さら バッドエンド後、病んでしまった主人公の話です。
あなたは奇跡を信じますか?
そうたずねられた。
たずねられた気がした。
夢を見ていたのかもしれない。
信じる。そう答えた記憶があった。
彼女は嬉しそうな顔をした。
さらが帰ってきてくれたなら、信じるよ。
そう付け足すと彼女は悲しそうな顔になった。信じていないと言っているようなものじゃないですか、そうつぶやいた。
ちがう。
信じている。
小さな子がサンタクロースを信じるように、信じている。
さらが戻ってきてくれる――鬼籍に入ったものが舞い戻ってくるなんて奇跡をきっと誰よりも信じている。
甲子園で優勝した。
マスコミは奇跡の優勝だなんだと騒いでいる。
こんなものが奇跡なのかと笑ってしまった。
あなたは奇跡を信じますか?
いまなら信じると即答するだろう。なにも付け足す必要もない。
信じるもなにもない。これが奇跡だとするなら、奇跡なんてありふれたものだから。
日本一になっても何も感じなかった。
しいていうなら空しさがあった。
優勝してしまったことでまたひとつ夢が崩れてしまった。
優勝という偉業を達成すれば、彼女が戻ってきてくれるのではないか。心のどこかでそんな絵空事を描いていた。
彼女が戻ってくる。そんなことはありえない。そんなことはわかっている。けれどその絵空事にすがるしかなかった。そうしなければ壊れてしまいそうだった。野球に打ち込む、それだけでは足りない。子どもじみた夢が必要だった。
優勝してしまったせいで夢は散った。現実が崩れ落ちるように押し寄せてくる。彼女はもういない。戻ってくることもない。わかりきっていたこと。しかし、涙が止まらなかった。子どもみたいに泣きじゃくった。
信頼も無意味。努力も無意味。
死に物狂いで努力したところで何も起きなかった。
夢。ゆめ。ユメ。
努力は必ず報われる。
そんな言葉は嘘っぱちだ。
必ずではない。
一握りの報われたもの、幸せものの勘違い。
多くの人間にとっては、ただのゆめ物語。
そんなことはないときれいごとを言う人間がいるのなら彼女を連れ戻してほしい。
時はさかのぼって彼女が命を絶った翌日のこと。
全校集会がひらかれた。
先生が神妙な面持ちで何か話していた。
内容は耳に入ってこなかった。
どうせすでに知っている内容だろう。
「めんどくせーなぁ」
「ひとりで勝手に死んでろよ」
「おまえ、それはひどすぎ」
どこかからそんな言葉が聞こえてきた。
嗤い声すら聞こえてくる。
声の聞こえた方に視線を向ける。
見知った顔だった。
そんな言葉を口にする人間だとは思っていなかった。
呆然としている間にも彼らは、さらにふざけた言葉を吐き、嗤う。
――人は誰だって裏切る。
彼女が口にしていた言葉。その意味を噛み締めた。
彼らに掴みかかろうなんて気力はわかなかった。
以前だったらそうしていただろう。
いまはそんな気にもなれない。
そんなことよりも、彼女の言葉こそ正しかった、自分は間違っていた、なぜもっと早く気づけなかったのかと後悔にさいなまれていた。
いまになって気づくなんてバカけている。
もっと早く気づいて、彼女の想いに寄り添うことができていたら――後悔が脳裏を埋め尽くす。
嗤い声をあげる彼らを毅然と叱りつけるものがあった。
その女の子の姿に、なお――信頼という名の夢を見そうになった。
嗤い声をあげた彼らのような人間ばかりではない。
彼女の死を悼んでいるものもいる。
そんなことはわかっている。
しかし、そのできごとがあってから、ことあるごとにあの嗤い声が聞こえるようになっていた。
人が楽しそうにおしゃべりしているのを聞いても、誰かを嘲笑っている声にしか聞こえない。
