「しーちゃん」こと「珍しい苗字の女性」の失意と絶望。
その「最悪の日」をよそに、「捷1号作戦」が発動する。
私と通信兵曹は現場に急行する艦娘隊本部のトラックに拾われた。荷台の上で南国の太陽に照らされながら、もうすでに取り返しがつかないことが起こってしまったのだという実感が腰の後ろからざわざわと這い登ってくる感触があった。
背中を丸めてせかせかと幹部用端末をいじって情報を集めていた通信兵曹が私をつついた。
「少尉、艦娘隊が防潜網と機雷堰を越えて湾外に出た理由なんですが…」
「…うん」
「湾口のすぐ外の砂州に貨物部の大発が乗り上げて動けなくなっていたところに艦娘隊が通りかかって、そこにいた貨物部と兵器部の副官が大発の救援を依頼したみたいなんです」
「…うん?」
「大発には兵器部扱いの貨物が積まれていて、兵器部長から大至急揚陸しろとの強い要請があったみたいで…」
「はあ?」
「白雪ちゃんは命令系統も違うからといったん断ったみたいなんですが…副官たちから「艦娘隊はうちに借りが多いんだから嫌とは言わないだろうし問題にはならないだろう」って押し切られたみたいで…」
自分でも恐ろしいほどどす黒い感情が沸き上がった。
「大発の離礁作業にかかったところで背後から深海棲艦の急襲を受け、その後…」
軍刀を荷台に叩きつけて叫んだ。
「デメのやつ!」
現場は凄惨だった。
数隻の大発が紙屑のようにひしゃげて砂州の上に転がり、兵隊たちがあちこちに倒れていた。何か見慣れないものを足元に見つけて目を凝らすと、その正体に気づいた。人間の下顎だ。
貨物部の兵隊たちが毛布を掛けた時津風ちゃんを担架に乗せて小走りに走ってきた。すでに乾き始めた血の塊に半ば覆い隠された顔の下で時津風ちゃんの口がもぞもぞと動いて何かを言おうとした。吐きそうなほど心臓が強く締め付けられた。「無理にしゃべらなくていいよ、しっかり気を持って」と声をかけた。担架を持つ兵隊は私の顔を見て忌々しそうに何かを口の中で呟いて去っていった。
白雪ちゃんと荒潮ちゃんはすでに海から引き上げられていた。ちょうどハンモックにくるまったように毛布に包まれて、毛布の両端を兵隊がそれぞれ絞るように持っていた。
毛布の間から垂れ下がった白雪ちゃんの白い手をぎゅっと握った。まだほのかに温かさを感じた気がして一瞬脳内に希望が閃いたが、すぐに気が付いた。これは自分の体温だ。
荒潮ちゃんの毛布を持っている兵隊を見ると、目にうっすらと涙を湛えていた。
「見んでやってつかあさい。そのほうがええじゃろ思います」
後ろで毛布の足の側を持っていた兵隊が引き取った。
「こうして持っとらんと崩れてしもうて…」
「少尉、浦波ちゃんです、あっちです」
通信兵曹に急かされて上下にひっくりかえった大発のところに行くと、残骸と砂の間から下敷きになった浦波ちゃんのおさげがはみ出しているのが見えた。
私は文字通り逆上した。浦波ちゃんの周りをスコップで掘っていた貨物部の兵隊たちを重機も工具も持ってきていないと怒鳴りつけた。
自分たちの同僚よりも先に時津風ちゃんを担架で搬送してくれた貨物部の兵隊たちを、だ。
重機と工具の手配?ひどい話だ。それこそ将校の仕事だ。トラックの荷台の上で取り乱している間に私がやるべきことだったはずだ。
ほどなく掘り出された砂だらけの浦波ちゃんに私は飛びついた。顔の砂を払い両頬を手のひらで静かにさすった。
「すみません…浦波が…すみません…」
消え入るようなささやき声だった。
「いいの、すぐに手当てするから、落ち着いて、大丈夫だから」
