レインコートの上に小さなリュックを背負った時津風ちゃんが横を歩いていた。足元の子供用の長靴は、雨にけぶる泥道の中にあって異様にカラフルに見えた。
「ひどい反応だねー。足はついてるよ、ほら」
―時津風ちゃんも歩いて後退なの?
「改二改装もない駆逐艦の扱いなんてこんなもんかなー。撤収で海に出る燃料も出ないんだって」
―…すみません…
「何が?」
―…お見舞いと言うか様子を見に行こうと思ってたんだけど…参謀部から出られなくて…
「いやー、気にしてないよ。怪我自体は修復剤ですぐ直るからね」
しばらく沈黙が続いた。なぜこの子はこんなにもいつも通りなのか。友達を失ってまだ間もないはずなのに、なぜ夕暮れの砂浜を皆で笑い騒ぎながら歩いたときと同じステップで、この地獄のような山中を歩いていられるのか。何を話しかけていいか分からなかった。
しかし、時津風ちゃんが先に口を開いた。
「大発を引っ張ってほしいって言われたとき、白雪と荒潮は反対したんだよね。指揮系統が違うって。あたしはまあどっちでもいいじゃんって。でも浦波が引き受けようって言ったんだよね」
―浦波ちゃんが…?
「でもさすがに外海に出るんだし警戒はしてたから、後ろから撃たれたときもすぐに反応はできたんだよね。けど、そこで白雪と荒潮が機雷に触れちゃったの」
―…え?
「湾の入り口の機雷堰、あれねー、壊れてて機雷がいくつか外れてぷかぷか浮いてたんだって」
―…なにそれ…じゃあ荒潮ちゃんと白雪ちゃんは味方の機雷に…
「で、あたしと浦波もそこで一気に砂州の方に追い込まれちゃったんだ」
―…じゃあ港務部のやつらが…!
「待った待った。慌てるのはよくない、よくないなぁ。その機雷堰の故障だけどね、輸送船で届くはずだった交換用の部品が遅れたせいなんだって」
―…!…あ…!
「そう、そうなんだよ、そうなんだよね。あたしたちが大発を乗っ取ったときの輸送船。あれに交換部品が載ってたみたい」
言葉が出なかった。何を言っていいのか分からなかった。でも、絶対に言ってはいけないと分かった言葉が口から出るのを抑えきれなかった。
―私が悪かったの…?私のせいで…
「悪いって言われたら、全部自分のせいだって言われたら、楽になるって思ってる?」
―違う…そうじゃなくて…!
「もしそうなら怒るよ?浦波は最後まで謝ってたんでしょ。浦波はそういう子だし、あたしたちの気持ちはいつでもいっしょだった。しーちゃんを含めてひとつになってがんばろうって思ってた。浦波がお茶を持って庶務部長をなだめに行ったの覚えてる?」
―うん…
「浦波たちが相手の顔を立てに行ったのはあの時だけじゃないからね」
―…そうなの?
「しーちゃんに気を使わせないようにこっそりだったんだけどね。細かいこと気にしないでがんばってもらおうって、あたしたちもいろいろがんばったんだ。爆雷の輸送で他の部を巻き込んだときの以外にも、その次の大発の乗っ取り、燃料の二重取り、その燃料での湾内での魚捕り、あー、あとはまあ参謀長とのコネでのあれやこれや…デメちゃんも言ってたよ「艦娘隊は子供を盾にしてわがままばかり通す」って」
―でもあれは…!
