ビルから出て来たのは眼鏡を掛けた一人の男だった。
無精髭を生やし、何とも眠そうな顔をしながら日の光を浴びていた。
身に付けている眼鏡や時計、スーツなどはどれもブランド品のようだった。
その男はスマホを操作しながら、イブラヒムの前方から歩いてきていた。
このまま進めばすれ違う事になるだろう。その時は迫ってきていた。
「きゃっ! 」
奥のターゲットに気を取られていて、傍に立っていた女性の存在に気が付くのが一瞬遅れ、
女性とぶつかってしまった。しかも、有ろうことか大切なBluetoothイヤホンが
その拍子に外れて落ちてしまった。
「何してんだよ...。」
思わず口を出た言葉はぶつかった女性に対してではなく、情けない自分に対して
発していたはずの言葉だった。
「えっ。あの。ごめんなさい。」
ショートカットの女性は自分に言われたものと勘違いしてしまったようで、
慌てて謝罪を口にしていた。
イブラヒムはその声に反応することなく、落ちたイヤホンを拾い上げようと
手を伸ばしたのだったが、声に反応しないイブラヒムの様子を見ていた女性が、
先に落ちているイヤホンに気が付いて拾い上げてしまったのだ。
「すいません。私...機械には弱くって。壊れてないですよね? 」
慌ててしまったイブラヒムは彼女が、それを言い終わるか終わらないかのタイミングで
イヤホンを手にする彼女の右手首を勢い良く掴んでしまっていた。
「ちょっ! 何するんですか! 」
いきなりの行動に驚いた女性は先ほどよりも大きく震えた声を上げた。
「何してるんですか!? 」
突然と割って入ってきたのは、ターゲットの眼鏡男だった。
目の前で男が女の手に、いきなり掴みかかったのだ。しかも、女は恐怖と不安が入り交じった声と
表情で男を見ているのだから無理もないことだ。
見て見ぬ振りをして通り過ぎなかっただけ立派な男なのだろう。
ただ、今のイブラヒムにとっては余計な事でしかなかった。このタイミングで顔を
覚えられるのは泣きっ面に蜂なんてもんじゃない。イブラヒムはイヤホンを手荒く取り上げると、
長居は無用と足早にその場を後にした。
「何なんだ。あいつ。」
「あの...助かりました。本当に怖くて...ありがとうございました。」
眼鏡の男はイブラヒムを目で追おうとしていたが、女性の声に反応して視線を女性へと戻した。
女性は眼鏡の男に対して深々と頭を下げていた。
「いや。私は何もしてませんから。お礼なんて言わないで下さい。」
男はあたふたと慌てた様子で女性の好意に困惑していた。顔を上げた女性は男の様子を見て、
思わず笑みがこぼれてしまった。黒いショートカットで髪色とは対照的に真っ白な肌。
少し垂れた目が、その柔らかい表情に更に優しさを加えているようだった。
男は自分の好みの女性とタイプが似ていることもあってか、その女性に見惚れてしまい脳も体も
上手く動かなくなってしまった。
「...? 大丈夫ですか? 」
「大丈夫じゃないです...。」
男は思わず本音を漏らしてしまった。はっと我に返った男は早口で訂正をし始めた。
「いや。大丈夫なんです。あはは。私はそこの『いちから』って会社に勤めているイワナガと
申します。見た目は怪しいかもしれませんが、しっかりとした立場のある人間ですので。」
そう言いながら男は一枚の名刺を差し出してきた。
『いちから株式会社 COO 岩永 』
「えー! いちからってあの映像アプリとか作ってるとこですか? しかも『COO』って凄ーい! 」
女性は名刺を確認すると、相手の立場に安心したのか一気に明るい表情へと変化していた。
「いやいや。肩書だけでから。でも、よくご存知でしたね。うちの会社。」
そう言いながら満更でもなさそうな岩永は頭をポリポリと掻いていた。
「前にカジノに誘われて行った時に空中に映像が出るやつを見たので覚えてました! 」
「あー。なるほどね! あれビックリされる方が多いですから。」
「そうだ。岩永さん。この後お時間あればですがカフェにでも行きませんか?
もっとお話聞いてみたいですし、先ほどのお礼で奢らせてくれませんか? 」
女性は自分から誘うのが恥ずかしかったのか少し頬を紅潮させていた。
そんな女性の姿を見ては男として断る訳にもいかず、岩永は快諾した。
「貴女のような綺麗な方とご一緒できるなら喜んでお供させて頂きます。」
「良かったー! じゃあ向こうに確かあったはずですから行ってみましょう? 」
そう言うと女はイブラヒムが去って行った方向とは逆の方向へと歩き始めた。
「あの! 宜しければ、お名前をお伺いしても...。」
岩永の声を聞いた女はくるりと岩永の方に体ごと振り返り、慌てた様子でお辞儀をした。
「私としたことが...失礼しました。私は白雪です。色の白に空から降る雪で白雪です。」
イブラヒムは二人から少し離れた場所に止まっていた車の助手席に乗り込んだ。
「お見事。」
運転席で待っていたのは叶だった。助手席に座ったイブラヒムは「どうも。」と一言呟いた。
「イブラヒムさんに仕掛けていたマイクで聞いてましたよ。本当に困ってるんじゃないかって
思っちゃいましたよ。」
そう言うと叶は耳に付けていたBluetoothイヤホンを外した。
「ポーカーのブラフと一緒だよ。自分のハンドが6ハイだったとしても、まず自分自身が
それを6のフォーカードだって思い込まなきゃ駄目なんだ。自分の心を騙しきれない奴が...。」
その時、イブラヒムには少し開いていた車窓から聞いた覚えのある歌声が聞こえた気がした。
「どうしました? 」
「いや..何でもない。何だっけ? そう。自分を騙し切れない奴が赤の他人を騙せるわけないだろ?
思い込むんだ。馬鹿なら最低な馬鹿なんだって。天才なら最高の天才なんだって。」
叶は黙って話を聞いていたが、自然と口角が上がっていることに気が付いた。
自分が一緒に仕事をしたかったのは、この
寂れたスナックでサンドを食べている男ではなく、この男なのだ。
イブラヒムは足元の小さなプラスチックのゴミ箱に白雪から受け取った何処にも繋がっていない
Bluetoothイヤホンを放り込んだ。
顔を上げサイドミラーに目をやると、ショートボブのウィッグを付けた白雪がターゲットの岩永と
楽しそうに歩いて行くのが見えた。
「あとは頼んだよ。お姫様。」
時を同じくして、少し離れた観光地にフレンとルイスは降り立っていた。
「わー! 良い所ですねー。」
ルイスは楽しそうに辺りをキョロキョロと見回していた。
「ですねー。仕事じゃなければ、ゆっくりして行きたいですね。」
「うー...残念。」
肩を落として露骨に落ち込むルイスの頭をフレンが軽く撫でた。
出発前にでびるに教わった必殺技だった。でびるの言う通りに効果は抜群なようで、
少し恥ずかしそうな笑みを浮かべると曲がっていた背筋も気が付けば真っすぐに伸びていた。
「もー! フレンさん。私は子供じゃないんですよー。」
緊張感のない会話を続けながら二人が歩き始めた。じゃれ合う二人の向かう先には
一軒の高層ホテルが見えてきていた。