聞こえのいいこと、楽しそうなことを言っていても陰で悪口を言っているのだろう、そんなことばかり考えてしまう。
夢から覚めた現実は苦痛ばかりだった。
雲ひとつない、どこまでも澄みきった青空を見ても心洗われることはない。笑顔になんてなれるはずもない。蒼い絶望感にさいなまれて泣き出したくなった。死にたくなるほど青い空を見上げて、空が落ちてきて圧し潰される――そうなれば楽になれるのに、なんて暗い妄想にとらわれていた。
――こんな青空の下で暗い顔をしてる奴はバカなんだよ。
俺もバカだったんだ。
バカ。
そんな言葉じゃ足りないだろう。
彼女が亡くなってからようやく彼女の気持ちがわかった大バカ者。
大バカ者。
そんな言葉でもまだ足りない。
以前なら穏やかな気分になっていただろう日の光もまぶしく目障りにしか感じない。陽光に焼かれるように視界が白くなり、くらくらとめまいがした。
花を見ても、鳥を見ても、風を感じても、月を見ても。ひねくれた残酷な妄想が浮かぶ。
なにもかも終わらせたい。
夢すら見ない深い眠りに落ちたい、そんなことばかり思うようになった。
最近、行く先々である女性をよく見かけるようになった。
いつも後ろ姿を見つける。
ショートカットの黒髪、桜色のリボン。
その後ろ姿が彼女によく似ていた。
さらが戻ってきたのではないか。
そんな夢を見てしまった。
外出先で女の姿を探すようになっていた。
暗い妄想が顔を出すことが少なくなっていた。
夢うつつで春を迎えた。
夜。
彼女が命を絶ったあと、桜が苦手になっていた。
桜の下でにぎやかに騒ぐ声を聞くと、彼女の死を嘲笑った彼らの声がよみがえってくる。
声が頭蓋に反響する。めまいと吐き気に襲われて立っていることさえままならなくなる。
心配をかけないようこっそりと仲間から離れて静かな場所にあるベンチに腰かけた。
大勢で来ている。一人ではこんなところに間違っても来ない。
一人ぐらいいなくなったところで、すぐにはわからないだろう。
ベンチで落ち着かせようとしているとまた桜の幻が見えた。
桜色のリボン。ショートカットの黒髪。
彼女によく似た女だ。
思わず立ち上がり、追いかける。
まどろみ、さまようような足取りで距離を空けられてしまった。
触れれば弾けてしまいそうなほど張りつめた満開の桜の森の下を駆ける。
追いかけながら、別に桜が苦手になったわけではないと気づいた。
桜の下で騒ぐ人間が苦手になっただけだったのだ。
喧騒から離れたおかげで体が楽になった。
桜の森を抜け、暗い道。
その後しばらくして開けた場所に出た。
桜の樹が一本だけ立ち、咲き誇っている。
林立するものよりも、それは美しく見えた。
ぼうっと妖しい光をまとって夜闇を滲ませている。
その桜の下に女がいた。
彼女によく似た女、
けれど彼女ではない、近くにきてその正体がようやくわかった。
「……また、嘘をついたんだな」
彼女にそうしたように。
嘘といっても優しい嘘。
けれどその真実を彼女が知ることはなかった。
「ありがとう。――に、いい夢が見れたよ」
自分でも驚くぐらい穏やかな笑みがこぼれた。
彼女が振り向く気配があった。
彼女の視線から逃げるように顔をそむけ、その場をあとにした。
いい夢が見れた。
その言葉は本心からのものだった。
優しい嘘に触れて、もう一度、夢を見てもいいかもしれないと思った。
夢を見た幸せな気分をいますぐ永遠にしてしおう、そんな思いとせめぎあう。
暗い道を抜け、桜の森にさしかかる。
桜の花びらが雨のように、堰を切ったように、足を止めようとするかのようひらひらと落ちてきた。