夕陽の底、さらに下   作:佐伯美鈴

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 教育課程を終え海軍予備少尉に任官した「珍しい苗字の少女」は、草色の真新しい三種軍装に軍刀を吊って勇躍任地フィリピンに向かう。
 宇品から出航する輸送船宗谷丸の甲板上、少尉の涙の理由とは。


ああ堂々の輸送船

 フィリピンに向かう輸送船宗谷丸が宇品港の岸壁を離れたとき、私は後甲板に積み込まれた貨物の間に人目につかないように座り込み、煮物と塩むすびを口に押し込みながら泣いていた。下ろしたての三種軍装の袖にぽろぽろと零れ落ちた飯粒が、エンジンの武骨な振動に合わせて揺れる様を見ていたら余計に泣けてきた。

 20特根(第20特別根拠地隊)への赴任を命じられてからの怒涛の2日間で私はすでに疲れ果て、前途に待つ戦争の正体に気づき途方に暮れていたのだ。もうすでに戦争は始まっていたし、それを教えてくれた人は誰もいなかった。

 西へと進む宗谷丸は瀬戸内の鮮やかな夕陽に照らされて、船全体が溶けるような赤い輝きの中にあった。

 

「第20特別根拠地隊防備戦隊艦娘隊本部付ヲ命ズ」の辞令を受け、広島までの公用切符を持たされて東京駅に着いた瞬間から出航の瞬間まで、私の体感時間ではそれはまさに一瞬だった。

 駅に着けばあとはただ列車と船に揺られるだけでフィリピンに着くと思い込んでいた私は、今となっては間抜けな話だが、道中読むつもりの文庫本まで持ってきていたのだ。

 駅事務室にいる鉄道司令部の副官に、任地へ向かうため軍用列車に乗車するむね申告すると「ついでに舞鶴の予備士官学校へ入校する二種幹部候補生生徒55名を京都まで引率せよ、これが行程表である」と言われ「聞いていない」と言う間もなく「発車時刻だから」と在来線車両を使った軍用列車に押し込まれた。

 乗ってみて幹部候補生に聞いてみると、生徒の行先は舞鶴ではなく岩国の予備士官学校で、話が食い違うがどこに確認すればいいか分からない。まだ高校生か中学生くらいにしか見えない候補生たちは不安そうな表情でこっちを見てくるが、こっちはこっちで右も左も分からない新品少尉だ。

 行程表には「静岡駅で昼食受け取り」とあり、駅に着いて事務室に行くと鉄道部の下士官は「聞いていません」とのこと。候補生の行先の食い違いの件もあるので確認しようとすると事務室の奥から少尉が出てきて「何だ貴官は。官姓名名乗れ。なんだ幹候少尉か。同じ少尉でもこっちが先任だ。敬礼せえ」で会話にならない。

 事務室の軍用電話で何とか鉄道司令部を呼び出したが、「ではとりあえず広島まで引率せよ」で乱暴に電話を切られると、さっきの下士官が「少尉、もう列車が出ます」と呼びに来た。

 次の停車駅で改めて「京都で昼食受け取り」の連絡がありほっとしたが、京都に着くと全ての話が反対に伝わっていたことが判明。昼食の手配はされておらず、「静岡たあ管区が違うんでこっちじゃ分らんですのう」の一言で片づけられた。20歳の女性士官が駅事務室で呆然としているのをさすがに見かねたのか、陸軍の経理伍長に部屋の隅へ引っ張られ、「輸送指揮官の申請があれば携帯食の出庫は裁量でできるんですよ」と耳打ちされる。

「輸送指揮官って誰のことです?」

「そりゃ少尉殿でしょ。そうでなくたってそういうことにしちまえばいいじゃないですか」

「あ…!ありがとうございます!」

「…少尉殿、こっちが陸軍とはいえ下級者相手に「ですます」に「ございます」はやめてくらっせえ。示しがつかなくっていけませんよ」

 やっと確保した食事はインスタントのお吸い物にクラッカーという珍妙な取り合わせだったが、なんとか候補生全員に行き渡った。自分の分の出庫を忘れた以外は問題は解決した。神戸を過ぎるころには候補生たちも打ち解けてきたのか上官の私に向かって「しーちゃんはほんとに軍刀が似合いませんね」と言うのでさすがに窘めたがちょっといい気になる自分も感じた。

 

 深夜過ぎに広島到着。候補生と別れて宇品の船舶司令部に向かうと深夜にもかかわらず大勢の職員が走り回って大声を出している。何とか捕まえた高級副官は土気色の顔色で目が血走っており、宗谷丸乗船を命じられているむね申告したとたん「ナニッ!宗谷丸だと?車両の積載が遅れておるのはドーなっとるのかっ!」で突き飛ばされ、床に尻もちをつく。

