を確信しようとした時だった。どこから現れたのか二人の黒服が
階段の上に立ちはだかっていた。
「あー。やっぱりフラグかー。」
そう言いながらも、メリッサはイブラヒムに目で合図を送った。
イブラヒムもメリッサの目線を確認すると、二人は黒服へ向かいスピードを緩めることなく、
突っ込んで行った。黒服の二人もある程度は予測していたのだろうかスクラムを組むように
態勢を低くし、迎え撃とうとしていた。
二人は黒服の少し手前で体を急停止させた。黒服も意表を突かれたのか、一瞬の隙が生まれた。
透かさず二人は同時に黒服の股間を思いっきり蹴り上げた。
黒服の声にならない声が悲痛なハーモニーを奏でたと思うと、あっという間に二人は
股間を手で押さえたまま床にへたり込んでしまった。
「おー。痛えー。」
イブラヒムは心の底からの同情の言葉をすれ違い様に送った。
「むーさんもやってん...うわ! 」
メリッサが何かを言いかけてイブラヒムの視界から外れていった。
イブラヒムの中で世界が。今この瞬間が。スローモーションのように動いていた。
イブラヒムが振り返ると後ろに倒れこむように階段を落ちかけているメリッサの姿があった。
なんだ?
よく見ればメリッサの右足首を握る手があるのがわかった。
それは先ほど倒した黒服の内の一人が最後の力でメリッサを後ろへと引っ張っていたのだ。
メリッサは近くに掴まるものもなく、不安定な態勢ながら力いっぱいイブライムの方へと
右手を伸ばした。
それに応えるようにイブライムも急いで右手を伸ばそうとした。
しかし、その手には特大のダイヤモンドが握られていた。
このダイヤモンドこそ。今回の目的。そして、皆の報酬の源。
時間にすれば、本当に数秒の出来事だったろう。イブラヒムはそのダイヤモンドを手放し、
右手を伸ばせばメリッサの手を掴めた。
一瞬だったのだ。本当に一瞬だけのことだったのだ。
イブラヒムの心に迷いが生まれていた。その結果、差し伸ばしかけた右手を下し、
代わりに左手を差し出した。
イブラヒムの左手はメリッサの右手を掴みかけた。と思った次の瞬間だった。
彼女に右手が、するりとイブライムの左手をすり抜けて行く。
右手を伸ばしたままのメリッサの体はゆっくりと階段の方へと沈んでいった。
「ごめ...。」
メリッサは最後の言葉だけを階段の上に残して、階段を転げ落ちて行った。
一年後。『スナック HELLエスタ』
「いらっしゃい。」
四人掛けのテーブル席が二つとカウンターが五席だけの大きくない店内。
カウンターの中に居たのはスナックに似つかわしくないメイド服姿の可愛らしい女性だった。
その可愛らしい見た目とは裏腹に達観したように表情の変化は乏しいようにも見えた。
イブライムが入り口から一番近いカウンター席に腰掛けた。半年間座り続けてる指定席だった。
「いつもんでええの? 」
「お願いします。」
イブライムの答えを聞く前から用意していたのではないかと思う早さでグラスとコースターが
出された。コースターには店のシンボル三つ頭の犬がコミカルに描かれていた。
グラスの中では銀色の泡が気持ちよさそうに無色透明の液体の中を浮遊していた。
イブライムはグラスを口に運ぶと、乾いた喉を潤していった。
目の前ではメイド服姿の女性が手際よく冷蔵庫から食材を取り出していた。
「カラン」と入り口の扉に付いていたベルが鳴った。
「いらっしゃい。」
メイド服の女性が顔だけを入り口に向けて出迎えた。イブライムも女性につられて、
顔を入り口の方へと向けてみると、そこに立っていたのフレンだった。
「とこママ。お邪魔しますね。」
「どーぞー。」
『とこママ』こと
戌亥は一人で此処を切り盛りしていた。妙な安心感と美味しい料理(芋料理中心)が人気の店だ。
フレンは何も言わずにイブライムの隣に腰かけた。イブライムも反応するわけでもなく、
目の前で戌亥が焼いているミートパテの焼き加減を眺めていた。
「そろそろ...戻らないの? 」
イブライムの顔を見ることなくフレンが問いかけたのだが、イブライムは何も答えなかった。
ただただ、目の前で焼かれているミートパテの香ばしい音と香りだけが室内に充満していった。