まちがったシンジくんをエヴァパイロットにしてしまった 作:鰹節の丸煮
使徒は4分で撃破された。
出撃までが18時間。
出撃からが27秒。
パイロットによる、使徒の容姿、生態、家庭環境ならびに訪問時間の非常識さに関する罵詈雑言が3分33秒。
そこまでで強制収束させられた。
葛城ミサトは実に有能であった。
少なくとも、碇シンジの音声回線については。
「──だからッ、あんたのせいでケーキがだめになるんだよ!」
その発言を起点とする一連の通信記録について、日向マコトは、戦闘詳報に何処まで採録すべきか判断を保留していた。
交戦開始前の発言は必要だろう。パイロットの精神状態は戦闘結果と密接に関係している。特に初号機の場合、その関係は密接という程度では済まない。司令部の指示よりも、搭乗者の感情が機体の行動を決定した事例が、既に複数記録されていた。
問題は、交戦終了後である。
撃破済みの敵性存在に対する抗議は、戦闘指揮上、如何なる意義を有するのか。
日向にはわからなかった。
初号機が発した光線は、使徒の防御を抜いてその中枢を焼き潰した。続く巨体の倒伏によって、地上設備に若干の追加損害が生じている。これは使徒の死体が液状化する前に初号機が蹴り倒した結果だったが、日向としては、残存する敵能力への警戒措置と記載する余地を残しておきたかった。
その後も初号機は、倒れた使徒を指さしていた。
通信回線を閉じた今となっては、パイロットが何を言っているのかはわからない。
ただ、まだ言っていることだけはわかった。
「初号機、機関正常。駆動系に異常ありません」
伊吹マヤが報告した。
「パイロットの状態は」
「心拍数、依然として高めです。シンクロ率は安定しています」
赤木リツコは小さく頷いた。
不思議なことではない。少なくとも、ここ数週間の観測結果に照らせば。
不思議でないことが、問題だった。
ミサトは腕を組んだまま、正面の画面を睨んでいた。
戦闘は終わった。
敵は死んだ。
シンジは生きている。
ここまでは大変よろしい。
後は彼を帰投させ、機体を整備に渡し、食べ物を渡す相手に食べ物を渡させればよいだけだった。
それだけのことに、どうしてこんなに気を遣わねばならないのか。
ミサトは自分の考えの最後の部分を、いったん取り消した。
気を遣うべき相手ではあった。
普段のシンジは、整備員に礼を言う少年だった。初号機の準備が遅れた際も、自分が待たされたことより、作業をしていた人間の食事が済んでいるかを気にした。検査で時間を取らせれば詫びたし、何かを教われば、その場で頷くだけでなく次には覚えていた。
無論、腹を立てているときも、覚えていた。
誰が何を言ったか。
何をすると約束したか。
何を、しなかったか。
彼はそのあたりを曖昧にしてくれない。
そうした少年が昨晩、同居する少女と揉めた。
その少女もまた、同じ通信系統に接続している。エヴァンゲリオンに搭乗し、もう一人の少女とおなじように、予備戦力として待機している。
発令所の人間たちは、各々の担当画面を注視していた。
誰も余計なことは言わなかった。
『あんた、いつまでやってんのよ』
弐号機の回線から、式波・アスカ・ラングレーの声が入った。
日向の指が、一瞬だけ止まった。
マヤは表示される数値を読み直した。
ミサトは唇を結んだ。
誰も、上を見なかった。
最上段に座する碇ゲンドウは、組んだ両手の上から正面を見据えていた。
冬月コウゾウだけが、その横顔を見ていた。
『聞こえてるんでしょ、サード』
『……聞こえてるよ』
初号機の口は動かない。
代わりに、その肩が僅かに下がった。
『もう死んでるわよ、そいつ』
『知ってる』
『だったら帰ってきなさいよ』
『今から帰る』
短いやり取りだった。
それだけでミサトは、肺に残っていた息をようやく吐き出した。
だが、アスカはまだ回線を閉じなかった。
『あと、さっきからケーキケーキって。そんなに食べたかったわけ?』
冬月は、隣の男が両手を組み直すのを見た。
ほんの僅かな動作だった。
長い付き合いでなければ、気づきもしなかっただろう。
「碇」
呼びかけても返答はなかった。
冬月はもう一度画面を見た。
初号機と弐号機。それぞれの搭乗者を示す、小さな表示。
なるほど。
