白雪は思わずアンジュの真っ赤なショートヘアーを優しく撫でていた。
アンジュは僅かながら身じろぎするものの、起きるような気配は全くなかった。
カウンターに突っ伏したまま気持ちよさそうに寝ている彼女の寝顔を見ていると
無性に抱き締めたくなってしまうのだが、何とかその衝動を抑え込んでいた。
「この子、酒弱いんか?」
カウンター越しに戌亥が心配そうな顔でアンジュの顔を覗き込んだ。
「強い方ではないみたいだけど、お酒が原因で寝たんじゃないわよ。」
白雪は戌亥に見せつける様にポーチから小瓶を取り出した。
中には透明な液体が入っていた。
「これを彼女がお手洗いに行っている間にお酒にちょっとだけ...ね。」
そう言いながら白雪はウインクして見せた。
「...はぁー。うちは一切関与してへんからな。」
「安心して! 体には
「ほー。そりゃ安心やね...って、ならんよ? そう言う問題ちゃうから! 」
やはり、薬の効き目は上々のようだった。頭上で行われていた戌亥の
華麗なノリツッコミにも反応を示すことはなかった。
「さてと...。」
白雪は小瓶をしまうと、代わりに小さな台紙のようなものを取り出した。
その台紙にアンジュの両手の指を一本ずつ押し当てていった。
腕が彼女自身の枕代わりになっていたので、若干やり辛くはあったものの、
熟睡状態のアンジュには成すすべもなかった。
「これで良しと...もう起こしちゃっても大丈夫だもんね。」
全ての指に対して作業を終えると、白雪は今まで我慢していた感情を解放させた。
寝ているアンジュの後ろに回り込むと、アンジュを包み込む様にして
彼女の背中に抱きついたのだ。
「何してんねん...。」
唖然とした顔で戌亥が声を漏らした。
「とこママ...私ね。実は
「はぁ? 」
「騙すのも...愛でるのも。」
そう言うと、白雪はアンジュの赤い髪を掻き分けて、白い柔らかな頬に
優しくキスをしてみせた。
流石のアンジュも異変に気付いたようで寝ぼけた様子でゆっくりと瞬きをしていた。
「あれ...白雪さん? 顔が...。」
寝起きの可愛さの破壊力に我慢出来ず、アンジュが目覚めているにも関わらず、
再び頬にキスをプレゼントした。
「へぇ? 白雪さん!? 」
漸くアンジュは、今起きているのが夢のような現実であることに気が付いたようだ。
慌ててカウンターから体を起こすと、自身の髪色と同じ様に顔を紅潮させて
白雪を見つめていた。
「ごめんねー。アンジュさんが余りにも可愛くって...。」
「えー...。あの...そうですよ! 私、寝ちゃったんですね。私としたことが
大変失礼なことを。」
アンジュは顔を真っ赤にしたまま、急いで別の話題に持っていた。
謝るアンジュを白雪は笑って宥めると、ホテルまで送るよと伝えた。
アンジュは少し迷っていたが、断り切れずに二人は店を後にした。
「おおきにー...アンジュはんに神のご加護を...まぁここは『HELL』やけど。」
二人が闇夜に消えた後、戌亥は片付けと洗い物を始めた。
特にアンジュの使っていたグラスを重点的に何度も洗わなきゃと袖を捲り上げていた。
叶が座ったテーブルの周りには気が付けば多くのギャラリーが出来始めていた。
ディーラーである夜見と叶の熱い戦いは続いていた。戦いと言っても叶が大勝の状態だった。
叶の手元にはチップの山が築かれており、このフロアで今や時の人となっていた。
もちろん、叶自身に備わっていたギャンブルの才もあったのだが、何よりも夜見の腕が
重要なポイントとなっていた。叶の才に気付いている者は中にはいたことだろう。
だが、それを影からコントロールしている才である夜見のテクニックに気付いている者は
まだ一人もいなかったかもしれなかった。
そう。このゲームは二人の演者による『
今も尚、吸い寄せられるようにギャラリーは増え続けていた。
カジノの地下一階にあるセキリティールームでも、その異様な光景は確認されていた。
担当者が可動式の防犯カメラを操作し、叶の手元をアップにしたりと確認はしていのだが、
イカサマをしているという確たる証拠は見つけられずにいた。
しかしながら、その異常なまでの勝ち方に不信を抱いていた担当によって、アンジュへと
確認の連絡が入れられたのは間もなくのことだった。
夢追はカジノホール内で重要な客人へと挨拶と対応に追われており、代理として社長秘書である
アンジュへの連絡となったのだ。
アンジュはカジノホール内で連絡を受け、急いでセキリティールームへと向かった。
セキリティールームへと到着したアンジュは複数のカメラを自分自身で操作し、叶の挙動や表情を
真剣な面持ちで観察してみた。
こう言うこともあるだろうと、夢追はアンジュに過去の実例映像からイカサマのやり方を解説した
動画などを資料として日頃から見せていた。
そんなアンジュの目を通して見ても、はっきりとした確証を得ることが出来なかったのだが、
目の前で行われている勝負に何か違和感を抱いていた。
「なんだろう...何か...。」
何かある。その『
鳴らしている気がした。
アンジュは叶の遊戯しているテーブルナンバーを確認すると、急いで夢追の元へと向かった。
夢追は今日何組目かの『接待』を終え、一息ついていた。
関連企業の役員やらスポンサーたちの相手も楽ではない。
お世辞にもイケメンや美人とは言えないパートナーを褒めちぎったり、会ったこともない
孫の自慢を延々と聞かされたり、興味もないゴルフの話を切り出したり...。
全く...これなら政治家の街頭演説でも聞いている方がまだ有意義ってもんだ。
「社長!」
背後から声を掛けられ咄嗟に営業スマイルで夢追が振り向くと、そこには不安そうな顔をした
アンジュが息を切らしながら立っていた。
「どうしたんだ。そんな顔して? 」
「はい。実はブラックジャックで少しおかしな動きが...。」
アンジュはこれまでの経過と現状を自分が感じた違和感を含めて報告した。
「なるほどね。さっきから視界には入ってたけど、あのギャラリーはそういうことだったのか。」
そう言うと夢追は叶たちのテーブルへと向かっていった。
「カメラで確認されないのですか? 」
アンジュの呼び掛けに立ち止まり、振り返った夢追はニッコリと微笑んで見せた。
「カメラから得られる情報なら君が正確に伝えてくれたからね。それ以外が知りたいんだよ。
そうだなー...言ってしまえば、
「
「ああ。アンジュも来てみなよ。」
定時の金の運搬のために二人の従業員が窓口から四つのボストンバッグを受け取った。
バックには会社とホテルのロゴが描かれている特注品だった。
二人は専用のカートにバッグを乗せると慎重に運び始めた。慎重とは言ったものの、
プレオープン初日から一日何度も運んでいた二人は僅かに気の緩みが生まれていた。
特に今日はフロアの一角に何故か人が異様に集まっているのが、二人にもはっきりと見えていた。
有名人でも来ているのだろうか?