 あちこちに聞きながらやっと宗谷丸のいる岸壁に着くと、部隊の乗船と下船を同時にやっていて大混乱が起きていた。近くにいた下士官に聞くと本来陸戦隊1個中隊が乗船するはずが1個大隊が詰め込まれており、そもそも乗船部隊が間違っていたとのこと。

 たまりかねた船長の「誰か、将校はおらんのですか!」の声に条件反射で手を挙げたのが失敗だった。たちまち船橋に祭り上げられ、最初に言われたのが「貨物の積み込み位置が全て間違っています」。指示を出して走り回りながら夜明けを迎え、やっと人心地ついたところで積み荷のガソリン発電機の燃料として軽油が積み込まれていることが発覚した。積み換え作業にかかろうとしたら荷役作業の業者が交代の時間だからこれ以上は残業になるとのこと。調整のためにまた走り回る。

 午後になってすべての作業が終わって士官用食器庫の床に寝て(倒れて)いたら乗船部隊指揮官の中佐が乗船したとの知らせ。中佐は人のよさそうな風貌で「ご苦労、少尉の処置は適切であった」と労ってくれた。「しかしなんで便乗者の貴官が指揮を取ることになったんじゃ?」

 私は全身の力が抜け、船室に戻る途中の通路で昏倒して船室に運ばれた。

 

 船室のベッドで目を覚ましたときにはもう夕方近くになっていた。出航前にせめて水が飲みたいと思って水飲み場を探していると「少尉、少尉、ちょっとちょっと」と小声で呼び止められた。見るとエプロン姿の兵曹が「少尉、これ」と言って食器トレーを差し出した。トレーには肉と野菜の煮つけと塩むすび2個と味噌汁と番茶が湯気を立てて載っていた。

「これは?」

「少尉は今日何も食べておられんでしょう。士官に見つかると面倒なことになりますけんな、早うこっそり食べたがええです。後甲板の荷物の影なら士官も滅多に来んですけんな」

「私も士官なんだけどな」

「幹候少尉さんは士官食堂での食事は息が詰まるですけんな。まあ早う食べてください」

 とたんにわっとこみ上げるものがあって、食器トレーをひったくると後甲板に逃げ出した。

 

 私は後甲板の貨物の隙間で泣きながら煮物と塩むすびを口に詰め込んだ。泣いたのは、久々に人間らしい扱いに触れたせいもあったが、昨夜からの重労働を挟んで実に36時間ぶりの食事だったせいだ。文字通り塩分が「甘い」のに驚き、米粒が喉を通る感覚を何とも懐かしく新鮮に感じた。笑いたければ笑ってくれていい。だが人というものはお腹が減り過ぎると泣くのだ。

 そしてある程度空腹が紛れてくるともうひとつの涙の理由に気が付いた。

 私は恐怖していたのだ。

 この2日間で私が遭遇したのは「深海棲艦に立ち向かう我が精鋭海軍」という組織の恐るべき不協和音と混乱だった。例えるなら何もかも故障したバスが壊れながら驀進しているようなものだ。乗客たちはそれぞれ自分の命令書を握りしめ、他の乗客を突き飛ばし、誰かの荷物を放り出し、車両の故障と不具合を無視し、自分の荷物と自分の身をバスに押し込むことに狂乱していた。「だめだ、一度止まるんだ。これはおかしい」と言う者は誰もいなかった。理由は簡単だ。そんな暇は誰にもないのだ。誰もが自分の任務と仕事に必死だった。

 昨日は食事を食べ損ねた。今日は荷物の積み間違いがあった。今はまだ「その程度で済んだ」のだ。

 では、この先に待ち受ける戦場ではいったい何が起きているのだろう? 想像して私はぞっとした。

 そこでは、今を上回る混乱が待っているはずだ。そしてその混乱はより直接的に私自身の生死に関わってくるはずだ。出発前に聞かされた「20特根の各種資材備蓄状況はフィリピン派遣部隊中で抜きんでて良好」「一部観測機材の不足についても4月中に完整の見込み」「バシー海峡方面の海上交通は概ね平穏に維持さる」等々の現地の情報全てが一気に信じられなくなった。

 私もこの暴走バスの「狂える乗客」にならなければ、生きて再びこの瀬戸内の夕陽を見ることはできないだろう。しくじれば死ぬ、という現実がどっと押し寄せてきた。

 深海棲艦との戦いの前にすでに戦争が、と言って悪ければ生存競争が始まっていた。

 でも、泣くだけ泣くと気持ちがすっきりした。私は2個目の塩むすびにかぶりついた。




 輸送船「宗谷丸」については船の科学館で展示されている初代南極観測船「宗谷」をモデルにしています。
「しーちゃん」が倒れて(寝て)いた士官用食器庫は見学コースの一番最初のところにあります。
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