『……食べたかったわけじゃない』
シンジが言った。
『はあ? じゃ、なんなのよ』
『別に』
『別にって、あれだけ──』
『碇君』
零号機の回線が開いた。
『お菓子は、冷やしてもらっているわ』
綾波レイの声は、相変わらず平坦だった。
日向は、彼女の通信を妨げないようにした。
『聞いたの。大丈夫だって』
『……そう』
『帰ったら、受け取れるわ』
しばらく、初号機から応答はなかった。
やがて、
『ありがとう、綾波』
と聞こえた。
マヤの肩から力が抜けた。
言い方は違っても、周囲の人間たちもおおむね同じことを考えていた。
そうなのだ。
こういう子なのだ。
できれば、このままでいてほしい。
『あんた、レイには──』
「各機、現状待機」
ミサトは回線に割り込んだ。
少々早かったかもしれない。
だが、作戦部長には決断力が必要だった。
「初号機は兵装を安全状態に。帰投経路の確認が済み次第、収容するわ。アスカとレイも、そのまま搭乗待機していて」
『了解』
『了解しました』
一拍遅れて、シンジも応じた。
『……了解です』
ミサトは回線を閉じた。
「ケーキか」
冬月が、ごく小さな声で言った。
ゲンドウは答えなかった。
「おまえにしては、穏当な助言だな」
「……何のことだ」
冬月は追及しなかった。
ここで追及しても、得るものは少ない。
正面の画面で、初号機が踵を返した。
その頭上を、赤い光が撫でた。
(ーーー)
最初に異変を認めたのは、沿岸に残された監視拠点だった。
監視員は、それを火災だと思った。
雲の底が赤くなっていた。
煙らしいものも見える。遠距離のため形は定かでなかったが、海の向こうで相当な規模の火災が起きているらしかった。
監視員は光学装置の倍率を上げた。
赤い部分が広がった。
視野を狭めたためではない。
肉眼で見ても、同じことが起きていた。
水平線に沿って、赤が伸びている。
その上に、新たな赤が膨らんでいた。
監視員は装置から顔を離した。
夕焼けに似ていた。
ひどく濃い夕焼けだった。光を含んだ雲の縁が幾重にも重なり、空そのものが潤んでいるように見える。
だが、太陽はそこにはなかった。
もう一人の監視員が、隣で何かを言った。
声は聞こえた。
言葉の意味が入ってこなかった。
赤い雲が、こちらへ近づいていた。
近づいていると認識した途端、雲ではないこともわかった。
無数の輪郭があった。
一つ一つが重なり、離れ、また重なる。燃えるものが空を埋めていた。それらは、それぞれの縁から赤い光を滲ませながら、同じ方向へ流れてくる。
監視員は息を吸った。
「空が、沈む」
そうつぶやいてから、通信器を掴んだ。
定められた報告要領があった。
方位。距離。高度。推定速度。目標の種別と数量。
数量。
監視員は、もう一度空を見た。
隣の監視員が、識別装置の画面を見せた。
報告──報告をするのだ。
彼は回線を開く。接続を確認する。
所属を、配属地点を名乗る。
応答を乞う。
返事が来る。
空を見る。
報告。
「天と赤に八割、地と
(ーーー)
「数量、再確認」
日向が命じた。
報告が届く。
別の観測点からも届く。
数字は一致しなかった。
マヤの画面に、新たな識別枠が現れた。出現した枠の内側に別の枠が生じ、その外側をさらに大きな枠が覆った。目標を分離する処理と、同一目標として統合する処理が、同時に走っていた。
「識別が収束しません。個別の反応が──」
「数を聞いているのよ」
リツコの声に、苛立ちはなかった。
だからこそ、マヤはすぐに答えた。
「数えられません」
リツコは画面に近づいた。
個別に見れば、すべての目標から使徒に固有の反応が得られていた。
全体をまとめても、同じ反応だった。
分かれている。
だが、別々ではない。
「……一つなの?」
ミサトが聞いた。
「現時点では、そう判断するしかないわ」
リツコは答えた。
正面の表示が切り替わった。
観測点から送られてきた映像だった。
赤いものが、空を覆っていた。
映像を拡大すると、一つ一つの輪郭が見えた。
中央に頭のような部位があり、その左右から二本の長い器官が伸びている。腕に似ていた。肩に相当する部分から先が、ぶらぶらと垂れ下がっているものもあれば、前へ突き出しているものもある。
先端が開いた。
