春。
雪は融けて久しい季節、緑が芽生えて花も咲く季節の早朝に、一人大柄な影が府中の街に登り立つ霧の中から現れる。
(変わっちまったな、仕方ねえが……)
来てしまった、そう嘆く事は無かった。
上着を羽織ってささくれたズボン、きちんと入れたシャツのノリは真新しい、もしかしなくてもその外見はどこを切り取っても素晴らしいバンカラである。馬の耳に咥えた笹の枝、外面を気にして歩いていないのはシンザンである。
のんびりとした足取りながらガランガランと鳴るのは、シンザンの履いている鉄下駄がコンクリートを削っているから。その隣ではダーッと彼女よりずっと若いウマ娘がわき目も振らずに走っていった光景を見て、ふと立ち止まればやや短くなった髪が揺れる。
「おーう、やっとるなあ」
独り言のようにその者に声を掛けたが、あっという間に豆粒になってしまって過ぎ去ったので、その挨拶が聞こえたのかどうかもわからない。シンザンは暫く黙っていたが、言い咎める事も無くまた歩き出した。
「……」
(な、何だよあれぇ……)
因みにシンザンの後ろで偶然散策していた人がいたのだが、彼女の姿を見てその異様な貫禄と気配にすっかり怯えて、前を過ぎるどころか影すら踏めないのを彼女は全く気が付かなかった。
河川敷まで階段を上がって眺める堤防は、朝の爽やかな風が流れていて、東から昇る朝日が彼女の流れる髪を照らしている。向こうではいくつものウマ娘の影が朝のジョギングに勤しんでいるが、今度はシンザンは声を掛ける事もしなかった。
ああいった眩しい物は自分にはあまり似つかわしくないからだと思っているから。
「……」
目を閉じれば思い出す。同期の桜を余所にして、寝っ転がっていたのを咎められる日々を。
『何をしている、走らんか!』
『すみませんが、どうも腹の虫が好かんと言うのです、教官。鉄もボロボロ、これ以上は走れません』
まだ改装される前、訓練校時代。どうも彼女は問題児として評価されているようで気に食わなかったが、しかしそれが自分が一番やりやすいのだなと解った時には、もう世間の評価などどうでも良かった。
こうして不真面目にやっていても図太く生きる、ウマ娘とは何たるかをこの時から覚っていた。
『き・さ・ま……!』
『何、無理にぶち壊して勝てる競争も勝てんのでは話になりません、何より夜も走るなど以ての外、下手をせずとも腱鞘炎、不運だったら足をぶち折る可能性もある』
強い眼力の前では一介のウマ娘も人間もそれで黙らせられてしまう程だった。しかし目の前にいる教官はそうではない、もっと激しい地獄を見ている、もっと凄まじい熱気に晒されて戦い抜いている。だからこそ自身の信じている戦い方を押し付ける。
そこには確かに説得力がある、強いウマであるという前提では確かに正しいはずだろう。しかしいつまでもそれに従っているのが時代ではないだろうと、シンザンは思っていた。
『尻の青い貴様が語るかっ……!』
『我々は寝て育ち走っては育ちます、今に分かります、時代はお互いを叩き合う事ではなくなると。では小生はこれにて』
あれやこれやと言い訳をして、どうにかこうにか練習をさぼって、それでなんと勝っていることか。今にしてみればアレは全部うぬぼれだったのだろうなとシンザンは思う。
そうでなければ海外へと戦いに行った先輩の胸を貸す事も出来たはず。しかし誰にも期待などされていなかった事を聞いている、だからこの名前が付けられたのだ。
歳を取って戦いから退いて、今だからこそ解るのだ、己は
「とんだ生意気で呑気で、跳ねっ返りだったよ」
今はもうとんと噂も聞かない、かつての名ウマに思いを馳せる。
「セントライトよ……後悔先に立たずと知るには遅すぎたのだ」
学校についたらば、まず小奇麗という印象をシンザンは受けた。
勿論色々な法律でウマ娘の立場は大分特殊な位置にあるというのもあって、訓練校と言っていた頃からもしっかりとした建物は立っていたはずである。しかしパンフレットやら何やらを見て、まずあの古ぼけたコンクリの造りで無くなった校舎が少し信じられず、しかし実際に目にしてああこんなに変わったのだなと仰ぎ見る。
(ちょっと前に作り替えたにしちゃ、随分変わっちまってよ)
それにこの校舎からあふれ出る環境と周りを取り巻く環境に関しては、特に随分変わってしまっていると解る。正真正銘のお嬢様学校になったのだなと思い、しかし解放されている校門へと進みゆく。
唯一何にも変わらないのはこの三女神の像と──。
「……昔は本当に悪いことをしたもんよ。 コイツも、スピードシンボリにも……」
桃色の花弁、年輪も入っているだろう大きな桜の木、まるで自分の方が偉大なのだとシンザンを見下すようであった。ある時折ってしまった木の枝の傷はきちんと癒えているが、やはり何かあったのだろうかと言わんばかりに不自然な伸び方だ。だから手を当ててそれを悔いるような形で体を預け、木の肌を撫でながら周りをぐるっと一周する。
しかしあの傷痕以外には何も残ってはいなかった。勿論生々しい物が入っているわけでもなく、また昔の傷もどこかに消えたか癒えたかですっかり消えている。
「フ」
一人笑いながらも思い出を馳せて瞳を閉じ、もう少し木に身肌寄せて語ろうと背中を付けて腰を下ろそうとした、その時だった。
「……」
誰かが見ている。気配自体は耳を傾けなくともわかる。競争で培われた気配を察知する能力で覚るが、すぐに立ち上がる様子も見られない。そこに躊躇いなく近づくのは一人のウマ娘、桜色の髪、桜色の瞳、シンザンと同じ鉢巻き巻いていた――その色は桃色だが。
嘗て彼女に追いつけ追い越せなどと言っていた時代。追っかけみたいに鉢巻きつけて走っているウマ娘が山のようにいて、シンザンは嘗て成功した『グループ・サウンズ』が追っかけられるのはこうなのかとしみじみ思い知らされたのを思い出すが、その者はそんな魂胆ではないだろう。
「あ、あの!」
そのウマ娘はシンザンの深い黒の瞳を見て、確かに話しかけてきた。
「大丈夫ですかっ!?」
────まるで我が身を心配するように、病人に心配して寄り添うように、である。
シンザンは、呆気にとられた。