丁度ハイボールを飲み切ったところだったでびるは、皆の視線が自分へと向けられていることに
何とか気付けた様子で皆の顔を見回していた。
「今、誰か僕のこと読んだぁ? 」
誰がどう見ても仕事の話をするような状態ではなかった。チャイカもカッコよく話を
振ってみたものの、相手の状態確認を怠っていた。気まずい雰囲気が店内に流れる。
「...うん。まぁ。あれだ。金庫室って言っても密室では無いってことだ。」
チャイカは何事も無かったかのように続きを話し始めた。野暮なツッコミを入れるものは、
幸いにも居なかったのがチャイカの救いだった。
「地下二階なのに『窓』から入ろうとでも言うつもりかい? 」
「...なるほど。地下か。そういうことか。」
緑仙の冗談めいた言葉でイブラヒムはチャイカが言わんとしていることに気付いたようだ。
当の本人である緑仙は何のことか事かは分かっていないようで、ポカンとした顔でイブラヒムの
顔を眺めていた。
「イブちゃん。どういうこと? 」
「まぁ。フレンにはわからんよな。地下ってことはあるはずだ。換気用の設備が。」
「イブラヒム君、御名答。設計用図面にも記載されている。そこが我々の唯一の勝ち筋だ。」
遂にその日を迎えた。ホテル近くのウイークリーマンションの一室に七人は集まっていた。
プレオープンも残すところ後二日間。チャイカの情報により、前日にターゲットのダイヤモンドが
ホテルの金庫に運び込まれていたことは確認できた。
それぞれがこの時のために種を蒔いてきた。現にこの部屋の中には既に緑仙の指示により、
様々な機器が準備されていた。緑仙はホテルには同行せずにこの部屋での大事な仕事が任された。
緑仙の仕事はメンバーへの指示とホテルのシステム面の掌握だった。
監視カメラ映像にエレベーターの動作管理などだ。事前にチャイカたちによって、
専用のウィルスと中継機器の設置も完了していたのだ。
「どー? みんな聞こえてる? 」
メンバーへのインカムに対して、緑仙が何時もより少し高い声で呼び掛けた。少し声が高いのは
緊張なのかとも思ったのだが、ニコニコと珍しい玩具で遊ぶような表情を見るからには、
どうやらそうではないらしい。
「みどりー。オッケーよ。」
すぐに返事をしたフレンの表情も緑仙同様に明るかった。元来、暗い表情を見せるタイプでは
無かったのだが、それにしても何とも楽しそうな表情をしていた。
そんな二人の表情を少し離れた所からイブラヒムは見ていた。それは見慣れた光景のはずだった。
でも、凄く懐かしくもあり、凄く遠くにあるような不思議な光景だった。
「イブちゃんも聞こえてる? 」
自分たちの表情を見つめているなんて思ってもいなかった緑仙がイブラヒムに声をかけた。
傍から見れば虚空を見つめているようにも見えたイブラヒムを少し心配して声を掛けたようだ。
「ん? ああ。聴き心地が良すぎてASMRかと勘違いしちゃいそうだな。」
「あら。それなら動画でも作ってようかな。」
皮肉たっぷりに可愛らしい声を出した緑仙は、表情を変えることなく忙しそうな手つきで
キーボードを叩き続けていた。
「ルイスさんとでびる様は準備良いですか? 多分一番大変だろうから。」
「ふむ。僕は常に万全を期しているから問題ないぞ。怪盗はどうだ? 」
今回の作戦のキーを担っている二人を心配して、フレンは二人に声を掛けたのだが、
でびるは平常運転の様子だった。それが安心するべきなのか、心配するべきなのかは
わからなかった。
ルイスもニコニコと無邪気な笑顔を浮かべて「楽しみですね! 」とフレンの心配なんて
何処吹く風と言ったところだろうか。
二人が準備を完了させると、イブラヒム、フレン、白雪、叶は表に止めてある車まで
向かうべく部屋を出ていった。
緑仙は誰も居なくなった部屋の中で、世話しなく動かしていた手を止めた。
椅子の背もたれに思いっきり背中を預けて、伸びをすると小さな声で呟いた。
「good luck...イブちゃん」
カジノの地下一階に用意されているスタッフ用の休憩部屋には椎名とチャイカがいた。
二人はお揃いのミネラルウォーターを飲みながら、その時を待っていた。
「リーダー。いよいよやね。ほんまに上手く行くんか? 」
「...うむ。『細工は流流仕上げを御覧じろ』ってな。そんなことより...私をリーダーと
呼ぶんじゃないと何度言えばわかるんだ! 」
そう言うとチャイカは空になったペットボトルを専用のゴミ箱の中へと放り込むと、
そのまま部屋を出て行った。
念には念を入れて、ホテルの駐車場ではなく近くのコインパーキングへと車を止めた四人は
歩いてホテルへと向かっていた。普段とあまり変わった様子もなく叶と白雪は歩いていた。
その少し後ろにイブラヒムとフレンが並んでいた。イブラヒムの手に大きく、重そうな
ボストンバッグを持っていた。
イブラヒムはボストンバッグを右から左へと持ち替えた。それは重かったということもあったが、
手の汗を拭きたかったからだった。普段こんなに汗はかかないのだったが、イブラヒムには
その原因がはっきりとわかっていた。ボストンバッグの重さも、その原因の一つではあった。
だが一番の原因は緊張だった。それは新学期に新しい教室に入る前の気持ちのようなものとは
少し違った。
この気持ち。楽しくないと言えば嘘になる。一年振りのこの高揚感...この罪悪感...。
それと同時にフラッシュバックする『あいつ』の笑顔...階段を転げ落ちていく姿...。
本当に上手く行くのだろうか。皆で無事に帰ってこれるのだろうか。今度は...守れるのだろうか。
そんな気持ちをイブラヒムは声に出していた訳ではなかった。
それなのに...。
気が付けばイブラヒムの手を誰かが握っていた。フレンだ。
フレンは前を見たまま何事も無かったように歩いていた。イブラヒムは声を出すことも、
その手を離すことも出来なかった。
フレンの手は温かかった。そして、力強くもあった。
そうか...。
そうだよな。
イブラヒムだけがしんどい訳じゃなかった。イブラヒムだけが辛いんじゃなかった。
そんな事もわかってないかったなんて。いや、分からない振りをしていたのかもしれなかった。
その方が楽だったから。
イブラヒムが強く握り返した。それが彼が出した答えでもあった。
それに反応したフレンが初めて驚いた様子でイブラヒムの顔を見つめた。
四人の前に巨大で煌びやかな建物が見えてきた。
その驕慢と欲望に満ちた光たちが暗闇に照らし出したものは、フレンの目に薄っすらと溜まる涙と
嬉しそうに微笑む顔だった。