『お母ちゃんへ』
そう書きだした手紙の文字は形式ばったもので可愛らしくない、或いはある事について話す為に筆を執っているので、キチンとした口調を保とうと努力しているのだった。勿論それは何時もの事なのだが、この手紙はそのいつも以上の書き方であったというのは間違いない。
『東京はとても蒸し暑くなってきて、また汗だくの季節が訪れましたが、如何お過ごしでしょうか』
いつもはもっと砕けているので、きっとこの書面を見たらば、育ての母の破顔どころか抱腹絶倒の光景が見られるだろうから、気遣って一文付け加えている。
『ごめんなさい。一応こういう話をするときは、絶対にこうした方が良いって思って書きだしました。私の我が儘みたいなものです』
ワガママをしたのはこれ以外にもたくさんあるし、その内は彼女も母親も覚えている事があるが、こういう形なのはとても奇妙なものだ。ますます笑うのを止められない光景が広がるのを、手紙を書いているこの者は止められないだろう。解りもしないのに牛に見せるかもしれない。そんな思いを抱きながらも、ある者に対しての尊敬を交えながら、その文字を綴っていく。
『それで学園の方の生活は、色々と新鮮な事ばかりですが、一つ大きな変化があって、もう夏も近いので暑中見舞いと一緒に出すことにします。ナボナ、皆にも分けてあげてください』
それで、と彼女は文面を書く上で少し止まって考えてしまう。一体どう説明したらいいのか、色々と知ってしまったその人の事情を鑑みて、しっかりと言葉を選ばなければダメだからという理由で、随分と次の言葉を書きだすのに十分時間を使ってしまった。
結局単純な言葉しか出てくるばっかりなので、それを書きだしてしまうのだが。
『さてその大きな変化というのは、それは私たちにとってという意味で、それはある意味学園にとっても、もしかしたら日本中驚いたかもしれない出来事で。もしかしたらお母ちゃんも知っているかもしれませんが、改めて、もしくは新しく書くことにします』
何とかそれで納得して、ちらとウマの耳ごと脇に目を背ければ、籠の中にはくしゃくしゃに丸まった紙が、それなりにうず高く積もっていた。それに窓の外はすっかり暗くなって月も大分高く登っていたし、もうグラウンドの方も人はいないし、街に行けたとしても大体のお店は閉まっている程、とっくに夜は更けていた。
はあと溜息を吐きながらも、少なくとも合宿前にこれを早いお中元と一緒に出す事を目標にしつつ、どうにかこうにか頭を悩ませているのであった。
「マックイーン」
「……ええ、はい? 何でしょうか、えっと……ああなんですのライアン」
「いつもこうして耽っているのは、大体がお菓子かレースか、後はゴールドシップの連中くらいなものなのに、今じゃもっと違う事悩んでるから、お婆様心配してたぞ。まあお婆様も……同じ感じだけどね」
メジロ家のお屋敷の一角、涼んでいたメジロマックイーンにライアンが仕掛けていったのは、単純に好意からであった。単純と言ってしまえば随分と失礼極まりないが、彼女しかこういう事が出来ないと見たメジロアルダンの慧眼たるや。
そしてライアンは実は一つ嘘をついていた。それはお婆様に頼まれたからという物だが、それはアルダンから頼まれたことからであった。なにしろ貴方達もどこか思うところがあるかもしれませんねと、当主直々に、寧ろ気にすることを良しとしていたからだ。勿論競争の力という意味でだが。
「惹かれている、というのは……確かですわ」
「お婆様がそうなるのは、解らなくもない。あの人の世代直撃だもの。それでいてアイドルというより……生粋のアスリートだったんだ」
「もしもあの人に惹かれているのが珍しいと思うなら、それで構いませんが」
滲みだした執念と悔しさ、口惜しさを纏っている言葉を吐き捨てて、同調を促す圧力をかけた必死な目にも似た視線を送る。そうするべきだろうと、当然だろうと、そう言いたげな視線であったが。それは心配する言葉を無碍にできてしまう程の威力があって、ライアンを本気で黙らせてしまった。
「あの人が、一体どういう人だったのか、そういう事をつくづく学ばされて……一度も、勝てた試しがない。これが本当に! 最・悪な気分なのですわ!」
「マックイーン……」
勝ちたいという根本的な思い、それを募らせている彼女の、未だかつてないほどに執着するその瞳が、ライアンに物思いの原因と現況を覚らせるには十分だった。しかしそれは彼女だけが募っている話ではない事を知っている。何よりライアン自身が、後輩に恐ろしい表情をしていると言われた時もあった。
それが彼女の狙いだったかどうかはわからない、それでもその人は学園に来た、そして時たま自分たちの面倒を見てくれるという事になった。これから、しばらくの話になる。そうメジロマックイーンは言いたい。
「あの人を破る。それが今迄だったのを、忘れていなかったとは言わせませんわよ、ライアン」
吹き荒れ荒んだ夏の街、熱帯夜に覆われる東京郊外。日本の夏というものは、どうにかしなければ苔やキノコが部屋の中だろうとが繁殖しそうなくらい、どこもかしこもとても蒸す。
それに今はまだ梅雨時が終わらないころだからか、それも本当に酷い有様で、もう少し時間が進んでほしいくらいだと愚痴るのもいい時期だ。幸いなことに、昨日少し降って、そして今日は一日中晴れていたから、この時期にしては、ただ暑いの感想しか出てこないのは、不幸中の幸いである。
やや強まっていた風の中、夕暮れのベランダの窓が開いていて、壁越しに見える紙の束は、射影機を模した文鎮を乗せられて、風に飛ばされないようになっている。吊り下げた風鈴がガラスの、擦れ合わさり音を奏でる。
これを風流と言い、またそばに立つ彼女の姿もまた風流と言う。今だ瑞々しい肌に滑る玉の汗。やや焼けた肌は、それでもまだ色白い。
黒髪が揺れて、その人は花香り。瞼が瞬き、その人は思い出す。懐かしくもない思い出を、まだ人が語る記録を。ある人はそれは歴史に残すべき遥かな栄光であった、ある人は歴史に語るべき暗く彩られた熱狂であった。
しかし誰もが遥かな昔を思い出す中、彼女はその写真立てを眺めて今、不思議だねとふと呟いた。それを撮ろうと言ったのは、ある黒い服を着こなすますます小柄な少女で、卒業でも何もないのに、とても大袈裟な事になって、困ったのは真ん中に陣取っている者だ。そして撮りそこねてここにいないのは、写真立てを眺めている人だ。
皆いい顔をしている。色々な服で色々な恰好で、外にいる人も内の人も。真ん中の人に抱き着いている人も。
イタズラな微笑みの、声だけは空に消えていった。
エアコンがよく効く部屋の中、いくつかのお菓子が置いてある。中身も外側もそう古く見えるものではないので、その懐かしい気分にさせるおかきや和菓子がミスマッチをかき立てた。外の青空には夏の香りが、眩しい太陽の光と共にくすぐる。中庭に咲く向日葵の色は明るく。
それを眺める彼女の、座っていた席には様々な書類が整理されていて、更に隣、つまり椅子に座って正面に据える黒電話が、新品のように輝いていた。
そんな電話機が、ふとなり始める。
一度目。
二度目。
そして、三度目で彼女は受話器を取った。
「はい、寮管のシンザン」