“みんなを守るために”という言葉を寸前で飲み込んだ。
「みんなを守るため、とか考えてたならちょっとがっかりかなあ。あたしはもっといっしょに戦ってる気持ちでいたからね」
―でもやっぱり私のせいじゃないですか、どう考えても…私がもっとちゃんとして…
「そうじゃない、そうじゃないんだなあ。誰の「せい」とか「悪い」とかじゃないんだよね。あたしたちはひとつになって戦った。勝つときもあれば負けるときもある。そして負けた。負けた方は失う。勝ったって失うこともある。結果はまぎれもなく「あたしたちのもの」。ただそれだけだよね。もちろん悲しいこともあるし、ひどいことだってある。でも、戦争なんだよ、これはね。だから、ほら、戦争で負けるっていうのは」
時津風ちゃんは手を大きく広げた。
「こういうことだよ」
いつの間にか雨が上がっていた。1週間ぶりに見る夕陽が海に沈んでいく。それを背後に時津風ちゃんは手を広げて、兵士たちが歩きながら死にゆく死の2号線に立っていた。逆光で影絵のようだ。表情は見えない。ただ、口の端がわずかに上がったように見えた。
これは誰だ? 目の前に立っているのが「何」なのか分らなかった。
彼女らはぎりぎり人間の形をしているだけの
「いい?しーちゃん、先に行くよ」
時津風ちゃんはそう言い残すと、夕陽に照らされた2号線を軽やかな足取りで進み始め、すぐに兵士たちの列にまぎれて見えなくなった。
防備戦隊司令はパヤグラヴェを撤収する最後の梯団の指揮を執る予定だったが、撤収前に深海棲艦の攻撃が始まり、行方不明になったという。
デメは最後まで兵器と資材の搬出の指揮を執り続け、山中に脱出した後やはり行方不明になった。後に出会った兵器部の生き残りの下士官は「はあ、まあ山で兵隊に捨てられたんでしょうなァ」とあっけらかんと言った。デメの人間性は最悪ではあったが、自分の職務には忠実だったと言っていいのかもしれない。
隊長は行程の半分まで来たところで腰に力が入らなくなって動けなくなったらしい。部下が道端に張ったテントに寝かせたが、翌朝には姿が消えていた。前の晩に私のことを笑いながら話していたという。「神々廻のやつはどんくさいからもう死んでるよ」。悪意ではない。それがよく分かったから余計に悲しくなった。
通信の兵曹の子は、私が時津風ちゃんと会った翌日に死んだと聞いた。鼻血の貧血で泥の中に倒れ、そのまま起き上がれなかった。最後に「ケーキが食べたい」と言って泣いたという。私は軍用列車で彼女に渡したクラッカーのことを思い出した。
私が助かったのは、目的地のバギオの手前のサンフェルナンドの防衛隊に編入されたせいだ。ルソン島西海岸の根拠地で唯一健在だったサンフェルナンド防衛のため、崩壊した部隊の将校をかき集めて編成された「サンフェルナンド集成隊」だ。しかし、結果として、私は再編成のために本土に転進することになった。
帰国した私は軍を離れた。
それでも心の中に、笑い、歌い、さざめきながら、あのきれいな瞳で静かに死を見つめる艦娘たちの影が付きまとった。ほほえみながら自らと隣り合う死を語る艦娘の姿が、私の心の一角を確かに占めて、鼓動を打つのを感じていた。
海に沈む夕陽の底、その漆黒の中に彼ら艦娘の死が息づいている。生もまた息づいている。私はその世界を垣間見た。
そこは生きている人間には遥かな、隔絶した場所だ。だが、私にはいつかそこで対話しなければならない戦友たちがいる。伝えたいことがある。そこに近づくために、そこを知るために、私は自分の生を使おうと思う。
だが、戦友たちよ。夕陽の底は、その先は、その下は、私には、まだ遠いのだ。
ストーリーを全て決めてから書き始めたにも関わらず、3話以降が自分の中では難産になってしまいました。
本来は作品の中で全てを完結させるべきであって、ここで何かを付け足すのは本来あまりよくないのですが、前作「プローテウスの艦娘たち」には、前日譚である本作の「しーちゃん」以外の登場人物の行動が一個だけ出てきます。ただ、これはその行動をめぐる問答のシーンがまるまるカットされたため、伏線も無くヒントも無いので探しようも見つけようもありません。ただ、それが誰がやった何なのか、気が付いてくれる方が世界に一人でもいてくれたら嬉しいな、という蛇足です。
拙い作品ですが、ここまで読んでくださった方に、心よりの感謝を申し上げます。