「すみません…ごめんなさい…」
傍にいた軍医は一目見て首を横に振った。艦娘担当の技術士官も悲しそうに視線を落とした。その視線は私の腰の拳銃をじっと見つめていた。何を求めているのか分かったが、私は気づかないふりをして野戦救急車での搬送を命じた。
搬送先の病院で浦波ちゃんは私に謝り続け、夕陽が沈むころに目を閉じた。
軍医の目ははっきりと私を非難していた。
技官はより辛辣だった。「長く苦しませただけでは?」
3人を仮埋葬し、事後処理を終えて通信兵曹と一緒に防備戦隊本部に戻ったときにはすでに深夜を回っていた。
隊長は私の顔を一目見て「ご苦労、今日は休め。あとは明日じゃ」と言った。
「隊長…私は…」
「いい、いい、明日じゃ。明日」
隊長は私の視線を露骨に避けた。おそらくひどい表情をしていたのだと思う。きっと、生きた人間がしてはいけない、奈落の底のような表情を。
「兵器部が大発の救援をごり押ししたのは本当ですか?」
「明日じゃと言っておる」
「規定違反です!指揮系統も違う艦娘隊に!湾口の外に出すのは!なんで!いったい誰が!」
「貨物部と兵器部の副官も戦死しておる。詳しい調査は明日からじゃ、悪いようにはせん。今日は下がれ」
「放っておくんですか!こっちの事情も知らないでごり押ししたやつら相手に!なんでうちの子たちが!」
次の瞬間視界が横転した。何が起こったのか一瞬分らなかったが、隊長に殴られたのだ。床に倒れ込んで呆気に取られているともう1発殴られ、メガネが飛んだ。軍刀を支えに立ち上がろうとしたら、何を誤解したのか通信兵曹が覆いかぶさってきた。
「少尉、ダメです!」
いくらなんでも軍刀を抜く気はなかったのだが、通信兵曹は必死だった。振り払おうとしたら、あとは本部書記や当番兵によってたかって押さえつけられ、軍医に鎮静剤を打たれてベッドに押し込まれた。
翌朝目を覚ますと辞令が出ていた。
第20特別根拠地隊日々命令
一ツ 海軍予備少尉 神々廻 舞 防備戦隊艦娘隊本部付ヲ免ス
一ツ 海軍予備少尉 神々廻 舞 参謀部事務室情報保全班編入ヲ命ス
思うに、隊長は私にいったん艦娘隊から距離を置かせ、落ち着かせようとしたのだと思う。
そして結果としてこれが隊長との最後の会話になった。
1週間後、フィリピン全土を巻き込む「捷1号作戦」が発動したのだ。
情報保全班というと仰々しいが、実態としては病気や負傷から回復した者が現場復帰までの間に過ごす部署で、通称は「リハビリ班」。つまり私は病人扱いだった。
病人と言われれば確かにそうだったと思う。部下を失った悲嘆のあまり上官に向かって抜刀しようとした凶状持ちの少尉が来たと聞いて班員たちは戦々恐々とし、一日中沈鬱な表情で黙々と働き、ふいに嗚咽する私は文字通りの腫れ物扱いだった。
何を見ても彼女たちを思い出した。司令部の階段を見れば冗談を言い合いながら荒潮ちゃんと一緒に登ったことを思い出し、急須を見れば浦波ちゃんがいつも得意そうにお茶を淹れてくれたことを思い出し、倉庫の鍵を見れば白雪ちゃんと夜の巡回で星を見ながら歩いたことを思い出した。せめて時津風ちゃんに会いたいと思ったが、何のかんのと理由を付けられ、司令部の建物から出ることすらままならなかった。
数日し、心配されたのか気の毒に思われたのか余計なことを考えさせずじっとさせておこうと考えたのか、次から次へと仕事が回され、以前より却って忙しくなった。
ただ、仕事と言えば書類整理と不要書類の焼却だったから、「捷1号作戦」の発動についても、どこか遠くで大規模作戦が始まったのだな、というのを司令部の雰囲気から感じ取った程度で、最初はどこか他人事のように聞き流していた。
