まちがったシンジくんをエヴァパイロットにしてしまった 作:鰹節の丸煮
父さんは断った。
「甘く、上等そうなものを買っていけ。上等である必要はない。丁寧そうで、端正に調えられていそうな、甘いものであればいい」
そう言って、返答を言う間もなく、電話を切った。
僕は切れた電話を耳に当てたまま、深々とうなずいた。
なるほど。甘いものか。
さすがは母さんという、自分より若い美人と一緒になれた男である。どうしてああなっちまったんだ。神はいない。あるいは神になろうとするからか?
ともあれ、助言はいただいた。
父さんから何かをもらったのは随分と久しぶりだった。せっかくなので大切にしよう。できれば現金も一緒にいただきたかったが、そこまで求めるのは親に甘えすぎというものだろう。
十四歳にもなって。
生活費はネルフから出ている。
ネルフってすごい。
(ーーー)
甘いものは、あった。
駅前の店に、たくさんあった。僕このへん更地にしたんだが。更地からは甘味が生える。これからも更地にしよう。世はスイーツのために更地にされるべきだ。
焼け野原にケーキ屋を建てる。そうして僕がケーキを買う。店が儲かる。税金が納められる。街が直る。
なんだ、ちゃんと元に戻るじゃないか。
僕の財布を経由する必要があるのかという疑問は残るが、復興への協力は市民の務めだ。破壊への協力までした市民は、なかなかいないと思う。表彰してほしい。副賞は現金でいい。
ともかく、甘いものというもの、これは、あるにはあったのだけれど、どれが正解なのかわからない。
父さんの言っていた条件に従えば、ショーケースに並んだものは大抵そうだった。丁寧そう。端正に調えられていそう。甘そう。ついでに値札も立派そう。よく見ると立派だった。小さいケーキ一つの値段が、僕の昼飯より高い。
生クリームというのは、昨今の金高騰の影響を受けたのか、はたまた。高騰は式波の血圧だけで十分だ。心臓の180BPMで僕のメインテーマを奏でてほしい。
──で、この生クリーム御仁を買っていって、もし式波が甘いものを嫌いだったら?
好きだったとしても、僕の買ってきたものは食べたくないかもしれない。
食べてくれたとして。
それで?
おいしかったね。
そうだね。
じゃあ、昨日のことは忘れようか。
なるわけないだろ。
煎餅にしようぜ。
「……こちら、お取り置きいたしましょうか?」店員さんが、僕に言う。
「すみません。ちょっと、考えていて」
「お誕生日ですか?」
「いえ」
僕は首を振った。
「人を泣かせたので」
店員さんは笑顔のまま、一秒ほど止まった。
しまった。
また、言わなくていいことを言った。
「ケーキを買おうかと」
補足した。
何一つ、補えていなかった。
「……でしたら、お好きなものをお選びいただくのが、よろしいかと」
「そうですよね」
好きなもの。
僕はショーケースを見た。
赤い苺ののった、白いやつ。
茶色いやつ。
黄色いやつ。
僕は式波の好きなケーキを知らなかった。
あの娘に何を言えば傷つくのかは、あんなにすらすらと出てきたのに。
「おや。シンジ君じゃないか」
振り返ると、加持さんがいた。
片手に買い物袋を提げて、もう片方の手を軽く上げている。髪を後ろで束ねていて、顎にはいつもの剃り残しだか剃る気がないのだかわからないものが生えていた。
こういう人が店に立つと、なんだか店のほうまで洒落て見える。
僕が立っていると、人を泣かせた中学生がケーキを買いに来ただけなのに。
実際そうなのだけれど。
「買い物かい?」
「はい」
「葛城に頼まれた?」
「父さんに言われて」
「……司令に?」
加持さんは僕を見て、ケーキを見て、もう一度僕を見た。
「そりゃまた、珍しいお遣いだな」
「女の子を泣かせたって相談したら、甘いものを買っていけって」
加持さんの眉が上がった。
それから、その口元に、ゆっくりと笑みが広がった。
「……なるほど」
「何がですか」
「いや。親子だなと思ってね」
父さんと似ているところがあるとすれば、目が二つで鼻が一つなことぐらいだと思う。
口については、僕はあの人より大分よく動く。
「加持さん、式波が何のケーキ好きか、知ってます?」
「アスカなら──」
そこまで言って、加持さんは言葉を止めた。
「本人に聞いてみたらどうだ?」
「聞けたら、ここで困ってないです」
「確かに」
加持さんは、困ったように笑った。
笑われるのは嫌だったけれど、困ってくれるのは少しありがたかった。
僕だけ困っているのではないと、わかったので。
「葛城から、少し聞いたよ」
僕はショーケースに向き直った。
「どのぐらいですか」
「君とアスカが喧嘩した、と。それで、様子を見に来てくれってね」
「式波の?」
「ああ」
そうだろうな。
僕のだったら、困る。
僕は面倒なことにはなっていない。学校を一日休んで、湖を見て、綾波に迎えに来てもらって、検査を受けて、父さんに電話しただけだ。
書き出すと結構あるな。
「何を言ったか、聞きました?」
「いや」
「聞かないんですか」
「君は、俺に話したい?」
僕は黙った。
加持さんも黙った。
その間に店員さんが、僕らの前のケーキの列をそっと直した。
まだ選ばないんですか、と言われているような気がした。
たぶん、ただ仕事をしていただけだ。
「……両方にしよう」
僕は言った。
まず、ケーキを選んだ。
ショーケースの端に、細長い、白いケーキがあった。上には苺が並んでいて、その間に、食べられるのか疑わしいほど薄っぺらい葉っぱと、金色の小さな札が刺さっていた。
