「おう、雪が降ってきたな」
ベランダに大きな影がゆうらり動く。何度目の冬を越したのかはわからないが、こうして雪が降ってくるとこの者は窓を眺める癖がある。風情と言う物を感じているのか、それはわからないがその横顔は寂しそうに見えた。
部屋の灯りに照らされた茶褐色の髪は、その者の顔を映し出さない。街の灯りに照らされる光は、その者の瞳しか映し出さない。
「……」
カップ酒から湯気が揺れてちらりと降る雪を少し溶かしていった。それはすぐに水になってその者の手の甲についた。寒い季節に半袖を着ているから腕にもそれが付く。
ほろ酔いの彼女には特に気になる事は無いのだろう、また近くを車が通ると彼女の顔が映し出された、それはやや赤かった。
「……酔いつぶれないでくださいね」
「先立っての人に言われても、この時期だけはこれが無いとやっていけん」
「……そうですね」
緑色の部屋着を着た若い女性が背後に立って厳しい意見を投げかければ、余裕ぶった表情で顔を緩めてふっと笑う。
肩にかけた学ランに似た上着を揺らして、少しだけ昔を思い出して上機嫌になるとともに少し寂しさを面に出した。
「でも、あまり酔った姿を見せるのは、情けないじゃないですか」
「──そう言われると」
くるりと器用に振り返れば、連れられるように部屋へと入っていく。
まだ飲み切っていないカップをしっかり握って、だがその足腰はしっかりしているので足取りもそれなりに確かだ。それでも何故危なっかしさを心配する顔を、連れ立っている女性が隠し切れないのは、彼女の右目の視力が弱くなっていっているからだ。
「この俺も、昔の事は笑えんな」
「たづな、アンタが訓練校を離れて、それで幾時代かあって。もう知っている顔はお前か、後事を託した連中だけだよ」
炬燵に入ってくつろげば、どうにも遠慮しているたづなという者の態度が気に食わないらしい。
それを示すようにウマ耳はじっと彼女を注目しているし、何より尻尾も床を掃除をするかのように擦っている。しかも彼女にとっては、目の前にいるたづなはこの者の先輩方に当たるのだった。
「俺がどういうウマなのか、知っているだろう」
「それでも私たちの事、昔どういう事があったのか。 伝えていくべきである、そう……思いませんか?」
「それが出来るのはアンタみたいな、怪我をしてもやる気だけは満ち満ちているだけの連中だけさ」
じっと自身を見つめる瞳は未だ闘志が燃え盛っていると、この者いやウマは語る。その瞳は人を、ウマを見るという事に関しては一流だった。
だからまだ訓練校と呼ばれていた時代、数は少ないが色んな連中を見つけては面白いと誘っては、この先輩に投げていった事も思い出される。その中にはこの者の跡を追う事が出来たウマもいた。尤も誰も彼も彼女に負けず劣らずの一癖も二癖もある連中だったと述懐出来る。
その内の一人は、たづなでも手に負えない程自由なウマもいたという話をされたが、まあそうだろうなとその時は彼女は苦笑いを返してやった。多分あの飄々としたウマは滅多にお目に掛かれないだろうと当の彼女も思う。
「悲しい事、言わないでください……貴方だって、十分に──いや日本のウマ娘の中で立派な仕事を成し得ているのですから」
「言ってやるな、たづな」
こうして恐れずに怒っているのは、貫禄があって尚且つ真剣であるはずであることには間違いはない。尤も彼女はもっと切れた時は恐ろしかったとこのウマ娘は思っていたが、彼女が落ち着いていくとこんなものかと思ったのか、それともたづながこうして角が取れたのか知らないが──とにかく目の前にしても、それをはぐらかすほどの余裕があると今は思う。
それに昔に戻りたくて仕方が無かったそのウマ娘は、周りには誰もいない事を良いことに、たづなの
「────いいや、トキノミノル先輩。なんだか、懐かしいんだか、分からないじゃないか」
「シンザンさん」
十戦十勝内レコード勝ちを七回というパーフェクト、アメリカへと戦いへ赴く前に破傷風で引退してしまったウマ娘『トキノミノル』──今は駿川たづなという名前で、理事長の秘書を務めている立場の元ウマ娘であり。
そして炬燵に温もりを求めてそれに相対するのは、十九戦十五勝着外無しの三冠ウマ娘『シンザン』である。
そんな二人は夜も幾分更けこんだ頃、こうして二人の伝説が向き合って何を話すかと思えば、彼女の立場と彼女らがウマ娘であるという事から、用件はただ一つだけだろう。