「捷1号作戦」がエンガノ沖からスリガオ海峡まで全てが激戦地となった、まさに海軍艦娘の総力を挙げた決戦だったと知ったのは、もっと後になってからだ。その決戦のあらましと華々しい勝利は、巷間に広く知られ、人々の記憶に刻まれている。その詳細を私が改めてここで語る必要は無いだろうし、書く気もない。
華々しいエンガノ沖の死闘やスリガオ海峡の突入戦に主力が投入される一方で、私は忘れられた戦線、凄惨を極めたルソン島西部戦の渦中にあったからだ。
どうやら深海棲艦はルソン島西岸を海軍の主力艦娘部隊の出撃根拠地と考えていたようで、沿岸の根拠地や基地はしらみつぶしに攻撃された。実際の出撃地はマニラだったのだから、深海棲艦が何をどう考えてルソン島西岸を攻撃したのかはよく分からない。意外と何も考えていなかったのかもしれない
アパリ、ビガン、ラワグと各地の根拠地隊の壊滅の報が次々ともたらされる中、方面艦隊司令部はついにルソン島西岸からの一時的な撤収を決定した。
パヤグラヴェは小さな根拠地だったからか、まだ目立った攻撃は受けていなかったが、それでも放棄と撤収が命令されると大混乱となった。情報保全班も機密書類の処理が徹夜の大仕事となったが、降り続く雨で焼却作業が進まず、ついには穴を掘って書類が埋められた。
明け方に悲劇が起きた。貨物部自動車隊への「書類を焼け」の命令が「車両を焼け」と誤って伝えられ、重輸送中隊のトラック数十台が爆破処分された。
残骸の山となった駐車場を見ながら兵隊たちが呆然としていた。
「歩くのかよ」
「なわけねえだろう、バギオまで歩けって、そりゃもう死ねってことじゃねえか」
だが、我々は実際にそれをやったのだ。
さらにデメキンは方面艦隊司令部の命令通りに艦娘の艤装を含む20特根の兵器・資材全てを同時に撤収することにこだわっており、失ったトラックの代わりに多数の荷車とリヤカーを調達して兵器と資材のほとんど全てを搬出させた。
パヤグラヴェからバギオまで、踝まで泥に埋まる海沿いの2号線を300キロ。
1トンのリヤカーを人力で引き、攻撃を受けながらの退却行だ。
我々はこの退却行を簡潔にこう表現した。
「デスマーチ」と。
私は撤収部隊の第3梯団で出発した。リヤカーが30台ほどに、人員も200人はいたと思う。艦娘隊本部も同じ梯団らしく、あの通信兵曹の姿も見えたが、私は何となく顔を合わせづらくなって事務室の職員と一緒にいた。
雑嚢にありったけの食料を、背嚢には撤収資材として割り当てられた資材を入るだけ詰め込み、軍刀、拳銃、懐中電灯、テント、飯盒を体のあちこちにぶら下げて無理やりに立ち上がって出発した。
食べながら、眠りながら、歩き続けた。降り続ける大粒の雨のせいで空襲こそ受けなかったが、ときおり海側から深海棲艦の砲撃を受けた。その度に泥の中に伏せ、また立ち上がって進んだ。
じきに梯団はばらばらになり、歩調の合った者が三々五々連れ立って歩くようになった。降り続ける雨と秋の寒さが体力を奪い、荷物の重量に耐えかねたのか、あらゆる物、ついには食料までが道端に遺棄されはじめた。私は背嚢の撤収資材を捨て、かわりに食料を拾って詰め込んだ。学科で習った海軍刑法第83条が頭をよぎり、一瞬で消えた。「兵器、弾薬、糧食、被服、その他海軍の軍用に供する物を毀棄したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す」。なるほど、よくわかりました。それで?
