いつからか、また何故なのか分からないが、小鈴にはあらゆる文字を読むことができる能力が身に付いていた。物心ついたときにはまだ日本語しか読めなかったので、少なくともここ数年の間に身に付いた能力であることは確かである。
本の虫ではあるが然して勉強熱心なわけではない。しかしいつの間にか洋書が読めるようになり、妖魔本にまで手を出すようになった。
鈴奈庵は現在八雲の監視対象になっているが、それを要請したのは小鈴の友人である阿求だ。ただの人間であるはずの友人が妖魔本を読める、などという事は流石に言えなかったので理由は伏せてお願いした。それが五年ほど前の事。紫が深く詮索しなかったのは旧知の間柄である阿求だったからだろう。
理由を伝えなかった阿求とそれを詮索しなかった紫。今深く後悔しているのは紫の方である。たった今明らかになった本居小鈴と鈴奈庵の危険性。人里はここ数年ずっと爆薬を抱えていたようなものだった。
幻想郷にある妖魔本の多くがたった十数坪の空間に集まっている。しかも所持者はそれを読むことで封じられた邪悪な妖怪たちを解放することだってできるというのにその危険性を把握していない。危険。あまりに危険。
紫は小鈴の持って来た本には目もくれず、阿求と話をするために稗田邸の方へと姿を消した。
一方で残った面子はその本の方に夢中になっている。かなり分厚い本だが行間はかなり広く、所々に挿絵も交えてある。全ての文字を読む分にはそう時間はかからないだろう。
「小鈴ちゃんの能力はとても危険だし詳しく話も聴いておきたいけど、今知るべきは目の前の妖魔本ってやつね」
スカスカな文字列にお世辞にも上手いとは言えない絵。一見すれば馬鹿馬鹿しいだけの代物だがしかし、霊夢はその本から僅かながらも確かに妖気を感じていた。霊夢だけではない。白蓮もまた禍々しい妖気をその肌に感じ取っていた。
知らぬは本人ばかりなり。毎日妖魔本に触れている小鈴は目の前の本の異常性をいまいち認識できていない。普段から目にしている妖魔本とは決定的に異なる点を認識できる程彼女はまだ妖怪を知ってはいなかった。経験不足である。
「この本からは有り得ない程数多の妖魔の気配を感じます。恐らくそれだけの妖怪文字を駆使して書かれている。いったい何人の妖怪がこの本の制作に協力したのかは分かりませんが小鈴さん、貴方にこの本は危険すぎるのではないでしょうか?」
白蓮の言う通り、この本は見開きごとに異なる文字が記されている。小鈴もそれくらいは理解している。どの種族の文字なのかは不明だがページを捲る度に変化しているくらいは嫌でも分かっていた。しかし彼女にはこの本を読みたい理由があった。
「そう言われましても……これはとある方からのプレゼントなんです」
「いったい誰よ。こんな危険な物を贈りつけてきた奴は。まさか紫じゃないでしょうね」
「いえ、あの人とは先ほどが初対面だったので。送り主は実は私にも分からないんです。ある日この紙と一緒にこの本が店の机に置かれていましてね」
『多くの書を貸してくれたことには非常に感謝しています。この本はお礼のつもりなので店に置くなり読むなりは小鈴さんのご自由にどうぞ』
そう、この本は小鈴のために誰かが置いて行った本なのだ。しかしその
「これはどうやらドイツ語で書かれているようです。この書置きと一緒にこれとは別の本も置いてあったんですが店に置いてきてしまいました。良ければそれも見にいらっしゃいますか?」
「行くわ。場合によってはその本を没収しないといけないかもしれないし。聖はどうするの?」
「私も行きましょう。ここまで来れば乗りかかった船ですし最後まで付き合いますよ」
人里は外から守られているが内部からの攻撃への対抗策は持っていない。人里にとって何か不都合な事が起きてしまえば神社でも寺でも信者を減らしてしまう事態になる。尤もそんな打算をするまでもなく人間を脅威から守る巫女と、人間に愛をもって接している尼僧は動いたであろうが。
人間の魔法使いが聴けば面白がって話を大きくするかもしれない。守矢の風祝が聴けば興味本位で勇んで飛んでくるかもしれない。鴉が聴けばあらぬ噂までも広げられるかもしれない。
そんな面倒ごとを避けるためにもさっさと処理をする。昨日の敵は今日の友。いけ好かない相手であっても、商売敵であっても、目的が同じならば協力しないなどと非効率な方を選ぶ理由はない。
