住宅街は静まり返っていた。夜は更けて光るのはまた欠け始めた月の光と街路灯、都会だと言えどここまで郊外に行けば、こうまで静かな夜が待っていた。
府中の街は夜11時を回った頃だった。春から夏に変わろうとしているやや涼しくも生暖かい、やもすれば気持ちの悪い夜風が吹いてきた。そして彼女の上着の裾も、風に煽られて、はためいた。
行き過ぎるのは車のエンジンとタイヤの入り混じった走行音、幹線道路はまだ交通網が落ち着いてきただけで、まだ人の往来は冷めやらぬ大都会の片隅。その光の流れに誘われるように、二つの足音が聞こえてくる。
一人はシンザンである。
それはこの通り大きな気配を風に充てて、独りごちるのと同じように立ち振る舞って、堂々とした態度で道路の真ん中を、ズボンのポケットに手を突っ込みながらゆっくり歩く。
その隣に連れ添って歩いているのは駿川たづな、彼女も日々の業務を終わらせて、帰り道を共に歩いているのである。一週間くらいしかいないと見越して、ビジネスホテルに一人泊っているシンザンを見送りに行こうと彼女は躍起だった。
シンザンは苦言を呈したが、親切にしてくれているのは野暮にやって放っておく程、情けを緑の大平原や荒野の辺境に捨ててきたわけではないわけだ。ただ彼女が付いてきても良いかと尋ねた時、黙ってその先を歩いていくだけだった。
だから何とも言えない時間が流れているように、第三者の視点からは見える。だがそれは浅い先見、もっと深くを読み取れば、それがあったのだと漂う昔の空気が流れて、それ自体の認識が全く異なるだけだから。
それにしてもとシンザンはふと振り返ってみた。
当時は本当に観客が乱暴だったものだから、競争服の制限があったのを始めとして、髪の長さなどもしっかり詰められていた。だから休日に出かける時の衣装やトレンドは特に敏感だった彼女ら、ミニスカートで銀座に繰り出していたのを思い出される。尤も今の衣装は、当時の『ミニ』を鼻で笑えてしまう程、裾が本当に短いものだが。
しかしそんな事もそれはさておきなどと言えてしまう程、各々のウマの個性を強調させる衣装で、それでバ場を走っているのには驚くほかは無かった。馬の耳に飾りなどは本当に許されなかった事なのに、最早両耳に付けたり冠を被っていたりする。帽子を着ていたり、鉢巻きなどもしている。
他にも髪型の長さもサイズも形まで自由自在だった。
例えば先ほどの冠を被っている、ダイワスカーレットと言った少女はフワフワなウェーブがかったツインテールを。シンザンに話しかけてきたビワハヤヒデなどは新聞どころかビンですら絡まってしまいそうだ。
あと優等生だとのたまっているのもいたが、あの髪型では、当時ではどうあがいても模範となる優等生どころか最先端を行った大胆不敵な後輩にしか見えない。ただ何をするにも自信満々であったので、気に入られるかもしれない。
後、シンザンはなぜか自分の座ってる姿を、スマホでパシャパシャ撮られるという妙な思いもした。そもそもSNSの発達や現代の携帯の真価すら詳しくは知らなかったので、妙な話だなと思いながらも自分より小さな後輩に色々と学んでいたり。
さてこんなふうに、シンザンがあの後ムキになってやらかして、マズイなとは思って冷静になって見たらば、色々な話を聞くことが出来たのだ。
勿論彼女らが驚く話もいくつかあった。ガラケーポケベルどころじゃない、肩掛けの携帯を持って東京ジャングルを走るサラリー。学園理事室から延々流れてくるリバイバル盤。あまりにも流行だった『だっこちゃん』を禁止された事。まだ未熟だった時に先輩に連れられて行ったビートルズライブ。
緊迫感が取れた空気のせいなのか、それとも彼女自身の恐ろしさがどこか行ったのか。それはシンザン自身にもはっきり解る事は無かった。しかし何かを語る口は細々でもなく、だからといって壊れたトランジスターラジオのようでも無く、己の生きた道に何があったのかを拾い上げていくように、昔に起きた事を口にするのであった。
さてそれがどういう思いをシンザンに与えたのか、そして今を走る彼女らにどういう思いが伝わったのかはわからない。彼女らが互いを、どういう風に映っているのかを解らないのと同じく。
だが彼女らに確かに正面から向かい合って、はっきり言える事は──シンザンが考えるよりもずっと、笑っていた事だ。
「じゃあな」
「あ、ちょっと待ってください!」
入口に差し掛かって、では彼女もここに泊まるわけではないし、何なら途中の道の反対方向にあるのだから、とっとと背中を向けて入っていこうとした。しかしそれをたづなは一寸差し止める
もう夜を回ってしまっていたしとっとと寝たいシンザンは、立ちどまりはしつつも後ろを疲れても据わった眼で彼女を見つめる。
「……」
「これ、おやつにと思って……」
袋を押し付けられるように渡されて、ともかくその中身をホテルロビーの灯りで見てみる。
彼女にとっては懐かしい名前がそこには書いてあった。
「…………そう言えば、食えてないな。こういうのも」
「きっと……お口に合うと思いますから」
「だがよ。俺は大体いつどん位飯を食って、どん位で眠っちまうってのが染みついちまってる」
「まあ、それは」
「だから明日に取っといておくから────ありがとうな、先輩」
去り際に微笑みを浮かばせて、何かを言おうとした彼女を今度こそ振り切って、自動ドアの中に入っていった。
すぐ右に折れてエレベーターの入口へと向って見えなくなったその後ろ姿、立ち止まってほしかったが追う事はしなかった。たづなはゆっくりと振り返るが独り言ちた言葉は、シンザンに確かに向けられたものだった。
「それも……おいしくなりましたからね」
真っ白の袋の中に入っていたのは『亀谷万年堂』の銘菓『ナボナ』。ブッセというフランス菓子をその店流にアレンジしたものだ。
嘗て彼女が現役を張っていた時代、その丁度その頃に発売されていたもので、こんなCMを打っていた──ナボナはお菓子のホームラン王と。
「確か王さんは監督になったんだな」
お菓子のローカルCMにプロ野球選手が出るなど、それこそ驚くべき事だった。それに当時はまさに全盛期のホームラン王など呼ばれていた頃、それが幸いだったか、今では全国区なのだろう。こうして自分にも土産としてくれたのなら。
「俺は……俺は」
暫くの沈黙があって。そうだ、そうシンザンは呟いた。
彼女はもう随分と長い時間を過ごした。それを驚きをもってして彼女は現状を捉えていたのだが、それは違うのだと思えば、立ち上がって化粧台の前まで歩いていけば、鏡は自然とやや頬こけた化石の彼女を映す。
「何を、背負っている?」
流星のように消えたはずの時間を背負って生きている、その不機嫌なんて言う物ではすまない仏頂面を映している。シンザンには自分の姿がそう見えてしまい、乾いた笑いを抑える事もしない、誰もそれを止める者もいない、誰もそれを想う者もいない。
同じく嗤われる事も、貶されることも、非難されることも無かった。外は晴れ、月が一点の曇りもない空で輝いて照らしている。
少なくともあんなに輝いていた顔に、涼しさを感じる顔に、無垢な瞳に、向けてやるような顔ではない事は解るはずだ。
風は静かに、遥か上空を流れていた。雨雲を、運んできていた。
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