指紋認証を済ませると、二種類の暗証番号の入力をしていた。
扉の前では金庫室内に向かって黒服たちが拳銃を構え、扉が開けられるのを待っていた。
緊張していないと言えば嘘になる。アンジュは一度深呼吸をすると最後の数字を押した。
数字を入力し終えると扉の方から『ガチャリ』と鈍い音が聞こえた。
「アンジュさん。我々が開けますから下がっててください。」
黒服の一人が扉に手をかけながらアンジュに合図を送った。
アンジュもそれを受け、言われるがままに黒服たちより後ろへと退いた。
「開けるぞ。」
先頭の黒服がゆっくりと金庫室の扉を開けた。
「何だ...煙? 」
それは確かに煙だった。気が付けば黒服たちの足元に白い煙が充満していき、
一瞬の内に黒服やアンジュたちを包んでいった。
「何だこれは! どこからだ。」
「わかりません! 」
「これじゃ庫内の確認が...! 」
黒服たちの混乱と戸惑いの声が煙の中から聞こえては、そのまま煙の中へと
消えてを無意味に繰り返していた。
性質の悪いことに煙は目にもダメージを加えてきていた。
目に染みて涙まで出てくる始末だ。
視界が歪んでいく中でアンジュの目の前を言葉以外の何かが通り過ぎていった。
それは金庫室の方から出てきた気がした。
人では無かった。虫...いや、鳥のような何かだったかもしれなかった。
ルイスのバックパックは二人の黒服に呆気なく奪われてしまった。
この至近距離で拳銃を向けられてしまえば、ルイスと
「上からの指示で命までは奪わんから安心しろ。」
「あら。本当? 嬉しくて泣いちゃいそう。でもそう言うことは、相手に銃を突き付けながら
言わない方が良いと思うんだけど。」
「ほー...そうやったか。ほな次回の参考にさせてもらうわ。」
黒服は拳銃を構えたままスマホを取り出した。アンジュの指示を仰ごうと言うことだろう。
「もう一つ...良いことを教えておいてやろう。」
聞き覚えのない野太い声が黒服たちの後ろから聞こえてきた。
「あ? 」
黒服の首筋から強烈な電撃が体を駆け巡っていった。目の前が真っ白となった二人は
電池が切れたオモチャの様に力なく床に倒れこんだ。
「自分だけは安全っていう気持ちが一番危険なんよ。」
倒れた黒服の後ろに立っていたのは、ホテルの制服を着たチャイカと椎名だった。
「チャイカさん! 椎名さーん! 」
「よー頑張ったな。ルイスちゃん。」
緊張が解けたルイスは無意識の内に椎名に抱きついていた。椎名も照れ臭そうにしながらも
ルイスの頭を優しく撫でていた。
「ルイス。でびちゃんはどうしたん? あとダイヤモンドは無事なん? 」
椎名がルイスと話している間にチャイカは気絶した黒服を目立たないように更衣室の中へと
運び入れていた。
「でび様は金庫室に閉じ込められちゃって...。ダイヤモンドは赤のバックパックの中に。」
「赤いバックパック? これか? 」
黒服を運んでいたチャイカが赤いバックパックを持って、更衣室から出てきた。
気絶した黒服から取り返したようだ。
「そうです! それです。」
「よし。ルイス。君はこれを持って先に逃げろ。」
そう言いながらチャイカはバックパックをルイスへと手渡した。
「えっ。でも、私はでび様を助けに行きたいんです! 」
「ルイス。でびちゃんはうちらに任しとき。」
「椎名の言う通りだ。我々は制服を着ているし、内部構造にも詳しい。君より確実に動きやすい。
君が相棒として助けに行きたい気持ちはわかる。だが、今はチームとしてダイヤモンドを
最後まで届けるのが君の仕事なんだよ。」
チャイカはルイスの肩に優しく手を置いた。その表情はこんな状況下でも穏やかなものだった。
隣にいる椎名も「せやせや。」と笑顔で相槌を打っていた。
ルイスはでびるの最後の姿を思い出していた。でびるも自分の仕事を貫いていた。
「...わかりました。私...行きます。でび様を...お願いします! 」
赤いバックパックを強く握り締めながら、ルイスは二人に一礼するとエレベーターの方へ
走っていった。
「やっぱ...リーダーやな。」
「あのな...もういいや。あれを発動だ。椎名。」
何かを言いかけて諦めたチャイカの横で嬉しそうに椎名はスマホを取り出した。
「オッケー。リーダー。」
椎名がスマホを操作すると、どこからともなく出てきた白い煙が辺り一帯を包み込んでいった。
イブラヒムは何度もマイクに向かって呼び掛けていた。
「緑仙? どうした? 」
やはり、返事はない。物音一つ聞こえては来なかった。
先に集合地点に向かったのだろうか?