「あ、その本は大丈夫だと思いますよ? 超長編ですが全編日本語で書かれていましたし著者は私も知っている有名な先生です」
ピリピリしている二人の強者を差し置いて小鈴は割と余裕を持っている。何せ彼女だけがもう一冊の本とやらを見たことがあるわけで、その内容も別におかしなことはなく、読み進めることで正気を失っていくようなことも無いというのを知っているからだ。
二人にはその前提がなく、ただ危険すぎる妖魔本と共に置かれていた本というだけで警戒心をマックスにしているのだ。仕方のない事だとはいえ、小鈴は初めて見る真剣な表情の霊夢を少し可笑しそうに眺めていた。
「そんなに警戒せずとも大丈夫ですよ。霊夢さんにも貸したことがあったでしょう? 探偵側と犯人側がどちらも反則的な手法を用いることで有名な推理小説家――――佐戸愛子先生の新作です」
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不意に気配を感じて振り返る。
「おかえりなさい、こいし。今回は帰ってくるの早かったわね」
いつもなら一月以上は屋敷を留守にしているのに。
珍しいなと考えながら彼女を眺めてみると手に何かを持っているのが分かった。
丁寧に作られた封筒を見ながら『あぁもうすぐ地底満足度調査でもしてみないとな』と考えてしまう。久々に妹が目の前にいるのに考えるのは仕事の事ばかりだ。我ながら嫌な姉だとは思いつつもそれは何かと聞いてみる。
中身はどうやら手紙らしい。しかも差出人はフランドール。最近こいしが行っていたのは紅魔館だったのだろうか。とすると内容はこいしの相手を押し付けていることに対する恨み節か何かかもしれない。
恐る恐るこいしから手紙を受け取って宛名を見てみれば、そこに書いてあったのは私の名ではなかった。いや正確には私のペンネームが書いてあった。どのような経緯で本人バレしてしまったのかは分からないが、どうやら私のペンネームを知っている程度には本を読んでくれているらしい。でも『Aiko Sado』と書かれると私の原形が消えてしまうのよね。折角書いてくれたのだから気にしないことにするけれど。
書いてある内容は非常にありきたりな物だった。この作品のこう言うところが好きだとか、誰それが犯人だと思ってたのに凄いどんでん返しがあって終始ハラハラしただとか、探偵の精神的弱さを上手く表現しているだとか、所謂ファンレターのようなもので、読んでいて少々気恥ずかしくなったが一番心に刺さったのは最後の方に書いてある一言だ。
『早く次が読みたい』
それだけ。たったそれだけだというのに手放しの賞賛よりよほど私の心に刺さった。きちんと出版したのは三十年前が最後。それでも新しく好きになって読んで手紙まで送ってくれる人がいる。私の作品を待っていてくれる人が確実にいるというのはそれだけで嬉しかった。
「どうしたの? お姉ちゃん。そんなに泣くほどひどい事が書いてあったの?」
「…………へ?」
こいしに指摘されて初めて気が付いた。
私が泣いている。紫さんに睨まれても四季様に怒られても月で恐るべき神霊と争いになった時だって泣かなかった私が、今こんな小さな紙きれ一つに泣かされているのだ。たった五百年ぽっちしか生きていない吸血鬼の子供に泣かされているのだ。
「違うのよ、こいし」
涙を拭ってこいしに向き直る。こいしにはもう分からない感情かもしれないけれど
「妖怪は嬉しい事があった時にも泣いてしまうのよ。今私はとても嬉しいの」
「ふうん。じゃあお姉ちゃんもフランちゃんに手紙を書いてあげたら?」
それは良い。彼女の性格からして嬉しくて泣くなんてことはないだろうが、少なくとも貰って嫌な思いをすることはないはずだ。
今の私の気持ちを少しでも味わってほしい。あの子にもきちんと味方を認識してほしい。私と違ってあの子には元来の敵などいない。味方になってくれる人妖は何人だっている。
『Dear Frandre……』
もう一枚。
『Dear Remillia』
また紫さんに頼んで送ってもらおうか。
おそらく6月に入ると忙しさも相まって書けなくなると思うので短いですが投稿しました
人里パートとさとり様パートは逆でも良いかもと思いながらもこの順です。更新が早いなら最後に意識を引いて一気に次回を書く、ということができるので人里パートを後にできるんですが