白い歯が並んでいた。
二つの口だった。
頭の位置に口はなかった。
そこは赤く濡れた、のっぺりした面になっている。それらが同じ方向を向き、二つの口を開閉させながら近づいていた。
前の一つが、隣の一つにぶつかった。
押されたほうが傾く。
その上から別の一つが被さり、三つの輪郭が重なった。
離れようとはしなかった。
互いの身体を押し退け、擦りつけ、前へ出ようとしている。後ろから来るものがその間に頭を突っ込む。二本の器官が絡み、解けないまま、ひと塊になって下降した。
地上にも、既にいた。
道路を横切るもの。
建物の外壁に取りつくもの。
屋上から転がり落ち、下にいたものを押し潰すもの。
落下した個体の器官が、不自然な方向に折れ曲がった。
それでも、もう片方の先端は開閉していた。歯を舗装面に立て、身体を引き寄せる。折れたほうを引きずりながら、前へ進んでいた。
後続がその背中を乗り越えた。
次が来た。
その次が来た。
交差点を曲がろうとした先頭が、建物の角に引っ掛かった。
後ろのものは止まらなかった。押された個体の身体が潰れ、赤い液体が外壁に広がる。その身体と壁の隙間から、新たな頭部が突き出された。
画面の端から端まで、同じことが起きていた。
「初号機、帰投中止。各機、迎撃態勢!」
ミサトは命じた。
迎撃に使える戦力は、既に前進していた。
赤い群れの前に、白い巨体が降り立った。
翼を広げた量産型エヴァだった。
初号機への依存を減らすために、予定を繰り上げて投入された機体である。搭乗者の機嫌を取る必要も、家庭内の紛争を考慮する必要もない。指定された目標に向かい、与えられた戦闘を遂行する。
少なくとも、投入を急いだ者たちは、そう期待していた。
量産機が兵器を振った。
先頭の数個体が、まとめて砕けた。
切断された器官が回転し、赤い胴が路面へ叩きつけられる。後続の二つがそれに足を取られたように転倒した。その上を、さらに後ろから来たものが越えた。
白い巨体は、返す刃でそれらを薙ぎ払った。
前方が開いた。
そこへ、道路の両側から群れが流れ込んだ。
建物の陰にいたものが、倒れた個体を踏み越えて現れる。屋上からも降ってきた。一つは量産機の肩を掠め、一つは兵器に衝突して弾け、もう一つは白い翼に引っ掛かった。
口が閉じた。
量産機が翼を振る。
取りついたものが投げ飛ばされ、外壁に赤い染みを作った。
その間に、正面の距離が詰まっていた。
「近接目標、増加!」
マヤが報告した。
量産機は突き出した足で一つを踏み潰した。
赤いものが踵の両側からはみ出した。足を引き抜く前に、別の一つが脛に身体を押し当てていた。
二本の器官が、白い脚を挟んだ。
歯が装甲の表面を滑った。
甲高い音がした。
閉じきらなかった口が開き直り、少し位置を変えて、もう一度閉じる。
膝が上がった。
取りついた個体は離れなかった。
身体だけが振り回されている。その背中へ、地上から別の一つが口を掛けた。白い脚にぶら下がる赤いものが二つになった。
量産機は脚を建物へ叩きつけた。
二つとも潰れた。
外壁が崩れ、粉塵が上がった。
その粉塵の下から、また来た。
倒れたまま、両方の口を伸ばしてくるものがいた。
片方の器官を失ったものが、残る片方で瓦礫を噛み、身体を引きずってきた。
切断された頭のような部位が転がっていた。その脇を、それを失った胴が進んでいた。二つの口は、まだ開いていた。
量産機が後退した。
退いた先の路面にも、赤いものがいた。
踵が一つを踏んだ。
足裏で潰れたそれに躓き、白い巨体が僅かに姿勢を崩す。
群れが、その一瞬に詰まった。
腹へ。
腰へ。
下げられた左手へ。
量産機は最も近い一つを掴んだ。
握り潰した。
指の間から赤い液体が流れた。その指を、別の口が噛んだ。
手を振り上げると、一つが放り出された。もう一つは手首にぶら下がっていた。二つの口のうち、片方だけが食いついている。空いているほうが肘へ伸びた。
「量産機、後退させて。初号機の射界に誘導するわ」
ミサトが指示した。
白い巨体の前で兵器が振るわれた。
赤い身体が次々に飛んだ。
その一つが、量産機の胸に当たった。
弾き飛ばされるはずだった個体が、そこに残った。
二本の器官を首の両側に回し、頭のような部位を胸板に押しつけていた。