真っ先になくなったのは飲料水だ。降りしきる雨の中でそれが真っ先に尽きた。空に向けて口を開けて歩いた。
浄水剤があったはずだが、2号線を進むリヤカーの列のどこに積み込まれたのか把握している者はいなかった。泥水や川の水をそのまま飲んだ者は間を置かずに次々と倒れた。後方から「パヤグラヴェ壊滅」の報が逓伝されてきて、歩ける者は歩度を速めた。
雨はますます激しくなった。
誰かが叫んだ。「家に帰りたい」
重機材を限界まで積み込んだリヤカーは最大の敵となった。スリップして横転したリヤカーの下敷きになる者、急流にかかった粗末な橋からリヤカーごと転落する者、足を滑らせて転び、手や足をリヤカーに轢きつぶされる者がいた。
そして、急坂を前にして体力が尽き果て、紙のように白い顔でリヤカーのハンドルにもたれかかっていた兵士たちの顔。
彼らは泥に埋まった2号線で雨に打たれながら、溶けるように死んでいった。
足首がちぎれかけて倒れている若い兵隊に足首に縋り付かれた。「芝草少尉、芝草少尉でしょう」人違いだと言ったがまるで聞こうとしない。ただ、目だけが異様に澄んできらきらと輝いている。
「分隊士は先行しました。自分はここで命令受領を待っています」
「分隊士が先に行ったの?芝草少尉というのは誰なの?」
「分隊士は先行したんです。自分が命令受領者です」
「芝草少尉というのはどこの所属なの?でもとりあえずあなたは衛生班に手当を…」
「分隊士は先行したんですか?柴田少尉。命令受領者は自分です」
汚れた顔の中の目だけが印象に残っている。私に向けていながら、私の遥か後ろを見つめる無垢な瞳だ。
「あっ分かった」
突然素っ頓狂な大声を上げるとその兵隊は目を見開いて座った姿勢のまま動かなくなった。
息はしている、脈もある。が、話しかけても揺り動かしても何の反応もない。
傍で見ていた別の兵隊が言った。
「そっとしといてやんなさいよ、少尉さん。分かったって言ってんだからもういいじゃねえですか」
気が付くと私はわが家へと続く田舎道を歩いていた。
近くの神社から祭囃子が聞こえてくる。そうだ、今日はお祭りだったのだ。やぐらを中心にした盆踊りの輪の中に、浴衣姿の白雪ちゃんがいる。荒潮ちゃんがいる。浦波ちゃんがいる。ああ、みんな無事だったのだ。私が駆け寄ると白雪ちゃんは懐かしそうににっこり笑って私の手を取り、1粒のキャラメルを愛おしいものであるかのように握らせてくれた。キャラメル?と思って白雪ちゃんに話しかけようとすると、お祭りの笛の調子が変わった。やぐらの上の氏子が篠笛でラッパ「対空防御」を奏で始めた。いつの間にかやぐらに上がっていた防備戦隊司令が「対空戦闘用意」「打ち方はじめ」の号令をかけた。和太鼓の響きが一層激しくなり、それに合わせて神社の境内から、本殿の裏から、社務所の上から対空射撃が始まって空を埋めた。
大変だ、すぐに配置につかなければという考えが一瞬頭をよぎったが、私は逃げ出した。嫌だ。もううんざりだ。いつのまにか私は三種軍装ではなく子供のころの姿に戻り、田舎道を駆けに駆けた。
道の両側に折り重なって倒れている人々が見えた。積み重なった死体の下に、あの日と同じように浦波ちゃんのおさげが見えた。時津風ちゃんは道端の木に体を預けたままぴくりとも動かない。あの日と同じ?ということはまだ終わっていないのか?
防備戦隊司令が叫んでいるのが聞こえた。「何やっとる!少尉!しっかりやれーっ!」
目が覚めたとき、私はまだ2号線を歩き続けていた。眠りながら歩いていたのだ。まるで覚めても終わらない悪夢だ。
「少尉、少尉」
左手側からあの通信兵曹の子が呼ぶのが聞こえた。私は自分の足元を見つめたまま返事をした。
「なに?」
「鼻血が止まらないんです。朝から止まらなくて、これ大丈夫ですよね」
「じきに止まるよ」
「でもずっと止まらないんです。ほんとに大丈夫ですよね、これ」
私が少し苛立って顔を上げると、上着から膝までが全て鼻血で染まった通信兵曹を見た。おそらく私は怯えた顔をしたのだと思う。通信兵曹は私の表情を見てさらに怯えたように見えた。
「冷やすといいと思う」
兵曹は私をじっと見つめてから少しずつ遠ざかって行った。私がひどく奇妙なことを言っていると考えたようだ。
そして自分の右手側を見た時、私は短く悲鳴を上げた。
「なになに?どうしたの?」
レインコートの上に小さなリュックを背負った時津風ちゃんが横を歩いていた。