その可能性がゼロでは無かったが、緑仙の性格を考えれば我先に逃げると言うことは
あまり考えられなかった。しかも一番安全な場所に居るにも関わらずだ。
「イブくん。」
背後から声を掛けてきたのは白雪だった。片手にはイブラヒムが持ってきたボストンバッグを
持っていた。白雪の後ろには叶も一緒に立っていた。
「二人とも...。早く第二集合地点に...。」
イブラヒムが二人に先に逃げるように伝えようとすると、白雪が慌てた様子で口を挟んできた。
「イブくん。
「何だって...? 」
イブラヒムも記憶を呼び戻してみた。確かにフロアで姿を見ていない。
しばらく声も聞いていなかった。
どうやら白雪も叶も見ていないということだ。
どうなってるんだ。緑仙に続いて、フレンも姿を消してしまった。何の連絡もなくだ。
相手のハンドが見えてこない。この状況はブラフなのか。それとも...。
「皆さーん! 」
そこへ合流してきたのはルイスだった。手には赤いバックパックを持って、
慌てた様子で走り寄って来ていた。
「ルイスさん! 無事だったんですね。」
「叶さんこそ。皆さん! ダイヤモンドはここにあるんですが、まだ地下にでび様と
チャイカさんたちが取り残されちゃってて...。」
「でび様も? イブくんどうする? 」
白雪の問い掛けにイブラヒムは直ぐに答えた。イブラヒムにはそれ以外、答えようがなかった。
「チャイカたちはかく乱と逃亡用に地下の至る所に発煙筒を設置しているはず。
それを上手く使えれば逃げられると思うが、いざって時のために俺が最後までここに残る。
お前たちはダイヤモンドを持って先に行け。」
「そんな! イブさん。私もでび様を助けに...。」
イブラヒムに詰め寄ろうとしたルイスの肩を優しく掴んだのは白雪だった。
涙目になっていたルイスを見つめ、無言で首を横へ振った。
「叶。白雪さん。ルイスを頼む。俺は地下の四人とフレンを探す。」
「僕は構いませんが、イブラヒムさんお一人で大丈夫ですか? 」
「そうだなぁ...ちょっと軍資金が足りないかもな。三倍にして返すから、
さっきのチップの山を貸しといてよ。」
「...これは確かに心配ね。」
白雪が呆れた様子で、小さくため息をついた。
「ええ。詐欺師云々関係なく一番信用してはいけない台詞ですね。放っておきましょう。」
そう言うと、叶はくるりと向きを変えて、カジノのゲートの方向へと向かって歩き始めた。
「そうね。行きましょ。ルイスちゃん。」
白雪もルイスの手を強く握ると、有無を言わさずに叶の後を追うようにゲートへと
ルイスを引っ張る様にしながら向かっていった。
「随分と見くびられたもんだなー。っつても妙案は無いんだけどさ。」
イブラヒムは三人を見送ると、ぐるりとフロアを見渡していた。何かきっかけが、
突破口が欲しかった。未だに見えない相手のハンドを崩せる何かが。
水面下で大騒動になっているにも関わらずに変わらずに今を楽しむ人々。
煌びやかなフロアの電飾やマシンのネオン。心を震わせるルーレットが回る音や
カードの擦れる音。その光景はまるで子供の頃に行った夏祭りを思い出させた。
出店や提灯の灯り、軽快に響く祭囃子やはしゃぐ子供の声。
イブラヒムは焦る気持ちと裏腹にどこか懐かしく、切ない思いに駆られていた。
ホテルのエントランスには大勢の黒服を引き連れた夢追が立っていた。
「いいか。警察が到着するまで、誰一人ここから出すんじゃない。無理矢理出ようとする客が
居れば呼んでくれ。」
「かしこまりました。社長。」
夢追は他の従業員出入り口やホテル屋上にまで黒服を走らせていた。
エントランスの黒服に指示を出していると夢追のスマホに連絡が入った。相手はアンジュだった。
「アンジュ? 金庫室はどうだ? 」
『社長! 遅くなって申し訳ございません。突然白煙が上がって混乱してまして...。』
「白煙? 出火してるのか!? 」
『いえ。どうやら発煙筒のようなものが仕掛けられていたようでして、何とか金庫室内には
入れました。中には誰も居ませんでした。ですが...。』
アンジュが言葉を詰まらせていた。夢追は掌にじんわりと汗が滲んでいくのを感じた。
「盗られてるのか...。金か...いや、まさか。」
『ダイヤモンドです。社長。盗られたのは...展示予定のレインボーダイヤモンドです。』
悪夢のような現実に夢追は言葉を発することが出来なかった。
最悪だった。金なら幾らでも自分の力で作る事が出来る。だが、あのダイヤモンドでは
そうはいかない。自分の力だけではどうにも出来なかった。
『社長...私はどうすれば...。』
電話越しながらもアンジュが泣きそうになっているのが伝わってきた。
その声を聞いた夢追は自分の中で沸騰しかけていた怒りと哀しみが鎮まっていくのがわかった。
ここで自分が我を失ってしまえば盗人の思う壺。冷静さを失う訳にはいかなかった。
アンジュの報告にあった発煙筒。あれは恐らく地下からの脱出用に焚いたものだろう。
となれば、白煙が上がったのが数分前なら犯人はまだ...。
夢追はカジノホールへと走り出していた。
「アンジュ。君はカジノフロアまで来てくれ。犯人はまだホテル内に居る可能性がある。」
二人の男が同じような気持ちでカジノフロアを見回していた。
見えない相手を探そうと必死になっていた。
二人の男の視線はフロアの隅々まで届いていたはずだった。
だが、その二つの視線が交わる事は、今はまだなかった。
男たちは目を動かしながらも頭では別のことを考えていた。
一つ、一つのピースをはめていくと、一枚の絵が完成した。
そう言うことなのか...。
男の視線がフロアに歩く