それとも何か事件でも起きているのだろうか?
「キャッ! 」
紛れもない油断だった。テーブルに気を取られて脇見運転をした結果、カートを招待客に
ぶつけてしまったのだ。
カートの前では女性が足を押さえて、床に蹲っていた。
「申し訳ございません! 大丈夫ですか? 」
二人が慌てて近づくと女性も慌てたように笑顔を取り繕った。
「す、すいません。私も不注意で...。」
女性は足首の辺りを押さえていた。押さえられた部分は青黒く腫れているようにも見えた。
彼女が身に着けていた赤いロングドレスには大きくスリットが入っていて、そこから真っ白で
肉付きの良い足が太もも辺りまで露になってしまっていた。
二人は本気で怪我の具合を心配していたのだが、男の性には逆らえずに視線は彼女の白い足と
開けた胸元に向かっていた。
それは本当に一瞬の出来事だった。
傍で待機していた白雪は静かにカートに近づくとイブラヒムが運んでいたバッグとカートの中の
バッグを一つ入れ替えた。
そして、何事も無かったようにその場を後にした。
カートの前で足を押さえていたフレンは二人の男の手を借りて立ち上がった。
「ありがとうございます。お仕事中なのにごめんなさい...。」
「こちらこそ本当に申し訳ございませんでした! 」
男たちは何度も何度も頭を下げてから、その場を後にした。
『フレン! 可愛いじゃーん! 白雪さんも褒めてたよ。』
妙に楽しげな聞きなれた声がインカムの向こうから聞こえてきていた。
フレンは緑仙を怒鳴りつけてやりたい気持ちを必死に堪えながら招待客の群れの中に
姿を隠すように潜り込んでいった。
夢追とアンジュは叶たちがプレイしているテーブルへと辿り着いていた。
既にいっぱいになっていたギャラリーの後方から叶の姿をしっかりと視界に捉えていた。
ゲームは未だに熱量を失うことなく続けられていた。
叶のハンドは現在16。叶は何の躊躇いも見せずにヒットを夜見に伝えた。
それに応えて夜見は一枚のカードを叶の前に差し出した。
『スペードの2』
叶の合計は18だ。見事なヒットコールにギャラリーが少し騒めいた。
一方、夜見のアップカードは『ダイヤの5』だった。このままでも勝ちは手堅いと誰もが思った。
だが、叶はテーブルをコンコンと叩いて見せた。それはヒットを示す合図だ。
ギャラリーは一層と騒めき始めた。それも当然だろう。ここでヒットする場合、叶がバストしない
カードは
無謀にも思えたヒットが導いたカードを夜見から差し出された。
『ダイヤの2』
ギャラリーから歓声が湧き上がった。叶の合計は20となり、流石に手を水平に振りながらステイの
合図を示した。それを受けて夜見はホールカードをゆっくりと開いた。
『クラブの
夜見のハンドは15。ハンドが16以下なので、夜見は有無を言わさずにカードを一枚加えた。
『ハートの4』
この戦いの中での一番の歓声と騒めきがギャラリーから二人に贈られた。
夜見のハンドは19となり、叶の勝利となった。もし、叶がヒットを宣言していなければ
負けていたかもしれなかったからだ。
「なんだあいつは。」
「あの人超かっこいいんですけど。」
「負け知らずかよ。マジで。」
様々な声が聞こえる中、アンジュも珍しく見惚れていた。叶にではなく、一進一退のゲーム展開に
思わず言葉を無くして見入っていたのだ。
少し前で同じ光景を見ていた夢追は顎に手を当てたまま、じっとテーブルを見つめていた。
「違う...。」
「えっ? 」
夢追が小さな声で呟いた。アンジュには何を言ったのか正確には聞き取れなかった。
「違う...これは勝負なんかじゃない...
今度はアンジュにも聞こえる声で、夢追ははっきりとそう言い切った。