どうか講師役として、トレセン学園に来てくれないかと。
「……俺ぁ、正直今でも名前を変えて現役続行ってことが、一番今でも信じられないんだよ」
「そうさせるだけの力が、そこにはありますから」
「……どうして、あんなに馬鹿な事をすれば怒鳴り込んできた先輩が、今でも──いや、それ以上に激務に励んでいるのか、昔の考えは変わっちまったかい」
「それは今でも変わってませんよ」
ずずとまたカップ酒を飲む手は早い、しかし飲兵衛にしてはきっちり一日の中で、どれをどれだけ呑むのかと言うことまで自分で決めている、しかもそれは彼女の頭の中に叩き込まれている。これでずっと長生きするつもりなのだというが、それは何処か適当な経験則を並び立てているようにも聞こえるし、含蓄のある生き方をしている様な気もする。
ただ昔っからシンザンも、こうして妙な所でもキッチリとしているのは変わらないなあとたづなは思う。
「勿論俺にも意地はあるし、ちっぽけな埃ほどもねえ誇りってやつも、さび付いた建前もあるさ」
「それでは!」
「だがな? 俺はもう前線を退いて久しいんだ。 後輩のタケホープのダチだっていう、ハイセイコーが妙な活躍をしたってくらいだ、最近の事は何にも知らねぇ。 名伯楽だと? 笑わせんじゃねえよ」
涼しい顔だった、微笑も絶えていなかった。
そこもまたたづなは昔自分が世話をしていた頃と、全く変わらない考え方をしていると感じ取った。
「俺ぁ、もうポンコツだ。 なのに恥一つかけられない。 こんなに残酷な事があるかよ」
レースの時も何処をどう走れば、長くそして勝てるのかと言うのが分かるので、あんなとんでもない成績を残せたのである。だからゴール板を過ぎたらとっとと帰っていったし、賭けに出るときは大外から回り込んで勝ち抜くなどと言う勝ち方をもした。すべてはこのような冷徹な考えから来ている。
しかしそれは全て昔のコースが、ダートさながらの荒れ放題、碌でもない連中が我が物顔して蔓延っていた時代だからこそ、そうする必要があったのだ。
そして現にたづなの知るあの混沌と殺伐の時代を生き延びている。しかもこうして強くあるべき事で、後々の今に繋がっているわけだ。
「バ場だけじゃねえ……今のウマの競争は、昔の命を切った張ったの刺し合い殺し合いじゃない。 ちゃんとしたスポーツになったってのは今大手振って歩いてるお前さんが証明している。 もう正々堂々と立ち向かう真剣勝負だ、闇で殴り合って卑怯様様の時代の遺物、焼却炉に火ぃくべて燃やしておけ」
「──そうまで言うなら、構いません」
ああと声は低く、確かな声音で肯定してシンザンは頷く。
「それでいい」
「だけれども、どうか彼女たちに、一つアドバイスをしてほしいだけなんです」
「……」
「これは私が走る事をする側から、見る側になってから色々と学んできたことなんです。 だからきっと……シンザン、貴方の為にもなるはずだから……どうか、傍で見てほしいだけなんです」
彼女らしくも無い、そんな弱々しい手の握り方だった。殴られることを覚悟していたシンザンにとっては、正直どうも付き合いにくい彼女の様子で、よく顔を見てやれば随分と酔っているのであった。
「情けは、人の為ならず、ですから……」
(言いたいことだけ言って、終わりかい)
酒も弱いのに付き合ってもらったのは悪いとは思っているが、それはそれとして妙な話を持ち込んできたのをああして酔い潰せたのは清々しているシンザンであった。
その手にはしっかりとプリントされた新品のパンフレット。
(昔の三越のチラシより、派手さだけはあるみたいだな)
じっとそれを見つめる両目は、黒々と輝いている。見る人が見ればそれだけで圧倒されそうな、しっかりとした眼圧を今でも持っている、きっと知る人も知らない人も、それが一線を退いたウマ娘だとは思わないし、何なら体つきもまだ現役のウマ娘に見劣りする事は無いだろう。
(……)
暫く彼女の様子を見てタクシーに乗り込んだのを見た後、また引き戸を開けて一軒家へと入っていくシンザンの一人寂しい姿は何を物語るだろうか。勝負師の末路か、彼女が望んだウマとしての余生なのか。
ただ一時代を築いたその背中の雄弁さは、きっと誰かに届いてほしいと願うのは、気のせいであり間違いなのだろうか。
結局黙って送る言葉も無く振り返って家に帰ると、すぐに電気を消して静かに床に就くのであった。
その夜は少し吹雪いていた。