量産機が、兵器から片手を離した。
胸に取りついたものを剥がそうとする。
肘が曲がった。
開いた関節に、手首から這い上がってきた口が入った。
歯が閉じた。
今度は滑らなかった。
白い腕が大きく引きつった。
口の縁から、濃い液体が溢れた。量産機自身のものか、食いついたものの体液か、映像では判別できない。
ただ、噛みついた器官が脈打っていた。
胴に近い部分が膨らみ、その膨らみが先端へ移る。
もう一度。
さらに、もう一度。
「接触箇所に異常反応!」
マヤが叫んだ。
量産機の指が開いた。
兵器が落ちた。
路面に跳ねたそれを、群れが乗り越えてきた。
「神経接続を確認して!」
リツコの指示に、複数の応答が重なった。
量産機は左腕を引き剥がそうとしていた。
右手で噛みついたものを掴み、引く。
赤い胴が裂けた。
その下半分が落ちた。
口は残った。
裂けた断面を後続が押し潰し、白い腕に新しい口が重なった。
胸にいたものが、首の後ろへ回った。
顔に取りつこうとして、顎の下を滑るものがいた。噛みつく場所を探す二つの口が、白い頭部の側面を何度も叩いた。
翼の付け根が沈んだ。
量産機が片膝をついた。
その膝を、群れが越えた。
地上からは届かなかった胸へ、肩へ、頭へ。
前の個体の背中に口を掛け、それを支えにして、次が上がる。下にいたものは押し潰された。上にいたものはさらに上へ手のような器官を伸ばした。
白い翼が一度だけ大きく開いた。
片側に付着していた群れが剥がれ落ちた。
その裏側へ、空から降りてきたものが取りついた。
「行動指令、受け付けません!」
量産機の右手が、なおも動いていた。
首元の一つを掴む。
握る。
力が抜ける。
掴まれた個体の二つの口が、ゆっくりと右手に閉じた。
白い指が見えなくなった。
量産機は倒れなかった。
膝をついたまま、頭を垂れていた。
赤いものがその上を這っていた。
背中から肩へ。
肩から首へ。
首から顔へ。
その下で、白い巨体は動かなかった。
ミサトは、閉じかけた唇を開いた。
「量産機の──」
「待って」
リツコが遮った。
群れの動きが変わっていた。
首元にいた一つが口を開いた。
支えを失い、量産機の胸を滑り落ちた。肩からも落ちた。背中にいたものが、翼を伝って地上へ降りた。
一つが量産機の膝の前に落ちた。
すぐには動かなかった。
後ろから来たものが、それを押した。
その次が乗り越えた。
やがて、落ちた一つも、残っていた口を路面に立てて進み始めた。
群れは、量産機を通り過ぎていた。
攻撃していなかった。
白い巨体が露わになった。
左腕は肘から先が捻れていた。
翼の一方は垂れ下がり、肩と首の境目から濃い液体が流れている。顔の横に、噛みちぎられた赤い器官が一本、まだぶら下がっていた。
量産機の右手が地面についた。
「……制御、復帰?」
誰も、マヤの問いに答えなかった。
白い指が、舗装を掻いた。
量産機は身体を持ち上げた。
片膝を立てる。
起き上がる途中で腰が折れ、前へ倒れかけた。
右手で支えた。
もう一度、立った。
捻れた左腕が、胴の横で揺れていた。
肘から先は、掌が背後を向いている。
量産機はそれを直さなかった。
頭が動いた。
長い首が、不自然に傾いたまま、こちらへ向いた。
口が開いた。
閉じた。
歯が鳴った。
足元の群れも、進路を変えた。
白い脚の間を抜けるものがいた。垂れた翼の下を擦り抜けるものがいた。量産機の背中に一つが這い上がったが、今度は噛みつかなかった。その肩越しに、二つの口を前へ差し出していた。
日向の指が、進路を示す線を追った。
地上の収容施設。
その下にある本部。
さらに、その下。
「進路、本部直上!」
白い巨体が、一歩を踏み出した。
左脚が遅れた。
爪先を路面に引きずったまま、右脚だけが前へ出る。上体が大きく揺れ、倒れかけ、その勢いのまま次の一歩が出た。
二歩目は速かった。
三歩目で、走り始めた。
赤い群れが、その両側へ広がった。
「シンジ君、量産機から離れて!」
ミサトは通信を開いた。
『……ミサトさん』
少年の声が聞こえた。
『こいつ、こっち走ってきますけど。食パン咥えてないし、撃破していいんですか?』
初号機が視線を戻す。
量産機が、もう目の前にいた。