上等そうだった。
とても。
だが、値札を見るかぎり、上等そのものではなかった。少なくとも、隣の丸いやつほどには。
父さん。ありました。
あなたの求めたものが。
ハゲろ。僕に有難うと言われるためにはそれが必要だ。眼鏡ダサいぞ。ひげが臭そう。加齢臭をファブリーズでごまかせると思ってそう。
──リツコさんをおとせるヤツがそんなはずないだろ。けっ。
僕は店員に聞く。
「一切れで、おいくらですか」
答えを聞いて、途端に親しみが湧いた。家に来て妹を
「これ、お願いします」
加持さんが、僕の顔を見た。
「なんだ、知ってるじゃないか。アスカの──」
「いや、高いのがイヤで……」
「聞かなかったことにする」
加持さんはそう言って、口元を片手で覆った。みるも笑い出しそうなのを堪えている──自分の臓腑を、ぞうきんを絞るみたいにして。
ケーキを、丁寧な包装と、ラッピング、リボンで包んで。
「じゃあ、僕これから行くところあるので」
「おいおい、まさか他のひとのところじゃないだろうな」加持さんは、まだ口に手を当てたままだった。
「いえ、まだ買うものがあります」
「花はまだ取っておけよ」
「食べ物です。しょっぱいのも買います」
「ああ、こぶりなものにしとけ。メインはもう買ったこと、忘れないようにな」
そこで、加持さんと別れた。
僕は、駅の向こう側にある百貨店に向かった。
煎餅である。
焼いた米に醤油を塗ったもの。あるいは塩を振ったもの。大変によろしい。何を食べているのか、僕にもだいたいわかる。
生クリームのように、どうしてあの値段になるのかわからないものより、よほど安心して買えるではないか。
そう思いながら地下の食品売り場を歩いていたら、七百円と書いてあった。
一枚。
一袋ではなかった。
一箱でもなかった。
一枚の煎餅が、それぞれの袋に収まって、七百円であった。
米。
君、このあいだまで田んぼにいたよね?
随分と立派になったものだ。僕は転校した先でもあの有様だというのに、米は焼かれただけで百貨店に入れる。
いや、焼かれただけではないのだろう。
袋が立派だった。
袋の中で敷かれている紙も立派だった。
その紙に、煎餅の名前らしい文字が、達筆すぎて読めないぐらい達筆に書いてあった。
これほど何重にも身元を保証されている米は、きっと食べるときにも堂々と音を立てるに違いない。
「ご進物用でございますか」
声をかけられた。
さっきの店より、店員さんの姿勢まで高そうだった。
「いえ、家で食べます」
「でしたら、こちらは一枚からお求めいただけますよ」
そうだろうな。
一枚からでなかったら、僕はもう帰るところだった。
大きさは、僕の手のひらより少し大きい。
醤油と塩があった。
醤油のほうは濃い茶色で、表面に小さな焦げ目がついている。塩のほうは白っぽくて、膨らんだところに細かな粒が光っていた。
どちらも、いかにも煎餅だった。
七百円のくせに、驚くほど煎餅だった。
父さんの条件を思い返した。
甘くはない。
だが、上等そうではある。
丁寧そうで、端正に調えられていそうでもある。
いける。
父さんは、上等である必要はないとは言ったが、上等であってはいけないとまでは言っていなかった。そこは息子の裁量に委ねられているはずだ。
親の言う通りにしかできないようでは困る。
十四歳にもなって。
「醤油と塩、一枚ずつください」
「かしこまりました。お包みは御一緒でよろしいですか」
「はい」
千四百円だった。
ケーキ一切れの値段を気にしていた僕は、もういなかった。
あれより高い焼き米を、二枚も買っている。
でも、大きい。
割ればいいのだ。
割ったぶんだけ、安くなる。
……煎餅を割って食べるなんて普通のことなのに、どうして僕はいま、こんなに言い訳をしているのだろう。
店員さんが、二枚の煎餅を丁寧に包んでくれた。
袋を二つ、隙間なく並べて、その上から紙を折り、端を揃え、小さな印を貼った。
僕はそれを、じっと見ていた。
大切そうだった。
たかが焼いた米なのに、こうして扱われていると、乱暴に持って帰ってはいけない気がした。
「ありがとうございます」
受け取って、ケーキとは反対の手に持った。
これで、甘いものが嫌いでも大丈夫だ。
醤油が嫌いでも、塩がある。
塩が嫌いでも、醤油がある。
そこまで考えて、足が少し遅くなった。
僕の買ってきたものが嫌だったら。
その場合、店をもう一軒増やしても、どうにもならない。
僕は二つの袋を持ち上げた。
片方にはケーキ。
片方には煎餅。
どちらも丁寧そうで、端正に調えられていそうな、いい買い物だった。
あとは買った人間だけ、どうにかすればよかった。
そのとき、街じゅうのスピーカーが鳴った。
『緊急警報。緊急警報。現在、東海地方を中心とした関東・中部全域に、特別非常事態宣言が発令されました──』
僕は空を見た。
携帯電話が鳴った。
ケーキの箱を傾けないように、煎餅の袋を手首に掛け直して、それから電話を取り出す。画面にはミサトさんの名前があった。
「はい」
『シンジ君、今どこ!?』
「駅前です」
『すぐ迎えを寄越すわ。その場を動かないで! 使徒よ!』
使徒。
僕は右手を見た。
ケーキ。
左手を見た。
煎餅。
「ミサトさん」
『何!?』
「冷蔵庫のある車でお願いします」
『はあ!?』
電話の向こうで、誰かが何か叫んでいた。
知るか。
こっちは生クリームだぞ。